Fate/shelter rain 作:茶碗
熱い。
肌を焦がす熱気と、肺腑を満たす乾いた鉄と錆の匂い。
見渡す限りの地平の彼方まで、無数の無銘の剣が墓標のように突き刺さっている。赤熱した夕景と朝焼けが溶け合うような荒野。誰の足跡もない、音のない心象の荒野。
物心ついた頃から、幾度となく眠りの底で繰り返してきた、衛宮士郎のいつもの夢だった。
——だが、その時だった。
ぽつり。
乾ききった世界に、絶対に降るはずのないものが落ちた。
士郎の頬を打ったのは、氷のように冷たい、一滴の雫。
(……雨……?)
見上げた瞬間、赤熱の荒野が硝子のように砕け散った。
鉄の熱気は一瞬にして掻き消え、鼻腔を突いたのは激しい潮風と、叩きつけるような土砂降りの匂い。
轟く雷鳴。視界を覆うのは、漆黒の怒濤が渦巻く夜の海だった。激しく軋む木造船の甲板。身体ごと吹き飛ばされそうな暴風雨の中、士郎の足元に、誰かがうずくまっていた。
土砂降りの雨に打たれ、泥と飛沫にまみれながら、激しく肩を震わせている。
雨に濡れそぼる、深い青紫の長い髪。
華奢な身体を抱きしめるように丸め、引き裂かれそうな悲鳴をあげて泣き崩れている、見知らぬ女性の後ろ姿だった。
——なぜ。
雷鳴の轟きを裂いて、掠れた、だが骨の髄まで凍りつかせるような絶望の声が士郎の胸に突き刺さる。
——なぜ、私を裏切ったの。あれほど尽くしたのに。すべてを捨てて、あなたに捧げたのに……!
「……っ!?」
胸を万力で締め上げられたような激痛。あまりの寒気に、息が止まりかける。
手を伸ばしかけた瞬間——
ガバッ、と士郎は布団の上で跳ね起きていた。
荒い呼吸。視界に入ったのは、見慣れた衛宮邸の和室の天井だった。障子の隙間から、冷たく白い朝の光が差し込んでいる。
「はっ……、は……っ」
額から流れていたのは、熱い脂汗ではなかった。頬を伝うのは、あの冷たい雨の感触そのもののような、ひどく冷え切った汗——いや、知らず知らずのうちに溢れていた涙だった。
「……なんだ、今の夢は」
荒野に、雨が降った。
そして、あの嵐の海で泣き叫んでいた、青紫の髪の女性は誰だったのか。
胸の奥に残る、鉛を飲み込んだような冷たい痛みを抱えたまま、士郎は首を傾げた。もちろん、答えなど出るはずもない。
士郎は掌で涙を拭い、いつものように自らを奮い立たせて、朝の鍛錬と日常へと身体を動かし始めた。
何故か薄っすらと赤く疼く手の甲に気づかぬままに。
冷たい雨の降る、冬の夕暮れだった。
スーパーの特売で買い込んだ大根と油揚げをビニール袋に提げ、衛宮士郎は濡れたアスファルトを踏みしめて足早に歩いていた。吐き出す息は白い。今夜は身体の温まる粕汁にしようか、それとも冷え切った藤ねえの機嫌を取るために肉料理を増やすべきか。そんな日常の献立に思考を巡らせていた時、鼻腔をかすめたのは、雨の匂いに混じる焦げたような異臭だった。
硫黄と、錆びた鉄。そして、微かに皮膚をチリチリと刺激する大気の歪み。
「……魔力、か?」
足を止め、視線を路地裏の暗がりへと向ける。 新都へ抜ける薄暗い側道、ゴミ集積所の脇に、それは横たわっていた。
最初は何かの粗大ゴミかと思った。だが違う。泥水に浸かっているのは、深い紫のフードローブを纏った小柄な人間の身体だった。 近づくにつれ、ただならぬ気配が肌を刺す。人並み外れた濃密な神秘の残滓。しかしその輪郭は陽炎のように揺らぎ、端から青白い燐光となって夜気に溶け出しかけていた。
「おい、大丈夫か……!?」
士郎は買い出し袋を放り出し、駆け寄って肩に手をかけた。 ずぶ濡れのローブをめくると、現れたのは息を呑むほど整った顔立ちの女性だった。人形めいた白い肌は死人のように青ざめ、苦悶に眉を寄せている。何より異様だったのは、その身体が物理的な質量を失いかけていることだ。透けて見える指先。足元から崩壊していく存在感。
雨水に濡れそぼる、深い青紫の長い髪——。
(……っ!?)
