この刃、未だ名を持たず 作:テスト中
両側には、首をいっぱいに反らしても頂の見えない岩壁がそびえている。
そのあいだを、荷馬車が二台すれ違えるほどの道が一本だけ南へ延びていた。昼でも谷底には陽が届かず、岩壁の上のほうだけが白く光っている。
その光の中を、ときおり赤い影が横切った。
岩壁よりさらに高いところで、赤い翼の竜がゆっくりと輪を描いているのだ。北方大地の村で聞いた話では、この山脈には何百年も前から赤竜が棲みついていて、人が越えられるのはこの北の谷と、もう一本、南の谷だけなのだという。
谷を行く旅人たちは、誰も空を見上げない。
荷馬車の御者も、背負い荷を担いだ行商人も、足元の
俺もそれにならって、うつむいて歩いた。
一歩ごとに、腰の黒い鞘が太腿を軽く叩く。猟師にもらった外套は、谷底を吹き抜ける冷たい風をよく防いでくれた。
谷に入って三日目の昼、ひときわ大きな赤い影が、谷の真上をかすめていった。
翼が風を切る重い音が、岩壁に反響して降ってくる。俺は思わず足を止め、首をすくめて空を見上げた。
『――顎を引け、小童。怯えて空を仰ぐな。前を見よ』
頭の奥へ、地を這うような重い声が落ちてくる。
言葉はそれきり続かなかった。
俺は奥歯を噛みしめ、空から目を戻す。言われたとおりに顎を引き、谷の先をまっすぐに見据えた。竜がどこを飛んでいようと、俺が行くのはこの道の先だけだ。
すくめていた首を伸ばし、また歩きだした。
◇
谷を抜けると、大きな森があった。赤竜の
その森を南へ抜けたところで、景色ががらりと変わる。北方大地の凍てついた土はそこで終わり、ここから先がアスラ王国だった。
なだらかな丘がどこまでも続いている。斜面には刈り入れを待つ麦畑が広がり、畑の縁には小さな白い花が群れて咲いていた。風が吹くたびに麦の穂がいっせいに傾いて、丘の上を金色の波が渡っていく。
土の匂いも、北の村とはまるで違う。凍てついた北の土とは違う、水気を含んだ豊かな麦畑の匂いだった。
この麦も、この白い花も、俺はよく知っている。
ロアの城門を出れば、どこまでも続いていた景色だ。親父が打った鎌で、この麦を刈っていた農家もあったはずだった。
南へ進むほど胸がざわついて、足がひとりでに速くなる。
そして、ある丘の上まで来たところで、俺は足を止めた。
麦畑が、そこでぷつりと終わっていたのだ。
道の脇の畑は丘の中腹まで続いているのに、その先には何もない。畑も、柵も、家も、木の一本すらない。膝の高さほどの草だけが、地平線の向こうまで切れ目なく広がっている。
俺が歩いてきた街道までが、その草の中へ入ったところで、ふっと途切れていた。
ここから先が、フィットア領だった。
◇
草原の中を、三日歩いた。
何もなかった。本当に、何ひとつない。
道がないので、俺は遠くの山の形を頼りに歩くほかなかった。昔、ロアの城壁の上から一度だけ、親父と並んで眺めた北の山並みだ。頂が三つ並んでいて、真ん中だけが少し低い。
あの日、親父は「あの山の向こうから、いい鉄が来る」とだけ言って、さっさと城壁を下りてしまった。
その山並みが、記憶の中とそっくり同じ形に見える場所まで来て、俺は立ち止まる。
ここが、ロアのはずだった。
それなのに、足元には草しかない。
城壁も、門も、石畳の通りもない。向かいのパン屋の窯も、親父の鍛冶場も、炉も、
俺は膝をついて草をかき分け、素手で地面を掘った。爪のあいだに黒い土が詰まり、指先から血がにじんでも掘りつづける。それでも、石ころひとつ、錆びた釘一本出てこない。土に染みついていたはずの炭の匂いも、焦げた鉄の匂いもしなかった。鼻に届くのは、青臭い草の根の匂いだけだった。
