《決闘開始》
文字が砕け散るより早く、白銀が消えた。
消えた、としか言いようがなかった。二十メートルの距離が、瞬きひとつの間に詰まっている。砂が遅れて舞い上がり、星明かりの中で白く渦を巻いた。
踏み込みの瞬間、白銀の足元で、淡い光が弾けたのが見えた。距離を潰すための、移動のスキル。名前を唱えることさえしない、身体に染みついた一歩だった。
モモンガは、考えるより先に後ろへ跳んでいた。
胸の前を、剣が通り過ぎた。
風圧だけで、ローブの胸元が裂けた。夜気に晒された肋骨の奥で、赤い宝玉が脈打つように明滅している。
(速い……!)
知っていたはずだ。何年も隣で見てきた。前回の十二年で、何度も正面から向けられた剣だ。
それでも、速かった。あのころは、間合いと計算ばかりを見ていた。この剣の本当の速さを、肌で受け止めたことはなかったのかもしれない。
二撃目が来る。
盾が、わずかに持ち上がる。
その一瞬で、モモンガの頭の中を、前回の十二年分の記憶が駆け抜けた。
たっち・みーとは、何度も手合わせをした。一度も勝てなかった。けれど、負けるたびに見ていた。
この人に、決まった型はない。相手によって、間合いによって、その場で剣筋を変えてくる。だから、読めないのだ。
それでも、十二年も見ていれば、分かることがある。
魔法詠唱者を相手にしたとき、この人は最初の数手で、必ず距離を潰しにくる。詠唱の暇を与えないために。そして、一閃目を外したあとの二撃目は、盾で視界を奪い、その死角から剣を這い上がらせることが多い。
多い、というだけだ。必ずではない。
盾の持ち上がる角度。踏み込んだ右足の重心。半歩だけ沈んだ腰。
(……来る。下からだ)
確信はなかった。
もし読みが外れていたら。盾の陰から来るのが下段ではなく、横薙ぎだったら。真後ろへ転移した瞬間、振り返りざまの一撃で、首を飛ばされる。開幕の数秒で、決闘は終わる。
それでも、ここで逃げれば、二度と先手は取れない。
モモンガは、賭けた。
「〈上位転移(グレーター・テレポーテーション)〉」
視界が裏返る。
転移先は、遠くの壁際ではなかった。
白銀の騎士の、真後ろ。
目の前に、赤いマントの背中があった。その向こうで、盾の死角から這い上がった白銀の剣が、さっきまでモモンガが立っていた場所を、下から斬り上げていく。空を切った刃が、そのまま砂へ深々と叩き込まれた。砂が爆ぜ、細かな粒が観客席の最前列まで飛んで、アウラの足元でぱらぱらと音を立てた。
読みが、当たった。
剣は、砂の中。全力で振り抜いた一撃の重さが、まだ白銀の腕に残っている。引き抜くまでの、ほんのわずかな硬直。
盾は、前を向いたまま。消えた標的を探して、視界を塞ぐ位置に構えられている。
剣で弾くことも、盾で受けることもできない。ワールドチャンピオンの完璧な防御が、この一瞬だけ、すべて前を向いていた。
背中が、がら空きだった。
転移の光が消えきる前に、モモンガは詠唱を終えていた。
前回の十二年、負けるたびに積み重ねてきた観察。それを、この一瞬の賭けに、全部注ぎ込んだのだ。
ただの〈現断〉では、届かない。ワールドチャンピオンの装備が持つ魔法耐性は、第十位階の魔法さえ大きく削ぎ落とす。だから、二つ重ねる。耐性そのものを貫くための強化と、威力を限界まで引き上げる強化を。
第六階層の入口で唱えておいた強化魔法の中には、自分の魔法の威力そのものを底上げするものもあった。それも、すべてこの一撃に乗っている。
「〈魔法抵抗難度強化(ペネトレートマジック)・魔法最強化(マキシマイズマジック)・現断(リアリティ・スラッシュ)〉」
空間が、裂けた。
不可視の刃が、赤いマントごと、白銀の背中を斜めに断ち割った。
白銀の鎧を覆っていた淡い光の膜が、刃の通り道に沿って、ガラスのように砕け散った。たっち・みーが入場前に重ねていた防御の強化。その何枚かが、まとめて断ち切られていく。
受けたダメージを肩代わりし、その分だけ削れていく守りの強化だった。強い一撃を受ければ、そのたびに一枚、また一枚と砕けていく。
光の破片が、星明かりの中で細かく舞った。
たっち・みーの身体が、前へ大きく揺らいだ。
純白の背部装甲に、一本の深い傷が走る。
体力バーが、一割、削れた。
十二年分の記憶で読み、一度きりの賭けに勝ち、硬直を突き、防御を一枚も使わせず、耐性を貫く強化を重ね、最大まで威力を引き上げた魔法を叩き込む。そこまで条件を揃えて、ようやく、一割。
それが、ワールドチャンピオンという存在だった。
白銀の騎士は、砂に刺さった剣を引き抜きながら、ゆっくりと振り返った。
兜が、すぐ目の前にあった。
「……賭けましたね、今」
その声には、驚きと、それ以上に、愉しげな響きがあった。
「外れていたら、振り返りざまに終わっていましたよ」
「知ってます」
モモンガは、杖を構えたまま、〈上位転移〉で北の壁際まで距離を取った。
追撃はなかった。たっち・みーは、背中の傷に一瞬だけ籠手を当て、それから、静かに剣を構え直した。
構えが、変わっていた。
盾の位置が、わずかに低い。重心が、さっきよりも後ろにある。踏み込む前に、こちらの両手と足元を、一度ずつ確かめる。開幕の突進のような、一直線の勢いはもうない。
「……もう、賭けさせません」
骨の指が、かすかに震えていた。
*
決闘の承認ボタンを押す前から、モモンガの骨の身体には、何重もの強化魔法が重ねられていた。
魔法への抵抗を高めるもの。物理攻撃を和らげるもの。移動の速さを引き上げるもの。魔法の威力を引き上げるもの。即死や精神作用への備え。転移を阻害されないための対策。闘技場に足を踏み入れる前、第六階層の入口で、一つずつ順番に唱えておいたものだ。
あの荒野でシャルティアと向き合う前にも、同じことをした。対人戦は、剣を抜く前から始まっている。
当然、たっち・みーも同じはずだった。入場のとき、あの白銀の鎧の表面を、いくつもの淡い光の膜が覆っていたのを、モモンガは見逃していなかった。開幕の一撃で、その何枚かは砕いた。それでも、まだ何枚も残っている。
最初の三十秒で、分かったことがある。
開幕の一撃が通ったのは、十二年分の記憶と、一度きりの賭けが噛み合ったからだ。
たっち・みーが警戒を強めた以上、もう同じ賭けは成立しない。
まともに打ち合えば、十秒もたない。
ワールドチャンピオンの装備は、魔法への耐性が異常に高い。抵抗難度を強化しなければ、第十位階の攻撃魔法を叩き込んでも、体力バーはほんのわずかしか動かないだろう。一方で、あの剣を一度でもまともに受ければ、こちらの体力は半分近く消し飛ぶ。
ステータスでは勝てない。装備でも勝てない。
ノートに何度も書いた結論を、身体で確かめただけだった。
それでも、モモンガは不思議と落ち着いていた。
この感覚を、知っている。
勝ち目のない相手と、一対一で向き合う感覚。
*
記憶が、勝手によみがえった。
異世界の荒野。灰色の空。乾いた風が、砂と枯れ草の匂いを運んでいた。
その中央に、一人の少女が立っていた。
銀色の髪。真紅の瞳。漆黒のボールガウンは戦装束に変わり、その手には、血を吸うように赤黒く光る槍が握られていた。
シャルティア・ブラッドフォールン。
ワールドアイテムに精神を支配され、虚ろな目で荒野に佇んでいた守護者。
あのとき、自分は一人で彼女と戦うと決めた。誰にも任せなかった。任せられなかった。ペロロンチーノさんの娘を、他の誰かの手で傷つけさせるわけにはいかなかったからだ。
ステータスでは、シャルティアのほうが上だった。純粋な戦闘職として作り込まれた彼女と、魔法詠唱者の自分。正面から殴り合えば、勝ち目はない。
だから、準備した。
彼女のビルドを、ペロロンチーノさんが書いた設定を、何度も読み返した。彼女が持つスキルの回数。回復の手段。切り札。そのすべてを紙に書き出し、一つずつ潰していく手順を組み立てた。
彼女に、切り札を先に使わせる。
自分を弱く見せ、油断させ、限りある力を少しずつ削り取っていく。宝物殿から持ち出したアイテムを惜しみなく使い、時には自分の体力さえ囮にした。
そして、自分も切り札を切った。
〈完璧なる戦士(パーフェクト・ウォリアー)〉。
魔法詠唱者としての力を捨て、戦士として剣を握る魔法。
そして、もう一つ。
〈あらゆる生ある者の目指すところは死である〉
一日に一度しか使えない、死の支配者としての、最後の切り札。次に放つ即死の魔法に、あらゆる耐性を無視する力を与える。発動すれば、背後に巨大な時計の幻影が浮かび上がり、その針が十二の刻を刻み終えたとき、標的は必ず死ぬ。
あの時計の針が回る音を、今でも覚えている。
かち、かち、と。乾いた、冷たい音。
勝った。紙一重で、勝った。
けれど、勝ったあとに残ったのは、喜びではなかった。自分の手で、仲間の娘を殺したという、骨の髄まで冷えるような感触だけだった。
*
それだけではない。
異世界で、もう一つ覚えていることがある。
ナザリックに侵入してきた者たちと、この同じ円形闘技場で向き合ったときのことだ。マーレとアウラの為に手本として戦ったデケム・ホウガン。あの男を相手に、自分はスクロールを使った。
スクロールは、目に見える。
羊皮紙を取り出し、破る。その動きは、どんな相手にも「これから魔法が来る」と告げる。経験を積んだ者ほど、その仕草に反応する。羊皮紙が破れる音を聞いた瞬間、何かが来ると身構える。
だからこそ、使える。
見せたい魔法を、スクロールで見せる。相手の目をそこへ引きつけておいて、本当の一手は、別のところから放つ。
異世界の住人たちは、それに面白いように引っかかった。
ただ、ユグドラシルの上位プレイヤーにとっては、それほど珍しい手ではない。
ユグドラシルの頂点に立つ男には、どうだろうか。
(……あのときと、同じだ)
モモンガは、白銀の騎士を見据えた。
情報で勝つ。準備で勝つ。相手の切り札を、先に使わせる。そして、相手の目を、偽りの手に向けさせる。
たっち・みーの切り札は、分かっている。
〈次元断切(ワールドブレイク)〉。
ワールドチャンピオンだけが持つ、空間ごと相手を断ち切る一撃。防御も耐性も、ほとんど意味をなさない。あれをまともに受ければ、どんな相手でも終わる。
