この刃、未だ名を持たず   作:テスト中

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黒い鞘が、熱を持っていた。

 

握った柄から、骨の芯まで熱が這い上がってくる。

何年ものあいだ、どれだけ引いても指一本分も動かなかった刃が、鞘の内側で低く唸っている。

鞘口のすき間から赤い光が細く漏れて、足元の地面を照らしていた。

 

すぐ後ろで、誰かが荒い息をついていた。

振り返らなくてもわかる。

もう立ち上がる力も残っていない人間の息だ。

 

『……問うぞ、小童』

 

頭の奥で、聞き慣れた声が響いた。

 

『お主は、何者じゃ』

 

一度、深く息を吸う。

十二の年、焼け跡で泣きわめき自分に絶望したあの日から、ずっと言えずにきた言葉がある。

 

何十万回と刀を振っても、喉の奥で詰まったままだった言葉だ。

 

今なら、言える。

 

「――俺は、この世の弱き者すべての刀だ」

 

鞘の内で、刃が鳴った。

 

『小童、それでいい』

 

その声が響いた途端、鞘の内の唸りが、ぴたりと止んだ。

刃の内の火が、次の言葉を待って息をひそめている。

 

そう、感じた。

 

 

 

『ならば、聞け。この火の名は――』

 

 

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

 

 

 

火傷というものを、この体で初めて知ったのは、十二の年のことだ。

 

前の人生でなら、鍋のふちに指を当てたことくらい何度かあったのだろう。ただ、そういう細かいことはもう覚えていない。覚えているのは、生まれ直したこの世界で、俺が十二になるまで一度も火に焼かれなかったということだけだ。

 

焼けた鉄に触れても、炉の火の粉を浴びても、皮膚がうっすら赤くなるだけで、水ぶくれひとつできなかった。それを知っている数少ない大人たちは、気味悪がったり感心したりしたが、当の俺は、鍛冶屋の息子には便利な体だと、のんきに構えていた。

 

これは、その俺が初めて火に焼かれた日の話になる。

 

◇

 

甲龍歴(こうりゅうれき)四一七年。アスラ王国フィットア領、城塞都市(じょうさいとし)ロア。

 

その裏通りの一角に、親父の鍛冶場はある。表の大通りのように馬車が行き交うこともなく、聞こえてくるのは向かいのパン屋の窯の音と、どこかの家の子供の泣き声くらいのものだ。表通りの店に比べればずいぶん狭いが、親子二人で鉄を打つには十分な広さだった。

 

母親は、俺が三つのときに流行り病で死んだ。それからはずっと、親父と二人きりで暮らしている。

 

鍛冶場の炉は、朝いちばんに火を入れても、昼が近くなるまで温度が上がりきらない。鞴(ふいご)を踏むたびに、炉の奥で炭が赤から橙へと色を変え、炭のはぜる乾いた音と、焦げた鉄の匂いが土間いっぱいに広がっていく。

 

その日の俺は、炉の番を親父に任せて、土間の隅で砥石に向かっていた。研ぎ水を張った桶に、自分の顔が映っている。親父譲りの黒い髪と、日に焼けた細い顔。背は同い年の子供と変わらないが、鎚を振りつづけてきたせいで、腕だけは妙に太い。

 

「レン。そいつはもう上がりか」

 

鉄床(かなとこ)の向こうから、親父が顎で俺の手元を指した。

 

親父のヘルマンは、戸口の梁に頭をぶつけそうなほど背の高い男だ。口数が少なく、用がなければ一日じゅう黙って鎚を振っている。そのぶん、口を開いたときは用件しか言わない。上がりか、と聞かれたら、仕上がったなら見せろという意味だ。俺の口数が少ないのも、たぶんこの親父に似たのだろう。

 

「あとは研ぎだけ。柄には樫を巻いた」

 

渡したのは、三か月かけて俺が初めてひとりで打った刃物だった。刃渡りは前腕と同じくらいで、片側にだけ刃がついていて、刃先にかけてわずかに反りがある。

 