あの白い光は、町を壊したのではなかった。町をまるごと、根こそぎどこかへ持ち去っていったのだ。
掘った土を握りしめたまま、俺はしばらく動けなかった。
この火を握れるようになって、ロアに帰る。焼け跡で、俺はそう決めた。村で刀を振っていた二年のあいだも、何度この町を思い浮かべたかわからない。裏通りの狭い鍛冶場と、炭のはぜる音と、鼻で短く笑う親父の顔を。
その帰る場所が、本当に、どこにもなかった。
腰の鞘が、じわりと熱を帯びはじめる。二年前の焼け跡と同じ熱いかたまりが、喉の奥へせり上がってくる。
泣き言は吐かないと決めたのだ。俺は奥歯を噛みしめ、握っていた土を放して刀の柄を握った。小指と薬指から、ゆっくりと力をこめていく。
頭の奥の声は、何も言わなかった。
風が草原を渡っていった。少し離れた丘のふもとに、細い煙が何本も立ちのぼっているのに気づいたのは、そのときだった。
◇
煙の下にあったのは、粗末な天幕と、板を打ちつけただけの小屋の群れだった。
転移事件で散り散りになったフィットア領の人たちが、少しずつ戻ってきてここに身を寄せているらしい。天幕のあいだでは女たちが大鍋で薄い麦粥を煮ていて、焦げた麦の匂いが風に乗って流れてきた。
日に焼けた顔つきも言葉の訛りも、ロアの市場で毎日すれ違っていた人たちと同じだ。それなのに、知っている顔はひとつもなかった。
野営地の真ん中に、大きな板が立てられている。
人の背丈より高い板に、羊皮紙や木札がびっしりと打ちつけてある。どれにも人の名前が書かれていた。板の前では何人もが足を止めて、黙って札の文字を追っている。指で一枚ずつなぞりながら、唇だけを動かしている老婆もいた。
「どなたかお探しですか」
後ろから声をかけられて振り返ると、身なりの整った初老の男が立っていた。仕立てのいい上着は袖口がすり切れ、裾には泥が跳ねている。目の下には濃い隈があったが、背筋はまっすぐに伸びていた。
「この野営地のまとめ役をしております、アルフォンスと申します。もとはボレアス家にお仕えしておりました」
ボレアス家。あの日、白い光が落ちる少し前に親父と噂をしていたお屋敷だ。この人は、そこの執事だったのだ。
アルフォンスは、板のほうへ手を向けた。
「左が無事のわかった方、右がまだ行方の知れない方のお名前です。……字がお読みになれないようでしたら、私が読み上げましょう。皆さん、たいていはそうなさいますので」
「ありがとうございます。でも……簡単な字なら読めます。自分で探させてください」
鍛冶屋の倅が字を読めるとは思わなかったのだろう。アルフォンスは少しだけ意外そうに目を瞬かせたが、すぐに静かにうなずいて一歩後ろへ控えた。親父が近所の隠居に頭を下げ、鉄の目方や帳面の読み書きを俺に習わせてくれていたおかげだった。
俺は板の前に立った。
右側から探す。行方の知れない者の札は、左側の何倍もあった。端から一枚ずつ名前を追っていく。知らない名前ばかりが続いた。
やがて、俺の目が一枚の札の前で止まる。
『ロアの鍛冶屋ヘルマンの息子、レン。十二歳。黒い髪。片刃の刃物を持っていたはず』
心臓が、どくんと大きく鳴った。俺の名前だった。俺が、行方の知れない者としてここに貼られている。
札の下には、もう一行だけ書き足されていた。
『生きているなら、ミリス神聖国の捜索団へ。父は無事だ』
さらにその下、板そのものに、文字ではないものが刻みつけてある。
短い横線が三本と、それを貫く斜めの線が一本。
息が止まった。
その印を、俺が見間違えるはずがなかった。親父が打った鍬にも、鎌にも、荷車の鋲にも、仕上げの最後に必ず
