Vortex 作:冬の珈琲
ウォーフォージド=アンドロイド
鍵と紙片を見れば、殆ど迷わず答えが出ていた。
グリムは自分に簡単なお使いを頼んだのではないかと思ったほどだ。
丸いスタンプの擦れた外枠――それはストームリーチの波止場街で最も有名な酒場『
そして「14」の数字と油の差された真鍮の鍵。
ほとんどそれの連想で必然的に思い出したのは、これは安部屋の鍵ではなく、荒くれ者が集まる酒場でよくやっている預かりサービス、ロブスター亭の地下や帳場の奥にある「貴重品預かりロッカーの14番」の鍵なのだろう。
答えはほとんど出ていたが、直行して外した時のリスクを思えば、もう少し情報を探ってもいいかもしれない。
今更何をそんなリスクを考えているのかと自嘲が浮かんだが、
染みついたそれまでのスラム暮らしの習性に逆らうのも億劫だったので、懐かしい顔に会いに行くことにした。
★ ★ ★
3年前の生活を思い出しながらほとんど足に任せて抜け道を通り、水道橋の崩れた橋脚の下まで滑り込んでいくと、現在の浮浪児たちがねぐらにしている吹き溜まりが目に入った。
かつて自分もその一員だった見慣れた光景。
日々を、もしかすると大人よりも貪欲に、純粋に生きている少年たちがたむろしている場に軽く声をかけて、猫のような警戒心を見せる彼らに、自分が先輩であったことと、ちょっとした小間使いを頼みたいと伝えて、リーダーの元へ案内させる。
ぼろ布姿の浮浪児達のリーダーをやっていた少年は、元はどこのグループにいたのだろう。
もはや知らない顔だったが、先ほど倉庫で得た報酬の銀貨1枚を弾いてみせれば目を丸くし、即座に食いついた。
まぁ、浮浪児に銀貨なんて破格も破格だしな、とまた懐かしさが心を覆う。
「銀貨……! へへっ、太っ腹だなアニキ! 『ウェイワード』なんざ、港のロブスター亭に決まってらあ!
よし、仲間をロブスター亭の酒場周りと裏口に張り付かせる。
14番のロッカーの番人や、最近あの店に出入りしてる怪しい手合いの動きを嗅ぎ回って、2時間後に『魚骨小路の干物棚の裏』に報告を持っていくぜ。
もう1枚、絶対に忘れるなよ!」
追加で銀貨1枚を条件に加えれば、子供たちは飢えたネズミのように素早く散っていった。
去っていく小さな背中を見て、少しだけ、やる気が湧いてくる。
「アニキ…ね。
あぁ、もうちょいとだけ、頑張るかぁ」
きっと今俺がしていることも、彼らと同じことだと、そう思えた。
薄い関心を胸に抱き、生きるためにやっている。それだけのことだった。
★ ★ ★
それから、十数分ほどかけて波止場街の荷受人の元へ戻った。
太陽は中天を少し過ぎ、海からの熱風に、波止場に立ち込める魚とタールの臭いが混じっている。
大型ガレオン船の停泊する埠頭まで戻ると、あの
人足たちに怒鳴り散らしながら別の木箱を数えさせているが、少し様子がおかしいことがわかりやすく目に見える。
額には異様な量の脂汗が吹き出し、何度も落ち着きなく背後の雑踏や船のタラップへ視線を走らせていた。
人混みの合間から歩み寄ると、荷受人はギョッとしたように丸い目を剥き、手に持った帳簿を取り落としそうになって、慌てて力をこめなおすという動きを見せた。
「ひぃっ……!? お、お前……!?」
荷受人は慌てて小走りにこちらへ駆け寄り、人足たちの死角になる積まれた乾物樽の陰へと誘導してくる。
その太い指は小さく震えていて、なんだか哀れに思えたので、大人しくそれに従った。
「な、なんで生きて戻ってきてやがる!? ……グリムの旦那に渡したんだろうな!?
