この刃、未だ名を持たず 作:テスト中
柵の向こうで弓を引きしぼった男は、俺が答えるのを待っていた。
嘘をついても、この腕を見られれば終わりだ。
刃から手を離すのは怖かった。
手放した途端に何が起きるのか、自分でもわからなかったからだ。
けれど、ここで矢に射抜かれてしまえば、ロアへ帰ることもできなくなる。
俺は布に巻いた刃を足元に置き、焼けただれた右腕を、男たちに見えるように持ち上げた。
袖の燃え落ちた腕は、水ぶくれがいくつも破れて、乾きかけた汁でてらてらと光っている。
「……狼に、襲われた」
焼けた喉から出た声は、自分でも聞き取りにくいほどかすれていた。
唾を飲みこもうとしても、喉の奥がひりついて、うまく飲みこめない。
「気づいたら、こいつから……火が出てて。止めようとしたけど、止まらなくて……」
最後のほうは、ほとんど声にならなかった。
男たちのあいだに、ざわめきが広がった。
誰かが「魔術師か」と言い、別の誰かが「あんなガキが、森ひとつ焼くほどの魔術を使えるもんか」と言い返す。
鍬を握った若い男が一歩後ずさり、後ろにいた男の胸に背中をぶつけた。
弓を構えた髭面の男だけは、顔色を変えなかった
。矢の先を俺の胸に向けたまま、しばらく俺の腕と、地面に置いた布の包みを見比べている。
やがてその目が、俺の左足に落ちた。噛まれたふくらはぎから流れた血が、足首のあたりまで黒く固まりかけていた。
男は、引きしぼっていた弦を、ゆっくりとゆるめた。
「血が止まってねえな。その足」
ぶっきらぼうな声だった。男は弓を肩にかけ、柵の戸を押し開けた。古い蝶番が、きしんだ音を立てる。
「傷が塞がるまでだ。塞がったら出ていけ」
そう言ってから、男は顎で、俺の足元の包みを指した。
「それと、その包みは二度とほどくな」
それが、この村で俺に許された、最初の居場所だった。
◇
寝かされた猟師の家で、俺は、ここがどこなのかを初めて聞いた。
中央大陸の北の果て、北方大地と呼ばれる土地の、そのまた外れにある村だという。冬が長く、魔物が多い。
アスラ王国へ行くには、大陸を分ける
村の男たちは、短い夏のあいだに痩せた畑を耕し、長い冬は山で獣を追って暮らしている。
俺を家に置いてくれたあの髭面の猟師が、この村のまとめ役だということも、そのとき知った。
焼けただれた腕には、猟師が獣の臭いのきつい脂で薬草を練ったものを塗ってくれた。塗られるたびに、あの森の炎にもう一度炙られたように沁みて、歯を食いしばってもうめき声が漏れた。それでもひと月もすると、かさぶたがぽろぽろと剥がれ落ち、水ぶくれの跡に薄い桃色の新しい皮が張りはじめた。
足の傷が塞がるまでには、ひと月かかった。そのあいだに、俺はこの村に鍛冶屋がいないことを知った。欠けた鍬も錆びた鎌も、年に一度やってくる行商人に託して、町の鍛冶屋で打ち直してもらうしかないのだという。
足がまともに動くようになると、俺は村はずれに石を積んで、小さな炉をこしらえた。
最初の一本を持っていったのは、あの猟師の家だった。打ち直した鍬を受け取った猟師は、刃の厚みを親指の腹で確かめてから、何も言わずにうなずいた。その指の動きが、刃の背を撫でた親父の手つきと少しだけ重なって、張りつめていた肩の力がふっと抜けた。
ふた月目には、村じゅうの農具が、俺の炉の前に並ぶようになっていた。傷が塞がっても、出ていけと言う者はもういなかった。
鞘をこしらえたのは、村に来て三か月目のことだ。
布に巻いたままの刃を、いつまでも抱えているわけにはいかなかった。ほどくなと言われた包みを俺が持ち歩くたびに、大人たちの顔はこわばった。それに、布で包んだだけの刃では、炉の仕事にも山仕事にも差し支えた。
