ギルド長モモンガは、宝物殿の奥から一冊の書物を取り出した。イベントアイテム〈創世の書〉。以前に入手したイベントアイテムである<創世の書>を使って新しいNPC製作を完成させようとしていた。
第九階層の一室。完成したばかりのNPCの前で、モモンガは腕を組んだまま、かれこれ十分近く動けずにいた。
「……できた」
思わず、声が漏れる。
目の前に立っているのは、ひとりの女だった。
深い藍色の髪は短く切り揃えられ、白い頬の輪郭に沿って鋭く落ちている。何度も色見本と睨めっこして、ようやく辿り着いた「夜の底」の色だ。照明の角度を変えると、青い艶がひと筋、すうっと走る。
「よし、ここは完璧」
モモンガは小さく頷き、彼女の周りをゆっくりと一周した。
首から下は、大きな黒い外套にすっぽりと覆われている。蝙蝠の翼を思わせるシルエットで、裾の先は刃のように鋭い。データクリスタルを三つ注ぎ込んで、ようやく納得のいく質感になった代物だ。
背後に回り込むと、外套の奥で後ろ手に組まれた両腕が見えた。その手首には、拘束具めいた腕輪。
「……我ながら、いい趣味してるな」
自嘲気味に呟きながらも、目は離せない。 罪人として自らを縛りながら、なお処刑人として刃を振るう。設定文の一行目に書いたその矛盾が、この腕輪ひとつで形になっていた。
正面に戻り、顔を見上げる。
身長は百七十四。モモンガのアバターより少し低いくらいだが、すらりと伸びた立ち姿のせいで、実際よりずっと高く見えた。
整った顔立ちだった。氷を削り出したような白い肌に、すっと通った鼻筋、薄く結ばれた唇。表情パーツは「無」に設定してある。それなのに、こうして向き合っていると、冷たい視線でじっと値踏みされているような気がしてくる。
「……いや、美人すぎないか?」
誰もいない部屋で、モモンガは思わず突っ込んだ。 作っている最中は夢中で気づかなかったが、こうして完成形を眺めると、自分の手によるものとは思えない。外装担当のメンバーに相談しながら、何十回と顔のパーツを調整した甲斐があった。 そこで、ふと我に返る。
「外套の下は……うん、まあ、うん」
モモンガは、外套の装備状態をそっと確認し、そのまま閉じた。 動きの速さを極めるために布地を削った、という設定に嘘はない。嘘はないのだが、これをペロロンチーノに見られたら、何を言われるか分かったものではない。
「当分は外套を着せたままにしておこう。うん。それがいい」
自分に言い聞かせるように呟き、最後にもう一度、彼女の全身を眺めた。 月夜に現れ、黙して獲物を屠る氷の処刑人。 設定文に書いたその一文が、今、目の前に立っている。
名前は、「ジュデッカ」にした。
名前の由来は、ダンテ『神曲』で、裏切り者が氷漬けにされる地獄の最下層。罪人の処刑人という設定にぴったりだと思ったからだ。
「よろしくな、ジュデッカ」
もちろん、返事はない。NPCは話しかけられても何も答えない。 それでもモモンガは、どこか満足げに頷いて、部屋の照明を少しだけ落とした。 薄闇の中、藍色の髪がかすかに光った気がした。
最初の一年は、ほとんど記憶の通りに進んだ。
ウルベルト・アレイン・オードルは、出会った瞬間から悪の美学を語り続けていた。ペロロンチーノは姉のぶくぶく茶釜に引きずられるようにして加わり、二人はクランの空気を一気に騒がしくした。やまいこは面倒見がよく、新人が入るたびに装備の相談に乗っていた。
モモンガは、彼らの癖を全部知っていた。
ウルベルトが「正義」という言葉にどう反応するか。ペロロンチーノがどんな冗談で場を和ませようとするか。たっち・みーが困ったとき、どんなふうに頭を掻くか。
知っているからこそ、口を滑らせないように気をつけなければならなかった。
「モモンガさん、なんでそんなにこのゲーム詳しいんですか?」
ある夜、ペロロンチーノにそう訊かれた。ヘルヘイムの毒沼地帯で、モモンガが誰も知らない隠し通路を見つけたときだった。
「……攻略サイトを、かなり読み込んでるので」
