墨の匂いがした。
足元には、薄く墨を刷いたような灰色の砂。頭上には、筆で描き殴ったような黒雲。遠くに連なる山並みは、輪郭が滲んで、どこまでが山でどこからが空なのかも分からない。
一枚の絵の中に、二人だけが立っていた。
「……これで、十七枚目ですね」
モモンガがそう言うと、隣の山羊頭の悪魔は、シルクハットのつばを指先で持ち上げた。
「十七。ふむ、悪くない数字だ」
ウルベルト・アレイン・オードル。黒山羊の頭に、鍔に懐中時計を下げたシルクハット。黒い礼服の肩から、薔薇を飾ったマントが長く垂れている。
この墨絵の世界では、その黒だけが、妙にくっきりと浮いて見えた。
「で、今回の条件は」
「まだ探してる最中ですよ。……ほら、あそこ」
ウルベルトが、杖の先で遠くを指した。
滲んだ山並みの中腹に、ほんの小さく、朱の色が覗いている。
「岩に押された印。あれを斬るのが条件だった回が、十六枚のうち四枚」
「四枚」
「残りは、絵の端の切れ目をくぐる、が五枚。描かれた門を開く、が三枚。水面に映った月を射抜く、が二枚。それから――」
ウルベルトは、懐から取り出した羊皮紙をひらひらと振った。細かい文字が、びっしりと書き込まれている。
「全部、ここに記録してあります。条件の種類、その手がかりが現れた場所、見抜くまでにかかった時間」
(……この人、悪役ロールプレイのくせに、やってることはものすごく真面目だな)
モモンガは、黙ってその羊皮紙を眺めた。
脱出の条件は、広げるたびに選び直される。四十の候補の中から、どれが選ばれるのかは、広げた本人にも分からない。だから、次の条件を「当てる」ことはできない。
けれど、ウルベルトがやろうとしているのは、そういうことではなかった。
どんな条件があるのか。その手がかりは、絵のどこに紛れ込みやすいのか。どこから見ていけば、一番早く見抜けるのか。
当てるのではなく、見抜く速さを削っていく。
「たっちさんは、一度これを抜けてる」
ウルベルトの声から、芝居がかった響きが、ふっと消えた。
「モモンガさんとの決闘で、雷に打たれながら、自力で条件を見抜いた。……あの人は、一度見たものは忘れない」
山羊の黄色い目が、墨絵の空を見上げた。
「なら、こっちは十回でも二十回でも、見ておくしかないでしょう」
モモンガは、何も言えなかった。
決闘の夜、観客席の最上段で身を乗り出したまま凍りついていた、あの姿を思い出す。この人は、あの夜からずっと、この日のことを考えていたのだ。
「……まあ」
ウルベルトは、いつもの調子に戻って、マントを大きく翻した。
「悪とは、勝利のためにあらゆる手を尽くす者のことだ。正義の味方が正々堂々と挑んでくるなら、こちらは周到に罠を調べ上げておく。それが、悪の流儀というものでしょう?」
「格好いいことを言ってますけど、要するに予習ですよね」
「……身も蓋もないことを言わないでください」
山羊頭の悪魔が、少しだけ肩を落とした。
モモンガは、腰の赤い軸に手を添えた。
「たっちさんにも、同じ時間を取るって伝えておきますね」
「好きにしてください。あの人が受けるとは思えませんがね」
ウルベルトは、鼻で笑った。
「どうせ、『私は一度経験していますから』とか言って、断るに決まってる」
(……言いそう)
モモンガは、心の中で深く頷いた。
「さて、モモンガさん。十八枚目をお願いします」
「まだやるんですか」
「当然。決闘まで、あと五日しかないんですよ」
モモンガが赤い軸に手をかけたとき、ウルベルトが、ふと思い出したように言った。
「そういえば、さっきデミウルゴスの部屋に寄って、置き土産をしてきました」
「置き土産?」
「悪魔の嗜みですよ」
それ以上は、何も教えてくれなかった。
モモンガは、軸をほどいた。墨絵の雲が、ゆっくりと流れていく。その下で、二人の影だけが、くっきりと黒かった。
*
決闘まで、あと三日。