震える指で、刻まれた線をなぞる。羊皮紙に書いたのではない。板の木肌を、刃物の先でじかに抉った溝だった。溝の縁が少しささくれている。大きな手で、力任せに削ったのだ。
「……あなたが、あの方の」
背後で、アルフォンスが静かに息を呑む気配がした。俺の横に並び、木肌の刻印を見つめる。
「その札でしたら、よく覚えております。去年の秋のことです。ずいぶんと背の高い鍛冶屋が、遠くから歩いて戻ってまいりましてね」
アルフォンスの声は、どこか懐かしむように穏やかだった。
「息子を探している、自分は字が書けないから代わりに書いてくれ、とおっしゃる。それで私が筆を取ったのですが、最後のところだけは、どうしても自分の手でやらせてくれと言って聞かないのです。腰の鉈を抜いて、その場で板を削っていかれました。これを見れば息子には必ずわかる、と」
俺は板の前に両膝をついた。刻印の溝に指をかけたまま、顔を上げることができない。
「その方は、ミリスへ向かわれました。捜索団に加われば、息子さんも探しやすいだろうとおっしゃって。……私も、お屋敷の皆様の行方をお探ししている身です。あの方のお気持ちは、痛いほどわかりました」
生きている。親父は、生きている。あの白い光に呑まれてどこかへ飛ばされて、それでも生き延びて、ここまで歩いて戻ってきた。字も書けないくせに俺の名前を板に貼らせて、俺にしかわからない印を、自分の手で刻んでいった。
二年前の焼け跡からずっと喉の奥につかえていたものが、一気にほどけていく。
涙が止まらなかった。泣き言は吐かないと決めていたのに、目の奥からあふれてくるものを、どうしても止められない。肩が震えて、うまく息が吸えなかった。地面についた手の甲に、ぼたぼたと雫が落ちた。
頭の奥の声は、何も言わなかった。心が乱れれば熱を漏らすはずの鞘も、このときばかりは、冷えた鉄のように静まり返っていた。
俺は泣きながら、少しだけ笑った。
「あの親父……字くらい、覚えろよ……」
アルフォンスは何も言わずに、そっとその場を離れていった。
◇
日が傾くころ、俺はアルフォンスに頼んで、羊皮紙と筆を借りた。
自分の札の隣に、新しい札を一枚打ちつける。習いたての子供のような下手な字で、ひと文字ずつ、ゆっくりと書いた。
『レン。生きている。親父を追って、ミリスへ行く』
書き終えてから、背負い袋から作業用の小刀を取り出した。札の下の板に、親父の刻印と同じ線を、同じ順番で刻んでいく。横に三本。それを貫いて、斜めに一本。
鉄床の向かいで何千回と見てきた手順なのに、自分の手で刻むのはこれが初めてだった。
刻み終えた印は、親父のものより線が細く、斜めの線も浅かった。
それでいい。いつか親父に会ったら、この印を見せて、まだまだだと鼻で笑われればいい。
「……お父上と、同じ印ですね」
隣で見ていたアルフォンスが、静かに言った。
「はい。親父の、鍛冶屋の刻印です」
俺は小刀を袋に戻してから続けた。
「親父は、自分の打った道具には全部この印を入れていました。誰が打ったものか、使う人にわかるように。具合が悪くなったら、いつでも持ってこいって。……いつか、俺がこの印を継ぐはずだったんです」
アルフォンスはしばらく黙って、大小ふたつ並んだ刻印を見つめていた。それから、疲れのにじんだ目を細める。
「でしたら、もう継いでおられるのでしょう」
胸の奥が熱くなって、俺はうまく答えられなかった。ただ黙って、深く頭を下げる。
顔を上げると、アルフォンスは南に連なる山脈のほうへ目を向けていた。
「……ミリスへ向かわれるなら、山脈のふもとに沿って南へ下り、赤竜の
「ありがとうございます」
今度は、ちゃんと言葉にして返せた。