余計なこと喋ってねえだろうな!?」
その声は上擦っており、怒りというよりは純粋な恐怖から来る殆ど恐慌に満ちたものだ。
よくよく観察すれば、彼の首筋には先ほどは見当たらなかった「黒い鳥の羽のような鋭い切り傷」が浅く刻まれており、じわりと血が滲んでいる。
あぁ、なにかあったんだな、ということを察する。
周囲を怯えたように見回しながら、声を潜めて詰め寄って、懇願のような言葉を吐いてきた。
「おい、頼むから俺を巻き込むな……! さっき、船から降りてきた『妙な連中』に絡まれたんだ……! 金属みてえな冷てえ目をした、黒ずくめのカニス氏族の狗どもだ! 『あの木箱はどこへやった』『運んだ奴の特徴を言え』って首に刃物を突きつけられちまったんだぞ……!」
おいおい、と呆れに似た感情を声に乗せて、彼は言葉を返した。
「あのなぁ、兄弟。逆だろ普通…。あんたが俺を巻き込んだんだろうに」
やれやれ、といった仕草でそのまま言葉を続けていく。
彼の口は、いつものように、軽やかに回っていた。
「というか、こっちもこっちで切羽詰まってるんで、
アレだな、お互い板挟みってやつだ。なら協力しようじゃねぇか、兄弟。
俺はグリムの旦那の指令に従えなきゃ殺されちまうし、
アンタの言う連中に見つかってもまぁ、どうせ碌なことにはなりゃしねぇだろうさ。
で、アンタはグリムの旦那の協力者、だろう?
カニス氏族の連中がアンタに絡んだのはなんでだと思う?
グリムの旦那とカニス氏族の連中が協力してるなら、わざわざ箱の行先なんて聞くか?
聞かねぇだろう、待ってりゃグリムの旦那から情報共有されるんだから。
つまり協力してないってわけだ。
ならさ、さっきは急いでただろうカニス氏族の連中が、
アンタが実は『グリムの旦那の』協力者であると知ったらどうなると思う?
な、ここは協力しようじゃないか。
知ってる情報を教えてくれたら、ストームリーチで俺しか知らないような抜け道や隠し通路を教えてやる。
いつかヘマした時に使おうと思ってたとっておきさ。知ってるやつなんて長年ストームリーチに住んでるやつでも数人いるかどうかってやつ。
それで安全に、痕跡を残さずここを出れば、連中も暇じゃないだろうし、まず追って来ねぇだろうさ。
どうだい? ん?」
彼のなんでもないような口調で話されるその内容は、だからこそ、恐怖する人の心のうちに入ってきてしまうようだった。
言葉を聞くうちに、荷受人の顔から血の気が完全に引き、ガタガタと激しく震え始める。
「グリムとカニスが……繋がって、ねえ……!? あ、当たり前だ、あの狂犬グリムが他人の指図を受けるわけがねえ……!
ひっ、じゃあ俺は、カニスの連中に狙われたら本当にミンチにされちまうじゃねえか……!」
荷受人は樽に背中を預けてズルズルとへたり込みそうになりながら、すがるような目で彼の腕に脂ぎった手を伸ばしてきた。
「わ、分かった! 喋る、全部喋るからそのとっておきの抜け道を教えてくれ!
この街から……いや、波止場から今すぐにでもずらからねえと命が幾つあっても足りねえ!」
命の勘定が済んだのだろう、懐から汗で湿りきった小さな手帳を取り出し、声を震わせながら早口で捲し立てるように彼へと喋り出していた。
★ ★ ★
お、俺も詳しいことは知らねぇんだ。
噓じゃねぇぞ!? お前も裏の社会で生きてきたんなら知ってるだろ?
余計なことは見るな、聞くな、知るな、だ。
俺はそうやって生きてきたんだ。ただ、アイツは何か知っちまったんだろうな……。
誰かって? お前が運んでったアイツだよ。
アイツは、船の上にいた時にはもう、死にかけてやがった。
シャーンから急に乗り込んで来て、身体は血だらけで、船の中で必死でどっかからかくすねてきたのかポーションをがぶ飲みしてやがった。
何か話したかって? 馬鹿言え、どう見たって碌なことにならねぇだろうが!
おまけに一人でブツブツブツブツ、気味悪いったらありゃしねぇ。
本当はグリムに言われなきゃ、そもそもこんな危ねぇことに首突っ込んで溜まるかってんだ!
ちくしょう、俺を巻き込みやがって、アイツ…。
あぁ? あぁ、それでアイツ、船がストームリーチの沖合で停泊した夜に、こっそり抜け出してやがったんだ。
俺は夜風に当たりながらエール飲んで、
こいつがまた絶品でな!安いエールでもこいつと一緒なら…あぁ、いや。
あの男のことはグリムから見張るよう言われてたから、グリムのとこの連中に伝えて、そんで終わりだ。
なんでもストームリーチの酒場で誰かと会ってたらしい。
連中の声が聞こえて範囲の曖昧なもんだが、確か、『灰色の外套の女』…シルヴィアっつってたかな。
戻ってきたのかって?
