この刃、未だ名を持たず 作:テスト中
相手が間合いを詰めてくるより先に、俺のほうから踏みこんでいた。
沢の飛び石を渡るときの足で、雪の上を音もなく滑りこむ。
懐に入ると同時に、頭上の鞘を、吐く息と一緒に振り下ろした。狙いは眉間。
村に下りてきた熊の頭蓋を割ったのと、寸分違わない軌道だった。
――――当たる。
そう思った瞬間、鞘の先が宙でぴたりと止まった。
突き出された右手の、人差し指と中指。
そのたった二本のあいだに、黒い鞘の先が挟まれている。
岩壁に全力で鎚を叩きつけたとき以上の衝撃が逆流してきた。
手首から肘、肘から肩へとしびれが走って、指の感覚が一瞬で消える。
それなのに、鞘を挟んだ二本の指には、これっぽっちも力が入っているように見えなかった。
手のひらの皮が何度破れても、雪の朝に指の感覚が消え失せても。
二年間、ただの一日も欠かさず振りつづけてきた一振りが、たった指二本で止められている。
だが、鞘の先を挟んだまま、銀色の眉がわずかに動いた。
「……闘気もなしに、その振りか」
褒められたのか、ただ見たままを口にしただけなのか。
表情は少しも変わらず、俺にはどちらとも判断がつかなかった。
その指が、軽く振られた。
それだけで、俺の体は宙に浮いていた。
鞘ごと放り投げられて、雪の上を二度、三度と転がる。
背中から岩に叩きつけられ、肺の中の空気がすべて押し出された。
「ガッ゛!?」
目の前が白く瞬いて、口の中に鉄の味が広がった。
かすむ視界の先で、銀髪の男はすでに少年のほうへ足を向けていた。
俺のほうは振り返りもしない。
このまま、ここで死ぬのか。
雪に頬を押しつけたまま、まぶたの裏にロアの野営地の板が浮かんだ。
行方の知れない者の側に打ちつけられた、俺の札。
ここで死ねば、親父はミリスで、帰ってくるはずのない俺をいつまでも待ちつづけることになる。
二度も生きて、これか。
前の人生は、いつ、どうやって終わったのかも覚えていない。生まれ直したこの世界でも、鉄を打って、刀を振って、最後は名前も知らない男に、雪の上で虫のように潰されて終わる。
いったい何のために、俺は二度も生きたんだ。
――――――――冗談じゃない。
死ぬのは怖い。怖くてたまらない。
けれど、誰の目にも何ひとつ残せないまま消えるのは、もっとごめんだ。
ひとつでいい。俺がここにいたという印を、何かに刻みつけてやる。
それができれば、二度生きた意味くらいにはなる。
立て。
夢の中、あの野原では、これよりひどい殺され方を何百回もして、そのたびに立ち上がってきたじゃないか。
雪に手をついた。息をするたびに、折れた肋に鉄串を突き刺されるような痛みが走る。
膝を立て、鞘を杖にして、体を引きずり起こす。
ふらつく足で雪を蹴った。
少年のほうへ歩いていく銀髪の男の背中を追い越し、その前へ回りこむ。
男と少年のあいだに、自分の体をねじこんだ。
男の足が止まった。
金色の目がわずらわしそうに細められ、俺を見下ろしている。
「なぜ立つ。見ず知らずの子供だろう」
「……見ず知らずでも、ここでどいたら、俺がここにいた意味がなくなる」
返事はなく、金色の目が俺の手の中の黒い鞘をもう一度だけ静かに流し見た。
――――動く。
二度目は、正面からは行かない。
右へ跳ぶと見せかけて、左の足で雪を蹴る。
金色の目が、右へ流れた俺の肩を追い、ほんの一瞬だけ、本当の俺の体から遅れた。
雪の上で、相手の足が半歩だけ動く。
その隙に、男の左脇へ回りこんだ。右手を柄から離し、鞘ごと刀を左の脇に抱えこむ。
空いた右の肘を、男の脇腹へ叩きこんだ。
杉の幹に縄を巻き、ひと冬で擦り切れるまで打ち込み続けた一撃。
ばきっ、と乾いた音が弾けた。
音を立てたのは、男の脇腹ではなかった。俺の肘のほうだった。
杉の幹どころではなかった。まるで鉄床だ。
痛みが肘から肩へ駆け上がった。