親父は窓から入る光に刃をかざし、刃先から峰までをゆっくりと目でなぞった。

 

「剣でも包丁でもねえな。両刃で打てと言ったはずだが」

 

「打ったよ。でも、両側に刃をつけようとしても、叩いているうちに鋼が反って、片側にしか刃が残らないんだ。何度打ち直しても、最後はこの形になる」

 

「鋼のせいにするな。腕のせいだ」

 

「わかってる」

 

「わかってる奴は、こういう形にはしねえ」

 

身もふたもない言い方だったが、親父は刃を俺に戻す前に、指の腹で刃の背をひと撫でした。それが親父なりの合格の印だということは、十二年も一緒に暮らしていればわかる。わかるようになるまでに、だいたい十年かかった。いずれはこの鍛冶場を継ぐつもりでいる俺にとって、その一撫では何よりの褒め言葉だった。戻ってきた柄のぬくもりに触れていると、自分の中にあるよそ者の記憶まで、ようやくこの土間に馴染んだような気がした。

 

「銘は切ったのか」

 

「茎(なかご)に。柄を巻く前に」

 

銘というのは、作った者の名前を刃に刻むことだ。俺はそれを、柄の中に隠れる刃の根元、茎と呼ばれる部分に刻んでおいた。柄を巻いた今では、外からは見えない。

 

「なんて切った」

 

「名前だよ。レンって」

 

「初めて打ったもんに自分の名前か。一丁前だな」

 

親父は鼻で短く笑った。からかうような笑い方だったが、刃を眺める目つきは、いつもより少しだけ柔らかかった。

 

レンという名前は、この親父がつけた。このあたりでは珍しくもない名前だが、前の人生でも、俺は同じ響きで呼ばれていた。

 

久我蓮(くがれん)。日本という国で、コンビニの弁当を電子レンジで温めるくらいしか火を使わない暮らしをしていた男だ。どうやって死んだのかは思い出せない。気がついたときにはこの裏通りで産声を上げていて、また「レン」と呼ばれていた。

 

偶然にしては、できすぎている。だから茎には、こちらの文字で「レン」と刻んだあと、その下にもうひとつ、この世界の誰にも読めない字で「蓮」と刻んである。親父には話していない。話したところで、読めない字を彫るなと言われるのが落ちだ。

 

親父は鉄床に向き直ると、注文の荷車に使う鋲(びょう)を打ちはじめた。炉から引き出したばかりの鋲はまだ赤く焼けていて、鎚が落ちるたびに、甲高い音と一緒に細かな火の粉が散った。

 

何度目かの鎚が当たったとき、その鋲がひとつ、鉄床のふちから跳ねた。鋲は土間を転がって、ちょうど俺の足元で止まった。

 

俺は砥石から手を離して、それを素手で拾い上げた。指先がほんのり温かい。焼けた鉄を握ったときの感触は、いつもこの程度のものだった。

 

「ほら」

 

鉄床の上に戻してやると、親父は鎚を振り上げた格好のまま、じろりと俺を見た。

 

「……人前でそれをやるなと言ってるだろうが」

 

「人前じゃない。親父しかいない」

 

「俺の前でもやるな。心臓に悪い」

 

開いた手のひらは、うっすらと赤くなっているだけだった。水ぶくれどころか、痛みもない。

 

六つのとき、俺が同じことをしたのを初めて見た親父は、真っ青になって俺を治癒魔術師のところへ担いでいった。治癒魔術師は首をひねるばかりで、理由は誰にもわからなかった。それ以来、親父はこの小言を、朝の挨拶と同じくらいの回数で繰り返している。

 

鋲を戻して砥石の前へ帰るとき、炉の前を横切った。そのとき炉の炎が、風もないのに、わずかに俺のほうへ傾いた。

 

振り上げられていた親父の鎚が、宙で止まった。打たれるはずだった鋲が、鉄床の上で、赤からくすんだ灰色へと冷めていく。

 

親父はしばらく炉の火を見ていたが、やがて、鉄床に目を落としたまま口を開いた。

 

