決闘から、二週間が過ぎていた。
円卓の間には、今夜も誰もいなかった。四十一の席が、黒曜石の天板を囲んで静かに並んでいる。モモンガは自分の席に腰を下ろしたまま、骨の指を組んで、その空席を眺めていた。
目を閉じると、まだあの夜が浮かぶ。
白銀の剣先。雨の匂い。最後の一秒。
けれど、何度思い返しても、胸の奥に引っかかって離れないのは、決着の場面ではなかった。
戦士化して、剣を握っていたときのことだ。
骸骨のプレイヤーとは、何度もやっています。
最初から、光は見ていません。
たっち・みーは、こちらの顔ではなく、肩と腰を見ていた。剣を振る前に、必ず動く場所。骨の、わずかな傾き。
眼窩の光で嘘をついても、意味はなかった。武器をいくら持ち替えても、振るう身体の動きまでは変えられなかった。
剣を投げた一手も、胸を餌にした一撃も、結局は奇策だった。正面から剣と剣で打ち合えば、自分の剣は、ただの力任せだった。
(……前回も、そうだった)
冒険者モモン。
漆黒の鎧を着て、二振りの大剣を背負い、何か月も人間の街を歩いた。何百という戦いを潜り抜けた。それでも、剣の技術は最後まで素人のままだった。戦士の膂力と、骸骨の身体の頑丈さに頼って、振り回していただけだ。
シャルティアとの死闘でも、〈完璧なる戦士〉に命を預けた。勝てたのは、準備と、相手の手札を削り切った情報のおかげだった。剣の腕で勝ったわけではない。
あの世界で、剣をまともに学んだのは、ずっと後のことだ。
コキュートスに、頼んだ。
蟲の武人は、至高の御方に剣を教えるなど恐れ多いと、最初はひどく恐縮していた。それでも、四本の腕で何度も手本を見せ、足の運びを、刃の角度を、辛抱強く教えてくれた。
その剣は、誰から受け継いだものだったのか。
モモンガは、目を開けた。
円卓の空席の一つを見る。
武人建御雷。
コキュートスの剣の、さらにその先にいる人。
(……転移してから学ぶんじゃ、遅いのかもしれない)
あの世界では、剣を学ぶ時間よりも先に、剣を振るわなければならない場面がやってくる。守らなければならないものが、次々とやってくる。
今なら、まだ間に合う。
教えてくれる人が、まだこのギルドにいる。
一人で背負うな。
たっち・みーの声が、耳の奥でよみがえった。
モモンガは、メッセージのウィンドウを開いた。
*
「――で、たっちさんの剣を教えてほしいってか」
第六階層の円形闘技場。
観客席の最前列に腰を下ろした武人建御雷が、呆れたような、面白がるような声を上げた。
暗い赤の、侍の鎧。人の背丈をはるかに超える巨躯。左右で長さの違う角が、兜の上で三日月のように弧を描いている。石の段が、その身体の下では子どもの腰かけのように小さく見えた。
「よりによって、俺に」
「はい」
モモンガは、闘技場の砂の上に立って、建御雷を見上げた。
「たっちさんとの決闘の最後に、見たんです。俺の杖を、首一つ分だけ身体を沈めてかわして、そのまま剣を前に送り出した。避けることと斬ることを、一つの動作で済ませていた」
あの、当たり前の動き。
どうしようもなく遠かった、一秒。
「あの剣が、欲しいんです。盾で受けて、受けた瞬間にはもう斬っている。守りながら、攻める剣が」
建御雷は、しばらく黙っていた。
「……魔法詠唱者のあんたが、なんでまた」
モモンガは、少しだけ言葉を選んだ。
本当の理由は、言えない。いつか、守らなければならないものが、次々とやってくる世界へ行く。そのとき、自分の剣が、誰かを守れる剣であってほしい。
けれど、嘘をつくつもりもなかった。
「守れる剣が、欲しいんです」
それも、本当のことだった。
「誰かの前に立って、全部受け止めて、それでも倒れない。たっちさんみたいな剣が」
建御雷は、腕を組んだまま、モモンガを見下ろしていた。それから、肩を揺らして笑った。
「たっちさんに一番勝ちてえ俺に、たっちさんの剣を教えろってか。……馬鹿げてるな」
巨体が、観客席から立ち上がる。石の段が軋んだ。
「けど、嫌いじゃねえぜ、そういうの」
建御雷は、観客席の縁を跳び越え、砂の上に降り立った。重い着地の音が、闘技場に響く。
「いいぜ。あの人の剣なら、ギルドの誰より見てきた。何十回も、真正面から食らってきたからな」
その声には、悔しさと、それ以上の何かが混じっていた。