ナザリックには珍しく、四人のギルドメンバーが揃っていた。
円卓の間。四十一の席のうち、灯っているログイン表示は四つ。
モモンガ。ヘロヘロ。武人建御雷。そして、タブラ・スマラグディナ。
(四人か……)
平日の夜にしては、ずいぶん賑やかだ。最近は、自分と誰か一人、という夜がほとんどだった。
近日中にがっつりインできそうです、とヘロヘロが言っていたのが、今日だった。それを聞きつけた建御雷とタブラが、ついでにと顔を出してくれたらしい。
ヘロヘロの粘体の身体が、椅子の上でぷるぷると揺れている。新しい職場の話をしているときのヘロヘロは、以前よりずっと声に張りがあった。
その隣で、建御雷が腕を組んで、退屈そうに天井を見上げていた。
「そういえば」
モモンガは、インベントリから一冊の書物を取り出した。
〈創世の書〉。たっち・みーたちと一緒にイベントを駆け回って手に入れた、拠点のレベルを使わずにNPCを作れるアイテム。その、最後の一冊だった。
「これ、結局一冊残ってるんですよ。せっかく皆さん揃ってますし、今日、どう使うか決めませんか」
「いいですね」
ヘロヘロが、ぷるりと身体を弾ませた。
「おう、悪くねえ」
建御雷も、組んでいた腕をほどいて、身を乗り出した。
(よかった。乗ってくれた)
モモンガは、円卓を見回した。一つ、足りない。
「あれ。タブラさんは?」
「ああ、タブラさんなら」
ヘロヘロが、のんびりと答えた。
「モモンガさんが作ったNPCを見てくるって、さっき出ていきましたよ。第九階層の、あの拘束具の子」
モモンガの思考が、止まった。
ジュデッカ。
設定魔のタブラが、自分の作ったNPCの設定欄を、見に行った。
見るだけで、済むだろうか。
あの人が。
(……まずい)
「すみません、ちょっと行ってきます!」
「え、モモンガさん?」
ヘロヘロの声を背中で聞きながら、モモンガは席を蹴るように立ち上がった。指に嵌めたリング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを起動する。
視界が、白く弾けた。
*
第九階層。ジュデッカに与えた一室の扉を、ほとんど体当たりするように開ける。
藍色の短髪の美女が、後ろ手に拘束具の腕輪を嵌めたまま、静かに立っていた。
その前に、もう一つの影がある。蛸のような頭部から、何本もの触手を垂らした異形。
タブラ・スマラグディナ。
ブレインイーターの錬金術師は、宙に開いた設定欄のウィンドウから顔を上げ、触手をゆらりと揺らした。
「ああ、モモンガさん。いいところに」
「た、タブラさん。ジュデッカの設定を、どうしたんですか」
「読ませてもらいました。いい設定ですね、この子。罪人として自分を縛りながら、処刑人として刃を振るう。ぞくぞくするほどのギャップです」
タブラは、満足そうに頷いた。
「それで、どうしても付け加えたいところがあって。最後に一文だけ、足させてもらいました」
*
モモンガは激怒した。
必ず、かの邪智暴虐のタブラ・スマラグディヌスを除かなければならぬと決意した。
モモンガには、他人の設定がわからぬ。モモンガは、ギルドの長である。毎晩NPCに報告して回り、ささやかな日々を送ってきた。けれども、自分の子の設定欄に対しては、人一倍に敏感であった。
「勝手に何を書いたんですか!」
「これです」
タブラが、ウィンドウをこちらへ向けた。
設定欄の最後。モモンガ自身が書き足した一文がある。
『罪人として自らを縛ることを選んだ。だが、その縛めをいつ解くかは、己で決めてよい』
その下に、見覚えのない一文が増えていた。
『縛めを解くその日、隣に立つ者がいることを、彼女はまだ知らない』
モモンガは、言葉を失った。
「モモンガさんの書いた最後の一文、すごく良かったんですよ」
タブラの声は、穏やかだった。
