Fate/shelter rain   作:茶碗

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雨宿り

張り詰めた沈黙が、深夜の居間の空気を針のように尖らせていた。

「——取り消せよ、キャスター」

士郎の声は低く、だが鋼のように硬かった。

ちゃぶ台の上に置かれた湯呑みから、白い湯気が頼りなく立ち昇っている。その向こうで対峙する少年の瞳には、一切の妥協を許さない拒絶の光が宿っていた。

「俺に隠れて街の人から精気を奪うなんて、絶対に認めない。」

「……まだそんな甘っちょろいことを言うの、坊や」

キャスターの声音もまた、氷点下まで冷え切っていた。

立ち聞きされた動揺を完全に押し殺し、神代の魔女としての冷徹な仮面が、その美しい貌を覆っている。

「これは聖杯戦争よ。他陣営のマスターが、そんな綺麗事で手加減してくれるとでも思っているの? 大気中の薄いマナとあなたの細い回路だけでは、セイバーの切り札を補填することなど到底できないわ。なぜそんな下らない感傷で、自ら死地に飛び込もうとするの!?」

「下らない感傷じゃない!」

士郎は一歩前に踏み出し、キャスターを真っ直ぐに見据え返した。

「俺は、十年前の火事で生き残った。……周りの人たちがみんな死んで、俺だけが助け出されたんだ。だから、俺は誰も犠牲にしたくない。誰かの命を踏み台にして生き延びるくらいなら——俺自身の命を使い潰した方が、ずっとマシだ!」

その瞬間、キャスターの息が、喉の奥で詰まった。

少年の口から放たれた「使い潰す」という言葉。 己の命を平然と勘定から除外し、他人のために喜んで壊れようとするその狂気。 それが、キャスターの魂の最深部に突き刺さった。

かつて彼女を利用し尽くしたイアソンは、他人の命を踏み台にした。だが、目の前の少年は真逆だ。己の命を平然と投げ捨てようとしている。 己の命を軽んじるその傲慢さは、キャスターが最も忌み嫌う神話の愚者たちと同じだった。

「……反吐が出るわ」

キャスターの唇から、震えるような侮蔑が漏れた。

「自分を愛せない男が、他人を救うですって? ……滑稽ね。傲慢もいいところだわ。死んだ方がマシ? ええ、結構よ。なら今すぐ首を吊りなさい! あなたが死んだ後、残されたセイバーや私がどうなるか、その足りない頭で一度でも考えたことがあるの!?」

「キャスター、それは——」

「キャスター、そこまでにしろ」

二人の間に、硬質な声が割り込んだ。 セイバーが静かに立ち上がり、士郎の前に立ちはだかるようにしてキャスターと対峙していた。 その碧眼には、騎士としての厳格な光が灯っている。

「シロウの物言いは確かに不器用であり、自らの生を軽んじる危うさを孕んでいる。……だが、彼の掲げる誇りは正当だ。無辜の民を犠牲にして得る勝利など、騎士の道にはない。シロウがそれを拒むなら、私もまた、そのような汚れた魔力を受け取ることは断じて拒否する」

「……あなたまで、そんな青臭い騎士道ごっこを振りかざすの?」

キャスターの瞳に、深い絶望と怒りが走った。孤立。 数千年前、神の呪縛に狂わされて祖国を裏切り、弟の手すら汚して捧げ尽くした果てに、最愛の男に裏切られ、人間たちから「裏切りの魔女」と忌み嫌われてすべてを失った、あの冷たい記憶が蘇る。

(……ああ、そうよ。いつだってそうだった)

キャスターの唇が、自嘲の笑みに歪む。

「所詮、人間なんてみんな同じね。都合のいい時だけ私の魔術に縋り付き、いざとなればその手口を卑劣となじり、『裏切りの魔女』と呼んで切り捨てる」

「待てよ、キャスター! 俺はお前を切り捨ててなんかない!」

「黙りなさい、坊や!」

キャスターの鋭い一喝が、居間の障子を震わせた。 神代の紫のローブが、彼女の身体を瞬時に包み直す。

「恩着せがましく拾い上げてくれたけれど、やはりあなたもただの偽善者よ。……いいわ。そんなに清廉潔白に死にたいのなら、勝手に野垂れ死になさい。セイバーとあなたのパスは維持しておいてあげるわ。それが、これまでの食事に対する私の最後の義理よ」

