この刃、未だ名を持たず 作:テスト中
気がつくと、俺は灰の野原に立っていた。
見渡すかぎり、いつもの白い景色がどこまでも広がっている。
積もった灰の中へ足を踏み出せば、音もなく足首まで沈みこんだ。
二年前のあの日から、眠りに落ちるたびに訪れている見慣れた場所だ。
あれだけひどかった傷の痛みが、嘘みたいに消えている。
爺さんを探してあたりを見回したけれど、いつもなら野原の真ん中に立っているはずの姿が、どこにもない。
「……爺さん?」
呼んでみても、返事はない。
二年間、こんなことは一度もなかった。
首をかしげたそのとき、ずっと向こうのほうで、何かがぼんやりと白く光っているのに気がついた。
灰に足を取られながらそちらへ歩いていくと、一歩進むたびに細かな粉が舞い上がり、膝のあたりが白く煙った。
すぐそこに見えたはずの光は、歩いても歩いてもなかなか近づいてこない。
ようやくたどり着いて見上げてみると、それは何もない宙にぽっかりと浮かんだ、大きな四角い光の窓だった。
その中には、ついさっきまで俺がいたはずの雪の谷が映し出されている。
切り立った岩壁のあいだに、絶え間なく白い雪が舞い落ちていた。
それなのに、画面の真ん中のあたりだけは、雪が地面に届く前にふっと消え、乾いた黒い土がむき出しになっている。
暗い映画館で、スクリーン越しに向こうの出来事を眺めているみたいだった。
そこに、あの銀髪の男と――おれが立っていた。
「…………は?」
さっきまで、俺がどれだけ必死に打ちこんでも、全く通用しなかった化け物。
そいつが今は腰を落とし、両手を胸の前に上げて、もう一人の自分に向かって構えている。
あの男が、警戒しているのか……? 俺に? いや待て、そもそもあれは俺なのか?
画面の中の自分を見つめる。
血と泥に汚れた外套の脇から、地面に突き立てられた黒い鞘と、その柄の上に重ねられた両手がのぞいていた。
「いったい、どういうことだよ」
しかも、スクリーン越しだというのに、鍛冶場の炉の前に立ったときのような乾いた熱気が、なぜかこちら側の俺の頬にまでちりちりと届いてくる。
それだけではなかった。
画面の向こうの俺の背中から、膝が勝手に震え出しそうなほどの重さが、こちらまでのしかかってくる。
初めて灰の野原で爺さんに見すえられた夜、目を向けられただけで息が止まり、そのまま死んだ――あのときと同じ重さだった。
ついさっきまで、同じ体で俺が立っていたときとは、比べものにならない。
『さっきの子供では、ないな』
銀髪の男が、構えを解かないまま口を開いた。
『……何者だ』
その問いに答えたのは、他でもない俺自身の声だった。
『とうに燃え尽きた身。……それでも名乗れと言うなら、よかろう』
『元護廷十三隊総隊長――山本元柳斎重國』
俺はぽかんと口を開けたまま、画面の中の自分の背中を見つめていた。
さぞ間抜けな顔をしていただろう。
そもそも俺は、あの男の重い一撃を胸にまともに食らって冷たい地面に叩きつけられ、そこで意識が途切れたはずだった。
それなのに、なぜ傷ついた体が立ち上がり、俺の口が勝手に動いているのか、わからないことが多すぎて、頭がちっとも追いつかない。
しばらくして、ようやく今のが名乗りだったのだと気がついた。
「まさかだとは思ったけど、爺さんなのか……?」
長ったらしくて、まるで呪文みたいだが、前半の「元護廷十三隊総隊長」は、爺さんの役職か何かだろうか。
なんとか隊というくらいだから、新選組のような剣客の集まりだったのかもしれない。
そんな浅い知識しか思い浮かばない自分が情けなかったが、そのあとに続いた「やまもと、げんりゅうさい、しげくに」という名前は、いかにも昔の剣豪っぽかったし……。
それにしても、出会った頃、名前を聞いた俺には『名を問うには早い』と突っぱねたくせに、今日初めて会ったばかりの男の前では、あっさり名乗りやがった。
「なんなんだよ……」