だが、あれは連発できない。一度放てば、再使用までに長い待ち時間がある。
(あれを、外させる)
それが、勝ち筋のすべてだった。
ただ一つ、シャルティアのときと決定的に違うことがある。
あのときの彼女は、操られていた。思考を奪われ、命じられたままに戦う人形だった。
目の前にいるのは、たっち・みーだ。
ユグドラシルの頂点に立ち、何百、何千という対人戦を潜り抜けてきた男。誰よりも冷静で、誰よりも誠実で、誰よりも、相手の動きをよく見ている。
囮に、引っかかってくれるだろうか。
上位のアンデッドを呼ぶことも考えた。
けれど、この人の前では、上位も中位も大差はない。どれほど強いしもべを呼んでも、数秒で斬り伏せられる。
必要なのは、強さではなかった。一撃では消えないこと。そして、あの人の目を、ほんの一瞬でも自分から逸らさせること。
それができるのは、死の騎士だった。
「〈中位アンデッド創造〉」
モモンガの足元から、黒い霧が噴き上がった。霧の中から、巨大な騎士の影が立ち上がる。漆黒の全身鎧。身の丈ほどもある波打つ剣と、塔のような盾。死の騎士(デス・ナイト)が、四体。
砂を踏みしめる重い足音が、闘技場に響き渡った。
「壁にしますか」
たっち・みーが、静かに言った。
「その程度で、止まると思いますか」
「思いません」
モモンガは、正直に答えた。
「でも、時間は稼げます」
*
死の騎士たちが、白銀の騎士に殺到した。
四体の黒い巨体が、低い唸り声を上げる。
その瞬間、たっち・みーの兜が、わずかにそちらへ引き寄せられた。死の騎士が持つ、敵の注意を自らに集める性質。モモンガを追っていた白銀の剣先が、否応なく黒い騎士たちへと向けられる。
たっち・みーは、避けなかった。
正面から、一体目の剣を盾で受け流す。金属と金属が擦れ合う、耳障りな高音が夜空に響いた。受け流した勢いのまま身体を回転させ、二体目の首筋に剣を叩き込む。
黒い鎧が、紙のように裂けた。
けれど、死の騎士は倒れなかった。
首筋から黒い靄を噴き上げながら、巨体はなおも踏みとどまり、波打つ剣を振り上げる。体力バーは、ほんのわずか。一撃で消し飛ぶはずの攻撃を受けて、それでも、たった一だけ残っている。
どれほど強大な一撃でも、一度だけは必ず耐える死の騎士の、もう一つの特性だった。
たっち・みーは、それを知っていた。
驚く素振りも見せず、振り下ろされる剣を盾で受け止め、返す刃で二撃目を叩き込む。最初から、二撃で断つつもりの太刀筋だった。一体目が、霧に戻った。
三体目と四体目が、左右から挟み込む。
たっち・みーは跳んだ。重い鎧を纏っているとは思えない軽さで、二体の剣の上を飛び越え、空中で身を捻る。着地と同時に、剣が一閃した。
二体の胴に、深い傷が刻まれる。
一振りで、二つの胴を同時に断つ。ただの斬撃ではなかった。複数の敵をまとめて薙ぐ、範囲攻撃のスキルが重ねられている。
二体とも、一だけを残して踏みとどまる。
黒い巨体が、傷口から靄を溢れさせながら、同時に剣を振るってきた。たっち・みーは盾で一方を弾き、もう一方を剣で受け止める。その衝撃で、白銀の足が砂に半歩沈んだ。
一体につき、二撃。
知っていても、手数は減らせない。一撃で終わるはずの相手に、倍の手数を割かされる。しかも、注意を引きつけられているせいで、その間、本命のモモンガから目を離さざるを得ない。
その、目を離さざるを得ない一瞬を、モモンガは待っていた。
たっち・みーの盾が、三体目の剣を受け止める。剣が、四体目の胴へ二撃目を叩き込もうと振りかぶられる。
盾も、剣も、塞がった。
「〈魔法最強化(マキシマイズマジック)・龍雷(ドラゴン・ライトニング)〉」
白い雷が、死の騎士たちの隙間を縫って走った。
たっち・みーの身体が、わずかに捻られる。盾を引き戻す時間はない。それでも、雷が通り抜けたのは、白銀の鎧の脇腹の、ほんの一筋だけだった。
焦げた金属の匂いが、砂煙の中にかすかに混じった。
体力バーは、わずかに揺れた程度だった。
抵抗難度を強化していない魔法では、ワールドチャンピオンの耐性を、ほとんど貫けない。
それでも、たっち・みーは、四体目の死の騎士に二撃目を叩き込みながら、兜の奥から一度だけ、こちらへ視線を寄越した。
一体につき二撃。四体で八撃。その八回、白銀の騎士の盾と剣は、必ず死の騎士に向く。
特性を知っていても、その八回の隙だけは、消せない。
たっち・みーは、残る死の騎士たちに、正確に二撃ずつを叩き込んでいった。最初の一撃で一だけを残し、返す二撃目で確実に断つ。一撃と一撃の間に、ほとんど隙がない。剣が振り抜かれたと思ったときには、もう次の太刀が走っている。その間も、盾の角度は一度も乱れない。
最後の一体が、盾を構えて突進する。
たっち・みーは、その盾に自分の盾を叩きつけた。
鈍い衝撃音。死の騎士が、一だけを残してよろめく。そこへ、迷いのない二撃目。
砂煙が、闘技場の中央に巨大な柱を立てた。
煙が晴れたとき、立っていたのは白銀の騎士だけだった。
五秒。
一撃は必ず耐える四体の壁が、たった五秒しかもたなかった。
分かっていたことだった。ワールドチャンピオンにとって、死の騎士は壁にもならない。
今の太刀筋にも、いくつものスキルが重ねられていたはずだ。けれど、たっち・みーはその一つの名前も口にしなかった。見せる必要のない手は、最後まで見せない。それが、この人の戦い方だった。
それでも、その五秒の間に、一度は雷を通し、もう一つの詠唱を終えることはできた。
「〈魔法三重化(トリプレットマジック)・魔法最強化(マキシマイズマジック)・現断(リアリティ・スラッシュ)〉」
空間そのものが、三度、裂けた。
不可視の刃が、たっち・みーを三方向から襲う。
白銀の盾が、閃いた。
一撃目を盾の正面で受け、二撃目を盾の縁で逸らし、三撃目だけが、肩の装甲をかすめた。純白の鎧に、細い亀裂が走る。
たっち・みーの体力バーが、わずかに動いた。
開幕の一撃とは、比べものにならないほどわずかに。
「……いい魔法です」
たっち・みーは、肩の亀裂を一瞥して言った。
「必ず一撃は耐える壁で手数を倍にさせて、その間に詠唱を通す。教科書通りの組み立てですね」
「教科書通りじゃ、勝てないと思ってましたけど」
「ええ。勝てません」
白銀の騎士が、剣を構え直した。
「次は、教科書にないものを見せてください」
*
それから一分間、モモンガは逃げ続けた。
転移。飛行。足止めの魔法。召喚したアンデッドを盾にし、砂を巻き上げて視界を奪い、闘技場の端から端まで、ひたすら距離を取り続けた。
たっち・みーは、それを追い続けた。
一度も、焦らなかった。一度も、大振りをしなかった。〈次元断切〉を構える素振りさえ見せず、ただ堅実に、確実に、モモンガとの距離を詰めてくる。開幕のときより、明らかに慎重になっていた。一歩ごとに、踏み込みの角度も、盾の高さも変えてくる。モモンガが何を狙っているのか、一手ごとに確かめながら、それでも確実に距離を詰めてくる。
闘技場の中央付近で、モモンガは足を止めた。
振り返る。白銀の騎士が、十メートル先から迫ってくる。
「〈絶望のオーラV〉」
骨の身体から、黒い靄が溢れ出した。
死の支配者の種族が持つオーラの、最上位の段階。触れた者に、恐怖ではなく、死そのものを撒き散らす。並の相手なら、この靄に呑まれただけで息絶える。
靄は、モモンガの足元から砂の上を這うように広がっていった。
一メートル。三メートル。五メートル。
夜風に逆らって、黒い波が円を描いて押し寄せていく。星明かりが靄に呑まれ、闘技場の中央だけが、墨を落としたように暗く沈んでいった。
その黒い円の縁へ、白銀の騎士は、速度を緩めずに踏み込んできた。
十メートルあった距離が、半分に縮まる。迫る白銀と、広がる黒が、その中ほどでぶつかった。
黒い靄が、白銀の鎧に触れた。
その瞬間、純白の表面で、何かが淡く光って弾けた。
胸のサファイアの奥から、波紋のように白い光が広がり、鎧の縁をなぞって消えていく。靄は、その光に触れたところから、音もなく押し返されていた。即死を拒む守り。それが、当然のように働いたのだ。
たっち・みーは、足を止めもしなかった。死そのものを浴びせられたことに、気づいてさえいないかのように。
だが、たっち・みーには効かない。ワールドチャンピオンが、即死への対策を持っていないはずがない。
効果は、どうでもよかった。
黒い靄は、夜の闘技場に広がり、モモンガの姿を包み込んだ。星明かりが遮られ、骨の手も、眼窩の光も、靄の奥に沈んでいく。
たっち・みーは、相手の手つきや身体の動きを読む。何年も隣で戦ってきたから、それは知っている。詠唱の前の指の動き。踏み込む前の足運び。それを見て、次の一手を先回りする人だ。
なら、その手と身体を、見えなくすればいい。
白銀の騎士の足が、黒い霧の中で、ほんのわずかに緩んだ。
その靄の奥から、モモンガは、はっきりと声に出して詠唱を始めた。
「〈時間――」
白銀の兜が、ぴくりと動いた。
〈時間停止(タイム・ストップ)〉。第十位階の中でも最上位に位置する、時の流れそのものを止める魔法。
対策は、上位プレイヤーなら誰もが持っている。持っていなければ、レベル100の対人戦には立てない。それは、ユグドラシルの常識だった。たっち・みーも、当然、持っている。
だからこそ、白銀の騎士は一瞬だけ、考えた。
対策されると分かっている魔法を、なぜ、この男が、わざわざ声に出して唱えるのか。
その一瞬の思考を、モモンガは待っていた。
「――停止〉」は、唱えなかった。
途中で詠唱を断ち切り、まったく別の言葉を紡ぐ。
「〈魔法効果範囲拡大(ワイデンマジック)・魔法最強化(マキシマイズマジック)・龍雷(ドラゴン・ライトニング)〉」
一本の龍だった雷が、靄の中で無数に枝分かれした。
白い雷光が、網のように広がって、闘技場の一角を丸ごと呑み込む。正面から、左右から、頭上から。盾一枚では覆いきれない、全方位からの雷。
たっち・みーは、盾を正面に構えた。正面の雷は、すべて受け切った。
盾の表面に、一瞬だけ、守りの紋が浮かび上がった。受けた魔法の力を削ぎきる、盾のスキル。正面から来るものに対しては、この人の盾は、ほとんど何も通さない。