「……お前、本当に魔術は使えねえんだよな」

 

「使えないよ。知ってるだろ」

 

「そうか」

 

親父は炉に炭を足しながら、少し間を置いて続けた。

 

「お屋敷の坊主の話、聞いたか。エリスお嬢様の家庭教師だ」

 

「詠唱しないで魔術を使うっていう?」

 

「ああ。お前より年下だってのにな」

 

この町を治めるボレアス・グレイラット家のお屋敷には、領主様の孫娘のエリスお嬢様に勉強を教えている、子供の家庭教師がいる。名前はたしかルーデウスといって、ロアの子供なら一度はその噂を耳にしたことがあった。

 

「俺は詠唱しても、何も出なかったけどな」

 

「まだ根に持ってんのか」

 

「根に持ってるわけじゃない。返ってこなかった銅貨の半分が惜しいだけだ」

 

二年前、十歳の誕生日に、俺は小遣いをはたいて、近所に住む元冒険者の魔術師から初級の火魔術の詠唱を教わった。一言も間違えずに唱えたのに、突き出した手のひらからは火の粉ひとつ出なかった。三日通って三日とも同じで、魔術師は首をかしげながら、払った銅貨を半分だけ返してくれた。

 

【詠唱は合ってる。こんなのは初めて見た】

 

返された銅貨と一緒に、その言葉もよく覚えている。

 

「魔術が使えねえからって、鉄が打てねえわけじゃねえ」

 

親父はそれだけ言うと、冷めかけた鋲を炉に戻し、また鎚を振りはじめた。慰めのつもりなのかどうかは、背中を見ていてもわからない。ただ、その日の鎚の音は、いつもより軽く聞こえた。

 

魔術は使えないのに、火には焼かれない。俺が自分について知っていることは、そのくらいしかなかった。

 

表の通りが騒がしくなったのは、研ぎを再開してしばらく経ったころだった。

 

「レン、ちょっと来い」

 

戸口に立った親父が、空を見上げたまま俺を呼んだ。研ぎかけの刃を手にしたまま表へ出ると、薄暗い鍛冶場に慣れた目に昼の光がまぶしくて、俺は思わず目を細めた。

 

ロアの空には、いつの頃からか、赤い球のようなものが浮かんでいる。最初のうちは町じゅうが騒いだものの、何も起きないまま日が過ぎるうちに、誰もいちいち見上げなくなっていた。

 

その赤い球の周りに、今日は見たこともない雲が渦を巻いていた。厚く黒ずんだ雲が、赤い球を中心にして、ゆっくりと回っている。

 

いつの間にか、風が止んでいた。どこかの家の犬が、さっきから吠えつづけている。腕の産毛が逆立って、肌が細い針で撫でられているようにぴりぴりした。

 

向かいのパン屋のおかみさんも、粉だらけの手を腰に当てて、同じほうを見上げていた。

 

「なんだろうね、あれ。お屋敷の魔術師さまなら、何かわかるのかね」

 

「さあな。俺たちにわからねえことは、だいたいお屋敷にもわからねえ」

 

「ヘルマンさん、あんたはまた、そういうことを言う」

 

おかみさんと親父のやりとりを聞きながら、俺は手の中の刃を握り直していた。

 

なぜそうしたのかは、自分でも説明できない。ただ、渦を巻く雲の真ん中の赤い球を見上げていると、腹の底のあたりが、炉の前に立ったときのようにじわりと温かくなった。

 

おかみさんが何か言い返そうとしたとき、赤い球にひびが入った。

 

割れた球の中から、一条の光がまっすぐ地面へ落ちた。それが地面に届いたところから白い光が噴き上がり、波のように通りへ押し寄せてくる。向かいの家の屋根も、その先の城壁も、光に触れた端から見えなくなっていった。

 

「レン、中に入れ!」

 

おかみさんの悲鳴に重なって、親父の怒鳴り声が聞こえた。節くれだった大きな手が俺の腕をつかみ、店の中へ引き戻そうとする。

 

