Fate/shelter rain 作:茶碗
翌朝。弓道部の休日練習へと向かう大河と桜を見送り、居間の片付けを終えた士郎は、昨夜の約束通りキャスターを屋敷の土蔵へと案内した。
重い引き戸を開けると、冬の朝の冷気が澱む土蔵の中に、埃っぽさと錆びた鉄、そして油の匂いが立ち込めていた。ガラクタの山、無造作に置かれた工具箱、そして中央に敷かれた古びたござ。
キャスターは腕を組み、土蔵の中を一瞥するなり深々とため息をついた。
「……何よ、この豚小屋は。魔術工房を名乗るのもおこがましいわ。これならアトラムの悪趣味な神殿の方がまだ数倍マシだったわね」
「工房じゃない、ただの物置だ。親父がここは自由に使っていいって言ってたから、俺が日課の鍛錬に使ってるだけだよ」
士郎が弁解するように言うと、キャスターは呆れたように眉根を寄せる。
「いい、坊や。魔術師にとって工房とは己の小宇宙、外界からの干渉を断ち、神秘を純化するための城よ。こんな隙だらけの掘っ立て小屋で何を鍛錬していたのかしら? ……まあいいわ。昨夜約束した通り、まずはあなたのそのお粗末な回路を見せてもらいましょうか。普段、どうやって魔術を行使しているのか、ここでやって見せなさい」
「やって見せるって……いつも通りでいいのか?」
「ええ。基礎中の基礎、あなたの得意な術式を一つ」
士郎は頷き、土蔵の隅から一本の鉄パイプを拾い上げた。 ござの上に正座し、呼吸を整える。両手でパイプを握りしめ、瞼を閉じる。
(——
意識を己の内側へと潜らせる。背骨に灼熱の焼き鏝を突き刺すイメージ。神経を一本一本、燃え盛る火薬の導火線に置き換えていくような激痛。脳の奥がチリチリと焼け焦げるような錯覚を歯を食いしばって耐え、無理やり体内の魔力を絞り出す。
「……っ、ふ、ぅ……!」
士郎の皮膚の下、青白い魔力の光が神経を伝うように奔る。 鉄パイプの組成へと魔力を流し込み、その強度を高める「強化」の行使——。
だが、その瞬間。
「——そこまでよ、大莫迦者!」
鋭い怒声と共に、キャスターの氷のように冷たい手のひらが士郎の額に叩きつけられた。 刹那、士郎の全身を巡っていた灼熱の魔力が、まるで見えない刃で切断されたかのように霧散する。
「がはっ……!? な、何するんだ……!」
激しい立ち眩みと呼吸困難に襲われ、士郎は膝をついて咳き込んだ。 見上げると、キャスターは髪を逆立てんばかりの形相で士郎を見下ろしていた。怒り、そして本物の戦慄が、その紫の瞳に宿っている。
「何をするか、ですって!? それはこちらの台詞よ! あなた、今のを『魔術の起動』と呼んでいるの!? あれはただの自殺志願者の自爆ショーよ!」
「な……自爆って、俺はいつもこうやって——」
「毎回、新しい回路を体内に無理やり新造して、使い終わったら焼き捨てていたでしょう! 自分の神経を魔力で焼き焦がしながら、たかだか棒切れ一本を硬くするために命を削っていたのよ、あなたは!」
キャスターの怒号が土蔵に木霊する。 神代の魔女にとって、士郎の行っていた鍛錬は「技術の拙さ」などというレベルを超えていた。狂気の沙汰だった。
「いい? 魔術回路っていうのはね、心臓や肺と同じ、生まれ持った『器官』なの! 蛇口をひねるように開閉して、血を通わせるように魔力を巡らせるものなのよ! それをあなた……火を起こすたびに自分の腕をもぎ取って薪にくべていたようなものよ!? よく今まで廃人にもならずに生き延びられたものだわ!」
キャスターは士郎の胸倉を掴み上げんばかりに詰め寄り、青ざめた顔で士郎の首筋に再び指を押し当てた。 神代の冷たい魔力が士郎の体内を探り、乱暴にこじ開けられていた二十七本の回路の「本来の在り処」をなぞっていく。
「……ふざけた真似を。誰よ、あなたにこんな出鱈目なやり方を教えた三流魔術師は」
(出鱈目……?)