思わずぼやきが漏れたが、考えてみれば、名乗りからして思いきり日本語だった。
あの銀髪の男にも、傍で倒れている赤い髪の少女にも、おそらく意味など一言だって通じてはいないだろうに。
思えばこの二年間、爺さんの姿をまともに見る余裕なんて、ほとんどなかった。
灰の野原で向き合ったと思えば、次の瞬間には杖で打ち据えられ、灰の上で息絶えている。
毎晩その繰り返しで、白い羽織の背中に墨で大きく「一」と書かれていると知ったのも、意識が途切れる寸前、灰の上から去っていく後ろ姿を見上げたときだったくらいだ。
額に走る十字の古傷に、膝まで届く長い白髭。
それにしても爺さんは本当に何者なのだろうか、どう見てもただの年寄りではないのは確かなだけで、なにも知らない。
それに、あの火だ。
黒い鞘からあふれて、触れたもの全てを焼き払うであろう、あの火。
俺が知らなかっただけで、テレビにも歴史の教科書にも載らないどこか遠いところには、ああいう化け物じみた連中がごろごろいたのかもしれない。
だとしたら、俺の生まれた世界も、案外ファンタジーだったってことか。
画面の向こうで自分の体が勝手に名乗りを上げているっていうのに、我ながらのんきなことを考えていた。
『……護廷、十三隊……?』
画面の奥で、白い仮面がびくりと跳ねた。
銀髪の男の後ろに控えていた、あの仮面の女だ。
その女が、ふらりと半歩あとずさり、胸の前で両手を握りしめている。
『総隊長……山本……元柳斎……?』
『うそ……』
仮面が、小さく横に揺れた。
『……うそでしょ。ちがう、ありえない。だって、……』
その先は、声にならなかった。
握りしめた両手が、画面越しにもわかるほど震えていた。
「……は?」
灰の上に、自分でも呆れるほど間の抜けた声が落ちた。
今のは――日本語だ。
背中に、ぞわりと鳥肌が立った。
この世界に生まれ直してから今日まで、自分の口以外からその響きを聞いたことは、一度もない。
通じていないどころか、あの仮面の女には、爺さんの名乗りがまるごと聞き取れていたらしい。
こんな異世界で同郷の人間に会えるなんて夢にも思わなかったが、それにしても、あの女の慌て方は普通じゃなかった。
まるで、爺さんが誰なのかを知っているような……。
途切れたその言葉のあとに続く言葉が何なのか、俺には見当もつかない。
ここから叫んだところで、向こうの世界には届かない。
さっき爺さんを呼んで返事がなかった時点で、それはもうわかっていた。
それでも、ようやく見つけた同じ言葉を話す人間を前にして、黙って見ていることはできなかった。
「なあ、あんた! 日本語、わかるのか!」
無意味でも思わず張り上げた声は、音もなく白い灰の上に吸いこまれていくだけだった。
……やっぱり、届かないか。
画面の手前では、赤い髪の少女が血に濡れた顔を上げ、仮面の女と俺を何度も交互に見比べていた。
やがて、宙に浮かぶ光の窓が少しずつ細くなっていく。
「おい、待てって……!」
雪景色も、銀髪の男も、白い仮面も、どんどん遠ざかって小さな点になり、足もとの灰の野原ごと、何もかもが真っ暗な中へ沈んでいった。
◇
白い仮面の女が、ふらりと半歩あとずさった。
両手を胸の前で固く握りしめたまま、肩だけが小刻みに上下している。
何かを言いかけては呑みこみ、取り乱したように首を振って、また口を開く。
途切れ途切れに漏れてくる言葉は、さっきあの子が口にした名乗りとまったく同じ響きをしていて、何ひとつ意味がわからなかった。
ただ、オルステッドと名乗ったあの男の後ろでずっと平然と立っていた女が、今はあの子ひとりを前にして、まるで幽霊でも見たみたいに震えていることだけはわかった。
ついさっきまで、あの子は血を吐きながら、今にも折れそうな膝でやっと立っていたはずだ。
それが今は、全身の痛みなど最初からなかったかのようにすっと背筋を伸ばし、聞いたこともない言葉で堂々と名乗りを上げた。
