白く塗り潰された、何もない空間。その中で、私は宙に浮いていた。
――な、何これ?
思考はできる。だが、首から下が動かない。不思議な力で石にされてしまっているかのようだ。
すると、左の頬に生温かくぬるりとした何かが触れた。
――ひっ!
死角から現れたそれは、顔の前を通り過ぎ、遠くへと飛んでいく。灰色の四角い物体だ。
――コン……ニャク……?
コンニャクは空中で静止した。二つ、四つ、八つ……と分身していく。大量に数を増やし、私に向かって勢いよく突撃してくる。
――わわっ!
頭を振って
――や、やめ……
「やめてーっ!」
私は、がばっと体を起こして目を覚ます。恐ろしい悪夢を見た。顔中がシャマルのヨダレでベトベトになっている。
「
頭がフラフラ。完全に二日酔いだ。まだ酒が残っている。
今日は飲み過ぎない——この言葉を人生で何度呟いてきたことか。小さな大工さんが、頭蓋骨の内側をハンマーで連打している。
ザラついた舌でシャマルに頬をベロンベロン舐められながら、ぼんやりと天井を見つめる。べろんべろんの頭で、昨晩最後の記憶を必死に手繰り寄せてみた。私、変なことしてなきゃいいけど。
……ああ、ダメだこりゃ。記憶よ消えてくれ。
店を出た後の私、若い男連中の脇を抱えて持ち上げ、「高い高〜い!」なんて言いながら爆笑している。挙げ句の果てに〝魔王木村〟なんてあだ名まで付けられていた。終わりだよもう。
スマホを見ると、もう八時。アラームをセットし忘れていた。今日は布団の中で一日終わらせたいけど、そうはいかない。シャマルから「散歩は? ご飯は?」という無言の圧が伝わってくる。よし、起きよう。
ゾンビのように定まらない視点でキッチンへ。冷蔵庫から取り出した天然水を煽り、ぐつぐつと煮えたぎる
さっと支度して、ダンジョンに出発だ。
*****
「魔王木村のコメットスマーッシュ!」
空から舞い降りた流星が、豚の魔物たちを押し潰す。
こうして、城は守られた。
次のイベントを開始させるには、少し歩かないといけない。
最近のシャマルは、おもちゃ遊びがお気に入り。私の前でお座りして、目を輝かせながら「アレをやってくれ!」とせがんでくる。私が野球のボールを取り出して、トルネード投法のポーズをした途端に大はしゃぎ。
「いくよー!」
「ワンッ! ワンッ!」
大きく一歩踏み込み、腰を捻る。ブオンとボールをぶん投げれば、シャマルが疾風の如く追いかけていく。
五百メートルほど先でジャンプキャッチ。尻尾をランラン振りながら戻って来る。私の前で再びしゃがみ、「褒めて、褒めて!」とボールを差し出してきた。
「アフ」
「すごいねシャマル~」
顎の下を掻き掻き。背中を大きく撫でてやる。すると、遠くから騎兵隊の足音が聞こえてきた。
そう。これは、シャマルに歩数を稼がせるという作戦。最近は毎日この繰り返しだ。
城へ行き、オークを倒す。本日四回目のイベントを終わらせた。魔石を拾って周囲を見渡す。
「……ん? んんん?」
隕石が落ちてクレーターとなり、元通りに戻った荒野――オークどもを光に変えたその場所に、何か落ちている。
こんなこと初めてだ。猛ダッシュで駆け寄った。
「あわわわ……で、でたあああああっ!」
ついに食材がドロップしていた。
両手で持ち上げ、天高く掲げたそれは、平たく潰れてニッコリ笑っている。ゴムみたいな手触り……オークの顔だ。
そろそろお昼か。一旦、自宅に帰還しよう。
――パポッ!
部屋に着くと同時、メッセージアプリの通知が届く。珍しいこともあるもんだ。
「え、加藤さん?」
そういえば、プライベート携帯の連絡先を交換したような気が……。アプリを開いて確認した。
『昨日はありがとうございました。実は、合コンの件で少しお話ししたいことがありまして。もし今日ご都合がつけば、ランチかディナーをご一緒できませんか? 急なお誘いで申し訳ないのですが、タイミングが合えばぜひ』
十時頃に受信していたようだ。
昨日はやらかしすぎた。『合コンの件』、『お話し』、どちらのワードにも心当たりがありすぎる。まさか、取引停止……?