士郎の背筋を、電撃のような悪寒が駆け抜けた。
朝、目覚める直前に見た、あの冷たい夢。嵐の海で泣き崩れていた後ろ姿と、目の前で行き倒れているこの女性の気配が、恐ろしいほどの重なりをもって脳裏にフラッシュバックした。
(人間じゃない……? 使い魔か、それとも——)
「……触るな、下種が」
掠れた、だが酷く冷徹な鈴の鳴るような声が落ちた。 薄く開かれた双眸が士郎を射抜く。深淵のような冷たさと、世界中のすべてを呪詛するような昏い光。女性は震える指先を持ち上げ、士郎の首筋へと向けようとした。だが、指先から立ち上るはずの魔力は微かな火花となって霧散し、彼女は自嘲するように口元を歪めた。
「……ふん、ここまでのようね。よりによって、こんな名もなき魔術の出来損ないの前で……」
彼女は士郎が帯びている未熟な魔術回路の気配を一瞬で見抜いていた。 魔術師としての格が違いすぎる。ただそこに横たわっているだけで、士郎の全身の神経が警鐘を鳴らしていた。危険だ。関われば命はない。魔術師としての冷徹な判断を下すなら、今すぐ背を向けて逃げ出すべきだった。
だが、士郎の手は彼女の冷え切った肩から離れなかった。
「喋るな。身体が消えかけてるぞ」
「消える? ええ、そうよ。依り代を失ったサーヴァントの末路よ……それがどうしたというの? 笑いに来たのなら、さっさと立ち去りなさい。お前のような小僧に情けをかけられるくらいなら、野垂れ死んだほうがマシだわ」
吐き捨てられる言葉は毒そのものだった。裏切られ、すべてを失い、世界を拒絶する者の言葉。 だが、士郎には彼女の瞳の奥にあるものが、ただの悪意には見えなかった。十年前、燃え盛る炎の中で誰もが浮かべていた、あの救いを求める絶望と同じ色に見えた。
「……立てるか」
「は……? 何を言って——」
「立てないなら背負う。うちに来い。手当てならできる」
女性の目が驚愕に見開かれた。信じられないものを見る目で士郎を凝視する。
「頭がおかしいのかしら、この小僧は……私が誰かも知らずに。私は魔女よ。隙を見せれば、お前の命など一息で吸い尽くして糧にするような化け物なのよ!?」
「そうかもしれないけど、今ここで放っておいたらあんた死ぬだろ」
迷いのない、馬鹿正直な声だった。 士郎は躊躇なく自分の上着を脱ぐと、ずぶ濡れの女性の肩へと掛けた。そして背中を向け、泥に膝をついて屈み込む。
「ほら、つかまれ。冷え切ってるんだ、一刻も早く温めないと」
差し出された背中を見つめ、キャスターは激しい眩暈を覚えた。 罠か? 謀略か? いや、この少年の魂には裏表など欠片もない。ただ愚かしいまでの善意と、己を勘定に入れない歪な献身があるだけだ。かつて自分を騙し、利用し、都合のいい道具として扱った男たちとは、対極にある存在。
(……阿呆な子供。なら、利用してやるわ)
消滅を拒む本能が、キャスターの思考を冷たく塗りつぶす。 神代の魔女は薄く笑い、残された全魔力を振り絞って、士郎の首筋へと氷のような指先を突き立てた。
「——その言葉、後悔しなさいな」
刹那、士郎の全身を激痛が貫いた。 背骨に灼熱の杭を打ち込まれたような衝撃。体内に眠る二十七本の魔術回路が、無理やりこじ開けられ、強引に外部の巨大な奔流へと縫合されていく。
「ぐっ……、あ……!?」
「騒ぐんじゃないわ、坊や。私の消滅を止めるためのバイパスよ……お前の回路を、私の仮初めの心臓にしてあげる」
本来なら大聖杯の正規手続きを経て結ばれるべき契約。令呪すら持たない士郎に対し、キャスターは神代の術式を力づくでねじ込み、自らと士郎の魂の間に直接ラインを敷設した。 士郎の魔術回路から、生き血を啜るように魔力がキャスターへと流れ込んでいく。キャスターの輪郭の崩壊がピタリと止まり、その青ざめた頬にわずかな生気が戻る。