「キャスター!」

士郎が伸ばした手は、空を切った。 キャスターの足元に神代の幾何学模様が浮かび上がった刹那、彼女の身体は青い燐光となって掻き消えた。 空間転移。 後に残されたのは、冷たい冬の隙間風が吹き抜ける、静まり返った居間だけだった。

「……くそっ」

士郎は拳を握りしめ、畳を叩いた。 キャスターの消えた空間には、彼女が直前まで纏っていた微かな薬草の香りと、そして——置き去りにされた彼女の、あまりにも痛々しい孤独の残滓だけが漂っていた。

「シロウ」

セイバーが静かに士郎の肩に手を置いた。

「……追うべきです。彼女の言葉は棘に満ちていましたが、根底にあったのは貴方の身を案じる焦燥でした。彼女は……傷ついています」

「分かってる。最初から、分かってたんだ」

士郎は顔を上げた。その瞳から、迷いは消えていた。

「あいつの過去に何があったのか、俺はまだはっきりとは知らない。でも……あんな顔で一人にさせちゃ駄目だ。飯を食わせて、あったかい布団で寝かせるって、俺が決めたんだから」

士郎は防寒着を掴み、土間へと駆け出した。 外はすでに深夜の闇に沈み、凍てつくような冬の冷気が街を包み込んでいた。

 

冬木の夜風は、針のように冷たかった。

薄暗い深山町の坂道を、士郎は息を荒げながら駆け上がっていた。 背後からは、私服に着替えたセイバーが足音もなく追従してくる。

「シロウ、当てはあるのですか」

「……霊脈だ」

士郎は肩で息を切りながら、夜闇に沈む円蔵山を見上げた。

「あいつはさっき言ってたろ。『この冬木市で最大の霊脈は円蔵山だ』って。それに、自分を魔女だって突き放すような奴が、人の大勢いる新都の繁華街なんかに隠れるとは思えない」

さっき、居間で言い争った時のキャスターの目。 傲慢な言葉の裏で、世界中のすべてを拒絶するように震えていた紫の瞳。 誰にも頼れず、誰にも信じてもらえないと諦めきったあの光を、士郎はよく知っていた。

 

 

石段を一段ずつ踏みしめ、山門をくぐる。 冬の夜の柳洞寺は、静寂の底に沈んでいた。本堂へと続く石畳には、いつの間にか冷たい氷雨が音もなく降り始めている。

そして、その境内の中央——剥き出しの冬空の下に、濡れそぼる紫の影が佇んでいた。

「……追ってきたの。本当に、救いようのない馬鹿ね」

フードを深く被ったキャスターが、ゆっくりと振り返る。 その手には骨のように歪んだ杖が握られ、足元には淡い青光を放つ神代の魔方陣が展開されていた。山全体の霊脈の底から、冷たいマナが彼女の足元へと吸い上げられている。

「キャスター」 セイバーが一歩前に出ようとするのを、士郎は手を伸ばして制した。

「キャスター、帰ろう。冷えるぞ、こんなところで雨に打たれてたら」

「……まだそんな世迷い言を口にするの?」

キャスターの唇が、嘲弄に歪む。だが、その声は微かに震えていた。

「ここは円蔵山の霊脈の中心よ。ここを拠点にして結界を張れば、街中の人間から少しずつ生命力を絞り取ることなんて造作もないわ。あなたをマスターにしておく義理なんて、もうどこにもないのよ。あの粗末な土蔵より、この山門の方が私の工房に相応しいわ」

「嘘をつくな」

士郎は躊躇なく、キャスターの展開する結界の境界線へと足を踏み入れた。 足元で神代文字が激しく明滅し、拒絶の魔力が士郎の足首を打つ。それでも、士郎の足は止まらなかった。