士郎は激痛の残る胸元を押さえ、呆然とキャスターを見上げた。
毎晩、土蔵に籠もって意識をすり潰すような激痛に耐えてきた。魔術の鍛錬とはそういうものだと、それしか知らない士郎はずっと信じ込んでいたのだ。
だが、目の前の本物の魔術師は、それを「命を削る自爆」だと切り捨てた。
脳裏をよぎるのは、生前の切嗣の姿だ。毎晩のように「魔術を教えてくれ」とせがむ士郎に対し、切嗣はいつも困ったように眉を下げ、悲しげな目をしていた。『魔術師になんて、なるもんじゃない』と何度も言っていた。
あれは意地悪でも手抜きでもなく——。
「親父を悪く言うな」
痛みに顔を歪めながらも、士郎は真っ直ぐにキャスターを見据えた。
「……たぶん、親父は俺に魔術師になってほしくなかったんだ。危険な思いをすれば、そのうち諦めると思って……だからあんなやり方しか教えなかったんだと思う」
士郎が真っ直ぐ言い返すと、キャスターは忌々しそうに唇を噛み、指を離した。
「……チッ、余計な世話を焼く父親ね。諦めさせるなら完全に手足を縛っておけばいいものを、半端に毒の味だけ覚えさせて放置するなんて、無責任にも程があるわ」
キャスターは大きく息を吐き、乱れた髪を乱暴に払うと、士郎の前にしゃがみ込んだ。
「座りなさい、坊や。……私のパスを通して、あなたの回路の『正しい開閉』を教えてあげる。もう二度と、あんな馬鹿げた自爆はさせないわ。私の魔力タンクが勝手に破裂されたら困るもの」
「……教えてくれるのか?」
「当然でしょ。あなたのその錆びついたパイプを磨き直すのは、私の生存のためよ。感謝しなさい」
ぶっきらぼうに言い放ち、キャスターは士郎の背後に回ると、その細い両手を士郎の両肩に置いた。 冷たく、だが驚くほど精密で澄み切った魔力が、士郎の背骨を通って全身へと広がっていく。キャスターの導きに従い、眠っていた二十七本の回路が、痛みではなく「心地よい脈動」と共に、生まれて初めて正しく目を覚ましていく。
だが、その回路の奥底——士郎の魂の最深部をスキャンした瞬間。 キャスターの呼吸が、ピタリと止まった。
「……待ちなさい」
キャスターの声から、先ほどまでの苛立ちが消えていた。 代わりに落ちてきたのは、底知れない違和感を前にした、魔女の冷徹な観察の響き。
「坊や、あなた……その手にある鉄パイプ。もう一度、今度は魔力を流さずに、ただ『見て』みなさい」
「え? 見るだけでいいのか?」
士郎は首を傾げながら、転がっていた鉄パイプを拾い上げ、じっと見つめた。
いつも無意識に行っていたことだ。切嗣の教えと日々の鍛錬の中で自然と培われてきた、物体の欠陥や魔力の流れを読み取る生来の「構造把握」。
「……鉄と炭素の合金。配管用炭素鋼鋼管。厚みは二ミリ、外径は二十五ミリくらい。十年前の規格で作られてて、内側の継ぎ目から少し錆が回ってる。でも、あと数年は折れない」
士郎にとっては、見たままを口にしただけのつもりだった。 だが、背後に立つキャスターの瞳は、信じられないものを見るように見開かれていた。
(……何よ、今の速度は)
計測の魔術も使わず、ただ肉眼で視認した一瞬で、金属の組成、年代、内部の摩耗度まで完全把握した。 神代の術式すら介さず、ただの人間が、本能の領域で物質の「構造」をゼロ秒でトレースしている。
「……坊や。あなたのそれ、本当に『強化』の魔術しか教わっていないの?」
キャスターの声が、微かに低くなった。
「ああ、親父からはそれしか教わってない。たまに頭の中で形をイメージして、同じものを複製する『投影』も試したけど……親父には『中身のない張り子の虎だ、無駄だからやめろ』って言われたよ」
「……投影ですって?」
キャスターは眉をひそめ、士郎の手から鉄パイプを取り上げると、自らの爪先で土蔵の床に鋭い魔術の紋様を刻み始めた。 神代文字が青く発光し、土蔵の空気がピンと張り詰める。