けれど、盾の外側を回り込んだ雷が、肩を、脚を、背中を、次々と打った。開幕の〈現断〉が刻んだ背中の傷を、雷光がもう一度舐めていく。
雷鳴が、夜空に何度も反響した。
雷光が消えたとき、白銀の鎧のあちこちから、細い煙が立ち上っていた。一発一発はかすり傷でも、全方位から浴びせられた雷は、積もれば無視できない。体力バーが、また一割近く削れている。
「……〈時間停止〉を、囮にしましたか」
靄の向こうから、たっち・みーの声がした。
「効かないと分かっている魔法で、一瞬だけ考えさせる。……盾で受けられない範囲で包んでくる」
兜の奥で、短く息をつく気配がした。
「魔法詠唱者らしい答えですね」
次の瞬間、白銀の騎士が、黒い靄の中へ踏み込んできた。
雷に打たれた直後とは思えない速さだった。焦げた鎧から煙を引きながら、薄れかけた靄を一直線に突き破ってくる。
オーラは、目くらましにはなる。だが、モモンガの居場所そのものを隠せるわけではない。詠唱の声が、どこから響いたのか。たっち・みーは、それを聞き逃していなかった。
剣が、靄の奥から現れた。
モモンガは身を引いたが、遅かった。刃が、ローブの右肩から鎖骨にかけてを斜めに裂いた。骨が削れる、乾いた嫌な音がした。
体力バーが、一割半近く削れる。
「囮の代金です」
靄の中で、たっち・みーが静かに言った。
モモンガは、削れた鎖骨に骨の指を当てながら、後ろへ跳んだ。
一手を通せば、一手を返される。この人との戦いは、ずっとそうだった。
モモンガは、距離を取りながら、次の詠唱を始めていた。
「〈中位アンデッド創造〉」
靄の中から、もう一つの骸骨が立ち上がった。
ぼろぼろの法衣を纏い、眼窩に冷たい光を灯した、魔法を操るアンデッド。死者の大魔法使い(エルダーリッチ)。
「撃て」
モモンガの短い命令と同時に、二つの骸骨が、左右に分かれて詠唱を始めた。
エルダーリッチの魔法が、この人に通じるとは思っていない。欲しいのは、声だった。左右から同時に上がる二つの詠唱。どちらが本命なのか、聞き分けるための一瞬。
二方向からの魔法。
たっち・みーは、迷わなかった。
白銀の騎士は、モモンガではなく、召喚されたアンデッドのほうへ一直線に駆けた。
詠唱の途中で、剣が一閃する。
死者の大魔法使いの身体が、法衣ごと両断され、黒い塵になって崩れた。
弱いほうを、先に潰す。対人戦の基本だった。
エルダーリッチの魔法そのものは、たっち・みーにとって痛くもない。けれど、背後で詠唱を続けられれば、モモンガの声を聞き分ける邪魔になる。一振りで消せるなら、先に消したほうが早い。白銀の騎士は、そう判断したのだ。
その一振りのために、背中を向けることになっても。
だが、その一閃の間に、モモンガの詠唱は終わっていた。背中を向けた白銀の騎士へ、〈龍雷〉が走る。
たっち・みーは、振り返りざまに盾を合わせた。受けきれなかった雷光の端が、赤いマントの裾を焦がした。
体力バーが、わずかに動く。
そして、その盾を構えた姿勢のまま、たっち・みーは止まらなかった。
雷を盾で受けながら、一歩、二歩と距離を詰める。三歩目で、盾の陰から剣が突き出された。
モモンガは転移で逃れた。だが、転移の光が弾ける直前、切っ先が肋骨の一本を浅く削り取っていった。
北の壁際に転移して、モモンガは自分の体力バーを見た。
八割を、切っていた。
黒い靄が、夜風に薄れていく。その向こうで、白銀の騎士は、また静かに剣を構え直していた。
開幕の〈現断〉。範囲を広げた雷。召喚との同時攻撃。一割を削れたのは、賭けに勝った開幕の一撃と、盾の外から全方位を包んだ雷だけだった。あとは、かすり傷を積み重ねるのがやっとだった。それでも、積み重なっていた。
たっち・みーの体力バーは、いつの間にか、七割ほどまで減っていた。
モモンガの体力も、同じくらい削られていた。
互いに、一手を通すたびに、一手を返されている。外から見れば、互角の削り合いだった。
けれど、モモンガには分かっていた。ワールドチャンピオンの七割と、魔法詠唱者の七割は、同じ重さではない。
*
東の壁際に追い込まれたとき、モモンガはインベントリから一枚の羊皮紙を取り出した。
〈上位転移〉のスクロール。
破る。転移の光が、骨の指の間から溢れ出す。
同時に、声のない詠唱を重ねた。
「〈無詠唱化(サイレントマジック)・魔法最強化(マキシマイズマジック)・龍雷(ドラゴン・ライトニング)〉」
転移の光で目を引き、その陰から本命の雷を撃つ。異世界で、何度も使った手だった。
たっち・みーは、跳ばなかった。
白銀の騎士は、転移の光には一瞥もくれず、まっすぐにモモンガへ踏み込んできた。
白い雷が、龍のようにうねって迫る。純白の盾が、それを正面から受け止めた。雷光が盾の表面で砕け、無数の火花となって夜空に散る。
その火花の中を、剣が抜けてきた。
胸を、裂かれた。体力バーが、二割近く削れる。焦げた布の匂いが、自分のローブから立ち上った。
モモンガは、転移の光が消えた足元で、膝をつきかけた。
「スクロールの囮は、よく見ますよ」
たっち・みーが、剣を引きながら言った。
「羊皮紙を破る音で、相手の目を引く。対人戦の上位では、古い手です。……ただ、転移先を自分の足元にして、その場で無詠唱を重ねてくるのは、初めて見ました」
兜の奥で、白銀の騎士がわずかに笑った気配がした。
「惜しかったですね」
モモンガは、立ち上がりながら、骨の指を握りしめた。
異世界の住人には、面白いように通じた手だった。
けれど、この人は違う。何千という対人戦の中で、羊皮紙が破れる音を、嫌というほど聞いてきた人だ。
(……見抜かれる)
分かっていた。分かっていて、試した。
そして、一つだけ分かったことがある。
この人に、スクロールの囮は通じない。
羊皮紙そのものを見ているのではない。破る指の動き。そのときの間合い。視線の向き。わずかな呼吸の乱れ。何千という対人戦の中で積み重ねてきた勘で、それが本物か囮かを嗅ぎ分けている。
理屈ではない。ワールドチャンピオンという頂点に立つ者だけが持つ、戦いのセンスそのものだった。
(……なら)
見抜かれる前提で、使うしかない。
*
観客席の最上段で、ウルベルトは、石の段に深く腰を沈めたまま、闘技場を見下ろしていた。
夜風が、捻じれた角の間を抜けていく。眼下から立ち上ってくる焦げた布の匂いと、雷の残り香。ブルー・プラネットの作った星空の下で、二つの影が、また距離を取り合っている。
(……化け物どもが)
頬杖の下で、山羊の口元がわずかに歪んだ。
今の一手を、正確に理解できたプレイヤーが、ユグドラシル全体で何人いるだろう。
モモンガは、転移のスクロールを破った。転移の光は、誰の目にも見える。「逃げる」という一手を、わざと相手に見せたのだ。そのくせ、転移先は自分の足元。実際には一歩も動いていない。そして、その光の陰で〈無詠唱化〉と〈魔法最強化〉を重ねた〈龍雷〉を通していた。
その前もそうだ。開幕、あのワールドチャンピオンの二撃目を読んで、賭けて、真後ろに転移し、抵抗難度を引き上げた〈現断〉を背中に叩き込んだ。剣を地面に叩き込んだ直後の硬直と、前を向いた盾の裏側。たった一瞬しか開かない隙に、だ。読みが外れていれば、振り返りざまに首を飛ばされていた。効きもしない〈絶望のオーラV〉を煙幕に使い、対策されていると分かりきった〈時間停止〉を囮に唱えて、一瞬だけ相手に考えさせた。その一瞬で、盾では覆えない範囲の雷を叩き込んだ。
二つの魔法強化を同時に乗せれば、それだけ制御は難しくなる。詠唱の声を消せば、相手は魔法の種類も、発動の瞬間も読めない。普通のプレイヤーなら、転移の光に反応して跳び、無防備な背中に雷を受けて終わる。
ウルベルト自身、あれを向けられたら、半分は引っかかったかもしれない。
だが、たっち・みーは跳ばなかった。
スクロールを見ていなかった。モモンガの視線を見ていた。
破る直前に、こちらが引っかかるかどうかを確かめた、ほんの一瞬の目の動き。それだけで、囮だと断じた。しかも、無詠唱で来る雷の軌道まで読み切ったうえで、盾で受けながら踏み込んできた。
開幕の一撃を許したあとは、警戒を一段引き上げて、一歩ごとに踏み込みを変えている。
そして、通された一手には、必ず同じだけの一手を返している。
一手を打つたびに、二手、三手先の読み合いが、すでに終わっている。
外から見ているぶんには、追いかけっこにしか見えないだろう。逃げる骸骨と、追う騎士。
その一歩一歩の裏で、何十という選択肢が潰し合っている。
(……くそ)
ウルベルトは、自分の杖を握る指に、力がこもっていることに気づいた。
魔法詠唱者として、ワールドディザスターの名を冠する者として、魔法戦には誰よりも自信がある。だが、今目の前で行われているのは、魔法の威力比べではなかった。
魔法と、剣と、アイテムと、勘と、何年分もの互いの記憶を全部注ぎ込んだ、読み合いだった。
白銀の騎士が、また一歩、骸骨との距離を詰める。
気に食わない男だ。正義だの、正しさだの、恵まれた場所から綺麗事ばかり並べる男。
それでも、その剣筋から、目を離せなかった。
(……見ててやるよ、最後まで)
頬杖を外し、ウルベルトは、わずかに身を乗り出した。
*
それから先は、また追いかけっこに戻った。
たっち・みーは、もう〈次元断切〉の素振りさえ見せなかった。モモンガが羊皮紙を取り出しても、兜は一瞬だけそちらを確かめ、すぐにこちらへ戻ってくる。羊皮紙ではなく、それを扱うモモンガの手つきと間合いを見て、本物か囮かを嗅ぎ分けているのだ。そして、こちらの両手と足運びだけを見据えたまま、まっすぐに距離を詰めてくる。
追いながら、たっち・みーは一度だけ、自分の胸に籠手を当てた。白銀の鎧の表面に、淡い光の膜が、一枚、二枚と戻っていく。開幕の〈現断〉で砕かれた強化を、走りながら重ね直したのだ。
それでも、入場のときの厚みには、遠く届かなかった。
入場前の強化は、闘技場の門の外で、時間をかけて一枚ずつ重ねてきたものだ。巻物や薬を惜しみなく使い、効果の長い強化を順番に積み上げていく。剣を交えながらでは、同じことはできない。戦士であるたっち・みーが、決闘の最中に唱えられる強化は、ほんのいくつかしかなかった。