だが、代償として士郎の呼吸は荒くなり、額には脂汗が滲んだ。回路が悲鳴を上げている。それでも士郎は、彼女を突き飛ばすことも、叫んで逃げ出すこともしなかった。 ただ歯を食いしばり、痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……これで、消えないで済むんだな?」
途切れ途切れの、だが確かな声。 キャスターは士郎の背中で言葉を失った。激痛を与えられ、魔力を奪われ、命の危険に晒されているというのに、この少年が向けた最初の言葉は、己の無事を確認するものだった。
「……本当に、救いようのない馬鹿ね」
キャスターは吐き捨てるように呟き、士郎の上着をきつく引き寄せた。隠すようにフードを深く被り、少年の背に身を預ける。もう、身体を支える力は残っていなかった。
「私の名はキャスター。……せいぜい、温かい寝床と食事を用意しなさい。さもなくば、骨の髄まで吸い尽くして殺してあげるわ」
「わかった。……今夜は粕汁の予定だったけど、身体が温まるなら何でも作るよ。俺は衛宮士郎。行こう、キャスター」
傘もささず、士郎は重みと痛みを背負って歩き出した。 雨は依然として降り続いていたが、背中から伝わる魔女の温もりだけが、冷たい夜の中で微かに息づいていた。
衛宮邸の玄関を引き戸ごと滑り込ませた瞬間、士郎の膝から力が抜けた。
「ぐ、っ……」
土間に崩れ落ちそうになる身体を、上がり框に手をついて辛うじて踏みとどまる。背中に背負った重みは、羽毛のように軽い。だが、彼女と接続された首筋のラインから、自身の魔術回路の熱が絶え間なく吸い上げられていく感覚は、冷えた鉄の針を血管に突き立てられ続けているようだった。
「……情けない声を出すんじゃないわ。たかが二十七本程度の回路を数割掠め取られた程度でへばるなんて、やはり三流の紛い物ね」
頭上から、冷え切った侮蔑の声が降る。 士郎の背からするりと滑り降りたキャスターは、まだ足元こそ微かに覚束ないものの、路地裏で崩壊しかけていた存在の希薄さを脱していた。士郎の上着を濡れたローブの上に無造作に羽織り、底冷えのする瞳で薄暗い玄関を見回している。
「ここがあなたの根城? ……呆れたわね。門前に子供騙しの防犯ベルのような魔術が一つ転がっているだけで、まともな防護結界も警戒のルーンすら敷かれていない。よく今まで生きていられたこと」
「悪かったな、手入れが行き届いてなくて。……とりあえず上がってくれ。濡れたままだと風邪を引く」
「風邪? サーヴァントが人間の病に罹るとでも思っているの? 無知もここまでくると喜劇ね」
嘲笑を浮かべるキャスターを余所に、士郎は息を整えながら立ち上がり、脱衣所から清潔なバスタオルと、自分の予備の部屋着——少し丈の余るスウェットとフリース——を引っ張り出して戻ってきた。
「服、着替えろよ。ずぶ濡れのローブじゃ休まらないだろ。風呂を沸かすから、温まってくるといい」
差し出されたタオルと服を、キャスターはまるで汚物でも見るかのような目で凝視した。
「……私の身体に触れる許可など与えていないわ。ましてや、そんな下賤な平服を神代の魔術師たる私に着ろと?」
「下賤って……洗濯したてで綺麗だぞ。じゃあ、身体拭くだけでも拭いてくれ。居間のファンヒーターつけておくから」
士郎はそれ以上押し問答を続ける気力もなく、タオル類を近くの下駄箱の上に置くと、足早に台所へ向かった。 背後でキャスターが微かに舌打ちする音が聞こえたが、追ってはこない。
台所に立つと、まず湯沸かし器のスイッチを押し、やかんを火にかける。 激痛の余韻で指先が細かく震えていたが、包丁を握ると不思議と神経が定まった。買い込んできた大根の皮を剥き、乱切りにする。こんにゃくを下茹でし、豚肉を胡麻油で炒める香りが立ち上る頃には、冷え切っていた台所に生活の温度が戻り始めていた。