あぁ、夜のうちに船に戻ってきてたよ。そんときゃ、まだ生きてた。
アイツがいつ死んだのかは知らねぇ。ただ、船がストームリーチについた頃にはもうあの箱の中だ。
誰が殺したのかなんざ知りたくもねぇ。けど、箱に詰めてたのはグリムのとこの連中さ。
お前が受けたあの依頼で、すぐにグリムのとこに持ってく予定だった。
それだけで…くそっ! 10Gpやるって話はどうなってんだ! くそ!くそ!
こんな目に合うなんて聞いてねぇぞ!
あぁ、くそ。今思い出しても寒気がする。
あ? カニスの悪魔どもだよ! はぁ、はぁ、くそ、あいつら二人組だった。
薄気味わりぃ灰色のロングコートに身を包んだ男と、人間味のねぇ金属の
カニス氏族ってわかったのは、コートの襟元にあの悪趣味な連中の「ゴルゴンの首」の紋章のピンがあったからだ。
お前が倉庫にあの箱を運んでって、他のを仕分けてる時に急に現れやがった。
俺の首に何か突き付けて来て、箱を何処にやったか聞いてきやがったんだ。
ちょっとどもっただけで傷つけやがって……即答したよ。
もう南の倉庫に運ばれちまったってな。死にたくねぇから当たり前だろ!?
お前が俺に話したみてぇな軽口ちょっとでもあの連中に飛ばしてみろ、殺される。
そしたらすぐ連中は行っちまった。だからお前が戻ってきた時は心底驚いたよ。
グリムのやつだけじゃなく、あんな連中も向ってったんだからな。
完全にもう死んでると思ってた。
★ ★ ★
「俺が知ってるのはこれだけだ! お前が連中に会ってねぇってことは、今ごろ南の倉庫でグリムと鉢合わせてるはずだぞ……!
グリムの居場所もチクっちまったし、さっさとズラからねぇとほんとにヤベェんだ!
早くそのとっておきの抜け道ってのを教えてくれよ!」
荷受人の必死な声を聴き流しながら、彼は頭の中で情報を整理していった。
男がこっそり会っていた『灰色の外套の女』――シルヴィア
『カニス氏族の刺客』――男1人に、ウォーフォージドが1人
ストームリーチの酒場はおそらくロブスター亭で間違いないだろう。
そこまで考えて、
「なるほどな、ありがとよ、兄弟。
生きてまた会えたら一杯ずつ奢り合おうぜ。なぁに、お互いどん底で生きてきてんだ!
生きる力は、そんじょそこらのやつよりはあるだろうよ! またな!」
そう言って荷受人へは、いつか危ない橋を渡り損ねた時に使おうと思っていた暗渠の崩れ壁の隙間と、長年ストームリーチの泥水と共に生きてきた者しか気付かないような排水溝の裏道を簡単な手書きの地図と共に伝えた。
「……恩に着るぜ、兄弟! 死ぬんじゃねえぞ!」荷受人は涙目でそう絞り出すと、太った体でよくそんな風に動けるなと奇妙に思えるような素早い動きと器用な手際で道溶け込んで行った。
こりゃぁ、ちょっと急がねぇとガキ共もあぶねぇかもなと考えると同時に、彼も走り出した。
いつの間にか既に取り返しのつかない天秤の上に乗っている。
それが、どこか心地よかった。
★ ★ ★
浮浪児時代に散々走り回らざるを得なくなった道、古代ジャイアントの石材が剥き出しになった狭い隙間、酒樽が山積みにされた裏路地を全走力で駆け抜けて、目的の酒場に向かっていく。
身体が軽く、火照り出していた。
酒場『ウェイワード・ロブスター亭』は巨大な木造酒場で、巨大なロブスターのハサミの看板をトレードマークとして掲げたこの店は、船乗り、海賊、ゼンドリック帰りの荒くれ冒険者、そして密輸人が昼夜を問わずジョッキを傾ける無法地帯の吹き溜まりとして有名だった。
荷受人と別れてから十数分ほどでその裏手に到着。
店の換気口からは安酒と茹でた甲殻類、そして煙草の紫煙が混ざり合った濃密な臭気が漂っていて、中の騒がしい怒号と歌声が外の通りまで響いていた。
裏路地の乾物樽の陰に潜んだ瞬間、頭上から「シーッ」と小さく鋭い音が降ってくる。
見上げると、先ほど銀貨を渡した浮浪児グループのリーダーの少年が、
時間的に、ちょうど子供たちが店の見張りを配置し終えた絶妙なタイミングだったのだろう。
少年は身軽に樽の上へ飛び降りると、声を潜めて耳打ちしてきた。
「早いじゃねえか、アニキ! こっちもきっちり嗅ぎ回ったぜ。