裏山から手ごろな太さの
刃は吸いこまれるように鞘の中へ消え、柄の根元が鞘口に当たって、こつ、と小さな音を立てた。
納まり具合を確かめるつもりで、柄を軽く引いた。
抜けなかった。
両手で柄を握り、鞘を膝で押さえて引く。腕の筋が浮き上がるほど力をこめても、刃は指一本分も動かない。膠が固まりきっていないせいかと鞘口をのぞきこんでも、どこにも引っかかっているところはなかった。
『抜けぬのは、鞘のせいではない』
頭の奥で、あの声が響いた。森の焼け跡で聞いて以来、三か月ぶりの声だった。
俺は柄を握ったまま、動きを止めた。炉の残り火がはぜる小さな音だけが、やけに大きく聞こえた。
『今のお主に、この刀を抜く資格はない。それだけのことじゃ』
膝で押さえた鞘が、じんわりと温かい。さっき引いたときの、鞘の内側から押し返してくるような手応えが、まだ指先に残っていた。
「資格って……なんだよ、それ。三か月かけて俺が打ったんだぞ。親父に腕のせいだって言われて、それでも最後まで打ち上げた刃なんだ。それを、打った本人が抜けないなんて、そんな話があるかよ。……いつまでだ。いつになったら抜ける」
『鉄を叩いただけで、
突き放すような返事だった。俺は柄を握っていた指を、一本ずつほどいた。手のひらには、樫の柄の木目の跡が、赤く食いこんで残っていた。
焼け跡で言われた言葉を、ひとつずつ思い出す。
「火を恐れて手を放すな、思い上がるな。……それができたら、抜けるのか」
声は答えなかった。しばらく黙ったあとで、代わりに、短く命じた。
『座れ』
言われるままに、炉の前の土の上に腰を下ろした。地面にはまだ昼間の炉の熱が残っていて、尻の下がほんのりと温かい。
『足を組め。刀は鞘ごと膝の上に横たえよ。目を閉じ、息を整え、刀の内に耳を澄ませ。これを
言われたとおりに足を組むと、すぐに膝の裏が突っ張って痛みだした。前の人生でも、こんな座り方をした覚えはほとんどない。鞘を膝に横たえると、白木の重みが、両方の腿にずしりと載った。
「刀の内って……何を聞けばいいんだよ」
『それを聞き分けられるようになるまで、座るのじゃ』
目を閉じた。聞こえるのは、炉の熾火がはぜる音と、遠くで鳴く夜の鳥の声と、自分の息の音だけだった。
その夜、俺はひとつ決めた。
本当は、足の傷が塞がりしだい、すぐにでもロアを目指すつもりだった。農具の打ち直しを頼まれるうちに、ずるずると日が延びていただけだ。けれど、旅の途中であの火が噴き出せば、焼けるのは森だけでは済まない。
街道ですれ違う旅人も、一晩の宿を貸してくれた誰かも、あの狼たちと同じように灰になるかもしれない。
それに、路銀も身を守る術もない十二歳の子供が、何か月もかかる山越えの旅に出て、無事でいられるとも思えなかった。
この火を少しでも扱えるようになるまでは、この村を動かない。
帰るのは、そのあとだ。
◇
その翌朝から、声は少しずつ、俺に戦い方を教えはじめた。
まだ星の残る空き地に立ち、鞘ごと刀を握った俺に、声は前置きもなく告げた。
『剣を振る
拳で打つ
足で駆ける
霊力をもって術を成す
この四つを合わせて、
聞き慣れない言葉ばかりだった。
指を折って数えながら、最後のひとつで引っかかった。
「霊力って、魔力みたいなものか」
『似て非なるものじゃ。いずれにせよ、お主の身の内の力は、霊力も魔力も、その刀の内の火がすべて呑んでおる。鬼道は使えぬと思え。……ならば、残るのは己の骨と肉と足だけじゃ。鍛冶屋が鎚一本で鉄を打つように、お主はその身ひとつで刀を振るえ。斬、拳、走の三つを、骨に刻め』
