この刃、未だ名を持たず 作:テスト中
黒い鞘が、熱を持っていた。
握った柄から、骨の芯まで熱が這い上がってくる。
何年ものあいだ、どれだけ引いても指一本分も動かなかった刃が、鞘の内側で低く唸っている。
鞘口のすき間から赤い光が細く漏れて、足元の地面を照らしていた。
すぐ後ろで、誰かが荒い息をついていた。
振り返らなくてもわかる。
もう立ち上がる力も残っていない人間の息だ。
『……問うぞ、小童』
頭の奥で、聞き慣れた声が響いた。
『お主は、何者じゃ』
一度、深く息を吸う。
十二の年、焼け跡で泣きわめき自分に絶望したあの日から、ずっと言えずにきた言葉がある。
何十万回と刀を振っても、喉の奥で詰まったままだった言葉だ。
今なら、言える。
「――俺は、この世の弱き者すべての刀だ」
鞘の内で、刃が鳴った。
『小童、それでいい』
その声が響いた途端、鞘の内の唸りが、ぴたりと止んだ。
刃の内の火が、次の言葉を待って息をひそめている。
そう、感じた。
『ならば、聞け。この火の名は――』
◇
火傷というものを、この体で初めて知ったのは、十二の年のことだ。
前の人生でなら、鍋のふちに指を当てたことくらい何度かあったのだろう。ただ、そういう細かいことはもう覚えていない。覚えているのは、生まれ直したこの世界で、俺が十二になるまで一度も火に焼かれなかったということだけだ。
焼けた鉄に触れても、炉の火の粉を浴びても、皮膚がうっすら赤くなるだけで、水ぶくれひとつできなかった。それを知っている数少ない大人たちは、気味悪がったり感心したりしたが、当の俺は、鍛冶屋の息子には便利な体だと、のんきに構えていた。
これは、その俺が初めて火に焼かれた日の話になる。
◇
その裏通りの一角に、親父の鍛冶場はある。表の大通りのように馬車が行き交うこともなく、聞こえてくるのは向かいのパン屋の窯の音と、どこかの家の子供の泣き声くらいのものだ。表通りの店に比べればずいぶん狭いが、親子二人で鉄を打つには十分な広さだった。
母親は、俺が三つのときに流行り病で死んだ。それからはずっと、親父と二人きりで暮らしている。
鍛冶場の炉は、朝いちばんに火を入れても、昼が近くなるまで温度が上がりきらない。
その日の俺は、炉の番を親父に任せて、土間の隅で砥石に向かっていた。研ぎ水を張った桶に、自分の顔が映っている。親父譲りの黒い髪と、日に焼けた細い顔。背は同い年の子供と変わらないが、鎚を振りつづけてきたせいで、腕だけは妙に太い。
「レン。そいつはもう上がりか」
親父のヘルマンは、戸口の梁に頭をぶつけそうなほど背の高い男だ。口数が少なく、用がなければ一日じゅう黙って鎚を振っている。そのぶん、口を開いたときは用件しか言わない。上がりか、と聞かれたら、仕上がったなら見せろという意味だ。俺の口数が少ないのも、たぶんこの親父に似たのだろう。
「あとは研ぎだけ。柄には樫を巻いた」
渡したのは、三か月かけて俺が初めてひとりで打った刃物だった。刃渡りは前腕と同じくらいで、片側にだけ刃がついていて、刃先にかけてわずかに反りがある。
親父は窓から入る光に刃をかざし、刃先から峰までをゆっくりと目でなぞった。
「剣でも包丁でもねえな。両刃で打てと言ったはずだが」
「打ったよ。でも、両側に刃をつけようとしても、叩いているうちに鋼が反って、片側にしか刃が残らないんだ。何度打ち直しても、最後はこの形になる」
「鋼のせいにするな。腕のせいだ」
「わかってる」
「わかってる奴は、こういう形にはしねえ」
身もふたもない言い方だったが、親父は刃を俺に戻す前に、指の腹で刃の背をひと撫でした。それが親父なりの合格の印だということは、十二年も一緒に暮らしていればわかる。わかるようになるまでに、だいたい十年かかった。いずれはこの鍛冶場を継ぐつもりでいる俺にとって、その一撫では何よりの褒め言葉だった。戻ってきた柄のぬくもりに触れていると、自分の中にあるよそ者の記憶まで、ようやくこの土間に馴染んだような気がした。