顔つきも、背丈も、血と泥に汚れた外套もさっきと何ひとつ変わらないのに、中身だけが、まるごと別の誰かにすり替わってしまったようだった。
「……ナナホシ」
オルステッドが、あの子から視線を外さないまま呼んだ。
「お前の知る言語か」
「……わかる。言葉は、わかる。でも……」
仮面の女の声はそこでかすれて、それきり続かなかった。
あの子が、ゆっくりと口を開いた。
「その童を、どうするつもりじゃ」
また、あの不思議な言葉だった。
一語一語を区切るような話し方で、何を言っているのかは、さっぱりわからない。
それでも、あの子の顔がオルステッドのほうだけをまっすぐ向いていたから、何かを問いただしているのだということは伝わってきた。
「……何と言った」
あの子は答えなかった。
オルステッドはわずかに金色の目を細めると、構えを崩さないまま、地面に倒れているルーデウスのほうへ、右足をすっと一歩踏み出した。
「やめ……っ」
喉から、かすれた声が漏れた。
まわりの空気が、ずしりと沈んだ。
重さの出どころは、オルステッドだった。
その体のまわりで闘気が厚みを増し地面に這いつくばる体を上から押しつぶしてくる。
息を吸おうとしても、喉の奥が詰まって、うまく入ってこない。
地面に突き立てられていた黒い鞘は、いつのまにか左手一本で握られていて、柄の上に重ねられていた右手は滑り落ち、砕けた腕ごと肩からだらりと垂れていた。
鞘を下げたまま、ただ突っ立っているようにしか見えない。
けれど、剣を習ってきた身にはわかった。
あれは隙だらけなのではなく、わざと隙を見せて待っている立ち方だ――どこから打ちこんでも、打ちこんだほうが先に止められる。
「だめ……っ、待って!」
仮面の女の叫びが両側の岩壁に跳ね返ったが、オルステッドは振り返りもしない。
そのまま二歩目を踏み出そうとした、その瞬間だった。
――――速い!!
目が追いついたときには、もう、あの子の左手の中で黒い鞘が動いていた。
鞘はオルステッドとルーデウスとのあいだへすっと差し出され、先端をその胸元へまっすぐ向けて止まった。
打ちこむでもなく、払うでもなく、ここから先へは一歩たりとも行かせないと、ただ道をふさいでいる。
黒い鞘の先から、赤い陽炎がゆらりと立ちのぼっていた。
それでも、オルステッドは足を止めなかった。
右の手のひらを開き、目の前の鞘をそのまま押しのけようと手を伸ばす。
ルーデウスが放った渾身の魔術を、手のひらひとつで消してしまった、あの右手だ。
あの子の火も、きっと同じようにあっけなく消されてしまう。
そう思って、エリスは乾いた土を握りしめた。
けれど――その火は、消えなかった。
ドォンッ、と、目の前の空気がそのまま爆ぜたような音が谷底に轟いた。
オルステッドの指のすき間から、抑えこまれた赤い火が猛烈な勢いで噴き上がる。
渦を巻いた熱が手首へ、前腕へと一気に噛みつき、白い外套の袖が肘のあたりまで一瞬で黒く炭になって爆ぜ飛んだ。
舞い散る火の粉とともに、むせ返るような熱風が谷の冷たい空気を吹き飛ばし、焦げた布と肉のにおいをこちらの顔面へまともに叩きつけてくる。
火の照り返しの中で、オルステッドの金色の目が、大きく見開かれた。
それでも、退かなかった。
焦げた右腕を素早く引き戻すのと同時に、左の抜き手を、あの子の喉元めがけて一直線に突き返してくる。
ルーデウスの胸をひと突きで貫いた、あの抜き手だった。
あの子は、足もとから一歩も動かなかった。
左手首だけをほんのわずかに返し、迫ってくる腕を、鞘で外へ払う。
ガッ、と硬いものがぶつかる音がして、赤い火花が散った。
抜き手はあの子の喉のすぐ脇を素通りし、一拍遅れて、その手が裂いた風が、這いつくばっている頬まで叩きつけてきた。
オルステッドは構わず、払われた勢いのまま体をひねり、こめかみへ、胸へ、脇腹へと、立て続けに手を打ちこんでくる。
