Fate/shelter rain 作:茶碗
セイバーが衛宮邸に顕現してから、数日が瞬く間に過ぎていた。
表向きの日常は何一つ変わっていないように見えた。朝になれば大河が騒々しく上がり込んできて朝食をねだり、桜が控えめに微笑みながら給仕を手伝ってくれる。昼間はいつも通り学校へ通い、友人たちと他愛のない雑談を交わし、放課後は弓道場を覗いてから帰路につく。
だが、その平穏の裏側で、士郎の神経は常に張り詰めていた。
制服の袖口で隠された右手の甲。そこに刻まれた鮮烈な三画の令呪が、時折チリチリと微かな熱を帯びるたびに、心臓の奥が冷たく締め付けられる。
——聖杯戦争。
万能の願望機を巡り、七人の魔術師と七騎の英霊が殺し合うという血生臭い儀式。
冬の夕暮れ、商店街を歩きながら行き交う買い物客や下校中の子供たちの姿を目にするたび、士郎の脳裏には十年前のあの光景が嫌でもフラッシュバックした。
天を焦がす猛火、夜空を覆う黒煙、瓦礫の下から伸びていた無数の手、そして耳を劈く絶叫。
あの地獄のような惨劇を、この穏やかな街で二度と繰り返させてはならない。だが、つい数日前まで毎夜の鍛錬で自分の神経を焼き焦がしていただけの半人前が、本当にこの街を守り通せるのか。いつ、どこから敵の魔術師やサーヴァントがこの日常を蹂躙しに現れるのか。その見えない脅威は、薄い氷を踏み抜くような静かな恐怖となって、士郎の足元に澱のように沈殿していた。
幸いだったのは、大河と桜の目を誤魔化すという最大の難関を、すでに奇跡的に突破できていたことだった。
召喚した翌朝、甲冑を解除させて私服を着せたセイバーをどう説明したものかと頭を抱える士郎をよそに、キャスターは平然と「本国の親戚で、切嗣ゆかりの身の回りの世話係」という精巧な推薦状と切嗣のサインを仕立て上げてみせたのだ。
案の定、可憐なお人形のような金髪碧眼の美少女を目にした瞬間、「うわーーーーん、キャスターさんだけじゃなく二人目なんて聞いてないよー! ヘンなのに士郎とられちゃったーーーー!」と大河がトラのように吠えて泣き叫んだものの、キャスターの完璧な淑女の弁舌と、背筋を定規のように伸ばしたセイバーの生真面目すぎる礼儀作法にあっけなく毒気を抜かれ、今や「セイバーちゃん!」と手放しで可愛がる始末だった。桜も最初は戸惑っていたものの、礼節を重んじるセイバーに好感を抱き、朝晩の食卓にはすでに奇妙な馴染みすら生まれていた。
そんな賑やかな面々を送り出し、学校から帰宅した後の道場での稽古の時間は、士郎にとって己の弱さと向き合う唯一の時間であり、同時に心の支えでもあった。
初冬の冷え切った日差しが差し込む、板張りの道場。
乾いた静寂を切り裂くように、竹刀と木剣が激突する鋭い破砕音が響き渡っていた。
カツン、と甲高い打撃音。
「ぐっ……!?」
士郎の身体が宙を舞い、背中から激しく床へと叩きつけられた。
受け身を取りきれず、肺腑の空気が無理やり押し出される。喉の奥に焼けるような鉄の味が広がり、激しい咳が込み上げた。
「踏み込みが甘く、重心が高すぎます。相手の切っ先に釣られて上体が浮いている」
木剣をすらりと下ろしたセイバーが、凛とした厳格な声で告げた。甲冑を脱いだ青いドレス姿のまま、額にうっすらと汗を浮かべ、乱れ一つない呼吸で士郎を見下ろしている。
痛む腰と肩を擦りながら、士郎は歯を食いしばって立ち上がった。
小柄な少女に手も足も出ずに転がされる悔しさは当然あった。だが、それ以上に士郎の胸を震わせていたのは、木剣越しに叩きつけられる「本物の剣士」の圧倒的な重圧だった。
一切の無駄を削ぎ落とした足運び、間合いに入った瞬間に肌を焼く鋭い殺気、そして絶対に揺らぐことのない気高い立ち姿。