目の前の男は、髪の毛一本ほども揺らいでいない。
止まらずに左の膝を突き上げ、もはやまともに振れない右の拳をそのまま無理に振り抜く。拳の皮が裂けて、白い外套に俺の血が点々と散った。
それでも銀髪の男は、両腕を下げたまま俺を見下ろしていた。
打っているのは俺なのに、壊れていくのも俺だけだった。
腹の底で、熱が暴れだした。
鞘口からひと筋の白い湯気が噴き出し、足元の雪がじゅっと音を立てて溶けていく。
刃の内の火が、まるでここから出せと鞘の内側を叩いている感覚がした。
この火を今ここで全部解放できるのなら、こいつにも届くかもしれない。
「――――もういいから……!」
すぐ横で、雪に伏せたままの赤い髪の少女が叫んだ。
「もういいから、逃げなさいよ、馬鹿……!」
その声に、はっと息を呑んだ。
視線の端に、胸に穴の開いた少年と、血に濡れた顔でこちらを見上げている少女が入る。
ここでこの火を漏らせば、あの二人も、倒れているもう一人の仲間らしき男も灰になってしまうかもしれない。
俺は両手で柄を握り直し、奥歯を噛みしめた。
小指と薬指を残して力を抜き、内臓を素手で握りつぶされるような痛みに耐えながら、暴れる火をようやく鞘の奥へ押し戻す。
顔を上げると、金色の目が俺の手元の鞘に注がれていた。
「……魔力が、ない。闘気も、ない」
鋭い視線が、黒い鞘の鞘口へと細められる。
「……その鞘の内に、何がある」
答えられるはずがなかった。その答えは、俺自身まだ聞かせてもらっていない。
相手が、一歩前へ出た。今度は向こうから間合いを詰めてくる。
来る、と思ったときには、その手が俺の握る鞘をつかんでいた。
指が黒い鞘の腹に食いこむ。奪い取られる。
そう感じた瞬間、俺は骨がきしむほど、鞘を握る手に力をこめていた。
この刀だけは、渡さない。
火造りで何度も失敗して、親父にはまだ腕が足りねえと突き放されながら、それでも三か月かけて最後まで打ち上げた一本だ。
これを手放したら、俺にはもう何も残らない。
鞘口が、甲高く鳴いた。
鞘をつかむ指のすき間から、ちりちりと細かな火の粉が散る。
柄を握る俺の手のひらにまで、押さえこんでいたはずの熱がじりじりと逆流してきた。
ふいに、鞘をつかんでいた手が離れた。
その反動で、俺は二歩、三歩とよろけて後ろへ下がる。
鞘を握る両手が震えて止まらない。肋は折れ、肘には絶え間なく激痛が走り、拳の皮はめくれ、指のあいだから血が垂れていた。
呼吸は苦しくて立っているのも奇跡だと思えた。
銀髪の男は追ってこなかった。鞘をつかんでいた自分の指先を、黙って見下ろしている。焼けた跡などどこにもない。
「…………」
それでも、指の腹を親指でゆっくりとこすり合わせながら、しばらくそこから目を離さなかった。
その後ろで、白い仮面の人影がわずかに身を乗り出し、すぐに足を止めたのが見えた。
一発も、まともに効いていない。
それが妙におかしくて、喉の奥から笑いがこみ上げてきた。
ぼんやりとした頭の隅で、前の人生で耳にした、ある格闘家の言葉を思い出した。
「……精度は力に勝り、機は速さを凌駕する」
乾いた唇から、ひとりごとがこぼれた。
「なによ、それ……! なに笑ってんのよ……! わけわかんないこと言ってないで、いいから逃げなさいよ……!」
すぐそばで、少女が雪を握りしめて叫んだ。涙と血で、顔がぐしゃぐしゃになっている。
「……違いない。今の俺には、どっちもありゃしない」
血の味を吐き出しながら、俺はこいつから目を離さずに答えた。
口の端が勝手に吊り上がる。力もない。速さもない。
なにもかもがこいつの前では何ひとつ通じない。
わかっていたことだけど笑えて来る。
それでも、俺の手の中にはひとつだけ残っているものがある。二年間、毎朝振りつづけてきた一振りだ。
やるぞ、もう一度だ。