「坊や。……今の回路の感覚を忘れないうちに、その『投影』とやらを私の前でやって見せなさい。中身が空っぽのガラクタかどうかは、この私が判断するわ」
タメ口の奥に、魔術師としての純粋な知的好奇心と、得体の知れない異能に対する強い警戒が滲んでいた。 士郎は小さく頷き、土蔵の薄暗がりの中で、再び自らの内なる世界へと意識を沈めていった。
土蔵の空気が、張り詰めた冬の冷気ごと静まり返っていた。
床に刻まれた神代の文字が青く脈動し、外界の雑音を遮断している。その中心で正座する士郎の背後に立ち、キャスターは腕を組んで冷徹な視線を注いでいた。
「いい、坊や。さっき私の魔力で調律した回路の『道』を意識しなさい。もう自爆する必要はないわ。蛇口を開けて、溜まった水を静かに流すイメージよ。……何を投影するつもり?」
「……これだ」
士郎は作業台の脇に転がっていた、使い古しの果物ナイフを指差した。 刃こぼれし、柄の木が黒ずんだ、どこにでもある量産品の安物。
「ふん、慎ましいことね。まあいいわ、やってみなさい。……ただし、無駄口を叩く余裕はないと思いなさいよ」
士郎は息を吐き出し、瞼を閉じた。
教えられた通り、背骨の奥に意識を落とす。今までのように灼熱の鉄杭を打ち込むような苦痛はない。キャスターの冷たい魔力が道標となり、正規の二十七本の回路が、無理なく安定して滑らかに開通していく。
長年培ってきた構造把握の感覚を、調律されたばかりのクリアな回路へと静かに乗せる。
(——基本骨子、解明)
頭の奥で、無機質なスイッチが入る。
(構成材質、選定。 刃は炭素鋼、SK-5。焼入れ硬度、HRC58。 柄はカバノキ科の圧搾材。真鍮のリベット留め。 製作年代、十二年前。三条の鍛冶場で機械プレスにより成形。 切削、研磨、刃付け——すべての工程を再現)
士郎の呼吸が深くなる。 彼にとって「投影」とは、外にある物体を真似て粘土細工を作る作業ではなかった。 対象の設計図を脳内に引きずり込み、その物が生まれた瞬間から今に至るまでの「時間」と「概念」を丸ごと内なる工房で鍛造し直す儀式。
「——投影、開始(トレース・オン)」
士郎の右手が光を帯びた。 青白い火花が散り、大気中のマナが狂乱するように渦を巻く。 キャスターの切れ長の瞳が、かすかに細められた。
(……魔力の変換効率がおかしい。現代の投影魔術なら、器を形作るだけで膨大な魔力が霧散するはず。なのにこの小僧、漏れ出た魔力を一切無駄にせず、すべて『内側』へ圧縮している……?)
キィン、と澄んだ金属音が土蔵の静寂を切り裂いた。
光が収束し、士郎の掌の上に現れたのは——先ほど作業台に転がっていた果物ナイフと、寸分違わぬ一本の刃物だった。 柄の木目、真鍮リベットの酸化具合、刃先の微小な刃こぼれの角度に至るまで、完全に一致した複製。
「……できた」
士郎は額の汗を拭い、息を整えながらナイフを差し出した。
キャスターは無言のまま、そのナイフを取り上げた。 指先で刃の腹を撫で、柄の重みを感じ、爪先で軽く弾く。
澄んだ、硬質な音が響く。
「…………」
沈黙。 秒針の音が聞こえそうなほどの静寂の中、キャスターの顔から一切の感情が抜け落ちていた。 ただ、その紫の瞳の奥で、高速神言を操る神代の頭脳が猛烈な勢いで回転しているのが分かった。
(……あり得ない)
キャスターの背筋を、冷たい悪寒が駆け抜けた。 現代魔術における「投影」とは、魔力で編んだ外殻にすぎない。中身は空っぽで、数分も経てば世界からの修正を受けて霧散する張り子の虎だ。士郎の養父が「無駄だ」と切り捨てたのも、魔術協会の常識に照らし合わせれば至極真っ当な判断だった。
だが、今キャスターの手にあるこれは何だ?