「いやいや、こんなのどこにも載ってないですって」
「たまたまですよ」
骸骨の顔に表情はない。このときほど、それをありがたいと思ったことはなかった。
ナザリック地下大墳墓の攻略を提案したのは、モモンガだった。
「ヘルヘイムの奥に、未踏破のダンジョンがあるんです。噂だと、相当な難易度らしくて」
九人は顔を見合わせた。
「行きましょう」たっち・みーが即答した。「ギルド拠点にできたら最高じゃないですか」
モモンガは内心で拳を握った。
罠の配置も、ボスの行動パターンも、全部頭に入っている。前回は何度も全滅して、ようやく突破した場所だ。今回は一度で抜けられる。そう思っていた。
結果は、三回の全滅だった。
一度目は、モモンガの指示が早すぎた。罠の存在を知っているせいで、まだ誰も気づいていない段階で「右に避けてください」と叫んでしまい、そのせいで陣形が崩れた。
二度目は、レベルが足りなかった。知識はあっても、それを実行できるだけの力が、まだ九人にはなかった。
三度目は、たっち・みーとウルベルトの連携が噛み合わなかった。前衛と後衛のタイミングがずれ、そこを突かれた。
円形の墓所の入口で、九人はリスポーン地点に座り込んでいた。
「いやー、きついっすね、ここ」
ペロロンチーノが笑う。誰も落ち込んではいなかった。むしろ、楽しそうだった。
モモンガは、その顔を一人ずつ見回した。
――そうか。
全滅して、文句を言い合って、作戦を練り直して、また挑む。前回のナザリック攻略が楽しかったのは、簡単だったからではない。みんなで苦労したからだ。
自分が知識で全部を先回りしてしまったら、その時間を奪うことになる。
四度目の挑戦の前、モモンガは指示を半分に減らした。致命的な罠だけを、さりげなく伝える。あとは、仲間たちの判断に任せた。
五度目で、ナザリックの最奥に辿り着いた。
ボスが倒れた瞬間、九人の叫び声が墓所の天井に反響した。たっち・みーがモモンガの肩を叩き、ウルベルトが珍しく素直に「やったな」と言い、ペロロンチーノと茶釜が抱き合って跳ねていた。
《ギルド拠点「ナザリック地下大墳墓」を獲得しました》
システムメッセージを見つめながら、モモンガは静かに思った。
この光景を、二度見られた。それだけで、戻ってきた意味がある。
ギルド「アインズ・ウール・ゴウン」が結成されたのは、それから間もなくのことだった。
ギルド長には、モモンガが選ばれた。
「え、俺ですか? たっちさんのほうが……」
「いや、モモンガさんが一番みんなのこと見てるでしょ」たっち・みーはあっさりと言った。「俺は前に出て戦うほうが向いてますし」
前回と同じやり取りだった。それでもモモンガは、前回よりもずっと重くその言葉を受け止めた。
ギルドは少しずつ大きくなっていった。
タブラ・スマラグディナ。ヘロヘロ。ブルー・プラネット。武人建御雷。弐式炎雷。アマノマヒトツ。ベルリバー。ぬーぼー。
一人増えるたびに、モモンガは心の中で名前を呼んだ。
おかえりなさい。また会えましたね。
もちろん、口に出したことは一度もない。
ナザリックの改装が始まると、ギルドは一気に活気づいた。
第一階層から第三階層の墳墓を、シャルティアの領域として作り込むのはペロロンチーノだった。第六階層の巨大な森と、夜になると星が瞬く天井を作ったのはブルー・プラネットだ。
「この星空、本物の星座と同じ配置にしたんですよ」
完成した夜、ブルー・プラネットは嬉しそうに言った。
「現実じゃ、もう誰も見られないですからね」
モモンガは天井を見上げた。
この空を、マーレとアウラが毎晩見上げることになる。いつか、異世界の本物の星空を見て、ブルー・プラネットさんに見せたかったと思う夜が来る。
「……きれいですね」
それしか言えなかった。
NPCの製作も、各メンバーが思い思いに進めていった。
ウルベルトはデミウルゴスを。たっち・みーはセバスを。やまいこはユリ・アルファを。武人建御雷はコキュートスを。茶釜はアウラとマーレを。そ