「……何をしているの、下がりなさい! 私の結界に触れれば、あなたの回路など一瞬で弾け飛ぶわよ!」

「嘘だ。さっきから見てるけど、お前、寺の人間から魔力を吸ってないだろ」

キャスターの息が止まった。

士郎は、キャスターに調律された魔術回路を通じ、長年繰り返してきた「構造把握」の感覚を研ぎ澄ませていた。 境内に広がる術式の網目。それは円蔵山の自然なマナを丁寧に濾過して集めているだけで、境内の奥で眠る僧侶たちには、指一本触れていなかった。

「街の人から吸い上げるって息巻いてたくせに、いざとなったら誰も傷つけてない。……お前、最初から誰かを踏み台にする気なんてなかったんじゃないか」

「だ、誰に物を言っているの……! 効率を優先しただけよ! 山のマナを整えるのが先決だったから、人間を後回しにしただけ! 私の本質は『裏切りの魔女』よ! 隙があれば誰も彼も切り捨てる化け物なのよ……!」

キャスターは杖を振り上げ、士郎の足元の石畳へ神罰の雷光——轟雷(ユピテル・ロック)を落として激しく弾き飛ばした。 小石が士郎の頬をかすめ、一筋の血が流れる。 セイバーが息を呑み、剣を構えかけるが、士郎は動かなかった。

 

——嘘だった。

誰よりもその欺瞞を自覚していたのは、他ならぬキャスター自身だった。

アトラム(前のマスター)が子どもを生贄とした魔術道具を見たときも、非効率だと思いながらその行動自体を咎めることは無かった。

それなのに。

数日前、雨の路地裏で拾い上げられたこと。

泥だらけの自分に差し出された、一杯の温かい粕汁。

不器用にエプロンを渡され、共に囲んだ朝夕の食卓の温もり。

そして、ぎこちなくも温かかった、数日間の穏やかな日々の記憶。

己の身を挺してまで他人のために壊れようとする、あの少年の歪な瞳。

(毒気を抜かれた。たかが数日間の施しを受け、回路を繋いだだけの子供に……この私が)

寺の僧侶たちから精気を吸い上げようとした瞬間、少年の「無関係な人を巻き込むな」という拒絶の声が脳裏をよぎり、無意識に術式を逸らしてしまっていた。

人を信じれば裏切られる。心を許せば捨てられる。

骨の髄まで焼き付いたはずの教訓が、あの愚直な少年の温もりに触れるたび、音を立てて融解していく。その自分自身の「弱さ」と「変化」が、何よりも恐ろしかった。

 

「お前が魔女だろうが、過去に何を背負ってようが、俺には関係ない」

士郎は雨に濡れた前髪を払い、一歩、また一歩とキャスターへと近づく。

「俺が怒ったのは、お前が街の人を襲おうとしたからだけじゃない。……お前が、『自分なんてどうなってもいい』って顔をしてたからだ」

「……な、んですって……?」

「俺の命が危ないからって、お前一人で悪者を背負い込んで、汚い役を引き受けようとしただろ。俺を生かすためなら、自分がどれだけ蔑まれてもいいって割り切ってた。……自分を粗末にしてたのは、お前も同じじゃないか!」

少年の真っ直ぐな叫びが、雨の夜気を切り裂いた。

キャスターの胸を、激しい衝撃が貫いた。 図星だった。

自分は悪名高き魔女だから。どうせ誰からも愛されないのだから。汚れるのは自分だけでいい。この愚直な少年を生き残らせるためなら、かつてのように手を血で染めることなど造作もないと、そうやって自分の心を麻痺させていたのだ。

「……お前は、俺を道具にしなかった」

士郎は、キャスターの手の届く距離まで歩み寄っていた。 雨に濡れたキャスターの紫のローブ。その肩は、寒さからか、それとも感情の昂ぶりからか、小さく震えている。

「行き倒れてたところを拾っただけの俺に、正しい魔術のやり方を教えてくれた。セイバーの魔力を肩代わりして、俺の命を守るために自分の霊基を削ってくれた。……そんな奴が、冷酷な化け物なわけないだろ」