一度剥がした守りは、決闘の最中に、元通りには戻らない。
(……使わない)
モモンガの背筋を、冷たい汗が伝う感覚があった。
骸骨の身体に、汗などない。それでも、画面の向こうで、鈴木悟の掌はじっとりと濡れていた。
たっち・みーは、〈次元断切〉を温存している。
モモンガが何かを狙っていることを、とっくに見抜いているのだ。だから、切り札を切らない。相手が先に手札を晒すまで、ひたすら基本の剣だけで押し続ける。
シャルティアは、違った。
操られた彼女は、目の前の敵を倒すことしか考えられなかった。だから、こちらが弱く見せれば、すぐに切り札を切ってきた。
たっち・みーは、操られていない。
自分の意思で、自分の頭で、こちらの意図を読んでいる。
(読み合いで、負けてる)
モモンガは、闘技場の西の壁際まで追い詰められていた。背中に、冷たい石の感触。見上げると、観客席の最前列で、マーレが杖を抱えたまま、こちらを見下ろしていた。
その遥か上、最上段で、ウルベルトが身を乗り出しているのが見えた。
*
たっち・みーが、足を止めた。
距離は、五メートル。
剣を一振りすれば、届く距離だった。
「モモンガさん」
白銀の騎士が、静かに言った。
「何を待っているんですか」
「……何のことですか」
「〈次元断切〉でしょう」
モモンガは、答えなかった。
「私が〈次元断切〉を外せば、再使用までに時間がかかる。その間に、何か大きなものを叩き込むつもりですね。超位魔法か、それとも別の何かか」
たっち・みーの声は、責めるようでもなく、ただ事実を確認するように淡々としていた。
「だから、私は使いません。モモンガさんが何を隠しているのか分かるまでは」
沈黙が落ちた。
夜風が、闘技場を吹き抜けていく。砂が、さらさらと音を立てて流れた。
モモンガは、骨の指で杖を握りしめていた。
完全に、見抜かれている。
相手に切り札を先に使わせるという戦術は、相手がそれに乗ってくれて初めて成立する。乗らない相手には、何の意味もない。
情報も、準備も、読み合いも。スクロールの囮さえも。この人の前では、通じない。
(……なら)
モモンガは、ゆっくりと息を吐いた。肺などない。それでも、そうせずにはいられなかった。
(なら、教科書にないものを、見せるしかない)
*
あの荒野で使った魔法。
シャルティアが想定していなかった、もう一つの自分。
前回の十二年で、ユグドラシルの自分が一度も使わなかった魔法。魔法詠唱者が、魔法を捨てるなどという、馬鹿げた選択。
けれど、異世界では、その馬鹿げた選択を、何か月も続けた。
冒険者モモン。
漆黒の全身鎧に身を包み、二振りのグレートソードを背負って、人間の街を歩いた日々。最初は剣の握り方さえ分からなかった。振り回すだけで、技術も型もなかった。それでも、何十、何百という戦いの中で、少しずつ、身体が覚えていった。
剣の重さ。振り抜く角度。足の運び。
あの記憶は、今も骨の奥に残っている。
「たっちさん」
モモンガは、杖を下ろした。
「一つだけ、謝っておきます」
「何をですか」
「今から見せるもの、どこで覚えたのかは、聞かないでください」
たっち・みーが、わずかに首を傾げた。
戦士化の前に、やっておくことがある。戦士になれば、魔法は使えない。だから、必要なものは、魔法詠唱者でいるうちに揃えておかなければならない。
「〈上位道具創造(クリエイト・グレーター・アイテム)〉」
モモンガの両手の中で、闇が形を取った。
黒い刀身。身の丈ほどもある、無骨な大剣。一振り。もう一振り。
二振り目の大剣を、モモンガは足元の砂に突き立てた。
刀身の半ばまでが、白い砂に沈む。
前回、異世界で、何度もこの魔法を使った。冒険者モモンの漆黒の鎧も、背負った二振りのグレートソードも、すべてこの魔法で作り出したものだった。
鎧は、作らなかった。作り出した鎧では、今身につけている装備の守りには遠く及ばない。何より、作る時間が惜しかった。
そして、作り出した剣もまた、ワールドチャンピオンの鎧を斬るには軽すぎる。魔法で生み出した武器は、どれほど形を真似ても、本物の名品には届かない。
だから、本命は別に用意してあった。
インベントリの奥に、二つ。
一つは、宝物殿から持ち出してきた、巨大な斧。
もう一つは、決闘の前夜、ある人に頭を下げて借りてきたものだった。
(――たっちさんに、一太刀入れてこい)
武人建御雷は、それだけ言って、あの刀を差し出してくれた。
二の太刀いらずを口癖にする人の、自慢の一振り。
モモンガは、詠唱を口にした。
「
*
身体の内側で、何かが組み替わる感覚があった。
魔力が引いていく。代わりに、骨の一本一本に、重く確かな力が満ちていく。杖が、急に頼りなく感じられた。
左手に、作り出した大剣を握る。
そして右手に、インベントリの奥から、一振りの刀を引き抜いた。
刃渡りは、モモンガの背丈ほどもある。大太刀と呼ぶにも大きすぎる、巨大な刀。鞘から抜いた瞬間、刀身の表面を青白い稲光が走り、ぱちぱちと乾いた音を立てた。夜気に、雷雨のあとのような、焦げた鉄と雨の匂いが混じる。
建御雷八式。
武人建御雷が装備していた、雷を纏う神器級の刀。
前回、異世界の荒野で、自分はこの刀をシャルティアに向けて振るった。宝物殿に残されていた仲間の武器を、一振りずつ持ち替えながら。
今回は、持ち主から、直接借りてきた。
たっち・みーが、一歩、後ずさった。
ほんのわずか。開幕の一撃を受けたときにさえ見せなかった、白銀の騎士の、退く動きだった。
「……モモンガさん、それは」
白銀の兜が、モモンガの右手に向けられていた。
「建御雷さんの、刀ですか」
「借りてきました」
モモンガは、刀を構えた。
右に建御雷八式、左に黒い大剣。冒険者モモンの二刀の構えを、そのまま借り物の刀に当てはめた、不格好な構え。
「戦士化の魔法です。魔法は、もう使えません。この魔法が切れるまで」
「魔法詠唱者が、魔法を捨てて、建御雷さんの刀を握るんですか」
「捨てないと、たっちさんには届かないので」
たっち・みーは、しばらく黙っていた。
それから、兜の奥で、笑った。今まで聞いたことのないような、心の底から楽しそうな笑い声だった。
「――あの人、何て言って貸してくれました?」
「たっちさんに一太刀入れてこい、と」
「……建御雷さんらしいですね」
白銀の騎士が、盾を構え直した。
「ああ……教科書には、どこにも載ってない」
モモンガは、骨の指で刀の柄を握り直した。
届いた、と思った。まだ一太刀も入れていない。それでも、この人に「教科書にない」と言わせた。それだけで、魔法を捨てた意味はあった。
「なら、その一太刀、正面から受けます」
*
踏み込んだのは、モモンガが先だった。
砂を蹴る。骨の足が、驚くほど力強く地面を捉えた。戦士の脚力。魔法詠唱者のままでは、決して出せなかった速さ。
右の建御雷八式を、横薙ぎに振る。
長い。
大剣とは、間合いがまるで違った。刀身が空気を裂くたびに、稲光が尾を引き、夜の闘技場に白い弧を描く。
たっち・みーの盾が、それを受けた。
衝撃が、腕を伝って肩まで突き抜けた。雷光が盾の表面で弾け、無数の火花となって夜空に散る。金属が軋み、雷の焦げた匂いが鼻腔のない顔の前に立ち込めた。重い。盾の向こうにいる男の重さが、そのまま刀を通して返ってくる。
左の大剣を、上から叩きつける。
剣で受け止められた。
刃と刃が噛み合い、二人の顔が、鍔迫り合いの距離まで近づいた。
兜の隙間の暗がりと、骸骨の眼窩の赤い光が、間近で向き合う。焼けた金属と、雷の匂いが、二人の間に漂った。
「重いですね」
たっち・みーが、低く言った。
「刀のほうは、もっと重いです」
「……どこで、覚えたんです。その剣」
「聞かないでくださいって、言いました」
モモンガは、左の大剣を引き、右の刀で盾を叩いた。
たっち・みーが、半歩下がる。
その半歩を、追う。
左右を交互に振るう。型などない。技術もない。冒険者モモンの剣は、もともと力任せの剣だった。それでも、何百という戦いの中で、どこに振れば相手が嫌がるのか、それだけは骨身に染みていた。
たっち・みーは、それをすべて受けた。
盾で、剣で、身体の捌きで。どの一撃も、白銀の鎧には届かない。完璧な防御だった。
数合のうちに、白銀の騎士の足運びが変わった。刀の間合いを、もう測り終えたのだ。長い刃が届くぎりぎりの外側に身を置き、振り抜いた直後の隙にだけ、半歩踏み込んでくる。
(……早い)
建御雷八式の間合いに、たっち・みーが慣れた。
なら、間合いそのものを、変えればいい。
あの荒野で、シャルティアにしたように。
モモンガは、左の大剣を砂に突き立てた。空いた左手で、インベントリからもう一つの武器を引きずり出す。巨大な斧だった。
血の色に錆びたような刃。柄には、何かの骨を削り出したような装飾が巻きついている。刃の縁から、生臭い鉄の匂いが立ちのぼった。
血ヲ啜リ肉ヲ喰ウ。
命中率は低い。その代わり、当たれば重い。攻撃だけに特化した、宝物殿の一振り。
刀の長い間合いに合わせていた白銀の騎士の足が、ほんの一瞬、止まった。
斧は、刀より短い。重さも、振り抜く速さも、軌道も違う。今の今まで測っていた距離が、まるで役に立たない。
モモンガは、左手の斧を、下から掬い上げるように振るった。
たっち・みーは、盾でそれを受けた。
重さに、盾ごと腕が跳ね上がる。
当たらない。命中率の低い斧は、やはり盾の芯を外れて、縁を叩いただけだった。
けれど、それでいい。
斧を振るったことで、たっち・みーは、また一から間合いを測り直さなければならなくなった。刀か。斧か。大剣か。次に来る武器が分からなければ、立つべき位置も決められない。
異世界の荒野で、シャルティアが読みきれなかったもの。
一振りごとに武器を変える、仲間の遺産を借りた戦い方。
モモンガは、斧をインベントリへ戻し、砂に突き立てた大剣を引き抜いた。
右に刀。左に大剣。
また、間合いが変わる。
打ち合いながら、モモンガは考えていた。
骸骨には、表情がない。呼吸もない。顔色も変わらない。この身体で読み取れるものは、眼窩の奥に灯る赤い光くらいしかない。
前回、異世界で、この顔を何度も利用した。交渉の席で、何を考えているのか悟らせないために。