して、タブラ・スマラグディナはアルベドを。
その日、タブラはいつものように、膨大な設定を書き込んでいた。何万字にも及ぶ、守護者統括の来歴と性格。モモンガは隣で、それを眺めていた。最後の一行が入力される。
『ちなみにビッチである』
モモンガの指が、わずかに動いた。
今なら、言える。タブラさん、その一文、やめませんか、と。冗談めかして、さりげなく。けれど、それは誰の設定を変えることになるのか。
あの日、ノートに書いた言葉を思い出す。
――今度は、誰の設定も、勝手に書き換えない。
アルベドは、タブラさんの娘だ。その一行も含めて、タブラさんが選んだ彼女だ。それを自分の都合で歪めたことが、前回の最大の過ちだった。
モモンガは、黙って手を下ろした。
「タブラさん、相変わらず凝りますね」
「ギャップ萌えですよ、ギャップ萌え」
タブラは楽しそうに笑っていた。
モモンガも、笑った。
それが正しい選択だったのかどうか、答えはまだ出ていない。ただ、少なくとも今度は、彼女の心を自分の手で書き換えずに済んだ。
ギルドが四十一人に達した頃、モモンガは一つのルールを提案した。
「来られる時に来ればいい。来られない時は、無理しない。それだけです」
円卓の間に集まった全員が、少し不思議そうな顔をした。
「ルールっていうか、当たり前じゃないですか?」とペロロンチーノ。
「当たり前なんですけど、ちゃんと言っておきたくて」
モモンガは、言葉を選びながら続けた。
「ゲームのせいで、誰かの生活が壊れるのは嫌なんです。仕事とか、家族とか、体とか。そっちを優先してください。で、余裕ができたら、また来てください。ナザリックは、ずっとここにありますから」
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、やまいこが静かに言った。
「……モモンガさんらしいですね」
前回の自分は、この言葉を言えなかった。みんなに来てほしくて、イベントを企画して、ログイン状況を気にして、それでも去っていく背中を、ただ見送ることしかできなかった。
引き止めることが、仲間を守ることではない。
それを、モモンガは一度目の十二年で学んでいた。
それでも、手を伸ばせるところには伸ばした。
ヘロヘロのことは、特に気にかけていた。
前回のヘロヘロは、ブラック企業で心身をすり減らし、最後の夜にほんの少し顔を出しただけで去っていった。疲れ切った声で「すみません」と謝った姿が、今でも忘れられない。
「ヘロヘロさん、最近、何時に寝てます?」
ある夜、二人きりで素材集めをしているときに、モモンガは訊いた。
「えー……三時? 四時?納期前なんで」
「それ、毎日ですか」
「まあ、だいたい」
ヘロヘロのアバター、古き漆黒の粘体が、ぷるぷると力なく揺れた。
モモンガは少し迷ってから、言った。
「……俺も、似たような会社にいたことがあるんです。いや、今もそうか。でも、知り合いで、そういう働き方を続けて、体を壊した人がいて」
母のことは、言わなかった。
「転職とか、考えたことありますか」
「いやー、プログラマーなんてどこもこんなもんですよ」
「そうとも限らないみたいですよ。ギルドの中にも、IT系の人、何人かいますし。話、聞いてみたらどうですか」
ヘロヘロはしばらく黙っていた。
「……モモンガさんって、たまにお母さんみたいなこと言いますよね」
「すみません」
「いや、嬉しいです。考えてみます」
それから半年後、ヘロヘロは転職した。給料は少し下がったが、毎日日付が変わる前に帰れるようになったという。
「モモンガさんのおかげっすよ」
そう言われて、モモンガは首を振った。
「ヘロヘロさんが決めたことですから」
本心だった。自分にできたのは、ほんの少し背中を押すことだけだ。
一番難しかったのは、たっち・みーとウルベルトのことだった。
二人の衝突は、前回も今回も、避けようがなかった。