「銘は切ったのか」
「
銘というのは、作った者の名前を刃に刻むことだ。俺はそれを、柄の中に隠れる刃の根元、茎と呼ばれる部分に刻んでおいた。柄を巻いた今では、外からは見えない。
「なんて切った」
「名前だよ。レンって」
「初めて打ったもんに自分の名前か。一丁前だな」
親父は鼻で短く笑った。からかうような笑い方だったが、刃を眺める目つきは、いつもより少しだけ柔らかかった。
レンという名前は、この親父がつけた。このあたりでは珍しくもない名前だが、前の人生でも、俺は同じ響きで呼ばれていた。
偶然にしては、できすぎている。だから茎には、こちらの文字で「レン」と刻んだあと、その下にもうひとつ、この世界の誰にも読めない字で「蓮」と刻んである。親父には話していない。話したところで、読めない字を彫るなと言われるのが落ちだ。
親父は鉄床に向き直ると、注文の荷車に使う
何度目かの鎚が当たったとき、その鋲がひとつ、鉄床のふちから跳ねた。鋲は土間を転がって、ちょうど俺の足元で止まった。
俺は砥石から手を離して、それを素手で拾い上げた。指先がほんのり温かい。焼けた鉄を握ったときの感触は、いつもこの程度のものだった。
「ほら」
鉄床の上に戻してやると、親父は鎚を振り上げた格好のまま、じろりと俺を見た。
「……人前でそれをやるなと言ってるだろうが」
「人前じゃない。親父しかいない」
「俺の前でもやるな。心臓に悪い」
開いた手のひらは、うっすらと赤くなっているだけだった。水ぶくれどころか、痛みもない。
六つのとき、俺が同じことをしたのを初めて見た親父は、真っ青になって俺を治癒魔術師のところへ担いでいった。治癒魔術師は首をひねるばかりで、理由は誰にもわからなかった。それ以来、親父はこの小言を、朝の挨拶と同じくらいの回数で繰り返している。
鋲を戻して砥石の前へ帰るとき、炉の前を横切った。そのとき炉の炎が、風もないのに、わずかに俺のほうへ傾いた。
振り上げられていた親父の鎚が、宙で止まった。打たれるはずだった鋲が、鉄床の上で、赤からくすんだ灰色へと冷めていく。
親父はしばらく炉の火を見ていたが、やがて、鉄床に目を落としたまま口を開いた。
「……お前、本当に魔術は使えねえんだよな」
「使えないよ。知ってるだろ」
「そうか」
親父は炉に炭を足しながら、少し間を置いて続けた。
「お屋敷の坊主の話、聞いたか。エリスお嬢様の家庭教師だ」
「詠唱しないで魔術を使うっていう?」
「ああ。お前より年下だってのにな」
この町を治めるボレアス・グレイラット家のお屋敷には、領主様の孫娘のエリスお嬢様に勉強を教えている、子供の家庭教師がいる。名前はたしかルーデウスといって、ロアの子供なら一度はその噂を耳にしたことがあった。
「俺は詠唱しても、何も出なかったけどな」
「まだ根に持ってんのか」
「根に持ってるわけじゃない。返ってこなかった銅貨の半分が惜しいだけだ」
二年前、十歳の誕生日に、俺は小遣いをはたいて、近所に住む元冒険者の魔術師から初級の火魔術の詠唱を教わった。一言も間違えずに唱えたのに、突き出した手のひらからは火の粉ひとつ出なかった。三日通って三日とも同じで、魔術師は首をかしげながら、払った銅貨を半分だけ返してくれた。
【詠唱は合ってる。こんなのは初めて見た】
返された銅貨と一緒に、その言葉もよく覚えている。
「魔術が使えねえからって、鉄が打てねえわけじゃねえ」
親父はそれだけ言うと、冷めかけた鋲を炉に戻し、また鎚を振りはじめた。慰めのつもりなのかどうかは、背中を見ていてもわからない。ただ、その日の鎚の音は、いつもより軽く聞こえた。