「坊や、あなた……何も、分かっていないわ……」

キャスターは力なく首を振った。

紫の瞳から、ポロポロと大粒の雫が零れ落ちる。雨の冷たさとは違う、熱い涙が、その青白い頬を濡らしていく。

「私はね、コルキスの国を裏切って、弟を切り刻んで海に撒いた女なのよ……! 愛した男には捨てられ、子供たちすら自分の手で手にかけて……! 私の名はメディア……神話に名高い『裏切りの魔女』よ! 呪われているのよ、私の存在そのものが! 私と関わった人間は、みんな破滅するの! 『脱落した』と言った前のマスターも、本当は私が……! あなただって……私の傍にいれば、いつか絶対に後悔する……」

何千年もの間、誰にも吐き出せなかった魂の慟哭。

「裏切りの魔女」という冷酷な仮面の下に押し殺されていた、ただの一人の、傷つき壊れた少女の叫び。

氷雨に打たれ、深い青紫の長い髪を濡らして泣き崩れるその姿を見た瞬間——あの夢の光景が、雷光のように重なった。

暗黒の荒海。暴風雨に軋む甲板。

『——なぜ、私を裏切ったの。すべてを捨てて、あなたに捧げたのに……!』

あの夢の中で、骨の髄まで凍えるような雨に打たれながら、引き裂かれそうな声で泣いていた女性。目覚めた自分の頬に、冷たい涙を残していったあの記憶。

(……そうか。あの夢で泣いていたのは、やっぱりお前だったんだな、メディア)

士郎は何も言わず、ただ一歩踏み出し、冷え切ったメディアの両手を自分の温かい両手で包み込んだ。

「……あ」

メディアの全身がビクッと跳ねた。 神代の大魔術を操るその指先は、驚くほど細く、そして凍えるように冷たかった。

「後悔なんてしない。俺が決めたんだ」

士郎は、メディアの濡れた瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「俺は、お前が冷たい雨の中でどれだけ泣いてきたか、夢の中で見たよ。……お前の過去を帳消しにすることはできないかもしれない。でも、これからのお前の居場所なら、俺が作る。裏切られて傷ついたなら、もう二度と裏切られない場所を、あの家に作ればいいだろ」

「士郎……」

「街の人を襲わなくたって、やり方は絶対にある。お前の神代の知恵と、俺の力と、セイバーの剣があれば、誰も犠牲にせずに切り抜けられる道を絶対に探せる。……だから、帰ろう。冷えただろ。帰って温かいお茶を淹れ直して、あったかい布団で休もう」

メディアの喉から、掠れた嗚咽が漏れた。

かつてイアソンに求めて、決して得られなかったもの。 神々の祝福でも、黄金の羊の皮でも、王宮の富でもない。 ただ一人の人間として、自分の存在をまるごと受け入れ、手を握り返してくれる温もり。

「……本当に、馬鹿ね。救いようのない……大馬鹿者だわ、あなたは……」

メディアの握りしめていた杖が、からりと石畳に落ちた。

彼女は士郎の胸元に額を押し当て、子供のように声を上げて泣き崩れた。

士郎は戸惑いながらも、その華奢な背中にそっと手を回し、冷たい雨から庇うように抱き留めた。

少し離れた場所で、セイバーが静かに不可視の剣の気配を消し、夜空を見上げていた。 その口元には、かつての戦場では決して見せることのなかった、柔らかな微笑みが浮かんでいた。

氷雨が上がる頃、円蔵山の霊脈は静まり返り、三つの影は並んで坂道を下り始めた。

繋がれた士郎とメディアのパスから、先ほどまでとは比べ物にならないほど温かく、澄み切った魔力が、二人の魂を深く結び直していくのを、確かに感じていた。

 