正義を掲げる騎士と、悪を標榜する魔法詠唱者。ゲーム内での立場の違いは、そのまま現実での立場の違いでもあった。たっち・みーは警察官として恵まれた生活を送り、ウルベルトは貧困層の出身で、社会そのものを憎んでいた。
ある夜、作戦会議の最中に、二人の口論が始まった。
きっかけは些細なことだった。PK集団への報復をどこまでやるか。たっち・みーは最小限にすべきだと言い、ウルベルトは徹底的に叩くべきだと言った。
「あんたはいつもそうだ。綺麗事ばっかり言いやがって」「綺麗事で何が悪いんですか」
「あんたみたいな恵まれた人間には、一生わからねえよ」
円卓の間が凍りついた。
前回、この口論の延長線上で、ウルベルトはギルドを去った。たっち・みーもまた、それからほどなくして。
モモンガは、静かに口を開いた。
「今夜は、ここまでにしましょう」
二人が、こちらを見た。
「作戦は明日決めます。それより、ウルベルトさん、少しだけ時間もらえますか」
第九階層の、使われていない一室。
二人きりになると、ウルベルトはしばらく何も言わなかった。山羊頭の悪魔のアバターが、窓のない壁を見つめている。
「……悪かったよ。ギルドの空気、悪くした」
「謝らなくていいです」
モモンガは、ウルベルトの隣に立った。
「ウルベルトさんの言ってること、半分は正しいと思います」
「半分かよ」
「残りの半分は、たっちさんも正しいので」
ウルベルトは、ふっと鼻で笑った。
「ギルド長らしい答えだな」
「……俺も、恵まれてるほうじゃないんです」
モモンガは、少しだけ自分のことを話した。小学校しか出ていないこと。母が過労で死んだこと。会社と部屋を往復するだけの毎日だったこと。
ウルベルトは黙って聞いていた。
「だから、ウルベルトさんの怒りは、分かる気がします。でも、たっちさんが悪いわけでもない。あの人は、あの人の場所で、ちゃんと正しくあろうとしてるだけです」
「……分かってるよ、そんなこと」
ウルベルトの声は、低かった。
「分かってるから、腹が立つんだ」
その夜、二人の間で何かが劇的に変わったわけではなかった。
けれど、それから数日後。円卓の間で、たっち・みーとウルベルトが、短く言葉を交わしているのをモモンガは見た。
「この前は、言いすぎた」
「いや、俺も」
それだけだった。それでも、前回の二人は、最後までその言葉を交わせなかった。
ナザリックの名が、ユグドラシル中に轟いたのは、千五百人の大侵攻のときだった。
複数のギルドと傭兵、総勢千五百人以上のプレイヤーが、ナザリックに攻め込んできた。前回と同じだった。そして、前回と同じく、アインズ・ウール・
ゴウンはそれを第八階層で全て撃退した。
戦いが終わったあとの円卓の間は、祭りのような騒ぎだった。
「やばいって! 千五百だよ千五百!」
「掲示板、すげえことになってる」
「悪のギルド、ここに極まれり、だな」
ウルベルトが満足げに言い、たっち・みーが苦笑し
ながらも頷いていた。
四十一人全員が、そこにいた。
モモンガは、その光景を目に焼きつけるように見つめた。
前回も、この夜は楽しかった。だが、前回の自分は、この先に何が待っているのかを知らなかった。今は知っている。
この賑やかさは、永遠には続かない。
だからこそ、この一瞬が、たまらなく愛おしかった。
ワールドエネミー討伐の話が持ち上がったのは、ギルド結成から六年目のことだった。
ユグドラシルに数体しか存在しない、世界級の敵。討伐に成功したギルドは、運営が用意した特別なワールドアイテムを手にできる。
「やりましょう」
提案したのは、珍しくたっち・みーだった。
「最近、仕事がかなり忙しくなってきて。……正直、いつまでこうやって遊べるか、分からないんです。だから、一回、全員で何かでっかいことをやりたい」
円卓の間が、一瞬静かになった。
モモンガには、その言葉の意味が分かっていた。たっち・みーは、もうすぐ結婚する。子どもが生まれる。そして、ギルドを去る。
前回と同じように。