(……サーヴァント、と言ったか)
聞き覚えのない単語だった。切嗣が生前遺した魔術の手ほどきの中にも、そんな言葉は影も形もなかった。それが何を意味するのか、どんな存在なのかは分からない。首筋から魔力を啜られる激痛からしても、尋常ならざる魔術の深淵に触れてしまっていることだけは確かだ。……だが、目の前にいる女性が誰かに裏切られ、酷く傷つき、帰る場所を失っていたことだけは確かだった。
「……何を作っているの?」
不意に、背後から警戒を孕んだ声がした。 振り返ると、キャスターがそこに立っていた。 士郎が渡したグレーのフリースとスウェットに身を包み、濡れた紫の長髪をバスタオルでぎこちなく押さえている。身幅の広い服に着られている姿は、先ほどまでの冷酷な魔女の凄みなどすっかり薄れ、年不相応に華奢な一人の女性にしか見えなかった。
「粕汁だよ。豚肉と根菜を炒めて、酒粕と味噌で煮込むんだ。身体の芯から温まる」
「……毒でも仕込んだのかしら」
「仕込むわけないだろ。そんな趣味はない」
「愚かね。見ず知らずの、命を脅かしかねない怪物を前にして、背中を向けて料理などと。私の気まぐれひとつで、あなたの首など容易く撥ね飛ばせるのに」
キャスターは台所の柱に寄りかかり、腕を組んで冷たい視線を向けてくる。 士郎は味見用の小皿に汁をひと匙すくい、息を吹きかけて冷ますと、迷いなく自分の口へ運んだ。
「ほら、毒見。問題ない」
「そういう問題ではないと言っているのよ……!」
苛立ちを露わにするキャスターをよそに、士郎はお椀を二つ並べ、湯気の立つ粕汁をたっぷりと注いだ。炊飯器からほかほかの白米をよそい、常備菜のきんぴらごぼうを小皿に盛る。それらを盆に乗せて、居間のちゃぶ台へと運んだ。
「ほら、冷める前に食べろ。いただきます」
士郎が手を合わせると、キャスターはちゃぶ台の前に正座——ではなく、どこか貴族的な優雅さを残した座り方で腰を下ろし、目の前の椀を値踏みするように見つめた。 箸を手に取ることすら躊躇っていたが、立ち上る芳醇な味噌と酒粕の香りに、微かに喉が鳴る。
(……屈辱だわ。こんな極東の片田舎の、泥臭い煮込み料理ごときに……)
だが、飢えと疲弊は霊基の底を削り続けていた。 意を決したように箸を取り、匙代わりに椀の汁を一口、そっと唇に触れさせる。
——その瞬間、キャスターの切れ長の瞳がわずかに見開かれた。
豚肉の脂の甘みと、じっくり煮込まれた根菜の滋味。それを包み込む濃厚な酒粕のコクと、昆布と鰹の澄んだ出汁。 一口飲み下した瞬間、冷え切っていた霊核の周囲に、じんわりとした確かな熱が広がっていくのが分かった。人間が生きるために摂取する「温もり」そのものが、五臓六腑に染み渡っていくような錯覚。
「……何よ、これ」
「口に合わなかったか?」
「……雑味がなくて、無駄に手の込んだ味よ。田舎臭くて、洗練とは程遠いわ」
そう悪態をつきながらも、キャスターの箸は止まらなかった。 大根を口に運び、熱さに少し目を細め、白米を一口含む。言葉とは裏腹に、彼女の椀はみるみるうちに空になっていった。二杯目の粕汁を士郎がおかわりで差し出すと、彼女は一瞬バツの悪そうな顔をしたが、拒絶することなく受け取った。
食事が終わる頃には、キャスターの頬には確かな血色が戻っていた。 湯呑みから立ち上るほうじ茶の湯気を見つめながら、彼女は静かに口を開く。
「……私の名はキャスター。そう呼びなさい。私の正体など、詮索しないことね。どうせ知りもしないでしょうし、知ったところで怯えて竦み上がるのがオチよ」
「詮索なんてしないさ。呼び名が必要なら、キャスターでいいよ。……ただ、明日の朝はちょっと厄介なことになりそうだけどな」
「厄介?」