笑みを消して、俺は鞘を頭の上へ構え直した。
右手は既に上がらない。
左手のみでの一撃。あまりに無謀。
恐らく次はない。あっけなく俺は死ぬ。
それは嫌だな。
諦めることを諦めよ。
それは、爺さんの言葉だったろうか。
眼前の男を見据える。
どういうわけかその金色の目が、鞘口のすき間に吸い寄せられたまま動かない。
男は、隙だらけの俺に一歩も踏みこんでこなかった。
そのときだった。
腹の底で暴れていた熱が、流れる向きを変えた。
さっきまで、熱は鞘の口から外へ噴き出そうとしていた。
それが今は、柄を握る手のひらから逆に流れこんで、手首へ、肘へ、肩へと、腕の中を這い上がってくる。
焼けるように熱いのに、少しも痛くない。折れた肋の痛みが、ほんの少しだけ遠のいた。
鞘の内側で、刃が鳴った。
ちん、と澄んだ鋼の音が響く。
鞘口のすき間から、細い赤い光がひと筋だけ漏れた。
二年間、どれだけ引いても指一本分も動かなかった刃が、鞘の中でかすかに浮いたような気がした。
まさか、抜けるのか。今なら。
柄を握る指に、思わず力がこもりかけた。
その瞬間、赤い光がすっと鞘の中へ引っこんだ。
刃の浮いた感覚も、嘘のように消える。
ふざけんな。
奥歯が砕けそうなほど噛みしめた。
ここで抜けなくて、どこで抜けるんだよ……!
『――たわけ』
頭の中で、爺さんの一喝が落ちた。
『その刀は、抜くべき時が来れば、気づいたときには抜けておる。あれほどの者を前にして、余所事に気を取られるは三流のすることじゃ。今のお主にできることは――』
『――――――振れ』
――――振れ。
その一言が、体の芯にすとんと落ちた。
ばらばらに暴れていた息が、ひとつにまとまっていく。
目の前の雪原に、灰の野原が重なった。どこまでも灰の積もった、音のないあの野原。
同じだ。相手が爺さんから、目の前の男に変わっただけだ。
灰の野原で、俺は一度も勝ったことがない。
やってきたのは、振り下ろされる杖の前で、一秒でも長く立っていることだけだった。
だったら、今もそれでいい。こいつの前で、何秒立っていられるか。それだけだ。
その数秒が長ければ長いほど、みんなが助かるほうへ転がるかもしれない。
……そう信じるしかない。少しでもいいほうへ向かうと、思うしか――
『気を散らすでない、たわけ!』
頭蓋の内側に、雷が落ちた。
肩がびくりと跳ね、曲がりかけた背骨が伸びる。
そうだ。振ったあとで全て考えればいい。
俺は頭の中から刀のことを追い出した。
勝とうと思うな、と爺さんは言った。
お主が刃を交えるのは、あの男ではない。お主自身じゃ、と。
こいつに勝てるわけがない。わかってる。
だから、勝つのはこいつにじゃない。
届くはずがないと、膝を震わせている俺自身にだ。
嘘でもいい。今だけは、この一振りなら届くと信じこむ。
――――さぁ行くぞ。
腹の底で、自身にそう言い聞かせた。
まわりの音が、遠のいていく。
谷を渡る風の音も、少女の荒い息も、背中の少年の細い喉の音も、雪の下へ沈んでいくように聞こえなくなる。残ったのは、自分の心臓の音と、目の前の静かな息づかいだけだった。
視界の端で、少女の肩がこわばった。白い仮面の人影が、雪を踏んで半歩後ずさる。
そして銀髪の男が、体の脇に下げていた右手を、ゆっくりと胸の前まで持ち上げた。開いた手のひらが、まっすぐ俺に向けられている。
男の口元から、白い息が細く流れている。その白が、ふっと途切れた。
途切れていた白い息が、また唇からこぼれはじめる。そのタイミングで、
踏みこんだ。
自分でも信じられないほど速く。
腕の中で燃える熱が、体を、肩も肘も手首も内側から押し出していた。
踏みきった足の下で雪が爆ぜ、間合いを詰めた覚えすらなく、気がついたときにはもう相手の懐にいた。
一撃目とは比べものにならない速さだった。
振り下ろす。