魔術は使えないのに、火には焼かれない。俺が自分について知っていることは、そのくらいしかなかった。
表の通りが騒がしくなったのは、研ぎを再開してしばらく経ったころだった。
「レン、ちょっと来い」
戸口に立った親父が、空を見上げたまま俺を呼んだ。研ぎかけの刃を手にしたまま表へ出ると、薄暗い鍛冶場に慣れた目に昼の光がまぶしくて、俺は思わず目を細めた。
ロアの空には、いつの頃からか、赤い球のようなものが浮かんでいる。最初のうちは町じゅうが騒いだものの、何も起きないまま日が過ぎるうちに、誰もいちいち見上げなくなっていた。
その赤い球の周りに、今日は見たこともない雲が渦を巻いていた。厚く黒ずんだ雲が、赤い球を中心にして、ゆっくりと回っている。
いつの間にか、風が止んでいた。どこかの家の犬が、さっきから吠えつづけている。腕の産毛が逆立って、肌が細い針で撫でられているようにぴりぴりした。
向かいのパン屋のおかみさんも、粉だらけの手を腰に当てて、同じほうを見上げていた。
「なんだろうね、あれ。お屋敷の魔術師さまなら、何かわかるのかね」
「さあな。俺たちにわからねえことは、だいたいお屋敷にもわからねえ」
「ヘルマンさん、あんたはまた、そういうことを言う」
おかみさんと親父のやりとりを聞きながら、俺は手の中の刃を握り直していた。
なぜそうしたのかは、自分でも説明できない。ただ、渦を巻く雲の真ん中の赤い球を見上げていると、腹の底のあたりが、炉の前に立ったときのようにじわりと温かくなった。
おかみさんが何か言い返そうとしたとき、赤い球にひびが入った。
割れた球の中から、一条の光がまっすぐ地面へ落ちた。それが地面に届いたところから白い光が噴き上がり、波のように通りへ押し寄せてくる。向かいの家の屋根も、その先の城壁も、光に触れた端から見えなくなっていった。
「レン、中に入れ!」
おかみさんの悲鳴に重なって、親父の怒鳴り声が聞こえた。節くれだった大きな手が俺の腕をつかみ、店の中へ引き戻そうとする。
その声と手の感触が、俺がロアで覚えている最後のものになった。
◇
頬に張りついた湿った土の冷たさで、目が覚めた。
体を起こすと、そこは針葉樹の森だった。見上げた空は低い灰色で、吐いた息が白い。鍛冶場の熱で汗をかいていたはずの体から、濡れた前掛けがどんどん体温を奪っていき、歯の根が合わなくなってくる。
「親父? ……親父!」
呼んだ声は木の幹のあいだに吸いこまれ、どこからも返ってこなかった。
石畳もパン屋も炉の煙もない。あるのは湿った土と、右手に握ったままの刃だけだった。よほど強く握っていたのか、指は柄の形に固まっていて、開こうとするとじんと痛む。
左の腕には、親父につかまれた跡が、まだ赤く残っていた。指の形が、四本並んでいる。そっと触れると、皮膚の下でまだ少し熱を持っていた。ほんの少し前まで、ここに親父の手があったのだ。
「どこだよ、ここ……」
口に出してみても、答えてくれる人はいない。ロアの近くに、こんな針葉樹ばかりの森はなかった。
十二歳の子供にしては、取り乱さなかったほうだと思う。実際のところは、何が起きたのか頭が追いつかず、怖いと感じるところまで考えが進まなかっただけだ。
【迷ったら水のある場所を探せ。人は川沿いに村を作るもんだ】
いつだったか、親父がそう言っていた。用件しか言わない男の数少ない雑談が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
俺は耳を澄ませて沢の音を探し、そちらへ向かって斜面を下りはじめた。
背後で枝の折れる音がしたのは、その途中だった。
振り返ると、木の間に泥色の影がいくつも立っていた。狼に似ているが、肩の高さが俺の胸まであり、口からはみ出した牙は親指ほどの太さがある。一頭や二頭ではなかった。茂みの奥でも、同じ色の影が動いている。低い唸り声が、地面を伝って足の裏にまで響いてきた。