右と左が入れ替わるたびに、その腕が二本にも三本にもぶれて見えた。
けれど、手が届くより先に、黒い鞘はいつも、もうそこにあった。
ガッ、ガッ、ガガッ――鞘と手のぶつかる音がだんだん間を詰めていき、しまいにはひとつながりの音になっていく。
ぶつかるたびに黒い鞘から赤い火の粉が散り、オルステッドの指先からは、白い煙が噴き上がった。
鞘が動いたあとには赤い陽炎が帯になって宙に残り、飛び散った火の粉が地面に落ちるたび、乾いた土くれがじゅうっと音を立てて黒く焼けていく。
オルステッドの足もとでは、踏みこむたびに乾いた土がえぐれ、跳ね上がった黒い土くれが、こちらの顔にまでばらばらと降りかかってくる。
それなのに、あの子の足もとの土だけは、最初に踏みしめた形のまま、ひとつも崩れていない。
体をほんの少し揺らし、手首を返す。
たったそれだけで、あの男の手を、ひとつ残らずそらしていた。
二人のあいだに舞いこんだ雪が、じゅっ、じゅっ、と短い音を立てて、次々に白い湯気へ変わっていく。
その湯気の向こうで、オルステッドがひときわ深く踏みこんだ。
ずん、と地面が揺れ、その右足がくるぶしまで土にめりこむ。
左の抜き手が、最初の一撃と同じ形で、もう一度あの子の喉をめがけて突き出された。
それと同時に、ゆらゆらと広がっていた鞘の陽炎が、ふっと揺れを止めて鞘の先端へ細く集まり――そのままオルステッドのこめかみへ向かって走った。
――ぴたり、と。
不意に、音が途絶えた。
オルステッドの鋭い指先は、あの子の喉仏の、皮一枚手前で。
返された鞘の先は、オルステッドのこめかみの、指一本手前で。
鞘の先から漏れた熱だけで、銀色の髪がひと筋チリッと焦げ、そのまま白い灰になってさらさらと崩れた。
一拍遅れて、すぐ後ろにあった岩壁の表面が、扇形に黒く焦げてぱらぱらと剥がれ落ちる。
舞い落ちてきた雪がひとひら、鞘の陽炎に触れて、ふっと消えた。
オルステッドの手とあの子の鞘とが、同時に静かに下がっていく。
それからオルステッドは、一息に三歩、後ろへ跳んで間合いを空けた。
「…………ほう」
あの子の口から、短い声が漏れた。
黒く焦げた右の袖口から細い煙が冷たい空気へと立ちのぼっていたが、オルステッドはもう、構えようとはしなかった。
私は息をするのも忘れて、その光景を見つめていた。
なんなのよ、あの子……。
これまで一歩も退かなかったあの男が、あの子の前で自分から下がるのは、これで二度目だった。
オルステッドの体のまわりで渦巻いていたあの分厚い圧力が、潮が引くように少しずつ薄れていく。
オルステッドは自分の右手を見下ろし、赤く焼けただれた手のひらをしばらく眺めてから、一度だけ、後ろの仮面の女のほうへ目をやった。
あの子のほうも、決して無事ではなかった。
黒い鞘を握る左手は指の節が白く浮き上がるほど力がこもり、食いこんだ爪のあいだから血がにじんでいる。
その左腕は、肘から先がぶるぶると震えていた。
脇に垂れたままの右腕からも、裂けた拳を伝って、血がぽたぽたと乾いた土に落ちている。
それでも、構えだけは崩さず、前のオルステッドをまっすぐ見据えていた。
静寂。
張りつめた静けさの中で、ルーデウスの細い息の音だけが、途切れ途切れに聞こえてくる。
唇はもう紫を通り越して白くなりかけており、数えようとしても次の息がなかなか来ない。
この二人が向き合っているあいだに、ルーデウスの命が尽きてしまう――。
そのとき、あの子が静かに息を吐いた。
「……この小童の身に、これ以上の無茶はさせられん」
一語ずつ区切るような、あの聞き慣れない言葉だった。
「だがお主が退かぬなら、小童を……レンをこのまま死なせるわけにもいかん」
ゆらり、と黒い鞘が持ち上がり、あの子の体の正面へまっすぐに立てられた。
背中越しに、左の肘がほんのわずかに張るのが見えた。
キン、と、細く澄んだ金属の音がひとつ鳴る。