14番の保管箱(ロッカー)の場所は、酒場の地下室『カニの穴蔵』だ。あそこはツケを払えねえ奴の担保や、荒くれどもが預けたワケありのブツを保管する場所になってる。
だけど、厄介なことがあるぜ。
この店の地下室には番人がいるんだ。
いろんな奴らが怪しいことに使ってるみたいだから、地下への階段前には、用心棒が立ってて、
鍵か預かり証を持たない奴は絶対通さないらしいよ。
「鉄拳のモルグ」って呼ばれてる、ハーフオークのデカブツさ。
正面から入るならモルグに鍵を見せるか、誤魔化して通らないといけない。」
と、少年は一度そこで話を区切ると、悪戯っぽくニヤリと笑って顔を近づけ囁いてきた。
「……だけどよ、アニキ。この建物の裏手、下水溝に面したところに『食材搬入用の鉄格子窓』があるんだ。
あそこの南京錠さえ外せば、1階の客やモルグの目を完全に盗んで、直接地下のロッカー室へ忍び込めるぜ」
そう話した後に、すっと手のひらを差し出してくる。
想像以上いい情報が手に入り、一度ぐりぐりと少年の頭を乱暴に撫でて銀貨をその手に乗せてやる。
「やるじゃねぇか。良い情報だ。先輩として鼻が高いぜ。ほれ、約束の金だ。
あー、あと、裏の連中の間でこの後ちょいと荒れそうだ。
巻き込まれるかもしんねぇから、グループまとめてどっかに引っ込んどいたほうがいいぞ。
今も裏の連中が使いそうな場所ねぐらにしてんなら、今日はどっか別の場所にしよけよな」
「へへっ、やりぃ! さすがアニキ!
助言も肝に銘じとくぜ。みんな集めて今日は高台の廃寺院にでも引っ込んどくよ!」
銀貨を素早く懐へねじ込むと、少年は跳ねるように路地を駆け去っていった。
その背中を見送った後、酒場の裏手にある汚水が流れる側溝の窪みへと滑り込んでいく。
情報通り、食材搬入用の鉄格子窓はすぐに見つかった。
取り付けられた頑丈そうな南京錠は潮風で赤錆びていたが、しっかりと存在を主張して健在の様子を見せている。
いっちょやるか、と少し気合を入れてから、商売道具のピックとテンションバーを滑り込ませ、手慣れた手つきで徐々にピンを押し上げていくと、手応えと共に「カチリ」と微かな音を立てて内側のバネが外れてダラリとそこにぶら下がった。
格子を音もなく押し上げて、そのまま頭から地下室の影へと潜り込んだ。
浮浪児時代の記憶がこみ上げて来て、なぜか口元がにやけた。
★ ★ ★
頭上から、1階の酒場で荒くれ者たちが歌う卑俗な船乗り歌と、ドタバタと床を踏み鳴らす振動が絶え間なく響いてきていた。
着地した際の微かな衣擦れの音は喧噪からすれば無音にも等しく、誰かに気付かれたということもなさそうだった。
薄暗い地下室は、エールの熟成樽や塩漬けの魚樽が天井まで積み上げられていて、
階段の踊り場からは、少年の情報で聞いた番人のモルグが安酒を呷りながら鼻歌を歌う声が聞こえてくる。
樽の迷路を慎重にすり抜けた突き当たりの壁に、頑丈な鉄板が打ち付けられた一画――貴重品預かりロッカー群が並んでいるのを見付けた。
薄暗いカンテラの光を頼りに探すと、目の高さの位置に、真鍮プレートに刻まれた「14」の数字が目に入り、グリムから投げ渡された鍵を差し込むと、特に突っかかることもなく、
くるりと回って重い鉄扉が、鈍い軋み音を立てて手前に開く。
念のためにもう一度周囲をさっと確認した後、覗き込んだ。
入っていたのは2つだけで、グリムが探している石はここには無かった。
黒革の手帳が一つと、布に包まれた黒曜石のペンダント。
手帳の方をまず手に取って、パラパラと必要そうな記述の部分があるかどうかを確かめていく。
内容は、日誌だった。10年前の事件から現在に至るまでの逃亡記録が殴り書きされている。
マメなやつだったんだな、と頭の片隅で思いながら、読んでいった。
手早く流し読みしてわかった範囲では、両親を殺してまでして奪ったあの赤い石は、正式名を『
ゼンドリックの古代遺跡から掘り出された、カニス氏族が追い求める魔導兵器の心臓部とのことのようだ。
そんな大層なものをどうやら両親は
そして逃亡記録として見れば、男の末路は悲惨なものだった。