なら、この光で、嘘をつける。
モモンガは、眼窩の光を、たっち・みーの左肩へ向けた。
右の刀を振りかぶる。左肩を狙う軌道。
白銀の盾は、動かなかった。
代わりに、剣が、モモンガの右脇腹へ滑り込んできた。振りかぶって空いた、まさにその場所へ。
骨が軋む。体力バーが、一割削れた。
モモンガは、振りかぶった刀をそのまま叩きつけたが、たっち・みーはすでに半歩外へ抜けていた。刀身が砂を打ち、稲光が足元で弾けた。
「骸骨のプレイヤーとは、何度もやっています」
たっち・みーが、静かに言った。
「眼窩の光で視線を偽る人も、何人かいました。……最初から、光は見ていません」
白銀の兜は、モモンガの顔ではなく、肩と腰に向けられていた。剣を振る前に、必ず動く場所。骨の、わずかな傾き。
武器をいくら持ち替えても、それを振るう身体の動きまでは変えられない。
(……当たり前か)
モモンガは、骨の指を握り直した。
異形種のプレイヤーは、ユグドラシルに何人もいる。骸骨も、ゴーレムも、表情のない種族は珍しくない。何千という対人戦を潜り抜けてきたこの人が、その程度の嘘に出会っていないはずがなかった。
スクロールの囮を見抜かれたときに、分かっていたはずだった。
開幕の一撃が通ったのは、前回の十二年分の記憶と、一度きりの賭けがあったからだ。それ以外の、異世界の住人に通じたものは、この人には通じない。
羊皮紙の囮も。眼窩の光の嘘も。
なら。モモンガは、もう一度踏み込んだ。
眼窩の光など、どこを向いていてもいい。この人が見ているのは肩と腰だ。なら、肩と腰で、正直に「右で斬る」と告げてやればいい。
右の建御雷八式を、全力で振りかぶる。
稲光が、刀身を這い上がる。
たっち・みーの盾が、右側へ動く。
その瞬間、モモンガは、左手の大剣を
振りかぶっていた右ではない。左の剣を、手首の返しだけで、たっち・みーの兜へ向けて投げつけた。冒険者モモンが、逃げる敵を仕留めるために何度か使った、乱暴な手。
肩も腰も、右の一撃に全部を注いでいた。左手だけの投擲には、読み取れる予備動作が、ほとんどない。
たっち・みーの盾が、反射的に跳ね上がった。
身の丈ほどもある鉄の塊が、兜を目がけて飛んでくる。見抜こうが見抜くまいが、受けなければ兜ごと叩き割られる。盾で弾くしかなかった。
金属の衝突音。
盾が上がり、空いた脇腹へ、建御雷八式が振り下ろされた。
同時に、白銀の剣も、走っていた。
盾で投擲を弾きながら、たっち・みーは、剣を握る右手で、迷わずモモンガの胸を斬り返していた。避けることを捨て、受けることを捨て、相打ちを選んだ一撃。
二つの刃が、同時に届いた。
ワールドチャンピオンの装備は、魔法だけでなく、刃に対しても圧倒的な守りを誇る。並の戦士が並の武器で斬りつけたところで、白銀の装甲には傷一つ残らない。
けれど今、その刃を振るっているのは、〈完璧なる戦士〉によってレベル100の戦士と同じ膂力を得た腕だった。握っているのは、二の太刀いらずの武人が鍛え上げた、神器級の刀。そして開幕の一撃で、白銀の鎧を覆っていた光の膜は、何枚か砕けている。
そのすべてを重ねて、ようやく、雷の刃は白銀の装甲に食い込んだ。
稲光が、装甲の内側へ流れ込む。白銀の騎士の全身を、青白い雷が一瞬だけ這い回った。焦げた金属の匂いが、夜風に乗って観客席まで届いた。
右の籠手の甲で、嵌め込まれたデータクリスタルの一つが、雷を受け止めて小さく軋んだ。雷への備えとして選ばれた結晶が、神器級の刀の雷撃を、ぎりぎりのところで吸い込んでいた。
モモンガの胸骨が、斜めに削れた。
肋骨の何本かに、細い亀裂が走った。二人とも、半歩よろめいた。
砂の上で、互いの体力バーが、同時に削れていた。
たっち・みーは、一割。
モモンガは、二割近く。
レベル100の戦士の力と、神器級の刀と、相打ちの覚悟。それだけ揃えて、やっと一割だった。
同じ相打ちでも、差し出したものは倍だった。
「……投げますか、剣を」
たっち・みーが、焦げた脇腹に一瞬だけ籠手を当てた。装甲の継ぎ目から、まだ細い稲光が漏れている。
「魔法詠唱者が、戦士化して、建御雷さんの刀を握って、剣を投げる。……どこにも載っていませんね」
「たっちさんこそ。避けないで、斬り返してくるとは思いませんでした」
「避けたら、次の一撃を通されていたので」
白銀の騎士は、淡々と言った。
「削られるなら、同じだけ削り返す。それだけです」
それから、少しだけ声を落とした。
「……やっぱり、重いですね。あの人の刀は」
モモンガは、弾かれて砂に落ちた大剣を蹴り上げ、空中で掴み直した。右に刀、左に大剣。もう一度、構える。
胸骨の亀裂から、黒い靄が細く立ち上っていた。
たっち・みーの体力は、六割ほど。
モモンガの体力は、それよりもずっと少なかった。
観客席のどこかで、何かが軋む音がした。最上段で、ウルベルトが立ち上がっていた。
*
戦士化の魔法には、時間制限がある。
モモンガは、頭の片隅でその残り時間を数えていた。
あと、四十秒。
その間に、決めなければならない。
純粋な打ち合いでは、たっち・みーには勝てない。今は削り合えているように見えても、それは戦士化と、借り物の刀という「予想外」が生んだ、一時的なものにすぎない。たっち・みーが慣れてしまえば、すぐに覆される。
だからこそ、今のうちに。
(〈次元断切〉を、引き出す。……引き出せないなら、せめて、もう一太刀)
あと、三十秒。
モモンガは、わざと大振りの一撃を放った。
左の大剣を、頭上から全力で振り下ろす。
隙だらけの、素人の剣。
たっち・みーの盾が、それを外側へ受け流した。
モモンガの身体が、勢い余って前のめりに崩れる。
胴が、がら空きになった。
白銀の剣が、閃いた。
――来る。
モモンガは、崩れた体勢のまま、左の大剣を盾にするように胸の前へ引き寄せた。
剣が、大剣にぶつかる。
衝撃。
作り出した大剣が、半ばから砕け散った。
魔法で生み出した刃は、ワールドチャンピオンの一撃に耐えられなかった。鉄片が、星明かりの中できらきらと舞った。
そのまま、白銀の剣はモモンガの胸を斜めに裂き、肋骨の間に深く食い込んだ。体力バーが、また大きく削れる。二割近く。
〈次元断切〉では、なかった。
ただの、基本の一撃だった。そして、その一撃は、モモンガの胸の中で止まっていた。
白銀の剣は、振り切った位置で、骨に噛まれている。盾は、さっきの大振りを外側へ受け流したまま、まだ開いている。
剣も、盾も、ない。
大振りは、〈次元断切〉を引き出すための囮だった。それが叶わないなら、もう一つの狙いがあった。この人の剣を、自分の胸に受けさせること。剣が自分の骨に噛まれている、その一瞬だけ、白銀の騎士は何も持っていないのと同じになる。
右手には、まだ刀がある。
(……払った分は、取り返す)
モモンガは、建御雷八式を、真上へ振り上げた。
刀身に、稲光が奔流のように集まっていく。夜空の星明かりさえ霞むほどの、青白い輝き。焦げた鉄と雨の匂いが、闘技場の空気を満たした。
戦士の膂力。冒険者モモンとして何百回と振り下ろしてきた、ただの全力の一撃。そこに、自分の身体の重さと、借り物の刀に宿る雷を、すべて乗せる。
白銀の兜が、わずかに上を向いた。
剣を引き抜こうとする。抜けない。盾を戻そうとする。間に合わない。
建御雷八式が、真上から、白銀の肩口へ叩き込まれた。
雷鳴が、闘技場を揺らした。
純白の肩当てが砕け散り、その下の装甲が凹む。刀身から溢れた雷が、白銀の鎧の表面を網の目のように走り、残っていた光の膜を、さらに何枚か焼き切っていった。衝撃で、たっち・みーの膝が、砂に沈みかけた。
受けることも、逃げることもできない、まともな一撃だった。
それでも、白銀の鎧は砕けなかった。
肩当てが裂け、装甲が凹み、雷が網の目のように走っても、その下の守りは、まだ白銀の騎士の身体を包んでいた。
レベル100の戦士の全力と、神器級の刀の雷と、自分の胸を差し出して作った隙。そのすべてを注ぎ込んで、ようやく届いた一撃だった。
体力バーが、一割、削れた。
たったの、一割。
右の籠手で、あの雷のクリスタルに、細いひびが走っていた。二度目の雷撃は、もう吸い込みきれなかったのだ。
モモンガの胸から、白銀の剣が引き抜かれた。黒い靄が、傷口から噴き上がる。
二人は、同時に一歩ずつ後退した。
「……自分の胸を、餌にしましたか」
たっち・みーが、亀裂の走った肩当てに籠手を当てながら言った。その声には、苦笑と、かすかな驚きが混じっていた。
「二割払って、一割取る。……割に合いませんよ」
「たっちさんから一割取れるなら、合ってます」
白銀の騎士は、答えなかった。
ただ、肩口の亀裂から、まだ消えきらない稲光がちりちりと漏れているのを、一瞬だけ見下ろした。
「建御雷さんに、言っておいてください。確かに一太刀、もらいましたと」
その構えが、また一段、低くなった。
それでも、〈次元断切〉の構えではなかった。
(……使わなかった)
これだけのことをしても、たっち・みーは切り札を切らなかった。基本の剣で十分だと、判断したのだ。
あと、二十秒。
*
モモンガは、砕けた大剣の柄を投げ捨てた。
一歩、後ろへ跳ぶ。
着地した足のすぐ横に、砂に突き立てておいた二振り目の大剣があった。
左手で、引き抜く。
白い砂が、刀身から滝のように零れ落ちた。
たっち・みーの兜が、わずかに揺れた。最初に突き立てたとき、ただの予備だと思っていたのだろう。
砕かれることを見越して、あらかじめ置いておいたものだとは。右に建御雷八式、左に大剣。
もう一度、構える。
胸の傷から、黒い靄のようなエフェクトが立ち上っていた。体力は、もう一割と少ししか残っていない。
戦士化が切れれば、魔法詠唱者に戻る。そのとき、この距離にいれば、終わりだ。
たっち・みーの体力は、半分近くまで落ちていた。
あと、十五秒。
(……違う)
モモンガは、気づいた。
たっち・みーは、〈次元断切〉を温存しているのではない。
待っているのだ。
モモンガが、本当の切り札を見せるのを。
戦士化も、借り物の刀も、切り札ではなかった。
モモンガが用意した「予想外」の一枚にすぎない。たっち・みーは、そこまで読んだうえで、さらにその先を待っている。