「自分で縛った鎖を、自分で解いていい。でも、この子はたぶん、一人じゃ解けない。そういう顔をしてる」
触手の先が、ジュデッカの後ろ手の腕輪を、そっと指した。
「作った人に、似たんでしょうね。なんでも一人で背負い込むところが」
返す言葉が、見つからなかった。
一人で背負うな。たっち・みーにそう言われたのは、ついこの間のことだ。
それに。勝手に、人のNPCの設定を書き換える。
前回、自分がやったことだった。最後の日、誰もいない玉座の間で、この人が作ったアルベドの設定を、たった一行、無断で書き換えた。
その張本人が、何を偉そうに怒っているのか。モモンガは、振り上げかけた拳を、静かに下ろした。
「……今回だけですよ」
「ありがとうございます」
タブラは、楽しそうに触手を揺らした。
「それで、今日はこのあと〈創世の書〉ですよね。ヘロヘロさんと建御雷さんと、三人で新しい子を作るって」
「……はい」
「楽しみです。実はもう、設定の下書きを用意してきたんですよ。ざっと原稿用紙百枚分くらい」
モモンガの思考が、再び止まった。
脳裏に、ある光景がよみがえる。前回の最後の日。アルベドの設定欄を開いたとき、どこまでスクロールしても終わらなかった、あの文字の壁。
(まずい)
あの量を、ヘロヘロさんと建御雷さんの新しいNPCに注ぎ込まれたら。
(この人を、〈創世の書〉に近づけてはいけない)
モモンガは、腰の赤い軸に、そっと手を伸ばした。
赤い掛け軸が、ほどける。墨の匂いが、部屋に満ちた。壁が、天井が、ジュデッカの姿が、滲んで遠のいていく。代わりに広がったのは、どこまでも続く墨絵の荒野と、筆で描き殴ったような黒雲だった。
荒野に立っているのは、モモンガとタブラの二人だけ。タブラの視界に、決闘の申請ウィンドウが浮かんだ。
「……モモンガさん?」
モモンガは、杖を掲げた。
ローブの裾を翻し、骨の顎をわずかに上げる。前回の異世界で、何百回と繰り返した、支配者の立ち姿。
「〈創世の書〉を使いたくば、このアインズ・ウール・ゴウン魔導王を倒してから行け」
黒雲の下に、低く声が響いた。
「勇者、タブラ・スマラグディナよ」
一瞬の沈黙。タブラの触手が、ぶるりと震えた。
「……いい」
「え」
「いい設定ですね!魔導王!ギルド名をそのまま王の称号にする、その発想! しかも勇者に僕を指名するなんて!」
触手が、喜びに激しくうねった。
「ところで、その魔導王って設定、どこから来たんです?」
(しまった)
「……今、考えました」
「最高です。受けて立ちましょう」
タブラは、迷わず承認のボタンを押した。
《決闘開始》
モモンガは、〈伝言〉を繋いだ。
「ヘロヘロさん、建御雷さん。〈創世の書〉は円卓に置いてあります。先に始めていてください」
『え、タブラさんは?』
「こちらで足止めします」
杖の先に、朱色の光が渦を巻く。
「〈魔法最強化・朱の新星〉!」
墨絵の荒野が、真紅に染まった。炸裂する炎の向こうで、タブラの楽しげな悲鳴が上がる。
「あとは頼みましたよ、ヘロヘロさん、建御雷さん」
『……なんか、すごい音してますけど』
『おう。よく分かんねえが、任せとけ』
〈伝言〉を切る。炎の中から、触手を広げた異形の影が、ゆらりと立ち上がった。
「さすがです、魔導王。ですが勇者は、そう簡単には倒れませんよ」
「望むところだ」
その日、モモンガは本気でタブラを倒しにいった。
*
しかし、モモンガは一つだけ忘れていた。
異形種だけで作られたギルド、アインズ・ウール・ゴウン。そのメンバーが、普通のNPCを作るはずがない、ということを。
思い返してみればいい。
第一から第三階層を守るのは、ペロロンチーノが己の趣味のすべてを詰め込んだ、真祖の吸血鬼。郭言葉を操り、胸元には詰め物を仕込み、設定欄には、とても人には読み上げられない嗜好がずらりと並んでいる。