黒い鞘が、谷の冷たい空気ごと押し潰して唸りを上げる。
しかし、
突き出された手が、それを受け止めた。
今度は、指二本ではない。
開いた右の手のひらで真正面から、鞘の先をがっちりとつかんで止めた。
腕に返ってきた衝撃は、一撃目よりずっと重かった。
それでも、相手の腕は揺らがない。足も、雪の上から一寸も動いていなかった。
届かなかった。
すぐそばで、少女が息を呑んだ。
「ウソ……見えな、かった……なにも……」
鞘の先をつかんだ手は、すぐには離れなかった。
やがて、ゆっくりと鞘から指がほどかれ、その手のひらが返される。
鞘の先が当たっていたところに、親指ほどの黒い焦げ跡が残っていた。
皮膚の表面がわずかに縮れ、そこから細い煙がひと筋、冷たい谷の空気へ立ちのぼっている。
眉間に深いしわを刻んだまま、男は親指の腹で焦げた皮膚をなぞり、やはり何かを確認するかのようにもう一度なぞって、またしばらくそこを見つめていた。
男は手から顔を上げ、俺と視線を合わせる。
「……見事だ」
耳を疑った。からかわれたのかと表情を見たが、目の前の男はただまっすぐに俺を見下ろしているだけだった。
最後の一撃は、片手で止められた。
それでも、振りつづけた一振りが、あの手のひらに、たしかに跡を残した。
そう思った途端、張りつめていた膝から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「――眠れ」
次の瞬間、開いた掌が俺の胸の真ん中にあった。
いつ間合いを詰められたのかも、腕が動いたのかも見えなかった。
気がついたときには、もう掌がそこにあった。
衝撃は、遅れてやってきた。
胸の内側で、何かが砕けた。息が止まり、足が雪から浮き、体が真後ろへ吹き飛ばされていく。
真後ろには、少年がいた。
宙で体をひねった。肋の折れた胸が裂けるように痛む。
それでも無理やり腰をひねって、少年の上に落ちないよう、体を横へずらした。
少年の頭のすぐ脇の雪へ、俺は肩から叩きつけられた。
再度、頬に雪の冷たさが張りつく。
息が吸えない。息をしようとするたびに、胸の中で砕けたものがどこかへ刺さる。
口の端から温かいものがこぼれて、雪を溶かしていった。
「……くそ、ったれ……」
口からこぼれたのは、この世界に生まれ直してから、一度も人に聞かせたことのない言葉だった。
日本語だった。
少し離れたところで、白い仮面が弾かれたようにこちらを向いたのが見えた。
仮面の奥の瞳が俺を見ている。かすかに息を呑む音が聞こえた気がした。
けれど、それが何を意味するのかを考えるだけの力はもう残っていなかった。
視界の端が、黒く欠けていく。
すぐ横で、少年の胸がかすかに上下していた。まだ、息をしている。
俺の血と少年の血が、雪の上で混ざり合っていた。
手を伸ばした。冷たくなりかけた少年の指先に、俺の指が触れた。
どうか、助かってくれ。
そう願ったのを最後に、俺の目の前は真っ暗になった。
◇
あの子も、倒れた。
ルーデウスのすぐそばの雪に叩きつけられて、それきり動かなくなった。
エリスは呆然と、ただそれを見ていた。
誰でもいいから助けて、と叫んだのは自分だ。
それなのに、雪煙の向こうから駆けこんできたのが、自分とたいして歳の変わらない男の子だとわかった瞬間、背中を冷たい汗が伝った。
相手は、ルイジェルドでさえ手も足も出なかった男だ。
誰が来たところで、敵うはずがない。叫びながら、本当はわかっていた。
それでも、よりによって子供だなんて。あんな子があの男の前に立てば、一瞬で殺されてしまうかもしれない。
だから、逃げなさいと叫んだ。
それなのに、あの子は聞かなかった。
聞かないどころか、足音ひとつ立てずに、あの男の懐へ潜りこんでいった。
最後の一撃にいたっては、いつ動いたのかさえわからなかった。
気がつけば、もしかしたら、と思ってしまっていた。