その声と手の感触が、俺がロアで覚えている最後のものになった。

 

◇

 

頬に張りついた湿った土の冷たさで、目が覚めた。

 

体を起こすと、そこは針葉樹の森だった。見上げた空は低い灰色で、吐いた息が白い。鍛冶場の熱で汗をかいていたはずの体から、濡れた前掛けがどんどん体温を奪っていき、歯の根が合わなくなってくる。

 

「親父? ……親父!」

 

呼んだ声は木の幹のあいだに吸いこまれ、どこからも返ってこなかった。

 

石畳もパン屋も炉の煙もない。あるのは湿った土と、右手に握ったままの刃だけだった。よほど強く握っていたのか、指は柄の形に固まっていて、開こうとするとじんと痛む。

 

左の腕には、親父につかまれた跡が、まだ赤く残っていた。指の形が、四本並んでいる。そっと触れると、皮膚の下でまだ少し熱を持っていた。ほんの少し前まで、ここに親父の手があったのだ。

 

「どこだよ、ここ……」

 

口に出してみても、答えてくれる人はいない。ロアの近くに、こんな針葉樹ばかりの森はなかった。

 

十二歳の子供にしては、取り乱さなかったほうだと思う。実際のところは、何が起きたのか頭が追いつかず、怖いと感じるところまで考えが進まなかっただけだ。

 

【迷ったら水のある場所を探せ。人は川沿いに村を作るもんだ】

 

いつだったか、親父がそう言っていた。用件しか言わない男の数少ない雑談が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 

俺は耳を澄ませて沢の音を探し、そちらへ向かって斜面を下りはじめた。

 

背後で枝の折れる音がしたのは、その途中だった。

 

振り返ると、木の間に泥色の影がいくつも立っていた。狼に似ているが、肩の高さが俺の胸まであり、口からはみ出した牙は親指ほどの太さがある。一頭や二頭ではなかった。茂みの奥でも、同じ色の影が動いている。低い唸り声が、地面を伝って足の裏にまで響いてきた。

 

逃げなければと頭ではわかっているのに、膝ががくがくと震えるばかりで、足の裏が湿った土に縫いつけられたように動かない。

 

先頭の一頭が、ぐっと身を低くした。その動きを見た瞬間、縫いつけられていた足が、考えるより先に地面を蹴っていた。斜面を転がるように駆け下り、木の根に足を取られて膝をつき、また立ち上がる。横から飛びかかってきた一頭に闇雲に刃を振ったが、毛皮の表面を裂いただけで、狼はすぐに体勢を立て直した。三か月かけて打ったはずの鋼が、獣の一頭すら退けてくれない。

 

次の瞬間、左のふくらはぎに焼けるような痛みが走った。別の一頭が足に食らいつき、牙が肉に沈んでいく。骨がきしむ嫌な音がして、そのまま地面に引き倒されると、顔のすぐ上で、生臭い息を吐く口が大きく開いた。

 

このまま喉を噛み切られるのだと理解した瞬間、腹の底で何かが熱を持った。

 

ロアで赤い球を見上げたときの、あのじわりとした温かさとは比べものにならない。炉に鞴で風を送りこんだときのように、熱は一気にふくれあがって胸を通り、右腕を駆け上がって、握った刃の中へ流れこんでいく。鋼が内側から赤く光り、そして、刃から炎が噴き出した。

 

炉の火とは、色がまるで違った。橙ではなく、白に近い黄色をしている。噴き出した瞬間には音もなかったのに、すぐに地面の底から響くような低い唸りに変わり、周りの空気がゆらゆらと歪んで見えた。

 

炎は、俺が振るより先に目の前の狼の頭を呑みこんだ。悲鳴を上げる暇もなかった。泥色の毛皮が黒く縮み、崩れて灰になる。火は地面を舐めるように走って次の狼を呑み、その次を呑み、針葉樹の幹を駆け上がって、頭の上で葉をぱちぱちとはじけさせていく。足元の苔は火が届く前に茶色く縮れ、少し離れた沢のほうからは、白い湯気が立ちのぼりはじめていた。