(……強い)
息を呑むほどの隔絶した武威。だが、その切っ先を前にして、士郎の胸の奥にあった恐怖は、不思議と薄らいでいた。
この人は本物の戦士だ。もし敵が現れた時、命を預けて共に前へ立てる、頼もしすぎる剣なのだという確信。
「……もう一丁だ!」
士郎は竹刀を構え直した。
「良い気迫です。ですが、無謀と勇気は異なりますよ」
セイバーが静かに木剣を正眼に据える。
士郎は深く息を吸い込んだ。キャスターに調律された背骨の奥、正規に通るようになった二十七本の魔術回路を意識する。以前のように神経を焼き焦がす激痛はない。澄んだ冷気のように滑らかに巡る魔力に乗せ、切嗣から教わった呼吸を整え、全身の知覚を極限まで研ぎ澄ませる。
足の親指に力を込め、擦り足で間合いを詰める。
竹刀を振り下ろす瞬間、先ほどよりも腰を深く落とし、相手の切っ先ではなく、間合いを支配する空気の揺らぎそのものへと意識を集中させた。
だが——。
セイバーの木剣が、まるで見えない風のように士郎の竹刀の腹を滑り、わずかに軌道を逸らした。
刹那、風を裂いて懐へ踏み込まれ、木剣の柄頭が士郎の鳩尾の数ミリ手前でピタリと静止する。
「…………っ」
全身の毛穴が逆立つような悪寒。もしこれが真剣の戦場であれば、すでに喉笛か心臓を刺し貫かれていた。
だが、セイバーは木剣を引き、わずかに表情を和らげた。
「……そこまでです。今の踏み込みは悪くありませんでした。相手の武器を見るのではなく、間合いそのものを捉えようとする意識が見られます」
「はっ……はっ……褒めてくれるのかよ、転がされた後にさ」
荒い息を吐きながら、士郎は膝に手をついて苦笑した。
全身は打撲で軋み、筋肉は悲鳴を上げていた。だが、昨日の自分よりも、半歩だけでも前へ進めているという確かな手応えがあった。
「やれやれ……見ていて痛々しいわね。そろそろそのくらいにしておきなさいな。坊やの身体が夕飯の前に壊れてしまうわ」
道場の縁側に腰掛け、温かい湯呑みを両手で包んでいたキャスターが、呆れたようにため息を漏らした。
「……失礼。つい熱が入ってしまいました」
セイバーが木剣を収め、汗だくの士郎に手を差し伸べた。
「技術は拙く、筋が良いとは言えません。……ですが、何度打ち倒されても恐怖で目を逸らさないその根気は、見事なものです」
「ありがとな、セイバー。……でも、身体中がバキバキだ」
士郎が苦笑しながらその手を取って立ち上がると、縁側からキャスターが小瓶を放り投げてきた。
慌てて両手でキャッチすると、手のひらに収まったのは乳白色の軟膏が入った小さなガラス瓶だった。
「昨日調合した、打撲と筋肉疲労用の軟膏よ。風呂上がりに首筋と背中に塗り込みなさい。……私の魔力タンクが、戦闘の前に筋肉痛で使い物にならなくなったら困るもの」
ツンとそっぽを向くキャスター。だが、その軟膏の蓋を開けると、土蔵で調合したとは思えないほど清涼で澄んだ薬草の香りが鼻腔をくすぐった。
「助かるよ、キャスター。いつもごめん」
士郎が屈託なく笑いかけると、キャスターはふんと鼻を鳴らし、湯呑みを置いて立ち上がった。
「礼なら結構よ。……それより坊や、もう夕刻よ。今夜の夕餉は何にするつもり? また私をあの非論理的な調理場に立たせる気ではないでしょうね」
「もちろん手伝ってもらうぞ。今夜は三人分だからな、大鍋で寄せ鍋にしよう」
「鍋……またあの雑多な煮込み料理ね」
悪態をつきながらも、キャスターの手はエプロンの紐へと自然に伸びていた。
痛む身体を引きずりながら、士郎は二人の背中を見つめた。