逃げなければと頭ではわかっているのに、膝ががくがくと震えるばかりで、足の裏が湿った土に縫いつけられたように動かない。
先頭の一頭が、ぐっと身を低くした。その動きを見た瞬間、縫いつけられていた足が、考えるより先に地面を蹴っていた。斜面を転がるように駆け下り、木の根に足を取られて膝をつき、また立ち上がる。横から飛びかかってきた一頭に闇雲に刃を振ったが、毛皮の表面を裂いただけで、狼はすぐに体勢を立て直した。三か月かけて打ったはずの鋼が、獣の一頭すら退けてくれない。
次の瞬間、左のふくらはぎに焼けるような痛みが走った。別の一頭が足に食らいつき、牙が肉に沈んでいく。骨がきしむ嫌な音がして、そのまま地面に引き倒されると、顔のすぐ上で、生臭い息を吐く口が大きく開いた。
このまま喉を噛み切られるのだと理解した瞬間、腹の底で何かが熱を持った。
ロアで赤い球を見上げたときの、あのじわりとした温かさとは比べものにならない。炉に鞴で風を送りこんだときのように、熱は一気にふくれあがって胸を通り、右腕を駆け上がって、握った刃の中へ流れこんでいく。鋼が内側から赤く光り、そして、刃から炎が噴き出した。
炉の火とは、色がまるで違った。橙ではなく、白に近い黄色をしている。噴き出した瞬間には音もなかったのに、すぐに地面の底から響くような低い唸りに変わり、周りの空気がゆらゆらと歪んで見えた。
炎は、俺が振るより先に目の前の狼の頭を呑みこんだ。悲鳴を上げる暇もなかった。泥色の毛皮が黒く縮み、崩れて灰になる。火は地面を舐めるように走って次の狼を呑み、その次を呑み、針葉樹の幹を駆け上がって、頭の上で葉をぱちぱちとはじけさせていく。足元の苔は火が届く前に茶色く縮れ、少し離れた沢のほうからは、白い湯気が立ちのぼりはじめていた。
狼の群れが灰に変わるまで、ほんの数呼吸しかかからなかった。
本当に恐ろしかったのは、そのあとだ。狼がいなくなっても、炎は止まらなかった。
「止まれ……止まれって!」
何度叫んでも、刃を地面に突き立てても、腕を引いても、炎は俺の中から吸い出されていく。柄から手を離そうとしても、指が張りついたように動かない。体の芯の熱は、内臓を素手でつかまれているような痛みに変わり、袖が焦げて、その端から移った火が腕の皮膚をじりじりと焼いた。
十二年のあいだ一度も俺を焼かなかった火が、俺の腕を焼いていた。
このままでは森ごと焼ける。俺も、その真ん中で一緒に焼け死ぬ。
そのとき、頭の内側に、低い声が響いた。
『――騒ぐでない、小童』
耳から聞こえた声ではなかった。頭の奥で、直接鳴ったような声だった。しわがれた年寄りの声なのに、ひどく重い。その一言だけで、喉まで出かかっていた悲鳴が引っこんだ。
不思議なことに、怖くはなかった。鍛冶場で親父に怒鳴られたときと同じで、背筋がひとりでに伸びた。振り返っても、燃える木と煙のほかには誰もいない。
『火を恐れて放り出そうとする者に、火が従うはずがなかろう。息を吐け。刃を握り直せ。それは、お主が打った刃であろうが』
握り直せと言われても、どう握ればいいのか見当もつかなかった。柄に張りついた指はもう熱さしか感じず、少しでも力の入れ方を間違えれば、そこからまた炎が噴き上がりそうだった。
そのとき、別の声を思い出した。
【力むな、レン。鎚は小指と薬指で握れ。腕で振るんじゃねえ。肩の力を抜いて、鎚の重さに任せろ】
七つで初めて鎚を持たされた日から、何百回も言われてきた言葉だった。鉄床の向こうから手を伸ばして、俺の手首をつかみ、握りを直してくれた。その手の感触までが、はっきりとよみがえってくる。光に呑まれる直前、俺の腕をつかんだのと、同じ手だ。