 

狼の群れが灰に変わるまで、ほんの数呼吸しかかからなかった。

 

本当に恐ろしかったのは、そのあとだ。狼がいなくなっても、炎は止まらなかった。

 

「止まれ……止まれって!」

 

何度叫んでも、刃を地面に突き立てても、腕を引いても、炎は俺の中から吸い出されていく。柄から手を離そうとしても、指が張りついたように動かない。体の芯の熱は、内臓を素手でつかまれているような痛みに変わり、袖が焦げて、その端から移った火が腕の皮膚をじりじりと焼いた。

 

十二年のあいだ一度も俺を焼かなかった火が、俺の腕を焼いていた。

 

このままでは森ごと焼ける。俺も、その真ん中で一緒に焼け死ぬ。

 

そのとき、頭の内側に、低い声が響いた。

 

『――騒ぐでない、小童』

 

耳から聞こえた声ではなかった。頭の奥で、直接鳴ったような声だった。しわがれた年寄りの声なのに、ひどく重い。その一言だけで、喉まで出かかっていた悲鳴が引っこんだ。

 

不思議なことに、怖くはなかった。鍛冶場で親父に怒鳴られたときと同じで、背筋がひとりでに伸びた。振り返っても、燃える木と煙のほかには誰もいない。

 

『火を恐れて放り出そうとする者に、火が従うはずがなかろう。息を吐け。刃を握り直せ。それは、お主が打った刃であろうが』

 

握り直せと言われても、どう握ればいいのか見当もつかなかった。柄に張りついた指はもう熱さしか感じず、少しでも力の入れ方を間違えれば、そこからまた炎が噴き上がりそうだった。

 

そのとき、別の声を思い出した。

 

【力むな、レン。鎚は小指と薬指で握れ。腕で振るんじゃねえ。肩の力を抜いて、鎚の重さに任せろ】

 

七つで初めて鎚を持たされた日から、何百回も言われてきた言葉だった。鉄床の向こうから手を伸ばして、俺の手首をつかみ、握りを直してくれた。その手の感触までが、はっきりとよみがえってくる。光に呑まれる直前、俺の腕をつかんだのと、同じ手だ。

 

焼けた空気を、肺が空になるまで吐ききった。張りついた指に、今度は自分から力をこめる。小指と薬指だけで柄を握り、親指と人差し指は添えるだけにする。それから、肩の力をゆっくりと抜いていく。

 

力を抜きかけたところで、刃の根元から火柱が噴き上がった。焦げ残っていた右の袖が一瞬で燃え落ち、腕の皮膚が裂けるように痛む。思わず指に力がこもりそうになった。

 

『それでよい。そのまま、握っておれ』

 

声は、少しも急かさなかった。

 

俺は奥歯を噛みしめ、親父の手の感触だけを思い浮かべながら、指の力を変えなかった。一呼吸、二呼吸。腕の痛みが三度目に脈打ったとき、吸い出されるばかりだった炎の流れが、刃の中でふっと止まった。

 

刃の赤い光がゆっくりと暗くなり、地面を走っていた火が、刃のほうへ引き返してくる。周りの木々を包んでいた炎が細くなり、最後のひと筋が鋼の中へ吸いこまれるように消えたとき、俺は膝から崩れ落ちていた。

 

◇

 

俺を中心にして、森がまるく焼けていた。

 

黒く焦げた幹が何本も立ち尽くし、足元に積もった白っぽい灰の中で、ところどころ赤い熾火(おきび)がくすぶっている。狼の姿はどこにもなかった。袖のなくなった右腕には、まだらな火傷が広がっていた。皮膚がふくれて、水ぶくれになっている。

 

これが、この体で初めて知った火傷だった。

 

息が落ち着いてくると、さっきの声のことが頭に引っかかった。焼け跡を見回しても、人の気配はどこにもない。あの光に呑まれたときに頭のどこかを打ったのかと、俺はこめかみを指で押さえた。