まずい、非常にまずい。早く会って謝罪しないと。今からでも間に合うだろうか。震える指先で文字を打つ。
『返信が遅くなってしまい、大変申し訳ありません。もうお昼食べちゃいました? 加藤さんのご都合の良い時間に合わせます』
送信すると、すぐに返事が返ってきた。
『十三時でどうでしょう? 後でお店の情報送ります!』
大急ぎで化粧をする。バッチリメイクには時間が足りない。最低限に済ませた。服は……スーツでいいか。
さて、待ち合わせ場所が決まった。遅れるわけにはいかない。もう家を出たほうがよさそうだ。
「お留守番お願いね」
玄関で手を振ると、シャマルは眉を下げて悲しい顔をしていた。
タクシーを拾い、目的地に到着。パスタが美味しいイタリアンのお店らしい。まだ約束の十分前だというのに、車窓から加藤さんの姿が見えた。
「お待たせしましたー!」
「どうも、木村さん。急に呼び出しちゃってすみません」
車を降りて合流し、店の中へ。
ほぼ満席といった様子。さすがは人気店だ。美味しそうにご飯を食べている諸君、すまない。休日の昼間に、こんなお洒落な場所で、私は土下座を披露することになるかもしれない。
奥の席に案内され、向かい合って座る。
「今日もお仕事なんですか?」
「あ、いえ。昨晩は大変なご迷惑をおかけしまして、その謝罪をと。この度は本当に――」
「違います、違います! あー、そっか。僕の文章が悪くて、勘違いさせちゃったのか。早く合コンのお礼が言いたかっただけなんですよ。呼びつけるような形になってしまい、申し訳ない」
「よ、よかったぁ……」
私、一人で勘違いしていたみたい。安堵のため息を吐く。魔王木村を見過ごしてくれるなんて、なんとお優しいお方だ。
「迷惑どころか、木村さんのおかげで大盛り上がりだったじゃないですか。あんなに楽しい飲み会、初めてでしたよ」
「いやぁ、お恥ずかしい。魔王木村、一生の不覚ですよ」
「あはは。僕ら、お酒に強い方なんですが、女性陣には勝てませんでしたね。どうぞ、ご馳走しますので、何でも選んでください」
「いいんですか、ありがとうございます!」
メニューを開き、しばらく悩む。どれも美味しそうだけど、せっかくなら普段は食べないものがいい。
私は、エビとカラスミのペペロンチーノのランチセットにした。「僕もそれにしようかな」と、加藤さんも同じものを選んでいた。
料理が運ばれてくると、二人で手を合わせて、食べ始めた。エビの旨味とカラスミの塩気が、ニンニクの香りによく合う。これは大当たりだ。
デザートには、カボチャのプリン。コーヒーを飲みながら、ゆったりとした時間を過ごす。休日に男性と二人きりなんて、初めての経験だ。不思議と緊張しないのは、付き合いが長いお客様だからだろうか。
「そういえば、佐々木さんと僕の後輩が、お試しで付き合ってみることにしたらしいですよ」
「ななな、なんと……! そんな奇跡みたいなことがあるんですね」
私は酔っ払って騒いでいただけだから、誰が誰といい感じになっているとか、全くわからなかった。そもそも恋愛とは無縁の人生だったし、シラフだったとて気付けたとは思えないけど。
いやあ、すごいねぇ。昨日の今日で、身近な人がカップルになるなんて、そんなことが起こりうるんだねぇ。
「木村さん、僕たちも付き合いませんか?」
「……へ?」
「今の僕があるのは、木村さんのおかげです。ずっと気持ちを伝えたかったのですが――」
加藤さんとは、知り合ってからもう六年になる。初めて会ったとき、彼は雑貨コーナーの一店舗を担当するフロアスタッフ。まだうちの商品は、棚一つ分しか置かれていなかった。
当時のマネージャーさんから加藤さんを紹介してもらい、商品の魅力や売り方を説明した。入社したばかりの私は頭でっかちで、やる気ばかり先行していたように思う。でも、そんな私の話を、加藤さんは真面目に聞いてくれていた。
どんどん売り上げが伸びて、うち専用の店舗が作られる頃に、彼はフロアマネージャーになっていた。それを、私のおかげだなんて話しているのだろうけど、加藤さんの努力が実っただけだと思う。
「以前の僕は未熟で、木村さんとは釣り合いませんでした。少しでも近づこうと頑張って、やっと肩書を手に入れて……でも、最近の木村さん、思い悩んでいるようで心配していました」
課長に精神を削られる毎日に耐えかねて、自分を捨てようと思ったのが四年ほど前。
もっと綺麗になりたい、営業成績を伸ばしたい――そんな頑張りを否定されるのが辛かった。何もしない方が、馬鹿にされることに腹が立つだけな分、いくらかマシだった。
「それには、色々とありまして。ご心配おかけしました。もう大丈夫です」
「僕は、昨日の合コンで確信しました。やはり木村さんは、理想の女性だったと。僕は本気です。結婚を前提に付き合ってください」
加藤さんの目は真剣そのもの。迫力に圧倒されてしまう。
付き合う……か。恋人になるって、どういうことなのかな。幸せそうな両親を見ても、街でイチャつくカップルを見ても、羨ましいと思ったことは一度もない。それは、私がそういう経験をしたことがないからだろうか。
「加藤さん、ごめんなさい。気持ちは嬉しいのですが、ちょっと考えさせてください」
「こちらこそ、何から何まで急で申し訳ありませんでした。いいお返事をお待ちしてます」
店を出て、ぼーっとしながら帰宅した。
自分が恋愛対象として見られていたなんて……。加藤さんと別れた後も、告白の言葉が頭から離れない。
月曜日になったら、松下さんに相談してみよう。どうせ彼女は恋愛マスターだ。