その瞬間、あの子の体の前から、赤い光があふれ出した。
さっきまでの陽炎とは比べものにならない熱が噴き上がり、足もとの乾いた土が、じゅうっと音を立てて赤く灼けはじめる。
下から吹き上げる熱にあおられて、オルステッドの銀色の髪が大きくなびいた。
頭上では、舞い落ちてくる雪が、岩壁の半ばにも届かないうちに次々と消えていく。
「!!」
オルステッドは腰をさらに深く落とし、焼けただれた右手と左手を、胸の前で構え直した。
踏みしめた両足のかかとが、ずぶりと土に沈む。
下がりはしなかったが、さっきのように前へ出ようともしない。
その体のまわりで闘気が一気に厚みを増し、引いていたはずの重さが、這いつくばった背中にもう一度のしかかってきた。
刀はまだ、鞘からほんのわずか浮いただけで、振るわれてすらいない。
それなのに、土をつかんだ指先が、勝手にがたがたと震えだしていた。
もし、あれがすべて抜かれたら――きっと振るうまでもない。
抜いただけで、この場にあるものは何もかも焼けて、跡形もなく消えてしまうんだろうなと、直観が告げていた。
ルーデウスも、ルイジェルドも、自分も。
その中で立っていられるのは、きっと、あのオルステッドという男ひとりだけだ。
赤く灼けた土は、あの子の足もとから前へ、オルステッドのほうへ向かい広がっていく。
「えっ……?」
あの火は、私たちを避けている――――?
後ろで様子を伺いつつ控えていた仮面の女が、弾かれたように全力で走り出した。
「――
あの子の口から、短い音がひとつこぼれた。
「……まっ……!! だめ!!」
悲鳴が、続く音をかき消した。
仮面の女は地面を蹴るようにして駆け寄り、あの子とオルステッドのあいだへ飛びこんで、まずあの子に向かって必死に首を振った。
それでもオルステッドの左手が、女の肩をつかもうとするように伸びかけ、途中で止まった。
女はすぐに振り返り、オルステッドの前に両腕を広げて立ちふさがる。
その膝が微かに震えているのが、ここからでも見えたのに、女はそこから動こうとしなかった。
「……ねえ、オルステッド、聞いて! 通じてないの、言葉が! この人はさっき、『その子をどうするつもりだ』って聞いただけ!」
「下がっていろ、ナナホシ」
「下がらないっ!! いい!? 絶対にあの刀を抜かせちゃダメ!!」
「……」
女はオルステッドの前から一歩も動かずに首を振り、地面に倒れているルーデウスを指さした。
「それより、その子! もう息が止まりかけてる。……使徒かどうかも、まだわからないんでしょ? 死んじゃったら、何も聞けなくなる!」
オルステッドの目が、ルーデウスへ動いた。
金色の目が、倒れたルーデウスと、刃の根元をのぞかせたままの黒い鞘を立てているあの子とのあいだを、ゆっくりと一度だけ行き来する。
両腕を広げた仮面の女も、顔をオルステッドへ向けたまま、身じろぎひとつしない。
そのあいだにも、ルーデウスの息の音は細くなっていき、次の息が来るまでの間が、少しずつ長くなっていく。
それを見て、やがてオルステッドは、男の子のほうをまっすぐに見た。
「……治す」
返ってきたのは、その一言だけだった。
治す――ルーデウスの胸に穴を開けた張本人が、今さら治すと言うのか。
信じられるわけがないし、信じたくもなくて、奥歯が、ぎり、と音を立てて鳴った。
仮面の女があの子を振り返り、訳そうと口を開く。
けれど、その言葉が出るより先に、あの子の唇が動いた。
「用を済ませよ。その気がないならいい」
そう言うとあの子の左手の中で、押し上げられていた刃が鞘へ戻り、その先端がすっと下がった。
すると、先ほどの凄まじい熱気が嘘のように消えて、また静寂が訪れた。
まだひとことも訳していないのに答えが返ってきて、仮面の女の肩が、ぴくりと跳ねた。
女はひとつ大きく息を吐くと、あの子に向かって小さく頭を下げ、それからすぐにオルステッドを振り返った。