◇
翌朝、俺は野営地を発った。
ロアのあった草原を、もう一度だけ振り返る。昨日と同じで、そこには何もない。それでも、昨日ほど胸の奥は冷たくなかった。
帰る場所は、この草原の下にはない。けれど、なくなったわけでもない。親父がいるところが、俺の帰る場所だ。そしてその親父は、俺が向かうのと同じ、海の向こうにいる。
赤竜山脈の壁を左手に見ながら、俺は街道を南へ下った。
川を渡り、小さな宿場町に泊まっては、鍛冶場の隅を借りて農具の打ち直しを引き受け、路銀を稼いだ。宿の主人が持ってきた錆びた鎌を打ち直し、最後に小さくあの刻印を入れて返すと、主人は不思議そうな顔をしたあとで、何度も礼を言った。
南へ下るにつれて、宿場の酒場で同じ噂を耳にするようになる。
「デッドエンドって連中を知ってるか? 南の谷のほうから、こっちへ向かってきてるらしいぜ」
南から荷を運んできたという行商人が、麦酒の杯を片手に、まわりの客へ得意げに話していた。
「額に赤い石みたいな目がある、槍使いの大男。それに、赤い髪の、やたらと気の荒い剣士の娘。あとは杖を持った、まだ年端もいかねえ子供の魔術師だ。三人とも腕は確かで、行く先々で魔物だの人さらいだのを片っ端から片づけてるんだと。おまけにその子供の魔術師ってのが、詠唱もしねえで魔術を撃つって話でな」
詠唱をしないで、魔術を撃つ子供。
俺は、頼まれていた鉈を研ぐ手を止めた。
ロアの鍛冶場で、親父がぼそりと口にした噂を思い出す。お屋敷でエリスお嬢様に勉強を教えていた、詠唱なしで魔術を使う年下の家庭教師。名前はたしか、ルーデウスといった。それに、領主様の孫娘が燃えるような赤い髪をしていることは、ロアの子供なら誰でも知っていた。
まさかな、と思いながら、俺は研ぎかけの鉈に目を落とす。研ぎ水に映った自分の顔が、少しだけ揺れていた。
◇
山脈を割るもう一本の谷、赤竜の下顎が見えてきたのは、空から白いものがちらつきはじめたころだった。
上顎よりも、ずっと狭い谷だった。黒っぽい岩壁が両側から迫り、道は荷馬車一台がやっと通れるほどの幅しかない。岩の割れ目には、溶け残った古い雪がこびりついている。谷の奥へ向かうほど岩壁は高くなって、その上に、灰色の空が細い帯のように残っているだけだった。
谷の入口に差しかかったとき、街道の鳥の声がぴたりと止んだ。
風は吹いている。谷の奥から、細かな雪が風に乗って流れてくる。それなのに、鳥も獣も、何ひとつ鳴いていない。雪まじりの風が頬を撫でるたびに、腕の産毛がちりちりと逆立った。
腰の鞘が、ひとりでに熱を持ちはじめる。
『――止まれ、小童』
頭の奥で声がした。灰の野原で何百回となく俺を殺してきた、あの老人の声だ。
だが、その声の響きが違った。いつもと同じ低さなのに、ぴんと張った弓の弦のように硬い。
『……この先の谷の奥に、理の外にある化け物がおる』
「あんたより、強いのか」
『たわけ。儂と比べてどうする。問題は今のお主じゃ』
声は、そこで一度重く沈んだ。
『引き返せ。アレと今のお主が立ち向かったところで犬死にすらならん』
引き返せ。……一瞬、耳を疑った。
灰の野原でどれだけ無様に転がされようと、あの爺さんはいつも「立て」としか言わなかった。
敵に背を向けることなど、ただの一度も許されないと言うかのように。
その爺さんが、今は逃げろと言っている。
鞘を握る手のひらに、じっとりと冷たい汗がにじんだ。
その警告に重なるように、谷の奥から、鋼のぶつかり合う甲高い音が聞こえてきた。
一度や二度ではない。
槍の柄が風を裂く唸りと、短く鋭い気合いの声が、途切れることなく続いている。