(この人は……)
背筋が、震えた。
恐怖ではなかった。
あまりにも、高い。
この人が立っている場所は、自分が想像していたよりも、ずっと高いところにあった。
あと、十秒。
だったら。
モモンガは、インベントリの奥に手を伸ばした。
課金アイテム。小さな砂時計。
超位魔法の詠唱時間を、ゼロにするもの。
ノートに、何度も書いた。〈次元断切〉を外させたあとに使う、最後の一手として。けれど、外させることは、もうできない。
なら、外させずに、使うしかない。正面から。その手に、砂時計と一緒に、もう一枚の羊皮紙を握り込んだ。
*
あと、五秒。
戦士化が、切れる。
身体の内側から、重い力が抜けていく。代わりに、魔力が戻ってくる。冷たく、静かな、慣れ親しんだ感覚。
モモンガは、大剣を手放した。
砂の上に落ちた剣が、重い音を立てた。
建御雷八式だけは、砂に落とさなかった。刀身の稲光が静まるのを待たずに、そっとインベントリへ戻す。借りたものを、砂にまみれさせるわけにはいかなかった。
羊皮紙を、破る。〈上位転移〉のスクロール。
たっち・みーの兜が、一瞬だけこちらの手元へ向いた。
本物だ、と見抜いた気配があった。
何を見たのかは分からない。破る指に、迷いがなかったのか。それとも、追い詰められた者が、本当に生き延びようとするときの、余裕のなさが滲んでいたのか。
転移先まで、もう読まれている。
それでいい、とモモンガは思った。
見抜かれても、構わない。この人に、選ばせることさえできれば。
その両手の中で、砂時計が砕けた。
ガラスが割れる、乾いた音。
足元に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。闘技場の床一面を覆い尽くすほどの、青白い光の円環。何重にも重なった紋様が、ゆっくりと回転を始める。
夜空が、震えた。
ブルー・プラネットが描いた星々が、一斉に瞬きを止めたように見えた。
たっち・みーが、顔を上げた。
その瞬間、白銀の騎士の剣が、構えを変えた。剣先を下げ、刃を水平に寝かせる。今まで一度も見せなかった構え。
モモンガには、それが何か分かった。
前回の十二年で、何度も見た。何度も、この構えの先で負けた。
〈次元断切〉の、予備動作だ。
(……やっと、見せてくれた)
モモンガは、最後の言葉を紡いだ。
「超位魔法――
たっち・みーの剣が、走った。
「――
*
天が、落ちてきた。
夜空そのものが崩れ落ちるかのように、白く灼けた光の奔流が、闘技場の中央へと降り注いだ。砂が蒸発し、熱が渦を巻き、観客席の最前列まで、白い閃光が呑み込んでいく。
同時に、世界が、裂けた。
白銀の騎士の剣が描いた一本の線が、降り注ぐ光の奔流を、二つに断ち割っていく。
〈次元断切〉で天空を割れば、落ちてくる光は割れ目を境に左右へ逸れる。その割れ目の真下に立つ者だけが、灼熱の奔流から守られる。たっち・みーが何度も見せてきた、超位魔法への答えだった。
本来なら、白銀の騎士は真上を断ち割り、自分の頭上に割れ目を作ったはずだった。
その刹那。
さっき破ったスクロールの光が、モモンガの足元で弾けた。
〈上位転移〉。転移先は、わずか三メートル横。
たっち・みーは、それを見抜いていた。
だから、選ばなければならなかった。
落ちてくる天空を割らなければ、自分が大ダメージを負う。転移したモモンガを斬らなければ、超位魔法の術者が生き残る。〈次元断切〉は、一振りしかない。
白銀の騎士は、そのどちらも捨てなかった。
世界を裂く線は、真上ではなく、斜めに走っていた。天空の中心から、モモンガの転移先へと伸びる、ただ一本の線。
天空を割りながら、その延長線上で、転移した骸骨を断ち切るための線。
モモンガは、転移した瞬間に、その線が自分へ向かってくるのを見た。
避けられない。
身体を捻る。それだけが、できることのすべてだった。
世界を裂く線が、モモンガの左半身を斬り裂いていった。ローブの左袖が、肩口から消し飛んだ。左腕の骨が、根元から砕けて砂の上に散らばる。残っていた体力が、見る間に削り取られていく。
止まった。ほんの、わずかに残った。
天空を割るのに、線の大半の力を使った。転移先に届いたのは、その残りだった。
*
光が、収まった。
焼けた砂の匂いが、闘技場に満ちていた。熱で溶けた砂が、ところどころガラス状に固まって、星明かりを鈍く跳ね返している。
モモンガは、膝をついていた。
左腕がない。体力は、残り一割にも満たない。
顔を上げる。
白い煙の向こうに、たっち・みーが立っていた。
いや、白銀ではなかった。
純白の鎧の右半身が、焼けて、黒く煤けていた。白銀の鎧は、もう純白ではなかった。背中には開幕の〈現断〉の傷。脇腹と肩口には、建御雷八式が残した深い亀裂。そして右半身は、天空の欠片に焼かれて黒く煤けている。胸のサファイアの周囲にも、細いひびが走っていた。赤いマントは半分が焼け落ち、夜風にぼろぼろの裾をはためかせている。
線を斜めに引いた分、割れ目は白銀の騎士の真上から、わずかにずれていた。身体の半分が、割れ目の外に出ていたのだ。そこへ、灼熱の奔流の一部が、まともに降り注いだ。
それでも、鎧そのものは、形を失っていなかった。神器級さえ超える守りは、超位魔法の欠片を浴びてなお、主の身体を包み続けていた。
砕けたのは、その周りだった。
首元で、細い鎖が音もなく切れた。対人戦のために選び抜いた耐性の首飾りが、超位魔法の熱に耐えきれず、砂の上に落ちて砕ける。右の籠手では、建御雷八式の雷を二度受けてひびの入っていたデータクリスタルが、天空の熱に焼かれて、とうとう光を失っていた。
入場前に重ねていた光の膜も、途中で重ね直した膜も、もう一枚も残っていない。
たっち・みーの頭上の体力バーは、二割削れて、三割ほどを残していた。
白銀の騎士が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……スクロール」
その声は、かすれていた。
「本物でしたね。分かっていました」
「……やっぱり、見抜かれてましたか」
「勘です」
白銀の騎士は、少しだけ首を傾げた。
「一度目のときは、破る前に、モモンガさんの視線が一度だけ私のほうへ来ました。こちらが引っかかるかどうか、確かめるみたいに。二度目は、来なかった。羊皮紙だけを見て、迷わず破った」
「……それだけで」
「それだけで、十分です。転移先も、だいたい」
たっち・みーは、焼け焦げた右の籠手を見下ろした。
「でも、天空を割る線と、モモンガさんを斬る線は、一本しか引けなかった。両方を、一本で狙うしかなかったんです」
「……そうなると思いました」
「見抜いても、選ばされる、ですか」
たっち・みーは、しばらく黙っていた。
それから、兜の奥で、短く笑った。
「ずるいですね」
「たっちさんには、それくらいしないと届かないので」
白銀の騎士は、剣を構え直した。体力は三割。〈次元断切〉は、もう使えない。それでも、剣も盾も、まだその手にある。一割を切った魔法詠唱者を斬り伏せるには、十分すぎた。
「次で、終わらせます」
*
モモンガは、膝をついたまま、残った右手をインベントリの奥へ伸ばした。
そこに、一つだけ、最後まで手を触れなかったものがあった。
指先が、硬い軸に触れる。
引き出す。
赤かった。
骨の腰から垂れ下がるほどの、巨大な一幅の掛け軸。深紅の表装に、金の縁取り。巻かれたままの紙の内側から、かすかに墨と古い紙の匂いが立ちのぼってくる。
たっち・みーの足が、止まった。
白銀の兜が、その赤い軸に向けられていた。
羊皮紙のスクロールではない。破る仕草も、詠唱もない。何年も対人戦を重ねてきた勘が、それをどう読めばいいのか、一瞬だけ迷っていた。
「……それは」
「
ワールドアイテム。
アインズ・ウール・ゴウンが、全盛期にライバルギルドから奪い取った、世界に二百しかない秘宝の一つ。
宝物殿から、持ち出してきた。
いつか、別の世界で、守護者たちにワールドアイテムを持たせる日が来る。その前に、ギルド長である自分が、この掛け軸がどう動くのかを、この手で確かめておきたかった。
それが、理由の半分だった。
もう半分は、ただ、この人に届かせるためだった。
*
最初に使えば、終わっていた。
〈次元断切〉は、空間そのものを断ち切る。異界に閉じ込めたところで、あの一振りで、異界ごと斬り裂かれて出てこられる。
だから、待った。
開幕の賭けも。死の騎士も。〈時間停止〉の囮も。建御雷八式の雷も。何度も〈次元断切〉を引き出そうとして、外させられずに、それでも粘り続けたのも。
すべて、あの一振りを放たせるためだった。そして、その刃が二度と振るえなくなる、この瞬間のためだった。
決闘の始まりに広げていても、異界の雷は、ほとんど通らなかったはずだ。あのときの白銀の鎧は、傷一つなく、何重もの光の膜に覆われていたのだから。今は、違う。
膜は剥がれ、雷を拒むための首飾りも、籠手のクリスタルも、もう砕けている。白銀の騎士は、もう世界を斬る刃を持っていない。
今までの一手は、すべてこの一枚のためにあった。
〈山河社稷図〉には、逃げ道がある。発動するたびに、四十の脱出路のどれかが選ばれる。その一つを見つけて抜け出せば、異界から脱出できるだけでなく、この掛け軸そのものの所有権が、脱出した者に移る。
アインズ・ウール・ゴウンがこの秘宝を手に入れたのも、かつての持ち主が、それを自分たちに使い、逃げ道を見つけられたからだった。
たっち・みーなら、必ず見つける。
見つければ、ワールドアイテムは、この人の手に渡る。
それでも、構わなかった。
自分には、まだ一枚、残っている。
モモンガは、赤い軸を、ゆっくりと広げた。
選ぶ異界は、最初から決めていた。
溶岩の大地も、極寒の氷原も、この人には通じない。入場のとき、籠手に嵌め込まれていた結晶を見ている。炎への備えも、氷への備えも、まだ生きている。視界を奪う霧や雨も意味がない。この人は、目だけで相手を読んでいるわけではないのだから。
けれど、雷だけは違う。
建御雷八式の雷撃が、雷を拒む結晶にひびを入れた。天空の熱が、それを砕き、首飾りを焼き落とした。今のこの人の守りから、雷への備えだけが、抜け落ちている。