日中は道場で最強の剣技を惜しみなく教えてくれるセイバー。そして夜は土蔵に籠もり、毒づきながらも開通したばかりの二十七本の回路のならし運転と、基礎的な魔力循環の呼吸を徹底的にケアしてくれるキャスター。
(……俺一人なら、きっと恐怖で押し潰されていただろう)
だが、今はこの二人がいる。
十年前のあの惨劇を繰り返さないための、これ以上なく心強い背中。
不安が完全に消えたわけではない。だが、二人が見せてくれる確かな力と温もりに触れるうちに、士郎の心の奥底に、ある小さな「安心」が芽生え始めていた。
——この二人となら、きっと誰も死なせずに、うまく乗り切れるんじゃないか。
夕暮れの衛宮邸の台所は、白い湯気と出汁の香りに満ちていた。
大根と白菜、椎茸に葱、そして鶏肉とタラの切り身。
まな板の上で、キャスターの包丁が閃光のように走る。数日前に初めて包丁を握った頃の覚束なさはどこへやら、いまや野菜の笹がきや豆腐の均等な賽の目切りを、目にも留まらぬ速さでこなしていた。
「どうだ、キャスター。出汁のタイミングも完璧だろ」
土鍋の蓋を開け、昆布と鰹節の澄んだ黄金色の出汁を見せる士郎。
キャスターはお玉を手に取り、小皿にすくってそっと息を吹きかけ、舌先で味を確かめた。
「……ふん。悪くないわね。塩気も出汁の深みも、及第点を与えてあげてもいいわ」
満足げに顎を引くキャスターの横顔を見て、士郎は思わず口元を緩めた。数日前まで「フツフツとは摂氏何度なのよ!」とパニックを起こしていた魔女が、いまや極東の家庭料理の出汁を得意げに評し、さらには先日魚を焦がした雪辱を果たすべく、隣の魚焼きグリルで副菜の塩鮭を真剣な眼差しで見張っているのだから。
居間のちゃぶ台の中央に、ぐつぐつと煮え立つ大きな土鍋が運ばれた。
湯気と共に立ち上る芳醇な香りに、正座して待っていたセイバーの碧眼が、キラキラと輝く。
「……素晴らしい香りです、シロウ」
「熱いから気をつけてな。ほら、いただきます」
「いただきます」
小鉢に取り分けられた熱々の鶏肉と白菜を口に運んだ瞬間、セイバーの端正な顔が幸福感に綻んだ。
「……美味しいです。身体の芯から、温かい魔力が満ちていくようだ」
そこからのセイバーの箸の進みは、まさに圧巻の一言だった。
背筋を伸ばした美しい姿勢のまま、だが凄まじい速度で具材が消え、大盛りの白米が吸い込まれていく。
「シロウ、おかわりを所望します」
「はいよ!」
二杯、三杯、四杯。
炊飯器の底が見え始める猛烈な勢いに、キャスターが呆気にとられて目を丸くしていた。
「……ちょっと、騎士様。あなた、その小さな身体のどこにそれだけの炭水化物が収まるのよ。ブラックホールでも飼っているのかしら」
「騎士たるもの、万全の戦力を維持するための補給は当然の義務です。それに、シロウの料理は……大変に美味ですから」
誇らしげに胸を張るセイバー。
キャスターは呆れたように首を振ったが、その手は自然と大皿の鮭の塩焼きへと伸びていた。
「……ふん。米ばかり詰め込んで、栄養が偏るわよ。ほら、私が焼いた魚も食べなさい。皮の焼き加減を完璧にコントロールしたのだから」
「む……キャスターが焼いた魚ですか」
セイバーは少し警戒するように箸を伸ばし、焦げ目のない綺麗な身を口に運んだ。
咀嚼し、目を丸くする。
「……美味です。火の通りが均一で、魚の脂が損なわれていません」
「と、当然よ。私を誰だと思っているの」
得意げに鼻を鳴らすキャスターの耳の先が、微かに赤らんでいた。
——神話の魔女と、最優の剣士。
本来ならば相容れるはずのない二騎が、湯気の立つ土鍋を囲み、おかずを分け合いながら他愛のない軽口を交わしている。