魔術が使えなかった理由の一端を、そのとき初めて聞かされた。十歳の誕生日のあと、手のひらから火の粉ひとつ出なかった三日間が、頭をよぎった。
詠唱が合っていても、注ぎこむはずの力は、最初からこの火に呑まれていたのだ。
けれど声は、それ以上は何も説明しなかった。
それから、同じ一日を、何度も何度も繰り返した。
夜が明ける前に起き出して、村はずれの空き地で、鞘に納めたままの刀を振る。頭の上に構えて、まっすぐ振り下ろす。それだけを、日が山の端から顔を出すまで、千回。
最初の朝は、百回を過ぎたあたりで腕が重くなった。鍛冶で鍛えたつもりの腕も、鎚とはまるで違う振り方を続けるのには、すぐに音を上げた。それでも振りつづけて、二百回目を過ぎたころ、声が飛んできた。
『腰が浮いておる』
言われて初めて、振り下ろすたびに踵が浮き、体が前へつんのめっていることに気づいた。踵を土に沈めるようにして、もう一度振る。
『振り下ろすたびに、目が先に動いておる。刃より先に心が出ておる証じゃ』
たしかに目は、振り下ろす先の地面を、刃より一瞬早く見ていた。気づいてしまうと、今度はどこを見ればいいのかわからなくなって、振りがさらに崩れた。
『千回振って、千回同じであれ。一振りでも崩れたなら、初めからやり直せ』
その朝、俺は千回に届く前に三度、振りが崩れたと言われ、そのたびに数を一から数え直した。
ようやく千回を振り終えたときには、日はとっくに山の端から昇りきっていた。
ただ闇雲に振っても、千回同じにはならない。
それは最初の数日で、嫌というほどわかった。
疲れれば腕が下がり、焦れば目が先に行く。
崩れるたびに声が飛んできて、数はまた一からになる。
答えのきっかけは、炉の前にあった。
鉄を打つとき、親父は、鎚が落ちる場所を目で追わなかった。
見ているのは、打つ前の鉄の赤さだけで、鎚は、肩と手首が覚えている場所に、ひとりでに落ちていく。
同じ一点を百回続けて打てるのは、目ではなく体が、その一点を覚えているからだ。
だったら、同じだ。
俺は空き地に一本の杭を打ちこみ、膝の高さに、炭で印をつけた。
振り下ろした鞘の先が、毎回その印の前でぴたりと止まるように振る。印に当たれば、力が余っている。
手前で止まれば、腰が引けている。
印を見るのは構える前だけにして、振り下ろしているあいだは、手のひらに伝わる鞘の重さだけに気を向けた。
息も、ひと振りにひと呼吸と決めた。吸いながら構え、吐きながら振り下ろす。
最初のひと月は、印の前で止まるのは十回に一回もなかった。三か月たつと、それが三回に一回になった。
半年たったある朝、千回を振り終えても、叱咤が一度も飛んでこなかった。
褒められたわけではない。
それが、あの声から初めてもらった合格の証だと思うことにした。
昼は炉の前で、村の農具を打った。
鎚を握るたびに、親父に直された握り方を思い出す。手を止めて額の汗をぬぐうたび、隣の鉄床から親父の鎚の音が聞こえてこないことに、何度でも驚いた。刀を振るときの握りと、鎚を振るときの握りが、少しずつ同じものになっていった。
夕方は白打だった。荒縄を巻きつけた太い杉の幹を相手に、拳と肘と膝を打ちこむ。ひと冬を越すころには、縄は擦り切れ、幹の皮がはげて、血のにじんだ拳の跡が白い木肌に染みついていた。
歩法は、沢の飛び石の上で覚えた。濡れた石から石へ、足音を立てずに渡る。足を滑らせて冷たい沢に落ちるたびに、頭の奥で、低いため息が聞こえた。
そして夜は、刃禅だった。
足を組み、刀を膝に横たえて、目を閉じる。刀の内に耳を澄ませる。最初のひと月は、何も起きなかった。聞こえてくるのは、炉の熾火がはぜる音と、自分の心臓の音だけだった。