(刃の内部まで鋼の結晶構造が詰まっている。焼き入れの焼きムラ、研ぎ減った刃先の角度、金属が経てきた十余年の『劣化』という概念まで内包して受肉している……! こんなもの、神代の錬金術ですら物質化に数刻の儀式を要するわよ……!)
しかも、士郎がこの作業に費やした時間は、わずか数秒。 魔力消費量も、士郎の細い回路から絞り出された極小の量でしかない。収支計算が完全に狂っている。無から有を生み出すなど、魔法の領域でなければ説明がつかない。
「……坊や」
キャスターの声は、低く、かすかに震えていた。
「これ、あなたが頭の中で想像して作ったの?」
「え? ああ……想像というか、見た瞬間に頭の中に図面が浮かぶんだ。それを引っ張り出して、そのまま固める感じだけど……やっぱり駄目か? 安物の果物ナイフじゃ、すぐ壊れるよな」
士郎が申し訳なさそうに頭を掻く。 その底抜けの無自覚さに、キャスターは思わず眉間を指で強く押さえた。怒りを通り越して、頭痛がしてきた。
「……あなた、本当に自分の異常性を理解していないのね。これがただのガラクタに見えるなら、あなたの目は節穴よ」
「え?」
「いい? 投影魔術なんてものはね、魔力で外見だけを真似る三流の張り子の虎よ。中身は空っぽで、少し衝撃を与えれば霧散するのが道理なのよ。……なのに、何なのよこのナイフは」
キャスターはナイフを拾い上げ、爪先でカンと刃を弾いた。澄んだ硬質な金属音が土蔵に響く。
「刃の焼き入れ、鋼の鍛造の履歴、内部の分子の結晶構造に至るまで、完全に『本物』と同じ密度で満たされているわ。……あなた、近代魔術の基本原則を完全に踏み倒しているわよ。一体どんな術理でこれを編み出したの?」
「術理って言われても……頭の中に思い描いた形を、そのまま引きずり出しただけで……」
「引きずり出した……?」
キャスターは眉をひそめ、士郎の焦茶色の瞳を射抜くように凝視した。
「普通、無から物質を固定化させるには莫大な魔力と儀式が必要よ。なのにあなたは、ほんの微小な魔力で、まるで最初からそこに実在していたかのように形作ってしまった。……わけが分からないわね。近代魔術の理屈じゃ説明がつかないわ」
キャスターは立ち上がり、ふんと皮肉げに唇の端を吊り上げた。
だが、その瞳には先ほどまでの軽蔑は微塵も残っていなかった。代わりに宿っていたのは、不可解な劇薬を見出した魔女の興味と冷徹な計算。
「親父さんは正しかったわね。こんなわけのわからない特異性、現代の時計塔の連中に知られたら、生きたまま解剖されて研究材料にされるのがオチよ」
「解剖って……」
「怯えないで、情けない。……まあ、いいわ。理由はともかく、安物の張り子ではなく『本物の刃物』を手元に呼び出せるというなら、使い道はあるわね。その歪な才能、神代の術者たる私が正しく扱えるようにしてあげるわ」
キャスターは腰に手を当て、勝ち誇ったように胸を張った。
「無駄な自爆は禁止。一人前の魔術師気取りで日用品をいじる下らない鍛錬も終了よ。あなたのその異常な具現化……聖杯戦争で生き残るための、自衛の牙として研ぎ澄ませてあげる。——感謝しなさい、坊や」
「……キャスター」
士郎は呆気にとられながらも、胸の奥で何かが解けていくのを感じていた。 切嗣にすら「なんて無駄な才能だ」と呆れられ、ずっと暗闇の中で手探りだった自分の魔術。それを、この魔女はたった半日で暴き出し、生きるための力として肯定してくれたのだ。