ロアの鍛冶場で、冒険者や衛兵の槍を何本も研いできた俺にもわかる。
あそこにいるのは、俺が研いだどの槍の持ち主とも比べものにならない、とてつもない使い手だ。
その音が、ふいに途切れた。
代わりに、重い荷を岩壁へ力任せに叩きつけたような鈍い音が、ひとつだけ谷に響く。
間を置かずに、今度は若い女の甲高い気合いが上がった。剣を振り抜く鋭い風切り音が続く。
けれど、それも一瞬で終わった。
剣が何かに当たってぴたりと止まる音がして、それからまた、何かが岩壁に叩きつけられる音がした。
続いて、谷の奥の空気が、白く膨れ上がった。
とてつもない力がひとところに集まっていくのが、ここにいてもわかる。
雷雲の真下に立ったときのように腕の肌がびりびりと粟立ち、鼻の奥に焦げた匂いが刺さる。
足の下の地面が細かく震えて、両側の岩壁から、積もっていた雪がばらばらと崩れ落ちてきた。
来る、と身構えた。
ところが次の瞬間、光も震えも、ふっと消えてしまった。
あれほどの力が、どこにもぶつからないまま、見えない大きな口に丸ごと呑みこまれたように、跡形もなくなっていた。
最後に、ひとつだけ音がした。
湿った、ひどく小さな音だった。
肉に何かが深く沈む音だ。
村に下りてきた熊の喉元へ、猟師たちが至近から矢を射こんだときに聞いた音に、少し似ていた。
それきり、谷は静まり返った。
耳鳴りだけが残る中で、俺の足は、氷に閉じこめられたように動かなかった。鞘を握る手が小刻みに震えている。頭の奥の声は、引き返せと言った。俺の体も、同じことを叫んでいた。
叫び声が響いたのは、そのときだった。
若い女の声だった。悲鳴というより、誰かの名前を何度も呼んでいるような、喉が裂けそうな叫びだった。その合間に、とぎれとぎれの言葉が混じる。誰か。誰でもいいから。お願いだから。
岩壁に跳ね返る声の中から、ひとつの言葉だけが、はっきりと耳に届いた。
――ルーデウスが、死んじゃう。
ルーデウス。ロアの鍛冶場で、親父の口から聞いた名前だった。
知らない声だった。それなのに、あの絶望の色を俺は知っていた。目の前で一番大事なものを奪われかけて、自分の手では何ひとつ止められない、どうしようもない絶望から絞り出された声だ。
谷の奥で誰が戦っていたのかはわからない。どちらが正しいのかなんて関係ない。あれは、理不尽に命をすりつぶされようとしている人間の悲鳴だ。あの日、俺の手の届かなかったところで声にもならずに呑みこまれていった絶望と、同じ色をしている。
俺は二年間、毎晩あの灰の野原で殺され続けてきた。死ぬたびに立ち上がり、また前へ出た。あれだけ死線を越えてきたのは、今日この瞬間、あの悲鳴に背を向けないためだったはずだ。
俺は、谷の奥へ向かって一歩を踏み出した。
『……愚か者めが。無駄死にを許した覚えはないぞ』
底冷えするような、絶対的な圧力を持った声が響いた。
それでも、足は止まらなかった。握りしめた手の下で、黒い鞘が焼けるように熱くなっていた。
◇
谷の奥へ駆けた。
崩れ落ちてきた雪の塊を、沢の飛び石を渡るときの足で越えていく。どこを踏むかは目ではなく足の裏が決めた。二年のあいだ、濡れた石の上で何百回と足を滑らせ、沢へ落ちながら覚えた足だった。
谷が大きく曲がった先で、空気の匂いが変わる。雷が落ちたあとのような、鼻の奥を刺す焦げ臭さが、まだ谷底に溜まっていた。右手の岩壁には、人の体ほどの大きさの窪みが二つ、蜘蛛の巣のようなひびを広げて残っている。どちらも、人ひとりを力任せに叩きつけなければできない跡だ。
その下に、三人が倒れていた。