士郎はその光景を眺めながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
切嗣が亡くなって以来、この屋敷は一人で暮らすには広すぎた。大河や桜が顔を出してくれる時間は賑やかだが、夜になり、引き戸を閉めれば底冷えのする静寂が戻ってくる。
だが、いま目の前にあるのは、失われていたはずの確かな「食卓の団欒」だった。
(……大丈夫だ)
士郎は熱いほうじ茶を口に含み、胸の中でそっと呟いた。
この数日間で、セイバーは共に戦う陣営の証として、自身の力の一端を士郎とキャスターに明かしてくれていた。
彼女が普段振るう『不可視の剣』——それは『
そして何より、その風のヴェールの下には、まだ抜かれていない「真の切り札たる黄金の宝具」が秘められているのだと。
——俺が魔術師として未熟で情報を抜き取られたらたまらないから、真名を開示しないことになったのはちょっぴり悔しかった気持ちもあったが。
無敵の強さを誇るセイバーが前衛に立ち、あらゆる知識と神代魔術で支えてくれるキャスターが後ろにいる。
この二人と力を合わせれば、きっと誰も死なせずに済む。十年前のような地獄を絶対に起こさず、この温かい場所を守り通したまま、聖杯戦争という儀式を乗り越えられるはずだ。
その安堵は、日々の緊張で強張っていた士郎の心を、柔らかく解きほぐしていった。
——だが、その平穏がどれほど脆い砂上の楼閣の上に成り立っているかを、士郎はまだ知らなかった。
夕食の後片付けを終えた頃、キャスターは「さっさと風呂に入って軟膏を塗り、今夜は早く寝なさい」と、半ば力づくで士郎を居間から追い立てた。
湯上がりの身体に薬草の軟膏を塗り込み、自室の布団に横になった士郎だったが、道場での打ち込みの昂ぶりが残っているのか、なかなか寝付くことができなかった。
(……あの二人は、まだ起きてるのか?)
時計の針は深夜十一時を回っている。
見張りを兼ねて居間に残っているであろう二人のために、温かいほうじ茶でも淹れて持っていこうと、士郎は静かに布団を抜け出した。
台所で茶を淹れ、二つの湯呑みを乗せた盆を手にして、足音を忍ばせて暗い廊下を居間へと向かう。
わずかに開いていた引き戸の隙間から、青白い魔力の燐光が漏れていた。
声をかけようと手を伸ばしかけた、その時——居間の内側から、普段の食卓では決して聞かれない、キャスターの氷のように冷え切った声が耳に届いた。
「……あの子が寝静まったから言うけれど。セイバー、あなたの燃費の悪さは、私の最悪の試算すら上回っているわ」
士郎の足が、廊下の板張りの上でピタリと止まった。
引き戸の隙間の向こう、ちゃぶ台の上には冬木市の立体的な地脈図が青く浮かび上がっており、キャスターとセイバーの二騎だけが向かい合って座っていた。
「……私の、魔力消費ですか」
セイバーの低く硬い声が返る。
「ええ。この数日間、あなたの道場稽古と霊基の脈動を精密に計測していたわ。……あなたが最高位の剣士であることは認めるけれど、その身に宿す膨大な魔力炉心は、ただ現界しているだけでも異常なエネルギーを喰らうのよ。これまでの数日間は、私が大気中から集めたマナと、あの子の食事による補給でなんとか帳尻を合わせてきたけれど……それも、実戦が始まっていない今だからこそ保っている誤魔化しにすぎないわ」
キャスターは地脈図の盤面を、冷たい音を立てて指先で叩いた。
「先日あなたが明かした、あの『
キャスターの紫の双眸が、鋭くセイバーを射抜いた。