「で、その剣ってのは、どうやって握るんだ。あんた、戦士の職業なんて一つも持ってねえだろ」
「魔法があるんです」
モモンガは、骨の指を胸の前で組んだ。
「〈完璧なる戦士(パーフェクト・ウォリアー)〉」
身体の内側で、何かが組み替わる。
魔力が引いていく。代わりに、骨の一本一本に、重く確かな力が満ちていく。
「〈完璧なる戦士(パーフェクト・ウォリアー)〉」
身体の内側で、何かが組み替わる。
魔力が引いていく。代わりに、骨の一本一本に、重く確かな力が満ちていく。
「ああ、たっちさんとの決闘で使ったってやつか」
建御雷は、モモンガの周りをゆっくりと一周した。巨体の影が、骸骨の身体を何度も覆った。
「話には聞いてたが、実際に見るのは初めてだな。レベル相応の膂力が出る代わりに、戦士のスキルは何も使えねえ。そうだろ」
建御雷は、モモンガの周りをゆっくりと一周した。
巨体の影が、骸骨の身体を何度も覆った。
「戦士化の魔法か。レベル相応の膂力が出る代わりに、戦士のスキルは何も使えねえ。そうだろ」
「はい」
「てことは、盾のスキルも、たっちさんの守りのスキルも、何一つ使えねえってことだ」
建御雷は、モモンガの正面で足を止めた。
「鍛えられるのは、あんた自身だけだ。数字じゃねえ。中にいる、あんたの動きだけだ」
モモンガは、頷いた。それこそが、欲しかったものだった。
*
戦士化の前に〈上位道具創造〉で作っておいたのは、いつもの大剣ではなかった。
片手で振るえる長剣が一振り。そして、身体の半分を覆うほどの、大きな盾。
左腕に盾を通すと、ずしりとした重みが骨にかかった。
前回、あの荒野で、たっち・みーの盾を握ったことがある。
宝物殿から持ち出した、純白の盾。仲間の装備を一つずつ借りて、シャルティアと戦った。あのとき、盾は確かに自分の腕にあった。けれど、それを「使えて」はいなかった。ただ構えて、ただ受けていただけだ。
あの人の盾は、そういうものではなかった。
「構えてみな」
建御雷が、腰の刀を抜いた。
刃渡りは、建御雷の巨体に見合う長さだった。鞘から抜かれた瞬間、刀身が闘技場の灯りを受けて、冷たく光る。
モモンガは、盾を前に、剣を後ろに構えた。
決闘で何度も見た、白銀の騎士の構えを、思い出しながら。
建御雷が、鼻で笑った。
「形だけは、似てるな」
次の瞬間、刀が振り下ろされた。モモンガは、盾を掲げた。
衝撃が、腕から肩、背骨まで突き抜けた。足が砂に沈む。受け止めた。受け止めたが、その重さに、身体が丸ごと固まった。
右手の剣が、動かない。
刀の峰が、こつん、と骸骨の側頭部に当てられた。
「一回、死んだな」
建御雷の声は、楽しそうだった。
「あんた、今、盾で俺の刀を受け止めたな」
「……はい」
「それが、たっちさんとの一番の違いだ」
建御雷は、刀を引いた。
「あの人は、受け止めねえ。流すんだ」
*
「盾ってのは、壁じゃねえ」
建御雷は、刀の切っ先で、モモンガの盾の縁を軽く叩いた。
「正面で受けたら、相手の重さが全部こっちに来る。身体が固まる。そしたら、剣が出ねえ。……あの人は、盾をほんの少し傾けて、相手の刃を滑らせるんだ。重さを、横に逃がす」
刀が、ゆっくりと振り下ろされる。今度は、さっきよりずっと遅い。
「傾けてみな。刃が来る方向に対して、斜めに」
モモンガは、盾の角度を変えた。
刀身が、盾の表面を滑った。金属が擦れる、甲高い音。重さは、さっきの半分も来なかった。刀は盾の縁を流れて、モモンガの身体の外へ逸れていく。
「そうだ。で、今、俺の刀はどこにある」
モモンガは、気づいた。
建御雷の刀は、盾に流されて、外側へ大きく逸れている。巨体の胴が、正面に、無防備に開いていた。
「……ここ」
右手の剣を、その胴に向けて突き出した。
建御雷の刀が、すでに引き戻されて、それを弾いた。
「遅え。けど、場所は合ってる」
建御雷は、にやりと笑った。
「あの人は、流した瞬間に、もうそこを斬ってる。流すのと斬るのが、一つの動作なんだ。盾が刃を逸らしたときには、剣がもう走ってる」
避けることと、斬ることを、一つの動作で。決闘の最後の一秒が、骨の奥でよみがえった。
「もう一回だ。今度は、流してから斬るんじゃねえ。流しながら、斬れ」
*
それから、何度も繰り返した。
建御雷が振り下ろし、モモンガが流し、斬り返す。