カニス氏族の追手に怯え、石を持ったままでは必ず殺されると悟った男は、ストームリーチに到着した直後にある信頼できる仲介人に石を預けたことも書かれている。
最後の記述を読んだ時にはもはや、
……カニスの暗殺犬どもが迫っている。石は
「……はっ。 陽動で殺されてちゃ、世話ねぇだろ」
手帳と共に入っていた布に包まれたペンダントは、どうやらそのシルヴィアとの合言葉の証らしい。
ペンダントの黒曜石の中央には、赤い塗料で「三日月と交差する鍵」の印が彫り込まれている。
情報を整理すれば、男自身はすでに石を手放しており、あの石は今はシルヴィアという女の手にあるのだろう。
ここのロッカーに預けていたとすれば、合流場所はこの酒場なのかと考えていると
頭上の1階フロアから、怒号とともにガシャン!とガラスや樽が粉砕される破壊音が轟いてきた。
★ ★ ★
「……ぎゃあああっ!?」
「な、なんだコイツらは!? カニス氏族の……!?」
悲鳴と怒号、そしてカチャカチャと金属が擦れ合う無機質な足音。
南の倉庫での戦闘はカニスの追手に軍配があがったか、もしくは別の人員か。
おそらく石の行方を探り、男の立ち寄ったこのロブスター亭を突き止めたのだろう。
階段の上でモルグが「おい、上で何が起きてやがる!?」と慌てて階段を駆け上がっていく足音が聞こえた。
地下室を見張っている気配は感じられなかったので、そろりと上に向かい、1階の状況を伺って見ると、荒れた店内の様子と騒ぎ立てる客の中に、灰色の外套――おそらく荷受人が話し、日誌にも書かれていたシルヴィアらしき人物を見付ける。
追手がここに来ることが想定外だったのだろうか、彼女は混乱状態の酒場の中で、焦ったような様子で地下へ続く扉や入り口の客をチラチラと視線を送っているようだった。
重いオーク材のテーブルが幾つも真っ二つに叩き割られ、店主や荒くれ者たちが壁際へ逃げ惑っている。
店の入り口には、灰色のロングコートを着た細身の男が、無表情のまま血濡れた
そのすぐ傍に、瞬殺されたのだろう『鉄拳のモルグ』が胸から血を流して倒れ込んでいる姿があった。
更にフロアの中央では、四つん這いの姿勢で机の上を飛び跳ねている、犬ほどの大きさの金属と生木で造られた
猟犬は鼻先の水晶のセンサーを鈍く光らせながら、酒場に充満するエールや血の臭いの中から、特定の匂いか何かを探しているらしかった。
彼は、滅茶苦茶やるなと思いつつ、一瞬考えて、シルヴィアにこちらの存在を気付かせようと、ロッカーから回収していた黒曜石のペンダントを彼女の足元へ向けて放りなげた。
が、焦りが普段よりも動きを悪くしたのか、ペンダントは彼女の足元に届かず、ボックス席の手前の石床に落ちて「カチャン!」と澄んだ音を立て、少し手前で止まる。
やらかした――そう思った瞬間、
『ガアァァァッ!』
最悪なことに、ペンダントに染みついた
「……見つけた。あそこの席だ、女を殺して“核”を奪え」
入り口に立つコートの男が冷たく言い放ち、猟犬が鋼鉄の爪でテーブルを蹴り砕きながら、シルヴィアに向かって跳躍するために屈みこんでいる。
命の危機が迫り、恐怖で硬直してしまったのか、シルヴィアはすぐには動けそうには見えなかった。
「あー、くそっ!」
入り口からはカウンターと柱で死角になっている1階と地下を繋ぐ入り口で、思わず漏らしたその声は、少し喜色を帯びていた。
★ ★ ★
彼のどうする?という思考は一瞬で、行動はほとんど思考と同時だった。
仕事道具をしまっている
集中が増しているのを自覚した。
今の状況を、自分は
先ほどペンダントを投げて外したことは頭から消え、外すわけがないとすら感じられた。
だから、射った結果は確認すらせずに、次の行動を起こしていた。
ほとんど構えて即座に放たれた矢は、倒れたカウンターの隙間を寸分の狂いもなく一直線に疾走し、40フィート先の店の入り口前に陣取るカニス氏族の男の喉に吸い込まれていく。
ドッ!という肉を抉る音を聞き流し、男のことなど見もせずに、階段から腕を伸ばしてボックス席で震えるシルヴィアの灰色の外套の襟首を掴んで、力任せに地下の方へと引きずり込んだ。
もう片方の手では腰につけていた油瓶のコルク抜き、階段の最上段と木製の踊り場へ一気にぶちまける。