岩壁の根元には、背の高い男がうつぶせに伏している。髪を剃り落とした頭の、額の真ん中に、赤い石のような目がひとつ埋まっている。宿場の酒場で聞いた槍使いだと、すぐにわかった。手から離れた槍が、少し先の雪に転がっている。背中はかすかに上下していたが、起き上がる気配はなかった。
その少し手前で、赤い髪の少女が雪の上を這っていた。
岩壁に叩きつけられたのだろう。額が割れて、顔の半分が血で濡れていた。片方の足は雪に引きずられるばかりで、まるで力が入っていない。それでも少女は、肘と、まだ動くほうの膝を使って、少しずつ前へ進んでいた。爪の剥がれかけた指が雪をつかむたびに、赤い筋が残る。
燃えるような赤い髪だった。
少女が這っていく先に、少年がひとり、仰向けに倒れていた。
俺より二つほど年下に見える。そばには杖が一本落ちていた。少年の胸の真ん中には、拳がひとつ入るほどの穴が開いていて、そこから流れ出た血が、背中の下の雪を黒に近い赤に染めていた。唇がかすかに動いている。息をしているのか、最後に何かを言おうとしているのか、ここからではわからなかった。
俺は、その少年に会ったことがない。顔も知らない。それでも、そばに落ちた杖と、赤い髪の少女と、さっき谷に響いた名前がそろえば、ほかに考えようがなかった。
あの子が、ルーデウスだ。親父が噂していた、お屋敷の家庭教師だ。
そしてその少年のほうへ、ひとりの男が、急ぐ様子もなく歩いてきていた。
一度は谷の向こうへ立ち去りかけていたらしい。雪の上には、遠ざかっていく足跡と、引き返してくる足跡が、二筋並んで残っていた。男の少し後ろには、白い仮面をつけた細い人影が立っている。何か言いかけて男を呼び止めたところだったのか、男の背へ手を伸ばしかけたまま固まっていた。
男を見た瞬間、全身の血が、足の裏から雪の下へ抜けていくような気がした。
銀色の髪をした、背の高い男だった。顔立ちは整っていて、傷ひとつない。三人をここまで打ち倒しておきながら、外套には返り血の一滴もついておらず、息ひとつ乱れていない。それが何よりも恐ろしかった。あの男にとって、今の戦いは、戦いと呼ぶほどのものですらなかったのだ。
膝ががくがくと笑い、奥歯がかちかちと鳴りだす。喉の奥に酸っぱいものがこみ上げてくるのを、俺は無理やり飲み下した。
ふと、這っている少女の顔が目に入った。少女もまた、あの男を見ていた。血に濡れた顔の中で、その目だけが、怯えとは違うもので歪んでいる。汚いものでも見るような、心の底から相手を憎んでいる目だった。
俺の胸にあるのは、恐ろしさだけだった。少女のような目であの男を見る理由は、少なくとも今の俺には見つからない。
男が、こちらを向いた。
金色の目だった。白目の勝った、刃物で切りこんだように鋭い目が、まっすぐに俺を射抜いていた。
その目に見すえられた瞬間、肺の中の空気が、ごっそり抜けていった。頭の上から、見えない大きな手で押しつぶされるようだった。膝が折れかけ、雪に手をつきそうになる。
この息苦しさには、覚えがあった。
灰の野原で、初めてあの老人に見すえられた夜だ。息ができず、心臓がきしんで、膝が折れて、俺はそのまま死んだ。あのときの爺さんの目は、炉の前に立ったときのように熱くて、鉄床を背負わされたように重かった。この男の目は違う。冬の沼に頭まで沈められたように冷たくて、どこまで沈んでも足が底につかない。
それでも、押しつぶされる苦しさそのものは、あの夜と同じだった。
そして俺は、その苦しさの下で、二年かけて立てるようになったのだ。最初は、目を向けられただけで死んだ。半年かけて、その目の前で立っていられるようになった。一年かけて、一歩前へ出られるようになった。そして二年目の冬、あの杖の一撃を、この両手で受け止めた。