「その風の鞘を解き放ち、下に隠された『真の宝具』……あなたが切り札と呼ぶその黄金の剣の真名を解放しようものなら、どうなるか分かっているの? 一撃で城塞すら薙ぎ払うほどの極大の魔力消費など、今の細いバイパスと大気中の薄いマナでは到底補填しきれないわ。もし実戦でそれを放てば、士郎の二十七本の回路から限界まで絞り上げたところで焼け石に水……あなたは自前の魔力を瞬時に食い潰して消滅の危機に瀕し、前衛の盾を失って魔力も枯渇したあの子は、敵の前に無防備に晒されて討ち取られる。共倒れよ」
引き戸の外で、士郎は息を呑んだ。
さっきまで胸を満たしていた温かな安堵が、一瞬にして凍りつき、ガラガラと崩れ去っていく。
無敵だと信じていたセイバーの剣が、実戦では魔力の補給が追いつかずに破綻し、切り札を抜けばセイバー自身が消滅しかねない。自分が「大丈夫だ」と思い込んでいた足元は、最初から断崖絶壁の縁だったのだ。
「……私の魔力消費が、陣営の首を絞めているのですね」
居間の中で、セイバーが膝の上で拳を握りしめ、沈痛な声を絞り出す。
「シロウを無防備に晒し、私自身が消滅して盾の役目を果たせなくなるくらいなら、私は風王結界の圧縮風を撃ち出すに留め、黄金の剣の解放は封印して戦うまでです。白兵の技量だけで敵を討ち取ってみせます」
「馬鹿をお言い、騎士様」
キャスターが容赦なく切り捨てた。
「相手は神話の英雄たちよ。最大の切り札を縛ったまま勝てるほど、聖杯戦争は甘くはないわ。あなたが万全に魔力を放出し、いざという時にその宝具を十全に撃ち抜くためのリソースを確保するには……この街の霊脈から、直接魔力を汲み上げるしかないのよ」
キャスターは地脈図の北の端——深山町の北に聳える山を指差した。
「この冬木市で最大の霊脈は、北の円蔵山よ。山上に建つ柳洞寺は、この地方の地脈を束ねる心臓部と言っていいわ。けれど、あの山は霊格が高すぎる上、他陣営の目もある。あそこの深層霊脈に割り込んで安全なバイパスを敷設するには、相応の準備と儀式が必要なの。……もし今夜にも開戦の火蓋が切られたら、到底間に合わないわ」
「……では、どうするつもりだ、キャスター」
セイバーの問いに、キャスターはしばらく沈黙した。
やがて、彼女は紫の瞳を伏せ、吐き捨てるように低く呟いた。
「……あの分からず屋にこの窮状を明かせば、絶対に『誰かを犠牲にするくらいなら自分の命なんていらない』と騒ぎ出すわ。だから、これから私がやることは、あの子には最後まで内緒にしておきなさい」
「内緒に……? 貴様、まさか——」
「手っ取り早い代替案よ。新都の商業ビルや駅前に、私が密かに薄い結界の網を張るわ。あそこに集まる数千人の人間どもの魂から、死なない程度に、ほんの少しずつ精気を吸い上げるの。少しばかり貧血や眩暈を起こして寝込ませるだけで、あなたの宝具を数回撃つだけの純粋魔力が一夜で手に入るわ」
——ドクン、と。
廊下に立つ士郎の心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。
耳を疑った。何を言っているんだ、キャスターは。
居間の中では、セイバーの纏う空気が一気に険しく張り詰めていた。だが、セイバーが拒絶の言葉を口にするよりも早く、キャスターは自嘲するように唇を歪めて言葉を継いだ。
「……そんな目で睨まないでちょうだい、騎士様。あなたもあの子も、綺麗な手をしたまま前だけを見て戦えばいいのよ。裏で泥を被り、街の人間から生気を掠め取る『悪辣な魔女』の役回りなど、私一人で十分だわ。あの子に知られる前に私が処理して、濾過した魔力だけをあなたに流す。……それであの馬鹿な子が死なずに済むなら、安いものでしょう?」
「キャスター、貴様という奴は——!」
セイバーが立ち上がりかけた、まさにその瞬間だった。
——ガラッ!!