焼けた空気を、肺が空になるまで吐ききった。張りついた指に、今度は自分から力をこめる。小指と薬指だけで柄を握り、親指と人差し指は添えるだけにする。それから、肩の力をゆっくりと抜いていく。
力を抜きかけたところで、刃の根元から火柱が噴き上がった。焦げ残っていた右の袖が一瞬で燃え落ち、腕の皮膚が裂けるように痛む。思わず指に力がこもりそうになった。
『それでよい。そのまま、握っておれ』
声は、少しも急かさなかった。
俺は奥歯を噛みしめ、親父の手の感触だけを思い浮かべながら、指の力を変えなかった。一呼吸、二呼吸。腕の痛みが三度目に脈打ったとき、吸い出されるばかりだった炎の流れが、刃の中でふっと止まった。
刃の赤い光がゆっくりと暗くなり、地面を走っていた火が、刃のほうへ引き返してくる。周りの木々を包んでいた炎が細くなり、最後のひと筋が鋼の中へ吸いこまれるように消えたとき、俺は膝から崩れ落ちていた。
◇
俺を中心にして、森がまるく焼けていた。
黒く焦げた幹が何本も立ち尽くし、足元に積もった白っぽい灰の中で、ところどころ赤い
これが、この体で初めて知った火傷だった。
息が落ち着いてくると、さっきの声のことが頭に引っかかった。焼け跡を見回しても、人の気配はどこにもない。あの光に呑まれたときに頭のどこかを打ったのかと、俺はこめかみを指で押さえた。
「……あんた、誰だ」
誰もいない焼け跡に向かって聞くと、少しの間を置いて、あの声が頭の奥で低く響いた。
『名を問うには早い』
返ってきたのは、それだけだった。
「早いって、なんだよ。人の頭の中で勝手にしゃべっておいて、名前も言えないのか」
返事はなかった。
「いつからいたんだ。生まれたときからか。それとも、さっきの光のせいか」
熾火のはぜる小さな音だけが、焼け跡に響いていた。
俺は灰の上に座りこんだまま、膝の上の刃をにらみつけた。声がこの刃から聞こえてくるわけではないとわかっていても、ほかに苛立ちをぶつける先がなかった。
「この火のこと、知ってるんだろ。俺は魔術なんか使えないんだ。詠唱しても火の粉ひとつ出なかったのに、なんで刃から火が出る。十二年も俺を焼かなかった火に、なんで今日になって焼かれたんだ」
声は、やはり答えなかった。息を吸うたびに、水ぶくれになった右腕の皮膚がひきつれて痛んだ。左腕に残っていたはずの親父の指の跡は、もうどこにあるのかもわからない。
「親父はどうなった。ロアは。あんた、何か知ってるのか」
焦げた幹のあいだに、俺の声だけが跳ね返って消えていく。
「……俺がここにいるのは、あんたのせいか」
自分の口から出た声が、ひどく低く聞こえた。
「この森に飛ばされたのも、ロアで生まれ直したのも、あんたが何かしたからなのか。前の人生で死んだのも、そうなのか」
返事はない。
膝の上で握った拳が、震えはじめた。
「答えてくれ。……俺の元の家族は、どうなったんだ」
口に出した途端、喉の奥で、何かが切れた。
前の人生の俺には、田舎に両親がいた。ひとり暮らしの部屋には、週に一度、母親から電話がかかってきた。ちゃんと食べているのか、たまには帰ってこい。毎回同じことしか言わない電話が面倒で、三回に一回しか出なかった。最後に出たのがいつだったのかも、もう思い出せない。
俺が死んだと知らされたとき、あの人はどんな顔をしたのか。電話に出なかった息子のことを、どう思ったのか。この十二年、何度考えても、確かめる方法はひとつもなかった。
「わかんないんだよ、何も……!」
一度あふれ出したものは、もう止まらなかった。
三つのとき、この世界の母さんが死んだ。本当なら声を上げて泣く年だったのに、中身の俺には、どこまで泣いていいのかがわからなかった。子供のふりをして泣いて、子供のふりをして泣きやんだ。