「ひあっ……!?」と小さく強張った悲鳴を上げて倒れ込んできた彼女の体を抱え込むようにして地下への階段を滑り降りながら、油瓶を捨て自由になった方の手でランタンの火口を開き、撒いた油の溜まりに当たりをつけて投げこんだ。
「くっ、ははっ!」
自然と、笑い声が漏れていた。
まだ微かだった火種は撒かれた油に一瞬で引火し、そのまま一気に炎上する。
騒ぎの際に散らばっていた酒の酒気のせいもあったのだろう。
想定していたよりもかなり大きな炎が、階段の木肌を舐めながら爆発的に吹き上がるのが見えた。
突然主人を射られ、予想外の方向に消えた(ように見えた)獲物、そして行く手を遮るように巻き上がり、店全体に広がらんとしている炎。
それらが揃えば、少しはあの猟犬もどうするか躊躇う時間が生まれるだろうと考えながら、
抱えていた
頭上で、「火事だァッ!!」「階段が燃えてるぞ!!」という客たちの絶叫が聞こえてくる。
床に尻餅をついたまま、肩で激しく息をしていた彼女のフードがわずかに跳ね上がり、その奥には酷く青ざめた顔立ちのハーフエルフの女性の恐怖に震える瞳が見えた。
いつあの猟犬が覚悟を決めて炎を突っ切りここへ追ってきてもおかしくない上に、数分もしないうちに煙が地下室を満たすか、火の勢いを考えれば建物自体が崩落するかもしれない。
いまだ危機的な状況が続く中で、言葉を少し探した時、シルヴィアは怯えた声で、身を引いて狂乱したように声をあげた。
「な、何なの……!? あなた、カニスの手のやつじゃないの……!?
あの首飾りを投げたのはあなた!? ……どうしてあの男が持っていたはずの鍵を持ってるの!?」
まぁ、そりゃそうなるか、と彼女からすれば混乱しても仕方ないと思いながら、言葉を返す。
「へい! あんたそれでもこっち側の人かい?
落ち着けよ。 あの人じゃなく俺が
それだけでわかるだろう?
もうアンタの持ってる
グリム・カーターモンもカニス氏族も、他の連中もソイツを狙ってる。
シャーンに持ってって闇市場から別派閥へ流して利益を、なんて言ってる場合じゃあない。
持ってるだけで殺される不幸の石になっちまったってわけ。 OK?」
男の日誌から得た情報を混じえながらそう言うと、思っていたよりも彼女はあっさりと落ち着きを取り戻していた。
ま、こんな世界で生きてくなら混乱したままだと死んじまうしな、そう思いながら、急速にクールダウンしていく彼女が状況を咀嚼し終えることを待つ。
「……あの男、死んだのね」
先程までは明確な命の危機に混乱していた彼女もまた、この過酷な裏社会を渡り歩いてきた人間なのだろう。
カニス氏族の狗だとすれば、あそこで助けるようなことをする意味はなく、もしくは階段から引きずり下ろした瞬間に喉笛を掻っ切って石を奪っていたはず。
そして、首飾りと手帳を持っているということは合流しようとしていた男はすでにこの世にいない。
落ち着いて思考を回せば、彼が今、即座に敵対するような存在ではないことは明白で…
「……OKよ。
状況は飲み込めたわ。言われなくても、この石がただの金づるじゃなくて『呪われた火種』だってことくらいね」
震える唇を噛み締め、抱え込んだ革袋の光を隠すように強く胸元に抱き直しながら向けてくる視線に理性の光が宿ったことを察した。
だから、彼は湧いてくる不思議な愉快さに動かされながら口を回す。
「よし! いいね。じゃ、結論から言おう。
アンタがこの石で得られる利益を捨てるってんなら、俺が全て変わってやる。
言っとくが、ブツを入手してから10年もウダウダやってたそっちが悪いんだ。
利益無しは仕方ないし、むしろ損が無いだけ充分だろう?
いいか。まだアンタへ辿り着いたやつはあのカニス氏族の一人と一匹だけだ。
しかも、幸いアンタは外套を被ってたんで、他の客にもそう顔は割れてねぇ。
つまりだ、その石とアンタの外套を被って、俺は正面から店を出ていく。
あんたはそこの裏口から見つからずにとっとと逃げてくれ。
そうすりゃこの混乱だ。後からここに居た客に、別のカニス氏族の連中が情報収集したとしても、アンタに辿り着くことはそうないだろう?