それが変わったのは、ひと月を過ぎたある夜のことだ。
目を閉じていたはずなのに、気がつくと、俺は灰の上に立っていた。
見渡すかぎり、白い灰が降り積もった野原だった。空は夕焼けのような赤一色で、そこから、雪のように灰が降りつづけている。風はなく、音もない。踏みしめた足は、くるぶしまで灰に沈んだ。
その野原の真ん中に、ひとりの老人が座っていた。
額から頭頂にかけて、十字の古い傷が走っている。
白い髭は胸を越えて、膝の上まで垂れていた。
体の前には、一本の古びた杖が置かれている。
ゆらりと、老人が杖に手を添えて、こちらへ目を向けた瞬間、息が止まった。
見えない手で頭の上から押さえつけられたように、膝が折れた。灰の上に両手をついても、体はさらに沈んでいく。
肺がふくらまない。心臓が、ひとつ打つたびにきしむ。
森で狼に組み伏せられたときの恐怖とは、比べものにならなかった。
無理だ、と体が叫んでいた。勝てるとか勝てないとか、そういう話ではない。
この老人の前に立って、生きていられるはずがない。
目の前が、すっと暗くなった。
次に気がついたとき、俺は、さっきと同じ場所に立っていた。
冷や汗が止まらない。
ただ、心臓だけが、まだ早鐘のように打っていた。
『一度目じゃ』
老人は、座ったまま口を開いた。
唇は動いているのに、その声は、森の焼け跡で聞いたときと同じように、頭の奥から響いてきた。
「……ここは、どこだ」
『お主の内じゃ。刀の内、と言うてもよい』
老人は杖をつき、ゆっくりと立ち上がった。大男というほどの背丈ではない。それなのに、立ち上がっただけで、降ってくる灰が老人を避けて落ちていくように見えた。
『ここでは、お主は死なぬ。死んでも、今のように立ち戻る。じゃが、死ぬ痛みと苦しみは、外と何ひとつ変わらん』
「おい、待っ――」
『覚悟せよ、小童』
老人の姿が、ふっと消えた。
そう見えたときにはもう、胸の骨が砕ける鈍い音と一緒に、俺の視界はまた暗くなっていた。
その夜だけで、俺は両手の指では数えきれないほど死んだ。杖の一突きで喉を潰され、払われた一撃で首を折られ、ときには杖に触れる前に、全身が内側から焼き尽くされた。
それからは、毎晩がそうだった。昼は体を鍛え、夜は灰の野原で死ぬ。目を開けると、炉の残り火はとうに消えていて、俺は膝に刀を載せたまま、砕かれたはずの胸や喉を自分の手で押さえて、全身にびっしょりと冷や汗をかいていた。
村の大人たちは、そんな俺を不思議がった。
「そんな棒切れを振り回すより、弓を覚えたほうが腹がふくれるぞ」
あの猟師は、何度もそう言って弓を貸そうとした。剣を習いたいなら、町の冒険者に頼んだほうが早いと教えてくれる人もいた。名のある剣士は、皆、闘気という力を体にまとって戦うのだという。闘気をまとった腕は岩を砕き、脚は人の目で追えないほど速く駆けるらしい。
試すまでもなかった。魔力をひとかけらも残さず火に呑まれている俺の体に、そんなものがまとえるはずがない。
それでも俺は、勧められるたびに頭を下げて礼を言い、次の朝もまた、同じように刀を振った。
変わった奴だと、陰で言われているのは知っていた。それでも、やめようとは思わなかった。誰に
◇
鍛錬の日々が始まって半年ほどたった、最初の冬が来る少し前のことだ。村に、年に一度の行商人がやってきた。炉端で温めた酒をすすりながら、行商人はいくつかの噂を話した。そのなかに、フィットア領の話があった。
町も村も畑も、まとめて跡形もなく消えた。あとには、草原しか残っていないらしい。
俺は黙って聞いていた。最後まで、口を挟まなかった。