折れかけた膝に、力をこめた。
素振りを始めた最初の朝、腰が浮いておると爺さんに言われた。それから二年間、毎朝そうしてきたように、踵を雪の下の土へ沈める。足の裏で地面をつかみ、腰を落とし、背骨を一本ずつ積み上げるようにして、ゆっくりと体を起こしていく。
膝の震えは止まらなかった。歯も鳴りつづけている。それでも、俺の足は、雪の上にまっすぐ立っていた。
何が起きたのか、俺は知らない。この男と三人のあいだに、どんな事情があったのかもわからない。
けれど、目の前にあるものなら見えていた。
血を流して倒れているのは、子供が二人と大人がひとり。立っているのは、傷ひとつない銀髪の男だけだ。その男が、胸に穴の開いた少年のほうへ歩いていく。そして足の動かない少女が、血の筋を引きずりながら、同じ少年のほうへ必死に這っている。男より先に、少年のそばへたどり着こうとするように。
あの子は、少年をあの男から守ろうとしている。自分の体ではもう間に合わないと、わかっていながら。
それだけわかれば、十分だった。あの子がどれだけ這っても届かない場所に、俺の足なら、今すぐ届く。
俺は男と少年のあいだへ駆けこみ、倒れた少年を背にして、男の正面に立った。
「……うそ、でしょ……」
すぐ横で、這っていた少女がかすれた声を漏らした。
誰でもいいから助けてと叫んでいたのは、この子だ。その子が、駆けつけたのが俺のような子供だと見て取った途端、血に濡れた顔をくしゃりと歪めた。
「なんで……なんで、子供なのよ……! だめ、逃げなさい……! あんたが来たって、どうにもならないのよ……! ルイジェルドだって、勝てなかったんだから……!」
最後のほうは、声がかすれて裂けていた。自分も立てない体で、それでも見ず知らずの俺を逃がそうとしている。
男が、俺の五歩ほど手前で足を止めた。
「……誰だ、お前は」
短い問いだった。たったそれだけなのに、耳に届いた途端、背筋を冷たいものが這い上がった。
男は、俺の顔を穴が開くほど見つめている。額から目、目から顎へと、金色の目がゆっくりと俺の顔をなぞっていく。やがて、その眉間に、ほんのかすかなしわが寄った。
「知らん顔だ。……ヒトガミという名に、覚えはあるか」
「……知らない。誰だよ、それ」
金色の目が、わずかに細くなった。
「……二人目か」
男は、俺の後ろに倒れている少年へちらりと目をやった。それから左右の岩壁の上を、ゆっくりとなぞっていく。崩れた雪の陰も、谷の入口のほうも、ひとつずつ確かめていく。
この谷に、まだ誰かが隠れていると疑っているのだ。この谷にいるのは、あの白い仮面を別にすれば、倒れた三人と俺だけなのに。
「誰に言われて来た」
「……誰にも」
「ならば、なぜ来た」
「声が聞こえたからだ。……誰でもいいから助けてって、あの子が叫んでた。それが聞こえたから来た。ほかに理由なんかない」
男は答えなかった。
金色の目が、俺の顔から腰の黒い鞘へ、震えている膝へと、ゆっくり下りていく。俺の答えを頭の中で裏返して、嘘や企みがないか確かめているような沈黙だった。
その沈黙のあいだに、男の目が一度だけ、俺の後ろの少年へ向いた。
妙だった。灰の野原で二年間、俺は毎晩、杖を振り下ろす直前の爺さんの目を見てきた。殺しにくる直前、爺さんの目は決まって刃先のように細くなる。それを見逃した夜は、必ず首を折られて死んだ。だからその目つきだけは、骨の髄まで覚えこまされている。
この男が少年を見る目には、それがなかった。自分が胸に穴を開けた子供を見下ろしているのに、とどめを刺そうとする気配が、ひとかけらも見当たらない。