おそらく追ってくるのは「灰色の外套被ってた奴」――つまり、正面からその外套被って出ていく俺ってわけだ。
アンタは追っ手も撒けて不幸の石も手放せてハッピー。
俺は石を手に入れてハッピー。
以上、質問は?
無いならその外套と石を渡してくれ。
他のカニス氏族のやつが来る前にさっさとズラかりたい。
思ったより火の回りも早くて、正面から出てくのも暑そうだしな」
まるで日常で出る軽口のようにそう言った彼を、シルヴィアは目を丸くし、呆気にとられたように見つめた。
しかし、その瞳には恐怖だけでなく、裏社会で修羅場をくぐってきた女特有の計算高さが伺える。
「……ハッ、随分と美味い話じゃない」
シルヴィアは短く鼻を鳴らすと、首元の留め金を外し、煤と煙の匂いが染み付いた灰色の外套を脱ぎ捨て、荒っぽく彼へと投げてくる。
「いい度胸よ。この石を手にした奴がどうなるか……あの男の死体を見て、まだ自分が生き残れる自信があるわけね」
そして彼女は、胸元に抱え込んでいた革袋の紐を解いた。
布越しですら漏れ出ていた紅蓮の燐光が、一瞬だけ剥き出しになって周囲を照らす。
それは鶏の卵ほどの大きさの、心臓のように脈動する真紅のクリスタル――見る者の網膜を焼き、触れずとも皮膚がチリチリと粟立つような異様な魔力を放っている。
10年前に両親が見つけ、それゆえに命を落とした、その元凶だ。
あの時は、ただの石に見えてたんだがなぁ、とぼんやり考えていた彼にシルヴィアは革袋の口を乱暴に縛り直すと、胸元へ押し付けてきた。
交渉成立のようだった。
「持っていきなさい。……でもね、一つだけ警告しておくわ。
その『真紅の原初の核』はただの石じゃない。古代ゼンドリックの巨人が造り出した“生きた動力源”よ。強い衝撃を与えたり魔力を刺激しすぎれば、この街の区画ごと吹き飛ぶわ」
そう言うと、返事も待たずにシルヴィアは身軽に立ち上がり、示された南京錠の外れた食材搬入窓の鉄格子へと手を出ていく直前、
「アンタが正面から出て派手に暴れてくれるなら、私は喜んでこの街からずらかるわ。
……死なないでおきなさいよ、ドブネズミ。もし奇跡的に生き残ったら、シャーンの『壊れた歯車亭』に顔を出しなさい。一杯くらいは奢ってあげるから」
そう言い残すと、シルヴィアは今度こそ器用に格子窓の隙間へ体を滑り込ませ、外の下水溝の闇の中へと姿を消していった。
しかし、その言い残された言葉は、彼の耳に入っていたのだろうか。
何か、何かが、穴の空いた心の中に染み込んでいくような、そんな気分で
「……んー、さっきからなんだこの感じ?
ははっ。あぁ、なんだこれ。あぁ、これ、すごく……愉しい?」
姿が消えるその前にはもう、彼の頭からシルヴィアのことは消えていた。
★ ★ ★
何かに突き動かされているような気分で、彼は動き出した。
「さぁ、行こうか!」
気合を入れて、高ぶった感情のままに、持っていた水袋の栓を抜き、冷たい水を惜しみなく頭から被る。
ずぶ濡れになった髪と衣服の上に、彼女が投げていった灰色の外套を羽織り、深くフードを目深に被った。
膨らんだベルトポーチや懐の『真紅の原初の核』の赤い脈動は外套によって隠される。
階段を駆け上がって、もはや大炎上といった様相の炎の隙間から覗き見ると、
「いい子だなぁ、えぇ?おい。 ちゃんと待てが出来るのかよ」
そう言って、迷わず床を蹴って紅蓮地獄へ踊り出し、猛烈な熱波が吹き荒れる中、濡れた外套を翻し、燃え盛る手すりと炎の舌を飛び越えていく。
火の粉が外套の表面を掠めてジュッと音を立てて消えていくのをBGMに、煙のカーテンを突き破って、1階フロアの石畳へ着地する。
彼の急な出現に反応が遅れながらも振るわれる猟犬の爪を紙一重で躱してすれ違い、
半開きになっていたロブスター亭の正面扉へ突っ込んでいった。
扉近くにはカニスの男が喉に突き刺さった矢を抜くこともできずに、血溜まりの中で虚ろな目で倒れている。
グルァッ……!