第七階層には、ウルベルトが作り上げた悪魔の参謀。人間をいたぶることに至上の喜びを見出す、カルマ値マイナス五百の、紛うことなき極悪。
黒棺には、人の背丈ほどもある巨大なゴキブリが、紳士の礼節をもって鎮座している。
執事助手には、ナザリックの支配を本気で企んでいる、イワトビペンギン。
守護者統括に至っては、タブラが心血を注いで書き上げた、果てしなく長い設定の、その最後の一文が、あれだった。
誰も、普通を作らない。作ろうと思ったことすら、たぶん一度もない。
それがこのギルドで、それがこの四十一人だった。
「僕、前から思ってたんですよね」
円卓の上に開いた〈創世の書〉を前に、ヘロヘロが、粘体の身体をぷるんと揺らした。
「エクレアって、ナザリックの転覆を企んでる設定がありますよね。餡ころさんが冗談でつけたやつ。あれ、面白いんですけど、本当に実力が伴ってたら、もっと面白いかなって」
「なるほどな」
建御雷が、腕を組んだまま、にやりと笑った。
「レベル100の、ギルドの転覆を企むNPCか。悪くねえじゃねえか」
「はい。それで、実力も伴ってるってことなので、ビルドも過去一ガチガチにしたら面白いかなって」
「おう。なら俺は、コキュートスの好敵手って設定をつけるか。あいつにも張り合う相手がいたほうがいい」
「いいですねえ」
「で、ヘロヘロさん。性格はどうすんだ」
「そうですねえ……」
ヘロヘロは、少しだけ考えるように身体を揺らした。
「モモンガさんのおかげで転職できましたけど、それでも、もっと休めるなら休めるに越したことはないんですよね」
「……おう」
「だから、ギルドの転覆を企んでるけど、普段はたくさん寝て、たくさん食べて、ほかのNPCと楽しく遊んでる、ってことにしようかと」
「それじゃ転覆できねえだろ」
「まあ、いいんじゃないですかね。そのうち、気が向いたら」
建御雷は、しばらく黙っていた。それから、肩を揺らして笑った。
建御雷は、ふと笑みを引っ込めた。
円卓の向かい。今夜も灯っていない、白銀の騎士の席に、一瞬だけ目をやる。
それから、設定欄に太い指を伸ばした。
「普段はどれだけだらけててもいい。けどな、負けたことだけは、絶対に忘れねえ。十年でも百年でも覚えてて、気が向いた日に、ふらっと挑みに行く」
「気長すぎません?」
「勝つまでやるんだ。急ぐ必要はねえよ」
建御雷は、もう一行、設定欄に書き足した。
「で、負けた日は、第九階層のバーで自棄酒」
「寝て、食べて、遊んで、負けたら飲む……。すごい生活ですね」
「それが一番効くんだよ」
「……それ、建御雷さんじゃないですか」
「うるせえ」
ぶっきらぼうに言い捨てて、建御雷はそっぽを向いた。
ヘロヘロの笑い声が、少しずつ小さくなっていく。
左右で長さの違う角が、円卓の灯りを受けて、三日月のように光っている。
ヘロヘロは、それ以上は何も言わなかった。
この人が、何年も、何十回も、誰に挑み続けているのか。ギルドの誰もが知っている。
勝つまで、何度でも。
その一行が、作られたばかりの設定欄に、静かに刻まれていた。
*
モモンガがタブラとの決闘から戻ってきたのは、それから一時間ほどあとのことだった。円卓の上に浮かんだ設定欄を一読して、モモンガは、静かに頭を抱えた。
(この人たち、普通のNPCは作れないのか)
内心でそう毒づいてから、モモンガは、ふと動きを止めた。
宝物殿の奥で、軍服を翻して敬礼する、卵頭の埴輪の顔が浮かんだ。
大仰な身振り。芝居がかった台詞回し。ことあるごとに挟まれる、ドイツ語の決め台詞。
パンドラズ・アクター。作ったのは、誰だったか。
(……俺もだ)
罪人の処刑人に、家族を拾い集める父親。言われてみれば、最近作った子たちも、たいがいだった。
モモンガは、そっと設定欄を閉じた。何も言わないことにした。
*
そして、決闘の夜。
モモンガは、ウルベルトとたっち・みーがいる闘技場の、その真ん中に佇んでいた。