じゃあ、何のために引き返してきたんだ。
答えが出るより先に、金色の目が俺に戻ってきた。今度ははっきりと、俺を値踏みする目だった。
背中の向こうで、少年の喉が、ひゅう、と細く鳴った。
その音を聞いた途端、目の前の雪原に、ロアの裏通りが重なった。白い光が通りを呑みこんでいく。俺の腕をつかんでいた親父の指が、一本ずつ引き剥がされていく。つかみ返そうとして伸ばした手の先には、もう何もなかった。
あのとき、俺の手は何にも届かなかった。
けれど今は、すぐ後ろに、まだ息をしている子供がいる。手を伸ばせば届くところに。
あの男が何をしに戻ってきたのかは、わからない。本当に殺す気はないのかもしれない。それでも、この子をあの男の手の届くところに置いたまま、俺だけが下がることはできなかった。
喉の奥で、言葉がせり上がってきた。二年前、焼け跡で名乗れと言われて、名乗れなかった言葉だ。何十万回と刀を振ってきた今も、まだ一度も口にできていない。
俺は、この世の――
その先は、やはり出てこなかった。喉の奥で詰まって、どうしても声にならない。今の俺には、まだそれを名乗れるだけのものがない。あるのは、この男の前で震えている足だけだ。
それでもいい。名乗れなくても、ここに立つことはできる。
『……退かぬのじゃな』
『ならば、儂はもう止めん』
止めないのか。
一瞬、耳を疑った。あれほど引き返せと言っていた爺さんが、あっさりと引いた。
『ひとつだけ守れ。火は使うな。使えば、お主の後ろにおる者たちまで灰になる』
腰の鞘が、手のひらの下で熱く脈打っていた。首だけで、少しだけ振り返る。胸に穴の開いた少年と、雪を這う赤い髪の少女。二年前の森で、狼の群れが黒く縮んで灰に崩れていくのを、俺はこの目で見ている。熱がひとすじでも鞘の外へ噴き出せば、今度はあの二人がそうなる。
俺は黙ってうなずいた。
『勝とうと思うな。お主が刃を交えるのは、あの男ではない。いつであろうと、お主自身じゃ』
爺さんは、そこでほんの少しだけ間を置いた。
『それと、小童。この火がお主の刀に宿ったは、偶然ではない。……その意味、己で考えよ』
偶然ではない。二年間、この火がどこから来たのか一度も語らなかった爺さんが、初めてそれを口にした。なぜ止めないのかも、その言葉の意味も、問い返している暇はなかった。それでも、胸の奥が熱くなった。刀の火とは違う熱さだった。
「……ああ。見てろ」
腰帯から、鞘ごと刀を引き抜いた。
両手で柄を握る。小指と薬指で強く握り、親指と人差し指は添えるだけ。息を吸いながら、鞘ごとの刀を頭の上へ構えた。二年間、毎朝、千回、二千回と振り下ろしては、杭の印の前でぴたりと止めてきた構えだ。
鞘が熱い。中の刃が唸っている。外へ噴き出したがる火を、手のひらの内側へ押しこめた。
男は構えもせず、両腕を体の脇に下げたまま、こちらを見ていた。鞘に納めたままの刀に、金色の目がわずかに動く。
「抜かないのか」
「......抜けないんだよ」
吐き捨てるように答えた。
二年間、毎朝柄を引いて、指一本分も動かなかった刀だ。
この男の前で見栄を張ったところで、どうにもならなかった。
男は、小さく息を吐いた。
「……ならば、確かめる」
言い終わるより先に、その踵が、雪の上でわずかに沈んだ。
凄まじい圧力。
それを見た瞬間、俺の体は、考えるより先に雪を蹴っていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
感想への個別のお返事はできていませんが、いただいたものは全部しっかり読んでいます。本当に励みになっています。ありがとうございます。