ほとんど火の扉と言えるような正面扉を抜けた時、後ろからは完全にこちらを補足した音が聞こえる。
「そりゃ、追ってくるよな! ははっ! ははははは!!!」
まだ尽きない命の危機に対してもう、誤魔化しようのないほどの愉しさを覚えていた。
★ ★ ★
ロブスター亭の2階窓や換気口からはもうもうと黒煙が吹き上がり、通りの向かいには異変を察知した船乗りや商人たちが立ち止まり、騒然となり始めている。
そんな中で突如店の中から出てきた彼は、一気に野次馬たちの視線を集めていた。
しかし、そんなことを気にしている余裕などはない。
そのことが、愉しくて愉しくて、仕方がなかった。
「はは! はははは!!」
背後からギャリィィィッ!と耳障りな金属軋み音が響き、扉の隙間から猟犬が鋼鉄の爪を路面の石畳に食い込ませながら疾走して来る姿が見えた。
だから、彼は全力で駆け抜け続ける。
追いつかれれば死ぬだろう。
途中で他のカニス氏族の者に見つかっても死ぬだろう。
石を放り投げて逃げたとしても、その後は結局口封じが来て、死ぬだろう。
ここまで偶発的に巻き込まれ、空虚なままにふらふらと乗ってしまった、
その天秤の片側には
今もなおグラグラと揺れ動き続ける天秤は、けれどまだ、
背後から迫る、鋼鉄の爪が石畳を削る耳障りな甲高い音が聞こえている。
真鍮のギアが唸りを上げ、死の匂いを帯びた風が首筋を撫でる。
一歩足をもつれさせれば、金属の牙に喉笛を噛み千切られる――その絶対的な死線が、全身の神経をかつてないほど鋭利に研ぎ澄まし、抑えきれないほどの衝動が、彼の唇から弾きだされた。
「あっは! はははははは!!!」
天秤を釣り合わせているのは何だろうか。
人生の悲願、生涯の目的だった復讐は、勝手に消え失せ霧散した。
彼の心の大部分を占めていたそこに空白が生まれ、虚脱感と空虚さのみが残った。
何もする気になれなかった。もう死んでも別によかった。何をすればいいのかわからなかった。
だから、本当は特に興味もない癖に、両親の死の理由を知ることをとりあえず目的にした。
ガアァァァッ!
既に真後ろに迫ってきているその
何故あの時、彼女と共に逃げていかなかったのだろう。
なぜ、半ば身代わりのようなこと引き受けたのだろう。
偽善? 自己犠牲? 自暴自棄? ――違う。
ただそうした方が、面白そうに思えたから。
「はぁ、あぁあ! くっ、はははは!」
今、何がこんなにも必死にさせているのか。
今、何がこんなにも足を動かしているのか。
今、何がこんなにも、
純粋なまでの衝動が、間欠泉のように心の中で吹き上がってきている。
「はは、ははは! あぁ、何だこれ……」
浮浪児になる前の頃から数え切れないほど駆け抜けた、その道。
魚の油樽を飛び越え、張り巡らされた洗濯綱をくぐり抜け、崩れかけた日除けの天幕の上へと跳躍する。
天幕がトランポリンのように撓み、その反動を利用して向かいのレンガ壁の配水管を駆け上がり、建物の屋根伝いへと一気に登って飛び出していく。
死のもう片方に置かれ、天秤を釣り合わせているもの。
湧き上がる衝動、その源泉こそが
――生きるということ
それをただ感じること。それだけのことが、
あぁ、なんて!! 愉しい!!!
屋根の上を全力で疾走する。
眼下の路地では、猟犬が急激な高低差と魚の生臭さにセンサーを狂わされ、行き止まりの壁の前で激しく頭部を左右に振っていた。
赤い光彩が虚しく路面の泥を照らすのみで、獲物の匂いは完全に煙と潮風の中に途絶えていく。
さらに乾物屋の天幕を滑り降り、排水溝の狭い隙間を抜けて裏小路へ滑り込んだ時にはもう、
背後から追手の足音は完全に消え去っていた。
それでもなお走り続けて、ストームリーチの片隅にある港を見下ろす高台まで来て、乱れた息を整えながら壁に背中を預けると、冷たい石の感触が心地よく肌を冷やしてくれた。
激しい疾走の余韻で、心臓が肋骨の裏側を激しく叩いている。
「あ~、最高だ……」
彼の人生の大半を費やした復讐の喪失によって出来た心の穴を、
強烈なまでの生の実感が満たしていた。
深い虚無へ一気に注ぎ込まれ…そして、やつは弾けた。