「ああ。うちには毎朝、保護者代わりの藤ねえと、後輩の桜が朝飯を食べに来るんだ。あんたの濡れた服も干しておかないといけないし、どう説明したものか……」
「くだらないわね。そんな小娘など、私の魔術で眠らせて追い払えば済むことよ」
「そんなことしたら絶対に許さないからな。……何とか誤魔化すよ。奥の和室を使ってくれ。布団は敷いてあるから」
士郎は立ち上がり、空になった食器を手際よく片付け始めた。 その無防備な背中を見つめながら、キャスターは生まれて初めて、言葉という武器を完全に封じられたような敗北感を味わっていた。
(なんなの、この小僧は……何なのよ、一体……!)
胸の奥が、熱い。 裏切りの毒でも、魔術の昂ぶりでもない。 何千年も昔、神々の呪いを受ける前、コルキスの陽だまりの中で誰かに笑いかけられた時のような、酷く懐かしくて痛々しい熱が、キャスターの霊核を静かに揺らしていた。
翌朝、障子の隙間から差し込む冬の光で士郎は目を覚ました。
身体を起こすと、全身の関節が軋むように重い。昨晩、首筋から強引に繋がれた見知らぬ感覚——背骨の奥に細い氷柱を一本埋め込まれたような異物感は、消えるどころか静かに拍動を続けていた。
(……夢じゃ、ないんだな)
顔を洗い、身支度を整えて居間へ向かう。 廊下を進むと、台所の方から聞き慣れない異様なリズムが耳に届いた。
トトトトトトトトトト……!
機械のように正確で、異常なまでに高速な包丁の音。
「……っ!?」
足を速めて台所の戸を開けると、そこにいたのは昨夜の女性——キャスターだった。
着古したスウェットの上に、どこで見つけてきたのか士郎の母(あるいは藤ねえが置いていった)花柄のエプロンを身に着け、まな板に向かっている。紫の長髪は後ろで無造作に束ねられ、その手元は目にも留まらぬ速さで動いていた。
まな板の上を見て、士郎は息を呑んだ。 大根はミクロン単位の薄さの桂剥きにされ、葱は寸分の狂いもない極細の白髪葱へと変貌している。魚の三枚おろしに至っては、骨に身が一切残っていない。手先の器用さだけで言えば、間違いなく神懸かりの領域だった。
だが——コンロの上で煮えたぎる小鍋から立ち上る湯気は、完全に異次元のものだった。
ツンと鼻を突く強烈な薬草の匂い。異様な量の塩気。味噌がグラグラと沸騰する鍋の中に、彼女は乾燥した見知らぬ地中海風のハーブをパラパラと振り入れようとしていた。
「……おい! 何やってるんだキャスター!」
士郎は思わず駆け寄り、キャスターの手首を掴んで止めた。
「な、何をするのよ無礼な! 見れば分かるでしょう、朝食の支度よ!」
「朝食って……出汁も取らずに味噌を煮立たせてどうする! それにこのハーブは何だ!?」
「ハーブではなく乾燥させた薬草よ! 王族に伝わる滋養強壮の調合を応用してあげたのではないの。感謝なさい!」
「味噌汁にそんなもの入れたら台無しだ! ほら、ちょっと味見してみろ!」
士郎が小皿にすくって突き出すと、キャスターは不機嫌そうに舌先を触れさせた。
次の瞬間、彼女の整った顔がぎゅっと歪んだ。
「……っ!? しょ、塩辛いわね……。それに、何だか酷くえぐ味が……」
「出汁が入ってないのに塩と味噌を入れすぎなんだよ。……切り方はプロ顔負けなのに、味付けが壊滅的だな」
「な、なんですって……!? こ、極東の調味料の規格が野蛮なだけよ! 誰に物を言っているの、この三流が!」
顔を真っ赤にして憤慨するキャスターからお玉を取り上げ、士郎は手早く昆布出汁を注ぎ、煮詰まった汁を割って味を調えた。鮭の切り身を魚焼きグリルに放り込み、卵焼きの準備を進める。
「……ふん、手先を動かすのは得意だけれど、味付けなんて適当で良いはずでしょうに」
悔しそうにエプロンの裾を握るキャスターの姿は、昨夜の禍々しい魔女とは打って変わって、どこか人間味に溢れていた。
その時だった。
ガラガラッ!