「……やりましょう」モモンガは言った。「四十一人、全員で」
準備には、三か月かかった。
全員の予定を合わせるのが、何よりも難しかった。社会人ばかりのギルドだ。夜勤のある者、子育て中の者、締め切りに追われる者。モモンガは何度も日程を組み直し、一人ずつ個別に連絡を取った。
「すみません、その日、どうしても無理で……」
そう言われるたびに、別の日を探した。
最終的に決まったのは、ある年の大晦日の夜だった。「大晦日なら、みんな休みでしょ」と茶釜が言い、「いや、家族サービスが」とたっち・みーが笑い、「一年の締めくくりに世界ぶっ壊すとか、最高に悪じゃねえか」とウルベルトが言った。
その夜、ナザリックの円卓には、四十一の席すべてに主がいた。
戦いは、十二時間に及んだ。
ワールドエネミーは、文字通り世界そのもののような存在だった。HPバーは何十本にも分かれ、一本削るごとに攻撃パターンが変わる。全滅寸前に追い込まれたのは、一度や二度ではなかった。
たっち・みーが前線を支え、やまいこが回復を回し、ウルベルトの大魔法が戦場を焼いた。ペロロンチーノの矢が弱点を射抜き、茶釜の盾が仲間を庇い、弐式炎雷が影から急所を突いた。
モモンガは後方から全体を見渡し、指示を飛ばし続けた。
記憶にない戦いだった。前回のアインズ・ウール・ゴウンは、このワールドエネミーに挑んでいない。挑む前に、仲間が減りすぎていたからだ。知識は役に立たない。頼れるのは、十八年分――前回の十二年と、今回の六年――積み重ねてきた、仲間たちとの呼吸だけだった。
最後のHPバーが砕けたのは、元旦の朝だった。
《ワールドエネミーが討伐されました》
誰も、すぐには声を出さなかった。
それから、四十一人分の歓声が、一斉に爆発した。
「勝ったああああ!」
「マジかよ……マジで勝ったのかよ……!」
「あけましておめでとうございまーす!」
たっち・みーが、モモンガの肩を強く掴んだ。
「モモンガさん。ありがとうございました」
「……いえ。みんなのおかげです」
「いや。モモンガさんが、みんなを集めてくれたからですよ」
白銀の兜の奥で、たっち・みーが笑っているのが分かった。
モモンガは何も言えなかった。
言えば、泣いてしまいそうだった。骸骨の身体に涙腺はない。それでも画面の向こうで、鈴木悟の目からは、もう涙がこぼれていた。
討伐から一か月ほどは、ギルドはずっと祭りのあとの熱を帯びていた。
円卓の間では、毎晩のように戦闘ログの振り返り会が開かれた。どこで誰がミスをしたか、どの指示が神がかっていたか。同じ話を何度繰り返しても、誰も飽きなかった。
「あの最終形態の全体攻撃、茶釜さんの盾がなかったら全滅でしたよね」
「いや、その前にウルベルトさんの魔法でHP削りきってたのがでかい」
「たっちさんのあの一撃、スクショ撮った人いる?」
モモンガは、その輪の端で、静かにみんなの声を聞いていた。
四十一の席が、全部埋まっている。
それが当たり前ではないことを、この場で知っているのは自分だけだった。
最初の兆しは、ほんの小さなものだった。
ログインの時間が、少しずつずれていく。
二十一時に来ていた人が、二十三時になる。毎日来ていた人が、一日おきになる。週末にしか来なかった人が、月に一度になる。
モモンガには、それが見えていた。ギルドメンバーのログイン履歴は、ギルド長なら誰でも確認できる。前回の自分も、毎晩それを眺めていた。減っていく数字を、ただ見ていることしかできなかった。
今回は、違う。
そう思った。
モモンガは、イベントを企画し始めた。週末の合同狩り。新ダンジョンの探索会。階層ごとの模様替えコンテスト。メンバー同士のPvP大会。
最初のうちは、みんな楽しんでくれた。
「モモンガさん、最近めっちゃ企画してくれますね」「ギルド長の鑑っすわ」
けれど、二か月が過ぎた頃から、参加者が目に見えて減り始めた。
モモンガは、さらに企画を増やした。参加できなかったメンバーには、個別にメッセージを送った。