その夜、この冬はじめての雪が降った。
俺は空き地の真ん中に座り、刀を膝に横たえて、目を閉じていた。泣き言は吐かないと決めていたから、泣かなかった。奥歯を噛みしめて声を呑みこむたび、喉の奥に詰まった熱いものが、胸から腕を伝って、膝の上の鞘へと流れこんでいく気がした。刀が、いつもよりずっと熱かったことだけは覚えている。
朝になって目を開けると、俺の周りだけ、雪がなかった。座っていた場所を中心に、人がひとり寝転べるくらいの円の形に雪が溶けて、黒い土がのぞいていた。
鞘の口から、細い煙が一筋、立ちのぼっていた。
『……熱が漏れておる』
頭の奥で、声がした。
膝の上の鞘を見下ろすと、白木の鞘口のまわりが、うっすらと茶色く焦げていた。
『抜けぬ刀でも、握る者の心が乱れれば、火は漏れる。覚えておけ』
俺は鞘口の焦げ跡を、親指でそっとなぞった。指先には、まだ温かさが残っていた。
冬が終わり、短い夏が駆け足で過ぎて、また冬が来た。
刀を振る数は千から二千になり、杉の幹は二本目になった。沢の飛び石は、目を閉じても渡れるようになった。背は親父の胸くらいまで伸びて、手のひらは、鎚と刀でできたたこで、石のように硬くなっていた。
灰の野原でも、少しずつ死に方が変わった。
最初は、老人に目を向けられただけで死んでいた。
半年たって、その視線を浴びたまま立っていられるようになり、一年目の終わりに、初めて一歩、前へ踏み出せた。
そして二年目の冬、俺は初めて、老人の杖の一撃を、鞘で受け止めた。
受け止めたと思った次の瞬間には、もう死んでいた。それでも目を開けたとき、鞘を握っていた両手は、まだじんじんと痺れていた。あの一撃を、確かにこの手で受けたのだ。
白木だった鞘は、熱が漏れるたびに内側から焦げて、いつの間にか根元のほうから黒ずみはじめていた。
それでも、刀は一度も抜けなかった。
刃禅の夜に、火の名を聞いたことも、一度もなかった。
◇
二度目の冬の終わりに、一度だけ、村に魔物が下りてきたことがある。
雪の深い夜だった。柵の外で、犬が狂ったように吠えはじめた。表に飛び出すと、柵の向こうの闇の中で、黄色い目がふたつ光っていた。
熊に似た、黒い毛の魔物だった。後ろ足で立ち上がると、柵の丸太より頭ひとつ高い。前足の一振りで、柵の丸太が二本、枯れ枝のようにへし折れた。
猟師たちが弓を構えて駆けつけたが、放った矢は、厚い毛皮に刺さったまま垂れ下がるだけだった。魔物は矢を気にもとめず、柵の破れ目から村の中へ踏みこんでくる。その先には、逃げ遅れた家の戸口があった。
気がつくと、俺は魔物の前に立っていた。
腰帯から鞘ごと刀を引き抜き、両手で柄を握る。抜けないことはわかっている。だから、鞘ごと構えた。二年間、毎朝振りつづけてきた、頭上からの構えだった。
魔物が吠え、前足を振り上げた。
その前足が振り下ろされるより先に、俺は踏みこんでいた。沢の飛び石で覚えた足が、雪の上を音もなく滑る。魔物の懐に入りこんだ瞬間、鞘ごとの刀を、まっすぐ振り下ろした。
二年前の最初の朝は、千回に届く前に三度もやり直させられた。それが今では、二千回振っても、鞘の先は一度も杭の印からずれない。毎朝毎朝、同じ一点だけを体に覚えこませてきたその一振りが、魔物の眉間をまっすぐに打った。
朴の鞘を通して、分厚い頭蓋が砕ける硬い手応えが、両の手のひらを突き上げた。鈍い音がして、魔物の巨体が、膝から雪の上へ崩れ落ちる。眉間を割られた魔物は、白目をむいたまま四肢をひくつかせるばかりで、もう起き上がれなかった。
背後で、誰かが息を呑む音がした。振り返らなくても、弓を構えたまま固まっている男たちの姿がわかった。