玄関の引き戸が、乱暴な勢いで開け放たれた。
「おっはよー士郎ー! 寒くて凍えそうだから今朝は朝ご飯大盛……って、あれ? 靴がある?」
「先輩、おはようございま……す?」
居間の廊下から響く、聞き慣れすぎた二人の声。藤村大河と、間桐桜だった。
士郎の背筋に、冷たい汗が一筋流れた。
(し、しまった……! もうそんな時間か……!)
「おいキャスター、隠れ——」
士郎が振り返り、キャスターに身を隠すよう促そうとした、まさにその刹那だった。
キャスターの纏う空気が、文字通り一瞬で変貌した。
鋭く尖っていた双眸は柔らかく細められ、口元には春の陽だまりのように穏やかで、慎ましやかな微笑みが浮かぶ。エプロンの前で両手を上品に重ね、背筋をすっと伸ばしたその立ち姿は、どこからどう見ても「教養深く、物静かで美しい外国の貴婦人」そのものだった。
「……え?」
士郎が呆気に取られている間に、台所の引き戸が勢いよく開いた。
「士郎! 今朝は誰かお客さん……って、えええええええええっ!?」
飛び込んできた大河が、キャスターの姿を見た瞬間、目を丸くして絶叫した。背後からついてきた桜も、息を呑んで立ち止まる。
「だ、誰!? 誰なのこの超美人さん!? 外国人!? 士郎、まさかあんた、いつの間にこんな綺麗な人を家に連れ込んでるのよーっ!?」
大河が鬼の形相で詰め寄ろうとした瞬間、キャスターがすっと前に進み出て、完璧な優雅さで小さく頭を下げた。
「おはようございます。……士郎様の、ご家族の方でしょうか?」
鈴を転がすような、穏やかで澄んだ美声。昨夜、士郎の首筋を凍りつかせたあの冷徹な響きは微塵も残っていなかった。
「あ、はい! 家族というか、隣に住んでる保護者で姉貴分の藤村大河ですけど……!」
勢いを削がれた大河が思わず背筋を伸ばすと、キャスターは慈愛に満ちた笑みを深めた。
「お噂は士郎様から伺っておりますわ、大河様。……初めまして。私は、切嗣様の生前の知人でございます。極東の旅の途中で酷く体調を崩し、路頭に迷いかけていたところを、昨晩、親切な士郎様に介抱していただきまして。……本名は外国名で少々長うございますので、どうか『キャスター』とお呼びくださいまし」
「き、切嗣さんの知り合い……!? キャスターさん!?」
大河の目が輝いた。
「しかもこんなに礼儀正しくて綺麗な人! なーんだ、切嗣さんの知り合いならそう言ってよ士郎! 行き倒れを保護するなんて、あんたもたまにはいいことするじゃない!」
「あ、ああ……うん、まあな……」
士郎は引き攣った笑いを浮かべるのが精一杯だった。信じられない変わり身の早さだ。神代の魔女の演技力、恐るべしである。
その時、大河の背後から桜が進み出て、慎ましやかに一礼した。
「初めまして、キャスターさん。私は間桐桜と申します。先輩の学校の後輩で……毎朝、朝食のお手伝いに伺わせていただいているんです」
「ご丁寧にありがとうございます、桜さん。とても可愛らしいお嬢さんね」
キャスターは柔和な笑みを崩さず応じた。
——だが。
桜と視線が交錯した瞬間、キャスターの紫の瞳の奥が一瞬だけ、氷のように細められたのを士郎は見逃さなかった。
(……っ!? なんなの、この小娘の身体の奥底は……。このどす黒く澱んだ、吐き気を催すような魔力の気配……まるで、無数の蟲が皮膚の下で蠢いているような……)