 

「……あんた、誰だ」

 

誰もいない焼け跡に向かって聞くと、少しの間を置いて、あの声が頭の奥で低く響いた。

 

『名を問うには早い』

 

返ってきたのは、それだけだった。

 

「早いって、なんだよ。人の頭の中で勝手にしゃべっておいて、名前も言えないのか」

 

返事はなかった。

 

「いつからいたんだ。生まれたときからか。それとも、さっきの光のせいか」

 

熾火のはぜる小さな音だけが、焼け跡に響いていた。

 

俺は灰の上に座りこんだまま、膝の上の刃をにらみつけた。声がこの刃から聞こえてくるわけではないとわかっていても、ほかに苛立ちをぶつける先がなかった。

 

「この火のこと、知ってるんだろ。俺は魔術なんか使えないんだ。詠唱しても火の粉ひとつ出なかったのに、なんで刃から火が出る。十二年も俺を焼かなかった火に、なんで今日になって焼かれたんだ」

 

声は、やはり答えなかった。息を吸うたびに、水ぶくれになった右腕の皮膚がひきつれて痛んだ。左腕に残っていたはずの親父の指の跡は、もうどこにあるのかもわからない。

 

「親父はどうなった。ロアは。あんた、何か知ってるのか」

 

焦げた幹のあいだに、俺の声だけが跳ね返って消えていく。

 

「……俺がここにいるのは、あんたのせいか」

 

自分の口から出た声が、ひどく低く聞こえた。

 

「この森に飛ばされたのも、ロアで生まれ直したのも、あんたが何かしたからなのか。前の人生で死んだのも、そうなのか」

 

返事はない。

 

膝の上で握った拳が、震えはじめた。

 

「答えてくれ。……俺の元の家族は、どうなったんだ」

 

口に出した途端、喉の奥で、何かが切れた。

 

前の人生の俺には、田舎に両親がいた。ひとり暮らしの部屋には、週に一度、母親から電話がかかってきた。ちゃんと食べているのか、たまには帰ってこい。毎回同じことしか言わない電話が面倒で、三回に一回しか出なかった。最後に出たのがいつだったのかも、もう思い出せない。

 

俺が死んだと知らされたとき、あの人はどんな顔をしたのか。電話に出なかった息子のことを、どう思ったのか。この十二年、何度考えても、確かめる方法はひとつもなかった。

 

「わかんないんだよ、何も……!」

 

一度あふれ出したものは、もう止まらなかった。

 

三つのとき、この世界の母さんが死んだ。本当なら声を上げて泣く年だったのに、中身の俺には、どこまで泣いていいのかがわからなかった。子供のふりをして泣いて、子供のふりをして泣きやんだ。

 

前の人生のことは、誰にも話せなかった。話せば親父を怖がらせるだけだと、わかっていたからだ。だから茎に、誰にも読めない字で「蓮」と刻んだ。この世界のどこにも、前の俺がいたことを残しておける場所がなかった。

 

そうやって十二年かけて、ようやく、この世界に家族ができた。口数の少ない親父と、狭い鍛冶場と、いつか継ぐはずだった炉。

 

その全部が、あの光の中に消えた。

 

「また、なくすのかよ……! 前の家族も、母さんも、今度は親父まで……なんで、なくしてばっかりなんだよ!」

 

「……帰りたいんだよ。前の家にも、ロアにも。どうやったら帰れるのかも、わからないのに」

 

自分が死んだ瞬間を、俺は覚えていない。この世界でいちばん古い記憶は、知らない女の人の腕の中から見上げた、煤けた天井だ。だから生まれ直してしばらくのあいだ、これは長い夢で、いつか目を覚ませば、ひとり暮らしの狭い部屋の布団の中にいるのだと信じていた。三つになるまで、眠る前には毎晩、前の部屋の天井の染みを思い浮かべていた。

 