『次の日曜、空いてますか?』
『先週の探索会、みんなで○○さんの話してましたよ』
『無理しないでくださいね。でも、もし時間があったら』
送信ボタンを押すたびに、胸の奥で何かが軋んだ。
「モモンガさん、ちょっといいですか」
ある夜、ペロロンチーノに呼び止められた。
第六階層の森の中、ブルー・プラネットが作った星空の下だった。バードマンのアバターは、珍しく羽をたたんで、静かに枝に止まっていた。
「最近のモモンガさん、ちょっと必死すぎない?」
モモンガは、言葉に詰まった。
「いや、責めてるわけじゃないんですよ。企画、楽しいし。でも……」
ペロロンチーノは、少し言いにくそうに続けた。
「姉ちゃんが言ってたんです。モモンガさんからメッセージ来るたびに、行けないのが申し訳なくなるって。仕事でどうしても無理な日でも、なんか、裏
切ってるみたいな気持ちになるって」
頭を、殴られたような気がした。
「……すみません」
「いや、謝んないでくださいよ。俺らのこと大事にしてくれてるの、分かってるんで」
ペロロンチーノは、星空を見上げた。
「ただ、最初にモモンガさん言ってたじゃないですか。来られる時に来ればいい、来られない時は無理しないって。あれ、すげえいいルールだなって、俺、思ってたんですよね」
モモンガは、何も言えなかった。
自分で決めたルールを、自分が一番破っていた。前回と同じ結末を恐れるあまり、前回と同じことを、もっとひどい形で繰り返そうとしていた。引き止めることが、仲間を守ることではない。それを学んだはずだったのに。
「……ありがとうございます、ペロロンチーノさん」「いえいえ。あ、でも、合同狩りは続けてほしいっす。あれは普通に楽しいんで」
バードマンは、いつもの軽い調子に戻って笑った。
その夜、モモンガは企画の半分を取りやめた。個別のメッセージを送るのも、やめた。
オフ会の話が持ち上がったのは、それからしばらくしてからだった。
「せっかくだし、一回リアルで会いません?」
言い出したのは、ぶくぶく茶釜だった。
「ワールドエネミー倒した記念ってことで。来られる人だけでいいから」
意外なことに、半分近いメンバーが手を挙げた。
モモンガは、迷った。
鈴木悟として、彼らの前に立つ。それは、骸骨の仮面を外して、ただの痩せた会社員として会うということだ。前回の自分は、オフ会に何度か参加したはずだが、その記憶はどれもぼんやりとしている。きっと、緊張しすぎて何も覚えていなかったのだろう。
「……行きます」
結局、そう答えた。
会場は、アーコロジー内部の、小さな個室レストランだった。
外縁の集合住宅に住む悟にとって、アーコロジーの中に入ること自体が、ほとんど初めてだった。ゲートで人工肺を外すと、空気が驚くほど澄んでいた。
天井には、本物ではない青空が映し出されている。
個室の扉を開けると、すでに十数人が席についていた。
誰が誰なのか、すぐには分からなかった。
当たり前だ。ゲームの中では、全員が異形の姿をしている。粘体、鳥人、悪魔、蟲、騎士。目の前にいるのは、年齢も体格もばらばらの、ごく普通の人間たちだった。
「あ、もしかして、モモンガさん?」
声をかけてきたのは、三十代くらいの、背の高い男性だった。
その声を聞いた瞬間、分かった。
「……たっちさん」
「やっぱり! なんか、そんな感じがしました」
たっち・みーは、少し照れたように笑った。整えられた髪に、清潔なシャツ。いかにも真面目そうな、穏やかな顔つきの人だった。
一人ずつ、自己紹介が進んでいった。
茶釜は、想像よりずっと小柄な女性だった。ゲームの中の声とまったく同じ声で、場を明るく回していた。その隣で、弟のペロロンチーノが居心地悪そうに縮こまっていた。
やまいこは、見るからに先生という雰囲気の女性で、運ばれてきた料理を手際よく取り分けていた。ヘロヘロは、目の下にくっきりと隈のある、ひょろりとした男性だった。乾杯の前から、うとうとしかけていた。