円蔵山から戻った翌朝、衛宮邸の台所はいつになく穏やかな活気に包まれていた。

煮干しと昆布で引いた味噌汁の匂い。 まな板の上で、士郎の手にする包丁がトントントンと小気味よいリズムを刻んでいる。

その隣では、キャスターが昨晩の泣きはらした目を微かに伏せがちにしながら、神代の術式で大気から水分と微弱なマナを凝縮し、士郎が研いだばかりの米を炊飯器にセットしていた。

「……士郎」

「ん? どうした」

「昨晩のことは……その、忘れなさい。寒さと疲労で、少し霊核が狂言を起こしていただけよ。……それと、普段は今まで通りキャスターと呼びなさい。外でうっかり真名を漏らしたり、気安く呼んだりしたら、あなたの夕餉に神代の痺れ薬を盛るわ」

「はいはい。分かってるよ、キャスター」

士郎が苦笑混じりに味噌を溶き入れると、キャスターはバツが悪そうにそっぽを向き、エプロンの裾を整えた。 口調こそいつもの強気なものに戻っていたが、その耳朶はほんのりと赤く染まり、士郎との間に流れる空気からは、かつての刺々しい猜疑心が完全に消え失せていた。

居間では、すでにセイバーが姿勢正しく正座して待機していた。

食卓の中央に置かれたのは、焼き鮭、ほうれん草のおひたし、豆腐の味噌汁、そして山盛りの炊きたてご飯。

「いただきます」

三人の声が重なり、朝食が始まる。

セイバーの箸さばきは相変わらず見事で、茶碗の白米が瞬く間に吸い込まれていく。昨晩の衝突と和解を経て、三人で囲む食卓の空気は、歪ながらも一つの「陣営」としての調和を帯び始めていた。

「それで、キャスター。昨晩、円蔵山で掘り起こしてたあの霊脈だけど」

士郎が熱い茶をすすりながら切り出す。

「あそこからどうやって、うちの土蔵まで魔力を繋ぐつもりなんだ?」

キャスターは箸を置き、すっと紫の瞳を細めた。 いたずらっぽく、だが確かな自信をたたえた笑みがその唇に浮かぶ。

「ええ。あなたのその頑固な頭に付き合うと決めたからには、神代の魔女としてのプライドにかけて完璧な水路を設計したわ」

キャスターが卓上に指先を這わせると、青い燐光が走り、冬木の立体的な霊脈図が空中に投影された。

「まず、昨晩私が触れていた円蔵山の深層霊脈は極めて良質よ。人間から精気を吸い上げずとも、あの無垢なマナを直接汲み上げれば、セイバーの燃費問題の大半はカバーできる」

「でも、あそこは柳洞寺の敷地内だろ? あそこの連中に迷惑はかけられないぞ」

「分かっているわよ。だから、山そのものを陣地にするのではなく、昨晩のうちに打ち込んでおいた山頂の基点から衛宮邸の土蔵へ向けて、不可視の霊脈パイプラインを一本通すの。街の地下水脈に魔力の水路を偽装して引き込むようなものね。これなら誰にも気づかれないし、寺の僧侶たちにも一切の害はないわ」

——もちろん効率は落ちるけど、なんて不満そうに言っているが、表情は晴れやかそうだ。

セイバーが感心したように頷く。

「なるほど……神代の空間把握と水脈操作の技術か。なかなかの離れ業だ、キャスター」

「当然よ。私を誰だと思っているの、騎士様?」

キャスターはふふんと胸を張った後、今度は士郎を指差した。

「そして、もう一つの課題は——あなた自身よ、士郎」

「俺?」

「そう。この数日間、毎晩土蔵で二十七本の回路のならし運転を続けてきたおかげで、ようやく魔力の循環自体は安定してきたわ。だから今日からは、基礎訓練を終わらせて実戦用の段階へ引き上げるわよ」

キャスターは立ち上がり、士郎の背後に回ると、その首筋のパスを指先で軽く撫でた。 冷たく澄んだ魔力が走り、士郎の背骨が心地よく震える。

「言っておくけれど、あなたに敵サーヴァントを打ち倒せるような大魔術を期待してはいないわ。三流魔術師がどれほど背伸びしたところで、英霊の前では紙屑同然よ。あなたが目指すべきはただ一つ——奇襲された際に即死を免れ、私やセイバーが駆けつけるまでの数秒間を泥臭く稼ぐ、自衛と逃走の技術よ」