その癖がなくなったのは、母さんが死んだあの夜からだ。子供のふりをして泣いていたはずなのに、胸の奥だけは、ふりではなく本当に痛んでいた。夢の中の誰かが死んで、あんなに痛むはずがない。そのとき初めて、俺はこの世界が夢ではないことを認めた。

 

それでも、帰りたいという気持ちだけは消えなかった。炉の前で炭の匂いを嗅いだとき。向かいのパン屋から、焼きたての甘い匂いが流れてきたとき。前の人生の、どうでもいいような一場面が、ふいに胸の奥を刺した。帰り方はわからなくても、いつか何かの拍子に、ふっと帰れるかもしれない。心のどこかで、ずっとそう期待していた。

 

けれど今日、刃から噴き出したあの炎を見て、俺は悟ってしまった。

 

詠唱もなく、魔術でもなく、俺の中から勝手に噴き出して、森ひとつを焼き尽くした火。頭の中でしゃべる、誰とも知れない年寄りの声。そんなものを抱えた俺が、あの狭い部屋の電子レンジの前に立って、コンビニの弁当が温まるのを待っている姿を、どうしても思い浮かべることができなかった。

 

理屈ではなかった。炉の炎が俺のほうへ傾くのを見たときと同じように、体のどこかが、そう告げていた。

 

帰り道は、もうどこにもない。

 

拳で灰を殴った。熾火のかけらが手の甲に当たったが、焼けた右腕に比べれば、痛みのうちにも入らなかった。何度も殴った。喉が裂けるほど叫んで、叫ぶ言葉がなくなっても、肩の震えだけがいつまでも止まらなかった。

 

声は、そのあいだ一度も口を挟まなかった。待っていたのか、ただ黙っていただけなのか、俺にはわからなかった。

 

どれくらいそうしていたのかは覚えていない。息が切れて、涙も出なくなったころ、ようやく、低い声が響いた。

 

『泣き言は、それで終(しま)いか』

 

慰めの欠片もない声だった。

 

『帰りたいと泣いて、帰れた者など、儂は一人も知らん。失うたものを指折り数えて、何が戻る。問えば答えが返ってくるとも思うな、小童』

 

俺は顔を上げられないまま、灰に爪を立てた。

 

『お主が見るべきは、失うたものではない。お主の手の中にあるものじゃ。その刃と、その中の火と、お主自身の力を、見つめ直せ』

 

言われるままに、俺の目は焼け跡の中に落ちていた。灰の中に、狼の牙だった黒い塊がいくつも転がっている。俺の喉に食らいつこうとしていた獣の、残りのすべてだった。

 

『刃を打ったのはお主じゃ。じゃが、その中の火は、お主が熾(おこ)した火ではない。今日焼いたのは、この森と、お主自身の腕だけで済んだ。じゃが、その火は焼く相手を選ばん』

 

声は、そこでひと呼吸、言葉を切った。

 

『お主がこの火を握れぬまま振るえば、いずれ、お主の隣に立つ者が、そこの灰と同じになる』

 

灰の中の黒い塊から、目が離せなくなった。

 

その横に、別のものを思い浮かべてしまった。鉄床の向こうから伸びてくる、親父の節くれだった指。パン屋のおかみさんの、粉だらけの手。ロアが消える直前まで、俺のすぐ隣にあったものだ。

 

前の家族も、この世界の母さんも、俺には守りようがなかった。けれど、この火は違う。この火で誰かを失うとしたら、それを焼くのは、俺のこの手だ。

 

火傷で熱を持っているはずの指先が、急に冷たくなった。

 

「……そんなこと、させるかよ」

 

『ならば、諦めよ』

 

「……は?」

 

『泣き言を吐くのは、今日で諦めよ。その弱さを、諦めよ』

 

「諦めろって……全部、諦めろってことかよ。親父のことも、前の家族のことも」

 

『違う』

 

声が、頭の奥を打つように響いた。

 

『諦めることを、諦めよと言うておる』

 

言葉が出てこなかった。灰を握りしめた手の中で、熾火のかけらがかすかに熱を残していた。

 