タブラは、意外にも寡黙な人で、ほとんど喋らずに、全員の話をにこにこと聞いていた。
悟の番が来た。
「鈴木、です。モモンガです。……えっと、普通の、会社員です」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
「知ってますよー」茶釜が笑った。「モモンガさん、ゲームの中と全然変わんないね。真面目そうなとこ」
「そうですか」
「うん。なんか、安心した」
オフ会は、三時間ほど続いた。
ゲームの話。仕事の話。最近見た映画の話。他愛のないことばかりだったが、悟には、そのどれもが眩しかった。
途中で、たっち・みーがグラスを置いた。「あの、ちょっと報告があって」
全員の視線が集まる。
「実は、来年、結婚することになりまして」
一瞬の静寂のあと、個室が拍手と歓声で満たされ
た。
「おめでとうございます!」
「マジっすか! たっちさんが!」
「相手どんな人ですか!」
たっち・みーは、真っ赤になって頭を掻いていた。ゲームの中でも、困ったときにいつもやる仕草だった。
悟も、手を叩いた。
心から、おめでとうと思った。
同時に、胸の奥が、静かに冷えていくのを感じた。知っている。この先、たっち・みーには子どもが生まれる。そして、ユグドラシルから遠ざかっていく。それは、彼が幸せになっていく過程そのものだった。
止める理由など、どこにもない。
「たっちさん」
宴の終わり際、悟は彼に声をかけた。「本当に、おめでとうございます」
「ありがとうございます。……あの、モモンガさん」たっち・みーは、少しだけ声を落とした。
「たぶん、これから、前みたいには来られなくなると思うんです。ちゃんと言っておきたくて」
「はい」
悟は、まっすぐに彼を見た。
「来られる時に、来てください。ナザリックは、ずっとありますから」
たっち・みーは、少し驚いたような顔をして、それから深く頷いた。
帰り道、悟は一人でアーコロジーのゲートを抜けた。
人工肺を装着し直す。外の空気は、相変わらず重く濁っていた。
オフ会に来なかったメンバーのことを、考えていた。
ウルベルトは来なかった。参加者の名簿に名前がなかったとき、悟はなんとなく理由を察していた。アーコロジー内のレストランで食事をする金は、外縁の貧困層にとって決して安くない。交通費を考えれば、なおさらだ。
自分は、無理をして来た。ウルベルトは、無理ができなかった。
その違いは、ほんのわずかで、そして決定的だった。
それからの日々は、静かに過ぎていった。
櫛の歯が欠けるように、一人、また一人と、ログインの表示が灯らなくなっていった。
モモンガは、もう引き止めなかった。
代わりに、別のことを始めた。
誰かが長くログインしなくなるたびに、その人の
NPCを訪ねるようになったのだ。
第九階層。セバス・チャンが、いつもの場所で直立している。
「セバス。たっちさん、お父さんにようだぞ」
もちろん、返事はない。白髪の老執事は、微動だにせずに前を見つめている。
「女の子だそうだ。写真、少しだけ見せてもらったよ。たっちさんに、目元が似てて」
モモンガは、しばらくそこに立っていた。
第七階層。燃え盛る溶岩の河のほとりで、デミウルゴスが静かに佇んでいる。
「ウルベルトさん、最近、来てないんだ。仕事が大変みたいで」
赤いスーツの悪魔は、眼鏡の奥の目を閉じたまま、
何も答えない。
「でも、この前、一通だけメッセージが来たぞ。『デミウルゴスに、悪の美学を忘れるなと伝えといてくれ』って」
モモンガは、少しだけ笑った。
「伝えたぞ」
第六階層。アウラとマーレの姉弟が、巨大樹の根元で待機モーションを繰り返している。
「茶釜さん、新しいアニメの主役に決まったそうだ。ペロロンチーノさんが、自分のことみたいに自慢していたな」
第一階層から第三階層。シャルティアが、墳墓の奥の霊廟で、優雅にスカートの裾を広げている。
「ペロロンチーノさんも、最近は月に一回くらいくるかな。でも、来るたびに君のところに寄ってるの、知ってるからな」
