都内某所。
空へ伸びる高層ビルが立ち並び、磨き上げられたガラスの窓に秋の陽射しが眩しく反射していた。お洒落なカフェや、紅葉に染まる美しい並木道。街を歩く女性は、どこか自信に満ち溢れている。
その影に、ぽつんと一棟。小さなビルがあった。薄汚れた朱色の壁が、輝く世界の中では浮いて目立つ。海外から輸入した雑貨やインテリアをデパートなどに卸す会社である。その三階のオフィスで、私はパソコンに向かっていた。
木村
「
背後から、ねっとりとした声。振り返らなくても、誰なのかはわかる。
児島課長――突き出た腹でジャケットのボタンを押し広げ、側頭部にだけ残った髪を無理やり維持している中年男。肌は脂ぎっていて、額も頬も照明を反射するほどテカテカしている。そんな顔に、相手の反応を楽しむような薄笑いを浮かべていた。
「はい、申し訳ありませんでした
私はキーボードから手を離し、頭を下げた。
入社した頃の私は、もう少し自分に期待していた。
髪を明るく染め、黒目が大きく見えるコンタクトレンズを使い、まつエクや美容液にもお金をかけた。人気のコスメを買い集め、動画を見ながらメイクを練習して、いつか自分も素敵な
けれど、二年も経たないうちに、その気持ちはすっかり萎んでしまった。
課長は私の仕事ぶりだけでなく、目の大きさや化粧の仕方まであげつらい、ほかの女性社員と比べては笑いものにした。
努力したところで、何をしても馬鹿にされる。そう思うようになってから、私は少しずつ化粧をやめ、髪を黒く戻し、目立たない格好をするようになった。
今では黒縁の眼鏡に長い黒髪。化粧も最低限。なるべく人と目を合わせず、余計なことを言わず、ただ目の前の仕事を片づける。それが、職場で傷つかずに過ごすために覚えた方法だった。
「はぁ……」
課長はわざとらしくため息をつくと、私の隣の席へ回り込んだ。
「もー、
そして、松下さんの二の腕をこっそり揉むようにして二度叩く。
彼女は不快そうな顔ひとつ見せず、すっと椅子から立ち上がった。
「はい、課長。十一時のアポで、木村さんと一緒に謝罪してきます。会社に戻ったら指導しますので」
真っ直ぐ伸びた背筋、びしっと決まったベージュのスカートスーツ。浮かべた笑顔はキラキラと輝いている。整った顔立ちも相まって、オフィスに花が咲いたかのようだ。
松下
「木村くんさぁ、自分磨きしてるぅ? なーんかのっぺりしてるし。平安時代の流行に乗ってるんじゃないよねぇ? 秋田って美人が多いはずなんだけどなぁ」
課長はぎょろりと目玉を動かし、私を
秋田美人。本来は容姿を誉めるときに使われるのだが、私にとっては悪口だ。この会社に入ってから何度聞いたことか。
――自分磨きを否定したのはあなたでしょう!
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
自分の容姿に自信をなくしたのは、確かに私自身だ。努力することを諦め、今の姿に落ち着いたのも私。そんな理屈を自分に言い聞かせるたび、反論する力が失われていく。
「申し訳ございません……」
「だからさぁ、聞こえないんだよ。き、み、の、こ、え! してんの、してないの?」
「――ッ!」
悔しくて、腹が立つ。頭の中で沸き立つ血液が、脳を溶かそうとしている。この怒りを必死に耐えようとした。ぎゅっと目を瞑り、口を真一文字に引き結ぶ。
「木村さん、そろそろ行きましょうか!」
不意に、松下さんの明るい声が割って入った。
出発するには早いはずなのに、彼女は私の肩をそっと抱き、椅子から立ち上がらせた。私は慌ててパソコンを閉じ、逃げるようにオフィスを出る。
背中には課長の視線が突き刺さり、席に残った社員たちの小さな笑い声が聞こえてきた。
*****
無事に謝罪を受け入れてもらい、昼。
私たちはカフェでランチを済ませ、テラス席でコーヒーを飲んでいた。
「松下さん、ご迷惑をお掛けしました」
「そんなことないです。木村さんが真面目なの、わかってますから」
頭を下げると、松下さんは両手を振って笑った。
通りを歩く若い女性が「あの人、美人すぎない?」と、松下さんを見て言う。鼻の下を伸ばし、視線を奪われている男性の姿もちらほら。