前の人生のことは、誰にも話せなかった。話せば親父を怖がらせるだけだと、わかっていたからだ。だから茎に、誰にも読めない字で「蓮」と刻んだ。この世界のどこにも、前の俺がいたことを残しておける場所がなかった。
そうやって十二年かけて、ようやく、この世界に家族ができた。口数の少ない親父と、狭い鍛冶場と、いつか継ぐはずだった炉。
その全部が、あの光の中に消えた。
「また、なくすのかよ……! 前の家族も、母さんも、今度は親父まで……なんで、なくしてばっかりなんだよ!」
「……帰りたいんだよ。前の家にも、ロアにも。どうやったら帰れるのかも、わからないのに」
自分が死んだ瞬間を、俺は覚えていない。この世界でいちばん古い記憶は、知らない女の人の腕の中から見上げた、煤けた天井だ。だから生まれ直してしばらくのあいだ、これは長い夢で、いつか目を覚ませば、ひとり暮らしの狭い部屋の布団の中にいるのだと信じていた。三つになるまで、眠る前には毎晩、前の部屋の天井の染みを思い浮かべていた。
その癖がなくなったのは、母さんが死んだあの夜からだ。子供のふりをして泣いていたはずなのに、胸の奥だけは、ふりではなく本当に痛んでいた。夢の中の誰かが死んで、あんなに痛むはずがない。そのとき初めて、俺はこの世界が夢ではないことを認めた。
それでも、帰りたいという気持ちだけは消えなかった。炉の前で炭の匂いを嗅いだとき。向かいのパン屋から、焼きたての甘い匂いが流れてきたとき。前の人生の、どうでもいいような一場面が、ふいに胸の奥を刺した。帰り方はわからなくても、いつか何かの拍子に、ふっと帰れるかもしれない。心のどこかで、ずっとそう期待していた。
けれど今日、刃から噴き出したあの炎を見て、俺は悟ってしまった。
詠唱もなく、魔術でもなく、俺の中から勝手に噴き出して、森ひとつを焼き尽くした火。頭の中でしゃべる、誰とも知れない年寄りの声。そんなものを抱えた俺が、あの狭い部屋の電子レンジの前に立って、コンビニの弁当が温まるのを待っている姿を、どうしても思い浮かべることができなかった。
理屈ではなかった。炉の炎が俺のほうへ傾くのを見たときと同じように、体のどこかが、そう告げていた。
帰り道は、もうどこにもない。
拳で灰を殴った。熾火のかけらが手の甲に当たったが、焼けた右腕に比べれば、痛みのうちにも入らなかった。何度も殴った。喉が裂けるほど叫んで、叫ぶ言葉がなくなっても、肩の震えだけがいつまでも止まらなかった。
声は、そのあいだ一度も口を挟まなかった。待っていたのか、ただ黙っていただけなのか、俺にはわからなかった。
どれくらいそうしていたのかは覚えていない。息が切れて、涙も出なくなったころ、ようやく、低い声が響いた。
『泣き言は、それで
慰めの欠片もない声だった。
『帰りたいと泣いて、帰れた者など、儂は一人も知らん。失うたものを指折り数えて、何が戻る。問えば答えが返ってくるとも思うな、小童』
俺は顔を上げられないまま、灰に爪を立てた。
『お主が見るべきは、失うたものではない。お主の手の中にあるものじゃ。その刃と、その中の火と、お主自身の力を、見つめ直せ』
言われるままに、俺の目は焼け跡の中に落ちていた。灰の中に、狼の牙だった黒い塊がいくつも転がっている。俺の喉に食らいつこうとしていた獣の、残りのすべてだった。
『刃を打ったのはお主じゃ。じゃが、その中の火は、お主が
声は、そこでひと呼吸、言葉を切った。
『お主がこの火を握れぬまま振るえば、いずれ、お主の隣に立つ者が、そこの灰と同じになる』
灰の中の黒い塊から、目が離せなくなった。
その横に、別のものを思い浮かべてしまった。鉄床の向こうから伸びてくる、親父の節くれだった指。パン屋のおかみさんの、粉だらけの手。ロアが消える直前まで、俺のすぐ隣にあったものだ。