荒々しい音を立てて、居間の引き戸が開け放たれた。
「……ッ!?」
キャスターの肩がビクリと跳ね、弾かれたように振り返る。
廊下の暗がりとの境目に、盆を握りしめたまま、血の気の引いた顔で立ち尽くす士郎がいた。
「し、士郎……!? あなた、寝ていたんじゃ……」
動揺に目を見開くキャスター。普段の余裕に満ちた魔女の仮面が剥がれ、隠していた秘密を暴かれた少女のように狼狽えている。
士郎は一歩、居間へと足を踏み入れた。
ちゃぶ台の上に、持っていた盆と湯呑みを置く。
——カツン。
硬い陶器の音が、凍りついた居間に響き渡った。
「……あの子には内緒にしておくって、どういうことだよ、キャスター」
絞り出すような士郎の声。
その胸の奥を裂いていたのは、純粋な怒りだけではなかった。
さっきまで、一緒に湯気の立つ鍋を囲んでいた。出汁の味見をして、魚の焼き加減を自慢して、三人で笑い合っていたはずだ。
痛む身体に清涼な軟膏を渡し、「私の魔力タンクが壊れたら困る」とそっぽを向いていた魔女。
だからこそ——今の立ち聞きで、痛いほど分かってしまったのだ。
目の前の魔女が、なぜ士郎が寝静まるのを待ってから、そんな外道の策を口にしたのか。
彼女は士郎に嫌われたくなかったのだ。士郎の掲げる「誰も傷つけない」という青臭い理想を壊さぬよう、士郎には何一つ知らせず、自分ひとりが裏で泥を被ってでも、士郎の命を繋ぎ止めようとしていたのだ。
(……分かってる。お前が、俺を死なせないために、一人で悪者になろうとしてたことくらい)
喉の奥が焼けるように熱い。
彼女の歪な献身が痛いほど胸に突き刺さるからこそ、士郎の全身の血が、拒絶の悲鳴を上げて逆流していた。
そんな犠牲を、そんな思いやりを、受け取れるはずがない。
誰かの健康や命を踏み台にし、キャスター一人に罪を背負わせて生き延びる自分を認めてしまえば、十年前のあの日から借り物として生きてきた『衛宮士郎』は、内側から完全に壊れてしまう。
「……無関係な街の人間を巻き込むつもりか、キャスター」
士郎が低く問うと、キャスターの顔から先ほどまでの狼狽がスッと消え失せた。
自分の不器用な情を見透かされた羞恥を塗り潰すように、彼女はあえて感情を削ぎ落とした「冷酷な魔女」の仮面を被り直し、傲然と顎を上げた。
「……ええ、聞かれたなら好都合よ。巻き込む? 効率的な兵站の確保と言いなさい。相手はいつ襲ってくるか分からないのよ、坊や」
「死なない程度ならいいとでも思っているのか!? 俺に隠れて他人の命や健康を掠め取って、そんな力で生き残るなんて……そんな真似、絶対に認めない!」
「甘ったれたことを言うんじゃないわよ!」
キャスターの瞳に、激しい苛立ちと焦燥の炎が燃え上がった。
「天秤にかけなさい! あなたの命と、見ず知らずの平民どもの一時的な疲労、どちらが重いと思っているの!? セイバーの切り札を十全に使えなければ、このままではあなたが死ぬのよ!」
「俺の命のために、誰かを犠牲にするくらいなら——最初からそんな力はいらない!」
士郎は叫んでいた。
止まらない。止めてはならない。
胸の奥で、自分を案じてくれた魔女への申し訳なさが悲鳴を上げているのに、吐き出す言葉は刃のように鋭く彼女を拒絶していく。
拳を白くなるほど握りしめ、キャスターを睨みつける。
他人の犠牲の上に成り立つ生存など、絶対に受け入れられない。誰かを踏み台にして生き残るくらいなら、自分が死んだ方がましだ。
その愚直で、歪みきった自己犠牲の刃が、魔女の剥き出しの献身と真っ向から激突する。
互いの視線が火花を散らし、居間の静寂を切り裂いていた。
数日間の平穏の裏に隠されていた、決定的な断絶。
決して交わることのない二つの刃が、冷え切った夜の空気の中に、深い亀裂を刻みつけていた。
気づけば魔法使いの夜の公開まであと2週間ちょっとですね。
皆さんも魔法使いの夜に備えて配信開始した空の境界やHFを見よう!!!!!!
なおお茶の間はNGな模様。