性格が良くて、仕事ができて、美人。彼女が羨ましい。
「でも……今の木村さん、良くないと思いますよ。昔の方が好きでした」
今回のクレームは、私の目つきが悪いことが発端だ。
腫れぼったい
自信を失ってからは、人と目を合わせるのも難しくなった。話すときには視線を落とし、顔を上げてもすぐに逸らしてしまう。そんな態度が、相手によっては睨まれているように見えるらしい。
「何をしてもバカにされるから。頑張らなくていいかなって……」
口にしてみると、ひどく情けない言葉だった。
「気持ちはわかります。でも、もう一回だけ戦ってみませんか? あたしが結果を出せてるの、木村さんのおかげですし」
「私にはもうムリ。おかげだなんてやめて。松下さんは実力があるから……」
「新人の頃、よく営業に同行させてもらったじゃないですか。あのとき木村さんが教えてくれたこと、あたしは今でも参考にしてるんですよ」
言われて、昔のことを思い出した。顧客の傾向を調べ、市場の動きを分析し、営業先ごとに提案内容を考える。マーケティングの本を読み、学んだことをノートにまとめて、少しでも仕事ができる人間になろうと必死だった。
あの頃の私は、誰かに認めてほしくて、自分の力で何かを成し遂げたくて、毎日できることを探していた。
――バンッ!
松下さんは両手でテーブルを叩き、勢いよく立ち上がる。そして、内に秘めた熱を爆発させるかのような声で言い放った。
「木村さん、自分を押し殺しすぎ。見てて
「ちょ、ちょっと松下さん……
「だから? 木村さんも立って!」
立つ? なぜ? この状況で?
辺りを見回すと、周囲の視線がこの席に釘付けにされている。恥ずかしくて顔が熱い。
松下さんの鼻息が荒い。昔から、癒し系美人の皮を被った熱血女子だと知っていた。こうなった彼女は止まらない。素直に従うしかないだろう。
「うぅ……」
観念して立ち上がった。小さな胸の前で両手をもじもじさせていると、松下さんが私の目を覗き込んでくる。
「木村さん、あたしを見てください」
「はい……」
恐る恐る目を合わせる。
松下さんの可愛らしい顔。その中で、獣のように
「魔法をかけてあげます。あたしに続けて言ってください。あたしは可愛い」
「いや、なんで……」
「あたしは可愛い!」
「わ、私は……可愛い……」
「もっと自信を持って。もう一回!」
「私は可愛い!」
「その調子! あたしは、仕事ができる!」
「私は、仕事ができる!」
松下さんは、ふぅと汗を拭うふりをして、やり切った表情を浮かべながら椅子に座る。私も糸が切れた人形のようにストンと腰を下ろす。
真昼間に公衆の面前で、謎の自己暗示をかける羽目になった。久しぶりに勇気を振り絞った気がする。
最近の私は、心ここにあらず。今のままではいけないと、薄々わかってはいる。
「これで、木村さんは変わりました。いえ、あたしの好きな木村さんに戻りました。本当に戻りましたから!」
「ありがとう……」
「明日の朝。バシッとメイク決めたら、鏡の前でもう一回自分に言ってあげてください」
「な、なるほど……?」
正直、まだ何も変わった気はしない。明日になったら、また課長の嫌味に俯いてしまうかもしれない。それでも、私を見てくれている人がいる。そのことだけは、少しだけ心に残った。
私が理想とするのは、クールビューティなOL。でも、こうして自分の気持ちを真っ直ぐに伝えられる松下さんも、十分に格好いい。
私も、もう一度くらいなら頑張れるだろうか。
*****
定時で仕事を終えた私は、帰宅するとすぐにシャワーを浴びた。化粧を落として、熱い湯を肩に当てる。疲れが取れるというより、会社で浴びた嫌な言葉まで洗い流せるような気がして、この習慣はいつの間にか欠かせないものになっていた。
「変わる……か」
ユニットバスの鏡に映る自分を見つめる。私の顔は、やはり平凡だと思う。けれど、課長は恋人でも友人でもない。ただの上司だ。そんな人間の言葉ひとつで、自分の人生まで諦めてしまう必要があるのだろうか。
シャワーを終え、グレーのスウェットに着替えてから夕飯の支度を始めた。