『今この時より、お主は人であって、人に非ず。一振りの刀じゃ』

 

声は、そこで一拍置いた。

 

『……名乗れ』

 

「……何をだよ」

 

『己は、この世の弱き者すべての刀であると』

 

「はっ……何を、急に」

 

笑い飛ばそうとしたが、頬が引きつっただけだった。

 

『分かっておるはずじゃ。心のどこかでな』

 

声は、俺の笑いをまるで相手にしなかった。

 

『お主は鍛冶屋の倅(せがれ)であろう。鍬も鎌も荷車の鋲も、己のためではなく、それを使う誰かのために打ってきた手じゃ。その手が握る刃が、何のためにあるべきか。お主はもう、知っておる』

 

親父の背中が浮かんだ。誰に頼まれた鍬なのか、俺が聞くたびに、親父はそれを使う家の名前と、その家の畑の広さまで答えた。一本の鍬を打つのに、親父はいつも、それを握る手のことを考えていた。

 

『誰ぞに嗤(わら)われようと、捨て置け。お主の在り方は、お主だけが決めるものじゃ』

 

声は、最後にこう告げた。

 

『小童。お主の主は、お主だけじゃ』

 

口を開いた。けれど、喉の奥で言葉が詰まって、何ひとつ出てこなかった。今の俺には、まだ、その名乗りを口にできるだけのものが何もなかった。

 

『言えぬなら、言えるようになるまで刀を振れ』

 

声の調子は、少しも変わらなかった。

 

『火を恐れて、手を放すな。さりとて、己の思うがままに振るえると思い上がるな。その二つができた時、この火の名を教えてやろう。……帰れぬことを嘆く暇があるなら、立て。立って、歩め』

 

それきり、声は返ってこなかった。

 

俺は灰の上に手をつき、噛まれた左足をかばいながら、ゆっくりと立ち上がった。膝が震えた。それでも、もう一度座りこもうとは思わなかった。

 

右腕の火傷が、脈に合わせてずきずきと痛んだ。痛むということは、少なくとも俺はまだ生きている。

 

ロアを呑みこんだあの光のあと、親父がどうなったのか。パン屋のおかみさんは。裏通りの家々は。数えはじめたらきりがないので、俺はひとつだけ決めた。

 

前の家には、もう帰れない。それなら、せめてロアに帰る。この火を握れるようになって、親父を見つけて。それまで、この火で誰も焼かずに済むように。

 

刃を前掛けの布で巻き、沢まで下りると、細い流れが岩のあいだを縫うように走っていた。

 

両手で水をすくって、焼けた喉に流しこむ。

冷たさが胃の底まで落ちていくのを感じながら顔を上げると、沢の下流の、木々が途切れたあたりの空に、煙がひと筋のぼっていた。

 

森が燃える黒い煙ではない。白くて細い、炊事の煙だった。

 

親父の言ったとおりだ。人は、川沿いに村を作る。

 

泣き腫らした目元を袖で拭い、片足を引きずりながら沢沿いをしばらく下ると、木立が途切れ、丸太の柵に囲まれた小さな村が見えてきた。屋根の低い家が十軒ほど、身を寄せ合うように並んでいる。

 

柵の手前まで来たとき、足元の地面に、矢が一本突き立った。

 

顔を上げると、柵の向こうに男たちが並んでいた。弓を構えた者もいれば、鍬や鉈を握りしめた者もいる。どこかの鍛冶屋が、畑を耕し木を伐るために打ったはずの鉄が、今は俺へと向けられていた。

その誰もが、俺の顔ではなく、俺の背後の空を見ていた。沢の上の森には、まだ黒い煙が細く残っている。

 

弓を引きしぼったまま、髭面の男が低く言った。

 

「止まれ。……森を焼いたのは、お前か」

 

答えられなかった。嘘をついても、この腕の火傷を見られれば、それで終わりだ。

本当のことを言えば、次の矢はたぶん、地面には刺さらない。

 

布に巻いた刃が、手の中で、かすかに熱を持ちはじめていた。

 

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