本当に助けてくれるのかもしれない、と。
でも、結局は同じだった。
当たり前だ。ルイジェルドが倒れて、自分が倒れて、ルーデウスまで倒れたのだ。
闘気もない子供ひとりに、どうにかできるはずがなかった。
ルーデウスの胸は、まだかすかに上下している。
けれど、口元からこぼれる白い息はさっきよりずっと細く、唇は紫に近い色に変わりはじめていた。
そのルーデウスの指先に、倒れたあの子の指が触れている。
見ず知らずのルーデウスをかばって、自分も血を吐きながら、最後にそこへ手を伸ばしたのだ。
それを見つめるエリスの喉から、かすれた声が漏れた。
「……だれか、おねがい……」
雪の上の拳に力をこめ、ルーデウスのほうへ爪を立ててにじり寄ろうとする。
けれど、体は鉛のように重く僅かにしか動かない。
そのとき、銀髪の男がこちらへ歩きだした。
倒れたあの子の横を通って、すぐそばのルーデウスのほうへ。
「やめて……っ」
最悪の未来を想像して、エリスが声を絞り出した、その瞬間だった。
ゆらり、と。立ちのぼる煙のように、音もなくあの子が身を起こした。
――――誰……?
顔も、体も、着ている外套も、さっきまでと同じだ。
それなのに、そこに立っているのがまるで別の人間に見えた。
息が、詰まった。
ついさっき、雪煙の向こうに銀髪の男が現れたときと同じだ。
剣を抜くより先に、体のほうが勝てないと悟って、指先から冷えていく。
あのときと同じ途方もない気配が、今度はすぐ目の前の小さな背中から押し寄せてくる。
そして気が付く。熱い。途轍もなく。
視界に映る氷が、雪が、あっという間に消えはじめた。
その途方もない気配も熱も、あの子から出ていた。
音もなく、湯気すら立てずに、黒い鞘を中心にして雪が円く消え、水になる暇もなく乾いた黒い土がのぞいていく。
空から舞い落ちてくる雪のひとひらが、その頭の上まで来たところで、ふっと消えた。
次のひとひらも、その次も、溶けるより先に跡形もなくなっていく。
岩壁の割れ目にこびりついていた古い雪も、みるみる消えていく。
まわりの空気が、夏の石畳の上のようにゆらゆらと揺らぐ。
「なによ、これ……」
頬が火照り、額にじわりと汗がにじむ。
乾いた風が吹きつけて、エリスの赤い髪を後ろへなびかせた。背中に積もっていた雪が水になって服に染み、それもすぐに乾いていく。
けれど、肌はどこも焼けていない。
息を吸っても喉はひりつかず、髪の先ひとつ焦げていなかった。
これだけの熱に包まれているのに、熱のほうがこちらを避けて通っているような奇妙な感覚だった。
銀髪の男が、足を止めた。
一歩、二歩。後ろへ下がり、あの子から間合いを取り直す。
下げていた両手を胸の前に上げ、腰を落とした。
あの男が両手を上げて構えるのを初めて見た。
まるで警戒するように、どこか恐れているようにすら見えて、あの圧倒的な存在がそこまでするのが信じられなかった。
その体のまわりの空気が、ずしりと重くなった。闘気だ。
それも、これまで感じたことのあるどんな闘気より凄まじい。
「……さっきの小僧では、ないな」
構えを解かないまま、じり、と足の裏で雪が溶けてあらわになった地面を踏みしめる。
「……何者だ」
あの子がゆっくりと顔を上げた。
その目を見て、エリスの背筋が凍った。
まぶたは重たげに半ばまで落ちている。
それなのに、その奥の目に射すくめられた瞬間、エリスは自分の喉元に刃を突きつけられたような気がした。
さっきまで、震えながら必死に前を向いていた子供の目では決してない。
その唇が、静かに開いた。
「とうに燃え尽きた身。……それでも名乗れと言うなら、よかろう」
地面に突き立てた鞘の柄の上に、両手が静かに重ねられた。
「元護廷十三隊総隊長――山本元柳斎重國」
千年、死神たちの頂に立ちつづけた炎が、
異界の地で再び顕現する。