小さなワンルームはベッドが大きな面積を占めているが、窓際にはお気に入りの猫足ドレッサーを置いてある。青みがかった白色と可愛らしいデザインに一目惚れして買ったもので、鏡の前には化粧品がずらりと並んでいた。最近は、そのほとんどに手を伸ばしていない。
「また、頑張ってみようかな……」
今日の夕食は、少しだけ豪華にしてみた。
まずはサラダ。赤や黄色のパプリカ入りミックス野菜のパックを使い、秋らしくローストした薄切りのカボチャを乗せた。
次にミスジのステーキ。料理動画で学んだ通り、片面を一分ずつ焼く工程を繰り返し、ホイルで包んで休ませる。熱が回ったところでフライパンに戻し、付け合わせの冷凍ブロッコリーと一緒に焼いていく。こちらはおろしポン酢でいただく。
小分けにして冷凍したご飯をレンジで温め、電気ポットのお湯を注いでカップスープを作れば完成だ。
コンロひとつの狭いキッチンでも、慣れた手つきで料理を並べていく。こういう小さなことを、私は案外ちゃんと続けてきた。
「いただきます」
私はステーキを一口
スマートフォンをスタンドに立てかけ、大好きな大型犬の動画を流す。ゴールデンレトリーバーやバーニーズマウンテンドッグが、もふもふの体を揺らして走り回っている。愛らしい姿に思わず
「ふふっ、可愛い……」
いつか、こんな大きな犬と暮らしてみたい。仕事から帰ったら、玄関まで迎えに来てくれて、ふわふわの毛に顔を
……と、そのとき。動画の合間に広告が流れ始めた。
【理想の姿になりたいあなただけに!】
画面に現れたのは、ナース服を着た美しい女性だった。彼女は明るい笑顔で、手術も注射も特殊な器具も必要なく、カウンセリングを受けて努力を続けるだけで、理想の姿に近づけると説明している。
次に、症例写真が表示された。百キロを優に超える大柄な女性が、三年間という時間経過ごとに、どんどん痩せていく。ついには完璧なプロポーションになり、女神のような美貌を手に入れていた。
そんな症例が三件。変化前と後……むしろ、その途中経過でさえも、何人もの別人が使われているとしか思えない。
「いやいや、詐欺でしょ」
こんな広告を信じる人がいるのだろうか。私は苦笑し、画面をスキップしようと指を伸ばす――
【変わりたいなら今!】
――が。表示された文字を見て、迷いが生じた。別の場所を押してしまう。
「あっ!」
画面が切り替わり、怪しいホームページに飛ばされた。
スマホを手に取り、ブラウザを閉じようとした。でも、なぜか内容が気になってしまい、ページをスクロールしていく。
――――――――――
【ダンジョン美容クリニック】
・当院では、形や大きさを変えるような画像処理は一切おこなっておりません。美容外科やエステ、ダイエットのサポートを行う機関とは異なります。
・メスを入れず、注射も使わず、自然にバスト・ヒップアップが可能です。
・あなた自身の力で理想の姿になれます。頑張れば頑張るほど早く変化しますが、当クリニックから強制はいたしません。
・当クリニックのカウンセリングを受けて、モデルや女優に転職された方多数。
※自分に満足していないあなたへ
変わりたいと思っていませんか?
是非一度無料カウンセリングにお越しください。
――――――――――
ホームページの一番下に、なにやらボタンがあった。
【無料カウンセリングを希望する】
その上に、0:18と表示されている。
数字が一秒、また一秒と減っていく。時間制限があるらしい。
この手の詐欺で、押したら最後、個人情報を抜き取られてしまうものがあると知っていた。
でも――
「変わりたい……」
松下さんとの会話が、脳内で繰り返されている。
五……四……三……
残された時間はわずか。
「――ッ!」
これが自分の決意だとばかりに、勢いよくボタンを押した。
その瞬間、視界が眩い光に包まれる。目を開けていられない。
妙な浮遊感がある。まるで、重さのない水の中を漂っているみたい。
……やがて、お尻に硬い感触が伝わった。どこかに座り込んだらしい。瞼の裏を照らしていた光が少しずつ弱まり、私は恐る恐る目を開けた。
私は、なぜか診察室にいた。
※作者は書くのが遅いです。毎日投稿が難しいかもしれません。面白いと感じてくれた方は、ぜひ感想と評価をお願いします。