そのときだった。腹の底から、あの熱がせり上がってきた。
鞘口から、白い蒸気が噴き出した。足元の雪が、じゅっと音を立てて溶け、俺を中心に、黒い土がみるみる広がっていく。柄を握る手のひらが、焼けるように熱い。
『鎮めよ』
頭の奥で、声が鋭く響いた。
深く息を吐いた。
柄を握る指から、小指と薬指を残して力を抜く。
熱は、のろのろと鞘の内側へ引いていってくれた。
倒れた魔物には、ようやく我に返った猟師たちが駆け寄り、喉元へ至近から矢を射こんで、とどめを刺した。
溶けた雪の円の中で、俺はしばらく、自分の手を見下ろしていた。魔物を一撃で倒した手だった。
けれど、その一撃のあとで溢れかけた火を、俺はまだ、自分の力だけでは止められない。
もし、あの戸口に人が立っていたら。もし、すぐ後ろに猟師たちがいたら。
【お主がこの火を握れぬまま振るえば、いずれ、お主の隣に立つ者が、そこの灰と同じになる】
焼け跡で聞いたあの言葉が、頭の奥でよみがえった。
その夜から、猟師は二度と、俺に弓を勧めなくなった。
◇
二度目の雪解けが来た朝、俺は、村を出ることをあの猟師に告げた。
前の秋にやってきた行商人が、もうひとつ噂を運んできていた。フィットア領から消えた人々を探している者たちが、ミリス神聖国にいるらしい。見つかった者の名前を集め、まだ見つからない者の名前を掲げているのだという。
ミリス神聖国は、海の向こうの別の大陸にある。まずは赤竜の上顎を越えてアスラ王国に入り、かつてロアがあった場所を自分の目で確かめる。そこでもし手がかりがなければ、王国を南へ抜け、赤竜の
「親父の名前が、そこにあるかもしれない」
猟師は、戸口の柱にもたれたまま、しばらく黙って俺を見ていた。それから家の奥へ引っこみ、使い古した外套を一枚持って戻ってきた。羊の毛を詰めた厚手の外套で、肩口が何度も繕ってある。
「その刀、まだ抜けねえのか」
外套を俺の胸に押しつけながら、猟師が言った。
「抜けない、な」
「......それでも行くのか」
腰の鞘に手を添えると、黒ずんだ木肌が、かすかに温かかった。
二年かけて内側から焦げていった鞘は、今では根元のほうが、炭のように黒い。
「魔術が使えないからって、鉄が打てないわけじゃない。……刀が抜けないからって、どこへも行けないわけじゃない」
親父の言葉をなぞって口にしたのは、そのときが初めてだった。
猟師は鼻を鳴らし、しばらく俺の腰の黒い鞘を眺めていた。
「……二年前、柵の外でお前を狙ったときはな、森を焼いた化け物のガキが来たと思ったよ。毎朝、抜けもしねえ棒切れを振り回して、夜は夜で、座ったまま汗だくでよ。正直、気味が悪かった」
猟師は、外套の上から、俺の胸を拳で軽く叩いた。
「けどな、この冬、お前が熊の前に立ったとき、俺は弓を引くのも忘れて見てた。お前のやってることは、俺にはさっぱりわからん。それでも、お前が二年かけて何を鍛えてたのかは、あの一振りでわかった。……行くなら、それを着てけ。上顎の山越えは、春でも冷える」
ありがとうな。
その一言を最後に猟師は何も言わなかった。
ただ、戸口に立ったまま、俺が柵の外へ出ていくのを見送っていた。
抱えた外套からは、あの家の炉端と同じ、乾いた薪とほんの微かな獣の脂の匂いがした。
村はずれの坂を下りきったところで、一度だけ振り返った。二年前に俺が焼いた沢の上の森には、もう若い木が、膝の高さまで伸びていた。
親父が生きているなら、親父のいるところが、俺の帰る場所になるのだと思う。
『歩みを止めるなよ、小童』
「ああ」
俺は猟師にもらった外套の襟を立て、ミリス神聖国へ続く街道を歩き出した。