「あくまでも時間稼ぎか」

「そうよ。これまで反復させてきた基礎の『強化』と、先日見せたあの刃物の『投影』。それらを座禅の上ではなく、英霊の殺気の只中で即座に発動できるようにするの。敵の間合いを一瞬で外すための脚力の強化、そして手元に遅滞なく自衛用の刃を喚び出す即応訓練を叩き込むわ。夕方までに土蔵の工房化を終わらせて、夜はみっちり実戦形式の手ほどきを受けてもらうわよ、坊や」

妖艶に微笑むキャスターに、士郎は思わず生唾を飲み込んだ。 だが、その瞳には恐怖ではなく、確かな前向きな闘志が宿っていた。

「ああ、望むところだ。いくらでも鍛えてくれ」

「ふふ、いい返事ね。セイバー、あなたもよ。士郎の身体の使い方は素人同然だわ。午後はあなたが道場で、白兵戦の基礎を叩き込みなさい」

「承知した。シロウの気概には見合うものがある。私の剣技、余すところなく教え込もう」

セイバーが力強く頷き、士郎は「う、手加減してくれよ……」と頭を抱えた。 そんな士郎の困り顔を見て、キャスターが小さく吹き出し、セイバーが微かに目を細める。

開戦前の、嵐の前の静けさ。 だが、確実に迫り来る戦火に向けて、衛宮邸の「奇妙な三人」の歯車は、完璧な噛み合わせを見せて回り始めていた。

 

昼下がりの衛宮邸は、ふたつの異なる空気で満たされていた。

前半の時間は、敷地の奥にある道場だった。冷え切った板張りの床に、素足で立つ士郎とセイバー。

数日間の稽古を経て、士郎の足腰には僅かながらの粘りが生まれていた。だが、昨日までの基本稽古とは打って変わり、今午後のセイバーの打ち込みには、目前に迫る開戦を見据えた実践の気迫が籠もっていた。

「昨日までは身体の軸を作るための指導でした。ですが、ここからは英霊の速度に喰らいつくための実践です。一撃目を木刀で受けてはなりません。初動の殺気を捉え、半身を躱して受け流しなさい!」

セイバーの構える木剣から、目に見えない風圧が爆ぜる。

踏み込み、鋭く空を裂く一撃。

士郎は歯を食いしばり、視覚ではなく肌を刺す殺気の方向へと身体を傾けた。 刹那、耳朶を薙ぎ払う烈風。 切っ先が皮一枚のところで頬をかすめ、士郎は木刀の腹を滑らせるようにして、その凄まじい勢いを外側へと逸らした。

「……っ!?」

「見事です。相手の力と正面からぶつかるのではなく、軌道を僅かに狂わせる。今の反応、身体が実戦の間合いを覚え始めていますよ」

セイバーが木剣を引き、わずかに表情を緩めた。

「はっ……はっ……死ぬかと思ったぞ……!」

荒い息を吐きながら、士郎は汗を拭って苦笑した。

道場の縁側に腰掛け、温かいほうじ茶をすすりながらその光景を眺めていたキャスターが、ふっと口元を緩める。

「……随分と喰らいつけるようになったじゃない、坊や。見直してあげてもいいわよ」

「キャスター」

セイバーが木剣を収め、息を整えながら振り返る。

「ふふ、頑固なだけが坊やの取り柄よ」

キャスターは湯呑みを置くとすっと立ち上がった。

「白兵の打ち込みはそのくらいにしておきなさい。身体が温まったところで、本番の魔術鍛錬に移るわよ。——土蔵へいらっしゃい、士郎」

 