キャスターの霊核に、明確な戦慄と嫌悪が走っていた。だが、彼女はそれを完璧に覆い隠し、優雅に小鍋へと視線を戻した。
「大河様、桜さん。冷めないうちに朝食にいたしましょう。士郎様のお手伝いをしながら、心を込めてご用意いたしましたの」
「わーい! キャスターさんの手料理! いただきまーす!」
(最後に準備したの、ほとんど俺なんだけどな……)
居間のちゃぶ台で、奇妙な朝食が始まった。
大河は鮭の焼き加減を絶賛し、キャスターはおっとりと相槌を打ちながら優雅にお茶を啜る。
だが、大河が「士郎、お茶のおかわり!」と背を向けた一瞬——
キャスターは士郎にだけ視線を鋭く突き刺し、無言のまま、唇の動きだけで冷酷に告げてきた。
『——あとで覚えていなさいよ、この大莫迦者』
冷や汗が止まらない士郎の横で、キャスターは何食わぬ顔で桜に漬物を勧めていた。
「ごちそうさまでしたー! 士郎、キャスターさん、また夜に来るね!」
「キャスターさん、お粗末様でした。失礼いたします」
朝食を終え、大河と桜が弓道部の朝練のために慌ただしく玄関を出て行った。
ガラガラ、と引き戸が閉まり、二人の足音が遠ざかる。
その瞬間。
台所の片付けをしていたキャスターの背中から、すっと力が抜け、重いため息が零れ落ちた。
「……はあ。何なのよ、あの騒がしいトラのような女は。寿命が縮むかと思ったわ」
淑やかな貴婦人のメッキが剥がれ落ち、いつもの不機嫌な魔女の顔が戻っていた。
「悪かったな。でも、よくあの短時間で誤魔化し切れたよ。助かった」
士郎が礼を言うと、キャスターはふんと鼻を鳴らした。だが、その瞳は笑っていなかった。
彼女は流し台の手を止め、振り返ると、底冷えのする真剣な眼差しで士郎を射抜いた。
「……そんなことより、マスター。あの桜という娘、一体何者なの?」
「え? 桜? 桜は普通の弓道部の後輩だけど……うちにもよく手伝いに来てくれてるし」
「普通……? 冗談でしょう。あの娘の全身に巣食っているあの魔力の澱み、あなた本当に気づいていないの? まるで、他者の肉体を喰い破るような下劣な蟲の——」
「蟲……?」
士郎が本気で困惑し、眉をひそめる。
その無垢な反応を見つめ、キャスターは言葉を飲み込んだ。
(……本当に、何一つ知らされていないのね。魔術師の家系の暗部すら知らぬまま、あの危険な娘を無防備に招き入れているというわけ。……いいえ、今この鈍感な小僧に話したところで、取り乱して自爆するのが関の山だわ)
「……いいえ、何でもないわ。私の気のせいよ」
キャスターは冷たく切り捨て、話題を強引に引き戻した。
「それより本題よ。……世間話はここまでよ、マスター。改めてお伺いするけれど、あなたは昨晩から、自らの置かれた状況をどれほど正確に把握しているのかしら?」
「状況?」
「とぼけないでちょうだい。サーヴァントたる私を匿い、その身に魔力供給のパスを通したのよ。……他陣営の動向、そして大聖杯の起動状況。あなたはどこまで把握して私を拾い上げたの?」
大聖杯。他陣営。 次々と繰り出される聞き慣れない単語に、士郎は素直に首を傾げた。
「いや……さっぱりわからない。さっきから言ってる『サーヴァント』ってのも、使い魔の一種なんだろうとは思うけど」