「……ああ。よろしく頼む、キャスター」
士郎が真っ直ぐに笑いかけると、キャスターは一瞬虚を突かれたように目を瞬かせた。 そして、気まずそうにすっと視線を逸らすと、早足で土蔵の出口へと向かった。
「……ふん、口先だけは一人前ね。さっさと片付けて昼食にしなさい。午後はこの土蔵をまともな工房に作り変えるわよ。ここのガラクタ、全部庭に放り出しなさい!」
乱暴に引き戸を閉めるキャスターの耳の先端が、微かに赤らんでいたことに、士郎は気づかなかった。
その日の夜。
土蔵のガラクタを整理し、キャスターの手によって最低限の防護術式が刻まれた工房の完成を見届けた後、士郎は泥のように眠りに落ちていた。
二十七本の回路を神代の魔力で調律された疲労と、初めて己の魔術の根源を肯定された安堵感。
まどろみの底で、士郎は再びあの心象風景の中にいた。
地平の彼方まで無数の剣が突き刺さる、赤熱の荒野。
だが、昨夜までと違っていた。回路が正規に通じ、魂の形を自覚したせいか、荒野の輪郭は以前よりも遥かに澄み渡り、無数に突き刺さる剣の刃先一本一本が、生き物のように鋭く脈動している。
——そして。
再び、降ってきた。
ぽつり、ぽつり。
赤熱の大地を濡らす、冷たい水滴。
一滴が二滴になり、やがて視界を白く染めるほどの土砂降りの雨へと変わっていく。
荒野の熱砂が一瞬にして掻き消え、世界が反転する。
轟く雷鳴。激しくうねる夜の漆黒の海。暴風雨に軋む巨船の甲板。
足元には、またあの女性がいた。
泥水と波飛沫にまみれ、ずぶ濡れの青紫の長い髪を振り乱しながら、激しく肩を震わせて泣き崩れている。まるで手を伸ばせば、その冷え切った肩に触れられそうなほどの距離。
「……っ、う、あぁぁぁぁぁっ……!」
引き裂かれそうな慟哭が、暴風雨を貫いて士郎の鼓膜を劈いた。
その胸を締め付ける痛みは、もはや他人事の夢ではなかった。キャスターと回路を繋ぎ、魂のパスを通じたからこそ、彼女の霊基の底に沈殿する呪われた記憶が、士郎の精神へと逆流しているのだ。
——信じていたのに。
——あなたのために、父を裏切り、国を捨て、弟の手すら汚したのに……!
——なぜ。なぜ私を捨てるの。なぜ私を魔女と呼んで嘲笑うの、■■■■……!
(キャスター……!?)
士郎は叫ぼうとした。手を伸ばし、その泣き崩れる華奢な肩を抱き止めようとした。
だが、叫び声は嵐の轟音に掻き消され、伸ばした指先は虚空を掻くだけだった。
「はっ……!?」
呼吸が詰まり、士郎はガバッと自室の布団の上で跳ね起きていた。
冬の静まり返った深夜。障子の向こうから、冷たい月光が差し込んでいる。
荒い息を吐きながら、士郎は胸元を押さえた。心臓が早鐘のように激しく脈打っている。
手のひらで顔を覆うと、頬にはびっしりと冷たい涙が伝っていた。
「……また、あの夢だ……」
なぜ、彼女はあんなにも悲痛に泣いていたのか。
裏切られたと叫び、愛した男の名を呼んで絶望していた、あの青紫の髪の王女。
その泣き顔と、昼間、焦げた魚を「美味しい」と言われて胸を温めていたキャスターの横顔が、士郎の脳裏で静かに重なり合っていた。
(……キャスター、あんたは昔……一体何を背負わされたんだ)
首筋に埋め込まれた神代のバイパスが、静かに、だが熱く拍動していた。
士郎は拳を握りしめ、静寂に包まれた夜の天井を見つめ続けた。