夕暮れが迫り、土蔵の中はすでに昼間の面影を失っていた。

床に描かれた銀と紫の神代幾何学陣は、円蔵山の深層霊脈と見えないパイプラインで直結され、土蔵全体がまるで生き物のようにかすかな脈動音を立てている。冷え切っていたはずの空気は澄み渡り、息を吸い込むだけで肺の奥が清涼な熱を帯びるようだった。

「座りなさい」

キャスターの指示に従い、士郎は陣の中心に正座した。

キャスターは士郎の正面に膝をつき、その細い指先を士郎の鳩尾と額に同時に当てた。

「いい、士郎。昨日までは、開通させたばかりの二十七本の回路を傷めないよう、静止した状態で器物に魔力を通す基礎訓練に留めていたわ。けれど、もう回路の道は十分に馴染んだはずよ。ここからは、その魔力をあなた自身の肉体へ直接走らせるわ」

「……ああ」

「まずは脚力よ。太腿から足首の腱に魔力を一気に巡らせなさい。相手は人外の英霊よ。倒そうなどと考えるんじゃないわ。逃げること、躱すことだけを考えなさい。一歩の跳躍で敵の間合いの外へ逃げられるだけの瞬発力を、身体に覚えさせるのよ」

「逃げるための、脚力……よし!」

士郎は立ち上がり、内に意識を沈めた。

回路の芯に火を灯す。この数日間の反復で身体に染み込み始めた滑らかな魔力の奔流を、キャスターが指先で首筋のパスから支え、流量を精密に制御してくれる。

二十七本の回路から、澄んだ魔力が太腿と足首の腱へと一気に流れ込んだ。

筋肉が鋼のように引き締まり、大地の反発力がそのまま跳躍力へと変換される感覚。

試しに床を強く蹴り出すと、普段の数倍の身軽さで土蔵の梁の直前まで身体が跳ね上がった。

「うわっ……!?」

「無様ね。着地まで神経を集中させなさい」

呆れつつも受け止めるキャスター。士郎が息を整えて着地すると、キャスターは腕を組んで言った。

「脚力の強化は今の感覚を忘れないことね。……そして、次は本番よ」

「本番?」

「刃物の具現化よ。昨日までは回路の負荷を考えて、あの薄い果物ナイフや日用品で精度を確かめるだけにしていたけれど、実戦で敵の初撃を逸らす盾にするなら、相応の厚みと強度を持った鋼が必要よ」

キャスターは土蔵の棚から、先日ガラクタを整理した際に見つけておいた古びた木箱を取り出した。その中から取り出されたのは、飾り気のない一本の無銘の鋼短剣だった。

「いい、士郎。深く考える必要はないわ。いつも通り、この剣の構造を隅々まで把握して……無駄な魔力消費を極限まで削ぎ落とし、一瞬で掌に定着させなさい」

「……ああ。この短剣の形を、完全に頭に叩き込めばいいんだな」

士郎は渡された短剣を両手で一度強く握りしめ、長年培ってきた構造把握の知覚を走らせてから、短剣を木箱の上へ戻し、静かに目を閉じた。

——投影(トレース)、開始(オン)。

脳裏に浮かぶのは、今その掌で触れ、刃の芯から隅々まで構造を読み取った鋼の短剣。

芯まで詰まった鉄の密度、刃の研ぎ澄まされた角度、鋼鉄の組成。

パチッ、と青白い燐光が士郎の右手に収束した。

刹那——士郎の掌に、ずっしりとした冷たい金属の重みが落ちてきた。

目を開けると、そこには木箱の上の実物と寸分違わぬ、刃筋の通った無銘の短剣が確かに握られていた。

「……できた」

キャスターは歩み寄り、士郎の握る短剣の刀身を指先で弾いた。

澄んだ硬質な音が鳴る。

「……合格点ね。前回のナイフより構成速度も上がっているわ。……もっとも、これだけで英霊の刃を受け止められるなどと思わないことね」

「え?」

「当たり前でしょう。いくら内部の密度まで本物と同じに再現できたところで、元が神秘のかけらもないただの鋼よ。サーヴァントの振るう武器の前にただの鉄塊を差し出したところで、軌道すら逸らせず豆腐のように刀身ごと両断されて終わりだわ」