前の家族も、この世界の母さんも、俺には守りようがなかった。けれど、この火は違う。この火で誰かを失うとしたら、それを焼くのは、俺のこの手だ。
火傷で熱を持っているはずの指先が、急に冷たくなった。
「……そんなこと、させるかよ」
『ならば、諦めよ』
「……は?」
『泣き言を吐くのは、今日で諦めよ。その弱さを、諦めよ』
「諦めろって……全部、諦めろってことかよ。親父のことも、前の家族のことも」
『違う』
声が、頭の奥を打つように響いた。
『諦めることを、諦めよと言うておる』
言葉が出てこなかった。灰を握りしめた手の中で、熾火のかけらがかすかに熱を残していた。
『今この時より、お主は人であって、人に非ず。一振りの刀じゃ』
声は、そこで一拍置いた。
『……名乗れ』
「……何をだよ」
『己は、この世の弱き者すべての刀であると』
「はっ……何を、急に」
笑い飛ばそうとしたが、頬が引きつっただけだった。
『分かっておるはずじゃ。心のどこかでな』
声は、俺の笑いをまるで相手にしなかった。
『お主は鍛冶屋の
親父の背中が浮かんだ。誰に頼まれた鍬なのか、俺が聞くたびに、親父はそれを使う家の名前と、その家の畑の広さまで答えた。一本の鍬を打つのに、親父はいつも、それを握る手のことを考えていた。
『誰ぞに
声は、最後にこう告げた。
『小童。お主の主は、お主だけじゃ』
口を開いた。けれど、喉の奥で言葉が詰まって、何ひとつ出てこなかった。今の俺には、まだ、その名乗りを口にできるだけのものが何もなかった。
『言えぬなら、言えるようになるまで刀を振れ』
声の調子は、少しも変わらなかった。
『火を恐れて、手を放すな。さりとて、己の思うがままに振るえると思い上がるな。その二つができた時、この火の名を教えてやろう。……帰れぬことを嘆く暇があるなら、立て。立って、歩め』
それきり、声は返ってこなかった。
俺は灰の上に手をつき、噛まれた左足をかばいながら、ゆっくりと立ち上がった。膝が震えた。それでも、もう一度座りこもうとは思わなかった。
右腕の火傷が、脈に合わせてずきずきと痛んだ。痛むということは、少なくとも俺はまだ生きている。
ロアを呑みこんだあの光のあと、親父がどうなったのか。パン屋のおかみさんは。裏通りの家々は。数えはじめたらきりがないので、俺はひとつだけ決めた。
前の家には、もう帰れない。それなら、せめてロアに帰る。この火を握れるようになって、親父を見つけて。それまで、この火で誰も焼かずに済むように。
刃を前掛けの布で巻き、沢まで下りると、細い流れが岩のあいだを縫うように走っていた。
両手で水をすくって、焼けた喉に流しこむ。
冷たさが胃の底まで落ちていくのを感じながら顔を上げると、沢の下流の、木々が途切れたあたりの空に、煙がひと筋のぼっていた。
森が燃える黒い煙ではない。白くて細い、炊事の煙だった。
親父の言ったとおりだ。人は、川沿いに村を作る。
泣き腫らした目元を袖で拭い、片足を引きずりながら沢沿いをしばらく下ると、木立が途切れ、丸太の柵に囲まれた小さな村が見えてきた。屋根の低い家が十軒ほど、身を寄せ合うように並んでいる。
柵の手前まで来たとき、足元の地面に、矢が一本突き立った。
顔を上げると、柵の向こうに男たちが並んでいた。弓を構えた者もいれば、鍬や鉈を握りしめた者もいる。どこかの鍛冶屋が、畑を耕し木を伐るために打ったはずの鉄が、今は俺へと向けられていた。
その誰もが、俺の顔ではなく、俺の背後の空を見ていた。沢の上の森には、まだ黒い煙が細く残っている。
弓を引きしぼったまま、髭面の男が低く言った。
「止まれ。……森を焼いたのは、お前か」
答えられなかった。嘘をついても、この腕の火傷を見られれば、それで終わりだ。
本当のことを言えば、次の矢はたぶん、地面には刺さらない。
布に巻いた刃が、手の中で、かすかに熱を持ちはじめていた。