最初は、流すことに精一杯で、剣が出なかった。次は、斬ろうと焦って、盾の角度が崩れた。正面から刀を受けて、また身体が固まった。
そのたびに、刀の峰が骨に当たった。
肩。脇腹。膝。首筋。
こつん、という軽い音が、闘技場に何度も響いた。
「盾ばっかり見てる」
「斬ろうとした瞬間、肩が先に動いてる。それじゃ、あの人には全部読まれる」
「足が止まってる。あの人は、受けながら半歩ずつ前に出てくるぞ」
建御雷は、一撃ごとに、短く言った。
決闘の日、たっち・みーがどう動いていたのか。自分が何を読まれていたのか。それを、一つずつ言葉にしてくれていた。
二十回を超えたころ、モモンガは息をついた。肺などない。
それでも、画面の向こうで、鈴木悟の肩は大きく上下していた。現実の身体まで、汗ばんでいる。
「……建御雷さん」
「おう」
「建御雷さんは、たっちさんの剣を、どうやって覚えたんですか」
「覚えたんじゃねえよ」
建御雷は、刀を肩に担いだ。
「食らったんだ。何十回も、真正面から。俺の剣は、一撃に全部を乗せる。二の太刀いらず、ってな。けど、その一撃を、あの人は毎回、こうやって流して、返してきた」
巨体の声に、悔しさが混じった。
けれど、それ以上に、どこか誇らしげでもあった。
「負けるたびに、あの人がどう動いたか、全部考えた。だから、あの人の剣のことなら、たぶん本人の次に分かってる」
「だから、作ってんだよ。あの人の盾でも流せねえ一振りを」
八式の、その先。
自分がたっち・みーとの決闘で借りた、あの雷を纏う刀は、確かにあの人に二太刀を届かせた。
それでも、建御雷はその先を見ている。二の太刀いらず。一太刀で決着をつける、その先の一振りを。
前回、その刀は、完成しなかった。
*
「最後に、もう一回だ」
建御雷が、刀を構えた。
空気が、変わった。
さっきまでの稽古とは、まるで違っていた。巨体が、わずかに沈む。暗い赤の鎧の継ぎ目が、ぎしりと鳴った。刀の切っ先が、ゆっくりと持ち上がり、真上で止まる。
左右で長さの違う角の下で、兜の奥の目が、こちらを見ていた。
「今度は、手加減しねえ」
低い声だった。
「二の太刀いらず。俺の一撃に、全部乗せる。……あの人が、何十回も流してきた一撃だ」
モモンガは、盾を構えた。
剣を、後ろに。
左腕にかかる盾の重みが、急に増したような気がした。骨の指が、柄を握り直す。現実の鈴木悟の手のひらが、じっとりと濡れていた。
闘技場の空気が、張り詰めていく。
観客席の最前列で、アウラとマーレが、変わらずこちらを見下ろしている。作り物の空の下で、夜風だけが、砂の上を細く流れていった。
建御雷の肩が、動いた。
腰が回る。右足に、巨体の重さがすべて乗る。
真上から。
真っ直ぐに。
どこから来るのか、すべて見えた。
見えているのに、身体が凍りつきそうになった。
分かっていても、受けられない一撃。さっき、胸に峰を当てられた、あの一撃。それを、今度は手加減なしで振り下ろしてくる。
刀が、落ちてきた。
*
音が、
夜風の音も。砂の音も。自分の骨の軋みも。
世界が、ゆっくりになった。
振り下ろされる刀が、水の中を進むように遅い。刀身の表面を、闘技場の灯りが一筋、ゆっくりと滑っていく。刃の波模様が、一本一本、はっきりと見えた。
あの夜と、同じだった。
雨の中。時計の針の音。白銀の騎士が、杖の軌道から首一つ分だけ身体を沈め、そのまま剣を送り出した。避けることと、斬ることを、一つの動作で。
当たり前の動き。
どうしようもなく遠かった、あの一秒。
(……受け止めるな)
あのとき、自分は杖を振り下ろすことしか考えていなかった。届け、届け、と。それだけだった。
あの人は、違った。
あの人は、自分の剣ではなく、こちらを見ていた。
モモンガは、刀を見るのをやめた。
建御雷を、見た。
振り下ろす巨体の、重心の位置。刃が落ちてくる角度。その一撃が、どこへ逃げたがっているのか。
盾を、傾けた。
ほんのわずかに。刃の来る方向に対して、斜めに。
刀身が、盾の表面に触れた。
*
衝撃は、来なかった。
正確には、来たのに、受けなかった。
金属と金属が擦れる、長く甲高い音。凄まじい重さが、盾の表面を滑って、横へ、横へと逃げていく。左腕の骨が軋む。それでも、身体は固まらなかった。
建御雷の刀が、盾の縁を流れ落ちていく。