借りた刀で雷を叩き込んだのは、一太刀を入れるためだけではなかった。
「――雷の、平原を」
*
掛け軸に描かれていたのは、墨絵の山河だった。
それが、こちらへ溢れ出してきた。
闘技場の砂が、墨に変わった。観客席の石段が、薄い滲みになって溶けていく。ブルー・プラネットの星空が、一筆ずつ塗り潰され、代わりに、重く垂れ込めた黒雲が広がっていった。
アウラとマーレの姿が、消えた。
最上段で立ち上がっていたウルベルトの姿も、消えた。
世界が、一枚の絵に呑み込まれた。
果てしなく広がる平原だった。
足元には、墨を流したような黒い草が、風になびいている。遠くには、霞に煙る山並み。空は低く、鉛色の雲が渦を巻き、その腹の奥で、絶え間なく青白い光が瞬いていた。
湿った風が吹いた。
雨の匂いがした。濡れた土と、焦げた空気と、喉の奥がひりつくような、雷の匂い。
世界が塗り替わりきる、その前に。
白銀が、跳んだ。たっち・みーは、異界を見回しもしなかった。墨の平原が足元に広がるより早く、黒い草を蹴り、まっすぐにモモンガへ踏み込んできた。
体力一割足らずの魔法詠唱者。剣が一度かすめれば、それで決闘は終わる。異界の仕組みを確かめるより、術者を斬るほうが早い。迷いのない判断だった。だから、モモンガも、迷わなかった。
「〈飛行(フライ)〉」
骨の身体が、地面を離れた。
白銀の剣が、さっきまでモモンガの膝があった場所を、空を切って通り過ぎる。切っ先が、ローブの裾を一筋だけ裂いていった。
モモンガは、黒雲へ向かって、まっすぐに昇った。
*
空が裂けた。
白い雷が、落ちた。
たっち・みーの頭上へ、まっすぐに。
轟音が、平原全体を揺らした。白銀の騎士の身体が、一瞬だけ青白い光に呑まれる。
一撃は、重くなかった。体力バーが、わずかに揺れる程度。
けれど、ゼロにはならなかった。
鎧は、まだ雷の大半を受け止めていた。
神器級さえ超える守りが、一撃ごとの威力を大きく削いでいる。けれど、それを完全に拒むための首飾りも、籠手のクリスタルも、強化の膜も、もう残っていない。削ぎきれなかったわずかな雷が、一撃ごとに、確実に白銀の騎士の体力を削っていった。
モモンガの頭上には、一つも落ちてこない。
〈山河社稷図〉の使い手は、異界の効果から、選んだ者を除外できる。この平原の雷は、ただ一人だけを狙って降り注ぐ。
たっち・みーは、跳んだ。
空のモモンガへ向かって。重い鎧を纏っているとは思えない高さまで、黒い草を蹴って跳び上がる。
二つ目の雷が、その身体を空中で打った。
白銀の騎士の跳躍が、わずかに鈍る。届かない。剣の切っ先が、モモンガの足元の、さらに下で空を切った。
着地する。
すぐにまた、駆け出す。モモンガの真下を追って、黒い平原を走る。
モモンガは、高度を保ったまま、平原の上を飛び続けた。
攻撃はしない。できない。魔力は、最後の切り札のために残しておかなければならない。〈飛行〉の分さえ、惜しかった。
ただ、逃げる。
三つ目の雷。四つ目。
一つ一つは、かすり傷に等しい。けれど、途切れない。数秒おきに、確実に、白銀の騎士だけを狙って落ちてくる。そのたびに、たっち・みーの足が、ほんの一瞬だけ止まる。止まるたびに、空のモモンガとの距離が、少しずつ開いていく。
雨が、降り始めた。
冷たい滴が、骨の頭蓋を叩く。墨の匂いのする雨だった。視界が、灰色に煙っていく。
その雨の向こうで、たっち・みーが、足を止めた。
*
白銀の騎士は、空を見上げていた。
雨と雷光の向こうに浮かぶ、黒い骸骨の影を。
それから、ゆっくりと視線を下ろし、果てのない平原を見渡した。
モモンガには、その兜の奥で、何が考えられているのか、手に取るように分かった。
この平原に、果てはない。空を飛ぶ相手を、地上から追い続けることはできない。追えば追うほど、雷を浴び続ける。術者を斬るより先に、自分の体力が尽きる。
追い続けるのは、負ける選び方だ。
たっち・みーは、モモンガに背を向けた。
追うのをやめた。その代わりに、平原を見渡し始めた。
霞に煙る山の稜線。風になびく黒い草の流れ。雨粒の落ちる角度。雷が落ちる間隔と、その位置。
何千という戦いの中で研ぎ澄まされた勘が、この絵の世界のどこかにある、たった一つの綻びを探し始めていた。
(……見つけられる)
モモンガには、分かっていた。
この人なら、必ず見つける。
だから、それまでに、どれだけ削れるか。それだけが、勝負だった。
雷が、落ちる。また、落ちる。白銀の騎士は、もう跳ばなかった。雷に打たれながら、足を止めずに、ゆっくりと平原を歩き続けている。盾を掲げることさえやめていた。どうせ削りきれないなら、腕を上げる時間も惜しい、とでも言うように。
削られた体力を、取り戻す手段はない。回復はなし。決闘の前に、二人でそう決めた。
一撃ごとに減っていくものは、もう二度と戻らない。それを分かったうえで、白銀の騎士は雷の下を歩き続けていた。
一つ一つは、わずかだった。
けれど、十を超え、二十を超えるうちに、白銀の鎧が、少しずつ黒く染まっていく。焼けた金属の匂いが、雨の匂いに混じって、空の上まで届いてくる。体力バーが、三割から、二割へ。二割から、一割へ。
空の上で、モモンガは、自分の魔力の残りを数えていた。
〈飛行〉を維持するだけで、わずかずつ減っていく。最後の切り札の分を、割り込むわけにはいかない。
あと、どれだけ飛べるか。
あと、どれだけ雷が落ちるか。
どちらが先に尽きるのか。雨が、骨の指を濡らしていた。
*
たっち・みーが、足を止めた。
兜が、平原の果ての、一点に向けられていた。
霞に煙る山並みの、その下。墨で描かれた岩肌の隅に、ぽつりと、小さな赤い印があった。
絵の、落款。
画家が、描き終えた絵の片隅に押す、朱色の印。
この世界が一枚の絵であるなら、そこだけが、絵の外側と繋がっている。
「……そこですか」
たっち・みーが、駆け出した。
雷が、背中を打った。
白銀の騎士は、よろめきながら、それでも止まらなかった。
また、雷が落ちる。
もう、盾も剣も構えなかった。受けることも、避けることも捨てて、ただ、一直線に走る。
雷光が、白銀の背中を何度も焼いた。
体力バーが、一割から、さらに削れていく。
モモンガは、空の上で、その背中を見ていた。
追えない。追っても、届かない。
ただ、祈るように、雷が落ちる間隔を数えていた。
たっち・みーの剣が、朱の落款を、まっすぐに貫いた。
*
世界が、剥がれた。
墨絵の平原が、紙が裂けるような音を立てて、端から破れていく。黒雲が、山並みが、雨が、一枚の絵の破片になって、夜風に舞い散った。
その向こうから、ブルー・プラネットの星空が戻ってきた。
焼けた砂の匂い。冷えたガラスの砂。観客席の最前列のアウラとマーレ。最上段で、身を乗り出したまま凍りついているウルベルト。
闘技場に、戻ってきた。
モモンガの身体が、ゆっくりと砂の上に降りた。〈飛行〉が、解ける。
《ワールドアイテム〈山河社稷図〉の所有権が、たっち・みーに移りました》
システムメッセージが、静かに流れて、消えた。
白銀の騎士は、朱の落款があった場所に、剣を突き出したまま立っていた。
その全身から、雷に焼かれた煙が、細く立ちのぼっている。
たっち・みーの頭上に、体力バーが表示されていた。
残り、わずか。
ほんの一ミリ。指先でつまめるほどの、細い、赤い線。
白銀の騎士は、ゆっくりと剣を下ろした。
その手の中に、赤い掛け軸が移ってきていた。
たっち・みーは、それを見下ろした。
それから、兜をこちらへ向けた。
「……最後の雷が、あと一つ遅ければ、抜けられていませんでした」
その声が、わずかに震えていた。
「一ミリ、ですね」
モモンガは、答えなかった。
白銀の騎士の手の中にある、赤い軸を見ていた。
〈次元断切〉は、もう使えない。モモンガも、超位魔法はもう撃てない。
けれど、あの人の手には今、ワールドアイテムがある。
「モモンガさん」
たっち・みーが、言った。
「最初に言いましたよね。私は、手加減が苦手です」
赤い軸に、白銀の指がかかる。
「本気でやるなら、本気でやります。……決闘ですから」
それが、この人の誠実さだった。
仲間のものだから使わない、ではない。正面から向かってきた相手に、持てるすべてで応える。手を抜くことのほうが、よほど相手に失礼だと、この人は知っている。
モモンガは、骨の指を握りしめた。
(……そうですよね)
分かっていた。脱出路を見つけられれば、掛け軸はこの人の手に渡る。渡れば、この人は使う。それも、全部分かったうえで、広げたのだ。
自分には、まだ一枚、残っているから。
たっち・みーが、赤い軸を、一息に広げた。
「――雷の平原を。お返しします」
*
世界が、また、塗り替わった。
闘技場の砂が墨に溶け、星空が黒雲に呑まれていく。さっきと同じ、果てのない平原。黒い草。霞の山並み。鉛色の空の腹で、青白い光が瞬いている。
ただ一つ、違っていた。
雲の奥の唸りが、今度は、自分の頭上で鳴っていた。
雷が、落ちた。
骨の身体を、白い光が貫いた。
一撃は、重くない。けれど、モモンガの体力は、もう一割を切っている。一つ一つの雷が、その残りを、確実に削り取っていく。
(……あと、三つか、四つ)
それで、終わる。
〈飛行〉を使う魔力は、もうない。空へ逃れれば、最後の一枚が撃てなくなる。
雨が、降り始めた。
その雨の向こうで、白銀の騎士が、剣を構えていた。
一ミリの体力。傷だらけの鎧。〈次元断切〉のない剣。
それでも、雷に打たれる魔法詠唱者を、ただ待っていればいい。雷が尽きるより先に、自分の剣が届くか、雷が終わらせるか。どちらにしても、この平原では、たっち・みーが勝つ。
だから、モモンガは、最後の一枚を切った。
*
右手を、たっち・みーへ向ける。
「
背後で、空気が凍りついた。
雨が、一瞬だけ、止まったように見えた。
モモンガの背中から、巨大な影が立ち上がった。
時計だった。
墨絵の黒雲を覆い隠すほどの、黒い文字盤。十二の刻を示す数字が、青白い燐光を放っている。長い針と短い針が、ゆっくりと、真上を指して重なっていた。
「〈心臓掌握(グラスプ・ハート)〉」
即死の魔法が、たっち・みーに絡みつく。