「……早く治せ、って。この人、こっちの言葉は聞き取れてる。話せないだけみたい」
その言葉が終わるより早く、オルステッドはルーデウスのそばに無言で膝をついていた。
思わず全身をこわばらせた。
這ってでもルーデウスの前に立ち塞がりたかったのに、鉛を流しこまれたように重くなった体は、指先を乾いた土に食いこませるのがやっとだった。
オルステッドの右手が、ルーデウスの胸の上にかざされる。
焼けただれた手のひらの真ん中に、親指ほどの黒い焦げ跡がくっきりと残っていた。
あの子が倒れる間際に振り絞った一撃を、真正面から受け止めたときのものだ。
そこに、淡い光が灯った。
光は、ルーデウスの胸に開いた穴へ、静かに吸いこまれていく。
穴のふちが内側から寄り合わさり、赤黒く濡れていた傷口が、見る間に新しい薄い皮膚に覆われていった。
白く冷えきっていた唇に、少しずつ血の色が戻ってくる。
ふう、とルーデウスが大きくひとつ息を吐いた。
それから、ゆっくりと規則正しく、その胸が上下しはじめる。
「……ルー、デウス……」
土をかき、爪を立てて、ルーデウスのそばへ必死ににじり寄った。
震える手を伸ばして触れた頬はまだ氷のように冷たかったけれど、その奥には確かに、ぬくもりが戻りはじめていた。
口の端にこびりついた血を、指でぬぐってやる。
ぬぐってもぬぐっても、自分の指先に付いた血のほうが、ルーデウスの頬を赤く汚していく。
それでも、手を動かすのをやめられなかった。
息をしている。ルーデウスが、生きている。
目の奥から熱いものが次々とあふれ出して、止めようとしても止まらなかった。
礼を言う気にはなれなかった。
この男に頭を下げるくらいなら、舌を噛み切ったほうがましだ。
それなのに、口を開けば罵る言葉しか出てこないはずの喉が、このときばかりは、何の音も出さなかった。
オルステッドが立ち上がり、今度はあの子のほうへまっすぐ向き直った。
「……ヒトガミの使徒か」
あの子は少しのあいだ黙っていたが、黒い鞘を握る左手に、静かに力がこもったのがわかった。
「ひとがみ、とやらは知らん」
ひと呼吸おいて、言葉が続いた。
「……じゃが、名も名乗らず、この小童の夢に土足で上がりこもうとした白い影なら、儂が焼き払うてやったわ」
仮面の女の肩が、また大きく跳ねたが、今度はすぐには振り返らず、言葉を選ぶように少し間を置いてから、オルステッドのほうへ向き直った。
「その名前は、知らないって。……でも、名乗りもしないでこの子の夢に入りこもうとした白い影なら、焼き払ってやった、って」
夢。白い影。焼き払った。
言葉はわかるのに、いったい何の話をしているのかは、まるでわからなかった。
「白い、影……」
オルステッドの口から、ぽつりと言葉がこぼれ、その眉間に、かすかなしわが寄った。
それきり黙りこみ、長いあいだ、あの子の顔を見つめていた。
やがて焦げた右手に目を落とし、ゆっくりとその手を握りこむと、あの子の目の前まで歩いていった。
オルステッドが手をかざすと、その手のひらに、さっきと同じ光が灯った。
あの子はそれを見ても、黒い鞘を握る左手をぴくりとも動かさなかった。
光が、あの子の胸へしみこんでいく。
さっき「眠れ」とひと言告げて打ち据えた、その胸だった。
浅く速かった肩の上下が次第に静まり、口の端ににじんでいた血も、もう新しくは垂れてこない。
けれど、光が治したのは胸だけで、砕けた右腕は、肘から先が垂れたままだった。
自分が砕いたぶんだけを、きっちり返したようにも見えた。
オルステッドは手を下ろし、あの子の顔を正面から見下ろした。
「俺はお前のような者は、知らない」
「知らずともよい」
仮面の女が訳そうと口を開きかけたが、オルステッドは片手を軽く上げてそれを止め、何も聞き返さなかった。
そのまま背を向けると、一度も振り返ることなく来たときと同じ、急ぐ様子のない足取りで、奥へと歩いていく。