巨体の重心が、刃と一緒に、わずかに前へ崩れた。
暗い赤の鎧の胴が、正面に開いた。
その瞬間を、待ってはいなかった。
待つ前に、もう、剣が走っていた。
盾が刃を逸らしきるより早く。足が、砂の上を半歩、前へ滑る。流された刀の重さを、そのまま踏み込みの力に変えて。
首一つ分。
ほんのわずか、身体を沈める。
右手の剣を、前へ送り出す。
避けることと、斬ることを、一つの動作で。
*
剣先が、止まった。
暗い赤の鎧の、胴の正面。そこに、ぴたりと触れていた。
音が、戻ってきた。
夜風が、砂を撫でる音。
自分の骨の、かすかな軋み。
建御雷の刀が、盾の外側で、砂に深く突き刺さる、鈍い音。
舞い上がった砂が、ゆっくりと二人の間に降ってくる。灯りを受けて、細かく光りながら。
モモンガは、動けなかった。
剣を突き出した姿勢のまま、自分の右腕を見ていた。
画面の向こうで、鈴木悟の心臓が、うるさいほど鳴っていた。
(……今の、は)
あの夜、届かなかったもの。
あの人が、何千回と繰り返してきた、当たり前の動き。
それが、ほんの一瞬だけ、自分の身体の中にあった。
建御雷は、刀を砂に突き立てたまま、しばらく黙っていた。
兜の奥の目が、胴に触れた剣先を見下ろしている。それから、長く、息を吐いた。
「……おう」
その声が、少しだけ震えていた。
「今のは、ちょっとだけ、あの人の剣だったぜ」
*
翌朝、鈴木悟は、机の引き出しからノートを取り出した。
武人建御雷。
その名前の横に、書き足す。
『たっちさんの剣を教わった 流しながら、斬る』
ページの一番上には、最初の日に書いた一行がある。
『サービス終了 2138年』
悟は、その下に、今日の日付を書き入れた。
残りは、あと五年。
ペンを置こうとしたとき、端末が小さく震えた。
メッセージの通知だった。
差出人の名前を見て、悟は思わず、ペンを握り直した。
ヘロヘロ。
『モモンガさん、お疲れさまです。最近やっと、新しい職場のペースにも慣れてきました。休日がちゃんと休日なの、まだ感動してます(笑)近日中、久しぶりにがっつりインできそうです!ソリュシャンたちの顔も見に行きたいので、よかったら付き合ってください』
短い文面を、何度も読み返した。
前回のヘロヘロは、仕事に削られていくばかりだった。ログインするたびに疲れ切っていて、やがて転職を機に、ユグドラシルから離れていった。最後の夜も、ほんのわずかな時間しかいられなかった。
その人が、今は、休日を楽しみにしている。
悟が返信を打ち始める前に、端末がもう一度震えた。
二通目の通知。
たっち・みー。
『モモンガさん、お知らせです。ウルベルトさんとの決闘の日程が決まりました。来週の土曜日の夜、場所は第六階層の円形闘技場をお借りしたいです。よかったら、見届けてください』
悟は、端末を握ったまま、しばらく動けなかった。
来週の土曜日。
一週間後。
ウルベルトさんが、来る。たっちさんも、来る。
約束は、まだ、ちゃんとつながっていた。
前回、たっち・みーがログインしなくなったのは、サービス終了の五年ほど前だった。
ちょうど、今ごろだ。
最後に円卓で白銀の騎士の姿を見た日のことは、今でも覚えている。それが最後になるとは、知らなかった。いつの間にか、ログイン表示が灯らなくなり、メッセージの返信が途切れ、気づいたときには、もう二度と会えなくなっていた。
前回の自分は、そのまま見送るしかなかった。
今回は、まだ、間に合っている。
悟は、ノートのページをめくった。
ウルベルト・アレイン・オードル。
その名前の横に、決闘の夜に書いた一行が残っていた。
『たっちさんと決闘の約束 見届ける』
あの夜は、約束が果たされるかどうか、分からなかった。前回は、果たされることのなかった約束だったから。
悟は、その一行の下に、ペンを走らせた。
『来週土曜 第六階層』
インクが、紙に染みていく。
窓の外は、相変わらず灰色だった。空気清浄機が、規則正しい唸りを上げている。
それでも悟は、しばらくの間、そのページを見つめていた。
一人で書き始めたノートの中に、いつの間にか、誰かの言葉と、誰かとの約束ばかりが増えていた。
原作の時系列に合わせて、いくつかの話の年数や時期の描写を調整しました。物語の流れに大きな変更はありません。