キャスターは呆れたように息を吐くと、士郎の握る短剣の峰をツンと指先で突いた。

「そこで、あなたが毎晩バカみたいに繰り返してきた『強化』の出番よ。投影した時点で、その短剣の内部構造はすでにあなたの頭の中に完璧に入っているはずね? なら、掌に具現化させたその瞬間、回路の魔力を止めずにそのまま刀身の組成へと叩き込みなさい」

「投影した短剣に、重ねて『強化』を施すのか……?」

「ええ。後の維持など考えなくていいわ。刃が自壊する寸前のギリギリまで魔力を充填して、使い捨ての盾に仕立て上げなさい」

「使い捨ての盾……分かった、やってみる!」

士郎は握りしめた短剣へと再び意識を集中させた。

二十七本の回路からもう一押し、澄んだ魔力を右手の短剣へと流し込む。

(——構成材質、補強)

(不思議だ、今まであんなに苦労した強化魔術だけど……この剣は、まるで自分の手足のように魔力が馴染んでいく)

ピシッ、と硬質な音が鳴り、鈍色の刀身に青白い魔力の紋様が血管のように浮かび上がった。

「……成功みたいだ。これでどうだ?キャスター」

「……いいわ。それだけ魔力を練り上げておけば、いざというとき、刃さえ合わせられれば初撃の軌道を狂わせることくらいはできるはずよ」

「軌道を狂わせるだけ、か」

キャスターは肩をすくめ、鋭い目で士郎に釘を刺した。

「相手は人外の英雄よ。強化を施したところで、そんな安物の短剣、サーヴァントの刃と激突すれば一撃で粉微塵にへし折られるわ。……奇襲の初撃を防げるかどうかも紙一重よ。二撃目を受けようなどとは絶対に考えないことねけれど——その一撃目が砕け散る一瞬の火花で首を落とされるのを免れれば、私かセイバーが敵の心臓を抉り取ってあげられる。いいこと、坊や。あなたの役割は勝つことじゃない。『生き残ること』よ」

「……ああ。分かってるよ」

士郎が張り詰めていた魔力を解くと、過負荷のかかっていた短剣はパリンと乾いた音を立て、青い霧となって消滅した。それを見て、キャスターはフッと満足そうに口元を綻ばせた。

「まったく、一からわざわざ再現した上に強化まで施すなんて、普通なら無駄骨だと笑われるのがオチでしょうけれど……間違いなく、これがあなたの武器よ」

その額に微かに浮かんだ汗を見て、士郎は思わず手を伸ばし、自らの袖口でその汗をそっと拭った。

「……っ!?」

キャスターの身体が硬直し、紫の瞳が丸くなる。

「ありがとな、キャスター。お前のおかげで、少しだけ自分の力に自信が持てたよ」

「な……な、何をいきなり……! 気安く私の顔に触れないで!」

キャスターはパッと飛び退き、顔を真っ赤にして叫んだ。 年上の大魔女の威厳などどこへやら、不意打ちのスキンシップに完全に狼狽えている。

「あ、悪かった。汗かいてたから、つい」

「ば、馬鹿! 大馬鹿者! まったく、無自覚にそういう真似をするんじゃないわよ……! もういいわ、今日の修行はおしまい! 夕飯の支度をしなさい、夕飯の!」

背を向け、バタバタと早足で土蔵を出ていくキャスター。その後ろ姿を見送りながら、士郎は苦笑しつつも、自身の右手を静かに見つめた。

掌に残る、確かな魔力の拍動。

昨日まで抱いていたような、二人に頼り切った漠然とした安心はもうない。これから始まる戦いがどれほど過酷で、自分の力がどれほどちっぽけかも痛いほど分かった。

それでも——雨の中で触れたあの冷たい手を二度と泣かせないために、自分の足で生き残り、二人と共に最後まで走り抜く。 土蔵の澄んだ空気の中で、士郎は迫り来る戦いへ向けて静かに拳を握りしめた。

 




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