仮面の女も少し遅れてそのあとを追ったが、数歩行ったところで立ち止まり、こちらを振り返った。
白い仮面をあの子のほうへ向けたまま、胸の前で握りしめた両手を、また小刻みに震わせている。
「……あなた、本当に――」
聞き慣れない言葉はそこで途切れ、女は仮面の口もとへ片手を上げたきり、何も言わなかった。
やがて、何かを振り払うように首を振ると、オルステッドの背中を小走りに追いかけていく。
二つの人影は舞い落ちる雪の向こうへ小さくなり、白く霞んで見えなくなった。
あの子は、二人が消えた方角をしばらく黙って見ていた。
まわりで揺らいでいた陽炎が、少しずつ静まっていく。
空気を焼いていた熱が引いていくにつれて、一本の巨大な柱のように見えていたその背中が、もとの年相応の少年の背中に戻っていくようだった。
岩壁の根元で、ルイジェルドがうめき声を漏らした。
地面に落ちた槍の柄へ指先がわずかに伸びかけては止まり、広い肩が大きく上下している。
生きている。
そう安堵したとき、あの子の体が、ぐらりと大きく傾いた。
鞘を握っていた左手から力が抜け、黒い鞘が足もとへ転がる。
糸が切れたように膝が折れ、あの子の体は横ざまに崩れて、すぐ先の地面へ倒れこんだ。
投げ出された左手が、乾いた黒い土の上に落ちる。
熱はすっかり消え失せ、舞い落ちる雪が、むき出しの土の上にふたたび白く積もりはじめていた。
「ちょっと……!」
咄嗟に伸ばした手は、冷たい空気をかいただけだった。
まず、目の前のルーデウスの胸もとへしがみついた。
厚い外套越しに、規則正しい心臓の音とかすかなぬくもりが伝わってきて、ルーデウスがちゃんと生きていることを、もう一度確かめる。
その胸に額を押しつけて大きく息を吐き出してから、ルーデウスのそばを離れないよう右手でその外套を固くつかんだまま、倒れたあの子のほうへ体をねじった。
動かない足を引きずり、左の肘で土をかく。
割れた額から垂れてきた血が片目に入り、視界の半分が赤くにじんで、うっとうしさに頭を振る。
たった腕一本ぶんの距離が、ひどく遠かった。
もう一度左肘で土をかき、肩が抜けそうなほど左腕を伸ばす。
指先が、あの子の外套の袖に引っかかった。
それを強くつかんで乱暴に手前へ引いたものの、揺さぶって起こすつもりだった腕には、もうほとんど力が残っていなかった。
「……死んでないでしょうね」
土に頬をつけた横顔はぴくりとも動かなかったけれど、背中が小さく上下していて、息があるのはわかった。
「あんた、ほんとに、なんなのよ」
つかんだ袖を、もう一度引く。
「わけのわかんない言葉ばっかりしゃべって……。勝手に死んだら、許さないわよ。まだ名前も聞いてないんだから」
けれど、乾いた土に押しつけられた唇が、かすかに動いた。
「……レン」
聞き慣れたこの世界の言葉で、さっきまでの年寄りじみた口ぶりとはまるで違う、あの子自身の声だった。
「ロアの、鍛冶屋……レン」
「……ロア?」
思わず聞き返したけれど、また気を失ったのか、何も答えなかった。
自分の生まれた町、ロアの子が、どうしてこんな遠い土地にいるのか。
さっきの聞いたこともない言葉は、いったい何だったのか。
あの化け物のような男と渡り合ったのは、本当にこの子だったのか。
聞きたいことはいくらでもあるのに、割れそうに痛む頭では何ひとつまとまらない。
そのとき、背後で土を強く踏みしめる足音が近づいてきた。
顔を上げると、ルイジェルドが槍を杖がわりにして、よろめきながらこちらへ向かってくるのが見えた。
「エリス!」
その声を聞き、すぐ隣でルーデウスの静かな寝息を感じたとたん、体を支えていた最後の力がふっと抜けた。
右手でルーデウスの外套を、左手で男の子の袖をつかんだまま、目の前がゆっくりと暗くなっていった。
読んでいただきありがとうございます。ツッコミどころが多い作品ですが、ゆるく読んでくださいな。