キャスターの端正な顔が、凍りついたように静止した。
「……は?」
「だから、わからないんだ。俺は親父から魔術の基礎を少し教わっただけで、世間の魔術師の付き合いもないし、あんたが何と戦ってるのかも知らない」
沈黙が居間を支配した。 ファンヒーターの微かな唸り音だけが響く中、キャスターは額に手を当て、深く、心底から絞り出すような溜め息を吐いた。
「……冗談でしょう? 聖杯戦争の存在すら知らずに、瀕死の英霊を拾い上げてパスを繋いだと……? あなた、自分が魔術世界の特大の火薬庫に裸足で飛び込んだ自覚はあるの!?」
「火薬庫って……人が倒れてたら助けるだろ、普通」
「普通ではありません! 魔術師の風上にも置けないお人好しよ、この大莫迦者が!」
バン、とちゃぶ台を叩いてキャスターが身を乗り出した。 紫の瞳には本気の怒りと、それ以上の困惑が渦巻いている。
「令呪の形質もない、大聖杯への接続もない……単に回路が二十七本あるだけの素人。そんなものを命綱にしてしまった私の不運を呪うべきかしら。……いいこと、坊や。この街にはもうすぐ、万能の願望機たる『聖杯』を求めて、七人の魔術師と七騎の英霊が集まり、最後の一組になるまで殺し合う儀式が始まるのよ。それが聖杯戦争よ」
「……最後の一組になるまで、殺し合う?」
士郎の表情が強張る。 キャスターはその反応を見て、冷酷に言葉を重ねた。
「ええ。情け容赦のない殺戮行よ。そして私は、前のマスターが……脱落し、行き場を失っていたところをあなたに拾われた。つまり、あなたは今、その血生臭い儀式の標的のど真ん中に立っているのよ」
冷たい現実を叩きつけられ、士郎は拳を握りしめた。 だが、その瞳に浮かんだのは逃げ腰の恐怖ではなく、強い拒絶だった。
「……そんな勝手な都合で、この街で殺し合いをするのか。関係ない人間だって巻き込まれるかもしれないのに」
「勝手な都合、ね。ええ、その通りよ。けれどそれが魔術師の現実だわ。……そして何より深刻なのは、あなたと私の『接続』よ」
キャスターは立ち上がり、音もなく士郎の背後に回ると、その細い指先を士郎の後頭部——首筋の付け根へと這わせた。 ひやりとした悪寒が走り、士郎の身体が強張る。
「私の術式で無理やりこじ開けたバイパスだけれど……お粗末極まりないわ。あなたの回路はまるで錆びついた鉄パイプよ。魔力の通り道が歪んでいて、これでは私が少し呼吸を深くしただけで、あなたの脳漿が沸騰して焼き切れてしまうわ」
「うぐっ……」
「これだから素人は困るのよ。……仕方ないわね。朝食のお返しと、私の生存維持のためよ。坊や、食事が終わったら土蔵へ案内しなさい」
「土蔵? あそこ、ガラクタしかないぞ」
キャスターは士郎の首筋から指を離し、ふんと小さく鼻を鳴らした。
「ガラクタの山だろうと構わないわ。こんな無防備な民家で敵サーヴァントに踏み込まれれば、あなたが死んで私が消滅するだけよ。……少しは使い物になるよう、その歪な回路の手入れと、最低限の陣地作成を行うわ。主(マスター)を名乗るなら、せいぜい私の指導に泣き言を言わないことね」
呆れ果てた溜め息の奥に、どこか「放っておけない出来損ない」を拾ってしまった保護者のような苛立ちを滲ませながら。
もし拾ってくれたのがへっぽこだとはいえ魔術師だったらキャスターさんは相応に警戒する気がしますね。