一つずつ、階層を巡る。
一人ずつ、報告をする。
誰も答えない。ゲームのNPCは、話しかけられても決められた動作を繰り返すだけだ。
それでもモモンガは、続けた。
いつか、この子たちが本当に目を覚ます日が来る。そのとき、自分の創造主がどんなふうに生きて、どんなふうにここを去っていったのか、誰かが覚えていなければならない。
それができるのは、最後まで残る自分だけだった。
最後に、玉座の間へ向かった。
天井から吊るされた、四十一枚の旗。その一枚一枚に、ギルドメンバーのエンブレムが描かれている。玉座の脇に、アルベドが控えている。白いドレス。黒い翼。
モモンガは、彼女の前で立ち止まった。
タブラさんも、最近はほとんど来ない。それでも、たまに思い出したようにログインしては、この玉座の間で、アルベドの設定を読み返して満足げに帰っていく。
あの一行は、今もそこに書かれている。
『ちなみにビッチである』
モモンガは、その一行を、一度も消していない。
「……アルベド」
返事はない。
「君の創造主は、君のことが大好きだそうだ。設定を書くとき、本当に楽しそうだったよ」
金色の瞳は、どこも見ていない。
「だから、俺は、君を書き換えない。君は、タブ
ラさんが作った君のままでいてくれ」
それが、前回の自分にはできなかったことだった。
討伐の夜から、何年が過ぎただろう。
その夜も、円卓の間に灯っていたログイン表示は、三つだけだった。
自分と、ヘロヘロと、たまに顔を出すタブラ。
前回の今頃と比べて、多いのか少ないのか、正直なところ、もう分からない。
ただ、ひとつだけ違うことがある。
去っていった仲間たちのほとんどが、最後にちゃんと「また」と言っていった。時々、思い出したようにメッセージが届く。半年に一度、ふらりとログインして、懐かしそうにナザリックを歩いて帰っていく人もいる。
それで十分だと、今は思える。
「お疲れっすー。そろそろ落ちますね」
ヘロヘロの声が、円卓に響いた。
「お疲れさまです。おやすみなさい」
《ヘロヘロさんがログアウトしました》
続いて、タブラの表示も消える。
円卓の間に、モモンガだけが残された。四十一の空席。そのひとつひとつに、誰かの思い出が座っている。
モモンガは、ゆっくりと立ち上がった。
第九階層の、自室へ向かう。
仲間たちが作ったNPCは、仲間たちのものだ。彼らが残していった設定のまま、彼らが望んだ姿のまま、ここで主の帰りを待っている。
けれど、ナザリックには、まだ空いている場所があった。
誰も使わなくなった部屋。主を失ったまま閉ざされた扉。仲間たちが「いつか何か作ろう」と言い残して、そのままになった区画。その一つ一つに、まだ生まれていない誰かの居場所がある。
誰の娘でもなく。誰の設定を書き換えるのでもなく。最初から最後まで、自分の手で形にする者たち。
いつか転移の日が来たとき、仲間たちが遺した守護者たちと並び、ナザリックを支えてくれる者たち。前回の自分が持たなかった、もう一つの手札。一人では足りない。かといって、数を揃えればいいわけでもない。
一人一人に、名前を与えよう。姿を与えよう。この場所に立つ理由を、ちゃんと与えよう。仲間たちがそうしてきたように。
モモンガは、NPC作成画面を開いた。
空っぽの外見データと、何も書かれていない設定欄が、いくつも並んでいる。
そのどれもが、静かに、こちらを見返していた。
ジュデッカ― 月夜の氷刑執行人 ―役職:第五階層「断罪の氷壁」領域守護者住居:第五階層・断罪の氷壁の最奥属性:中立〜悪〔カルマ値:-150〕創造主:モモンガ
種族レベル:罪縛の氷霊(シンバウンド・フロストスピリット)10、月下の亡霊 5 計15レベル職業レベル:エクセキューショナー 15、アサシン 10、フロスト・ブレイダー 15、カースド・プリズナー 10、ムーンライト・ストーカー 10、シャドウ・ダンサー 10、ほか 計85レベル合計:100レベル