本来なら、ワールドチャンピオンの装備が弾くはずのもの。けれど、背後の時計がそれを許さない。あらゆる耐性を無視し、十二の刻が刻み終えたとき、標的は必ず死ぬ。
かち。
針が、一つ動いた。
乾いた、冷たい音。
あの荒野で聞いたのと、同じ音だった。
雨の中で、白銀の騎士が、ゆっくりと時計を見上げた。
「……十二秒、ですね」
それだけを言って、たっち・みーは剣を構え直した。
止める方法は、術者を倒すことだけ。
何年も隣で戦ってきたこの人が、それを知らないはずがなかった。
雷が、モモンガの頭上で唸った。
十二秒。
その間に、たっち・みーは、モモンガを倒さなければならない。
その間に、モモンガは、この人の剣と、この平原の雷から、生き延びなければならない。
一ミリと、一割足らず。
ワールドアイテムと、死の支配者の切り札。最後の、デスマッチが始まった。
*
かち。
二つ目。
雷が、落ちた。
骨の身体を、白い光が貫く。体力バーが、また削れる。膝が、わずかに沈んだ。
けれど、モモンガは、時計を待つつもりはなかった。
(待てば、たっちさんは、ただ俺を倒しに来る)
十二秒、守りに徹すれば、雷か剣か、どちらかが先に届く。
だから、攻める。
たっち・みーに、一撃も受けてはならないという枷と、十二秒以内に倒さなければならないという枷を、同時に背負わせる。守りながら攻めることを、強いる。
時計は、待つためのものではない。
白銀の騎士の足を、止めさせないための鎖だ。
かち。
三つ目。
たっち・みーが、黒い草を蹴った。
モモンガも、同時に詠唱した。
「〈魔法最強化(マキシマイズマジック)・龍雷(ドラゴン・ライトニング)〉」
白い雷が、迫る騎士の正面へ放たれる。
たっち・みーは、避けなかった。走りながら盾を前に突き出し、雷を受け止める。雷光が盾の表面を舐め、火花が雨の中に散っていく。
体力バーは、動かない。
異界の雷と違い、正面から来る魔法なら、盾で受けられる。純白の盾は、まだ一度も傷ついていない。盾が、完全に受け切っていた。
盾の表面に、またあの守りの紋が浮かんで、消えた。
足も、止まらない。
かち。
四つ目。
「〈中位アンデッド創造〉」
最後の召喚枠。黒い草の中から、死の騎士が一体、立ち上がる。
黒い巨体が、雨の中で低く唸った。
たっち・みーの兜が、否応なくそちらへ引き寄せられる。敵の注意を自らに集める、死の騎士の性質。モモンガへ一直線に向かっていた白銀の足が、わずかに軌道を逸らされた。
死の騎士が、波打つ剣を横薙ぎに振るう。
たっち・みーは、踏み込みの速度を落とさないまま、身体を沈めた。剣が、兜の頭頂をかすめて通り過ぎる。かすめただけで、一ミリの体力が消し飛ぶ距離だった。
白銀の剣が、死の騎士を下から斬り上げた。
黒い鎧が裂ける。
一だけを残して、死の騎士が踏みとどまる。
かち。
五つ目。
巨体が、振り抜いた剣を引き戻し、今度は上段から叩きつけてきた。
たっち・みーは、それを盾で受けた。受けるしかなかった。盾の縁で剣を滑らせ、衝撃を逃がし、その反動を利用して、二撃目を胴へ叩き込む。
黒い巨体が、雨の中で霧に戻った。
一体の死の騎士が、一秒を余分に削り取っていた。
同時に、雷が落ちた。
モモンガの頭上へ。
骨が軋んだ。視界の端の体力バーが、もう、ほとんど見えないほど細くなっている。
(……あと、一つか、二つ)
霧の向こうで、たっち・みーとモモンガの距離は、八メートル。
魔力が、ほとんど残っていない。あと一度。強い魔法を、あと一度だけ撃てる。
モモンガは、インベントリから、最後の羊皮紙を取り出した。
破らない。
丸めたまま、ただ、たっち・みーへ向けて突き出した。
かち。
六つ目。
白銀の騎士の足が、ほんの一瞬だけ、黒い草を噛んだ。
一度目のスクロールは、囮だった。二度目は、本物だった。
三度目は、どちらなのか。
たっち・みーの勘は、羊皮紙を扱う手つきから、それを読む。けれど、今のモモンガは、破りもしない。指先に迷いもなく、視線も揺れない。ただ突き出しているだけの羊皮紙には、読み取るべき動きが、何一つなかった。
モモンガ自身、その一枚に何かを込めてはいなかった。込めていないものは、どんな勘にも映らない。
もし攻撃のスクロールなら、一ミリの体力は、それだけで終わる。盾を構えて止まるか。それとも、構わず踏み込むか。
その判断に、一拍。
たっち・みーが、盾を構えて足を止めた。
その一拍の間に、モモンガは、最後の魔力を詠唱に注ぎ込んだ。
「〈無詠唱化(サイレントマジック)・現断(リアリティ・スラッシュ)〉」
声のない詠唱。
不可視の刃が、盾を構えて止まった白銀の騎士の、盾の外側から走った。焼けた、右の半身へ。
かち。
七つ目。
たっち・みーの身体が、動いた。
盾を構えたまま、身体だけを捻る。刃が通るはずだった軌道から、鎧の厚み一枚分だけ、身体をずらす。
不可視の刃が、煤けた赤いマントの端を、音もなく切り落とした。
鎧には、触れていない。
体力バーは、一ミリのまま、動かなかった。
(……かわされた)
何も見えない刃を、詠唱の声もなしに。
眼窩の光など、最初から見ていない。盾を構えて止まった、その一拍の間に、右手を突き出したモモンガの肩の骨が、ほんのわずかに傾いた。その傾きだけを読んで。
かち。
八つ目。
モモンガの手の中で、丸めた羊皮紙の紐がほどけた。
雨に濡れて、墨が滲むこともない。
兜の奥で、たっち・みーが、ほんの一瞬だけ短く息を吐いた。
苦笑だったのか。それとも、感心だったのか。表情の見えない兜からは、分からない。
(……一拍でも、止められるなら)
それで、十分だった。
雷が、唸った。
モモンガの頭上で。
かち。
九つ目。
白い光が、骨の身体を貫いた。
視界が、一瞬、白く焼ける。膝が、黒い草に沈みかける。体力バーが、さらに削れた。
残っているのは、もう、ほとんど一ミリだった。
白銀の騎士と、同じだけ。
魔力は、尽きた。召喚の枠も、尽きた。スクロールも、もうない。
残っているのは、右手の杖だけだった。
モモンガは、沈みかけた膝を、杖で支えて、立ち上がった。
魔法詠唱者が、杖で殴りかかる。戦士化もせずに。ユグドラシルでは、笑われるような攻撃だ。
それでも、当たれば、一ミリは消える。
次の雷が落ちる前に。
かち。
十。
あと、二秒。
白銀の騎士が、雨を裂いて、最後の一歩を踏み込んできた。
モモンガも、踏み込んだ。
逃げずに。目を逸らさずに。
正面から。
杖を、振り下ろす。
白銀の剣が、まっすぐに突き出された。
*
かち。
十一。
あと、一秒。
*
音が、消えた。
雨の音も。雷の唸りも。黒い草が風になびく音も。
背後で鳴り続けていた時計の針の音さえ、どこか遠くへ引いていった。
世界が、ゆっくりになった。
杖を振り下ろす自分の右腕が、水の中を動いているように重い。落ちてくる雨の一粒一粒が、空中に止まったまま、雷光を受けて白く光っている。墨の匂いのする雨だった。一粒一粒が、はっきりと見えた。
その向こうに、白銀の騎士がいた。
焼けた右半身。細いひびの走ったサファイア。亀裂の走った肩当て。雨に濡れて重く垂れた、半分焼け落ちた赤いマント。
剣が、来る。
真っ直ぐに。
大振りでも、技巧でもない。ただ、最短の距離を、最短の軌道で。初めて会った日の草原で、PKたちを退けたときと同じ、何の飾りもない一突き。
杖と、剣。
どちらが先に届くのか。
頭上で、黒雲の腹が、青白く膨らんでいく。次の雷が、もうそこまで来ている。
(……届け)
画面の向こうで、鈴木悟は、自分の心臓の音を聞いていた。
どくん、と一つ。
狭い部屋の、空気清浄機の唸り。汗で湿った指先。首筋の接続端子の、かすかな痺れ。現実の身体が、骨の腕と一緒に、何かを振り下ろそうとしていた。
どくん、と二つ。
視界の端で、時計の長い針が、最後の一目盛りへ向かって、震えるように動いていく。
(届け……!!!)
杖の先が、白銀の兜へ近づく。
兜の表面に映った雷光が、杖の影に、すうっと隠されていく。
指三本分。
指二本分。
その、ほんのわずかな隙間に。
白銀の騎士の身体が、ほんの少しだけ、沈んだ。
避けたのではなかった。
杖の軌道から、首一つ分だけ、身体の位置を下げる。それと同時に、剣を握る腕を、そのまま前へ送り出す。避けることと、斬ることを、一つの動作で済ませる。何千という戦いの中で研ぎ澄まされた、ただそれだけの、当たり前の動き。
その当たり前が、どうしようもなく、遠かった。
前回の十二年で、何度も見た動きだった。何度も、この動きの前で負けた。
知っていても、届かない。
(……ああ)
剣先が、ローブの胸元に触れた。
冷たい、と思った。
痛みはない。ユグドラシルに痛覚はない。それでも、骨の奥に、氷の針が一本、すっと差し込まれていくような感触があった。
剣が、進む。
胸骨を割り、肋骨の間を抜け、その奥で明滅していた赤い宝玉のすぐ横を、白銀の刃がかすめていく。
その、ほんの刹那の間に。
いくつもの光景が、骨の奥を流れていった。
灰色の空の下の、初めての草原。三人のPKに囲まれた、レベル1の骸骨。その前に、風のように現れた白銀の背中。
ナザリックの最奥で、最後の一撃を任せた背中。
造物主の試練で、根拠のない勘を信じて、一番に駆け込んでくれた背中。
ずっと、背中だった。
正面に立ったときでさえ、自分が見ていたのは、この人の剣の間合いと、勝ち筋の計算だけだった。
今、目の前にあるのは、そのどちらでもない。
焼け焦げた兜の、奥の暗がり。その向こうに、確かにこちらを見ている誰かがいる。
正面から。
最後まで、目を逸らさずに。
(……ああ、そうか)
自分が見たかったのは、これだったのだ。
杖が、止まった。
白銀の兜の、わずか指一本分手前で。
あと少し。本当に、あと少しだった。骨の指を、あと一節分だけ伸ばせば、届いたかもしれない距離。
けれど、その一節分を伸ばす力は、もう、どこにも残っていなかった。
時計の長い針が、最後の一目盛りの、ほんの手前で、震えながら止まった。
かち、という音は、来なかった。
頭上で膨らんでいた雷も、落ちてはこなかった。
音が、戻ってきた。
雨が、黒い草を叩く音。
焼けた鎧が、わずかに軋む音。
自分の胸を貫いた剣が、ゆっくりと、その重さを骨に預けてくる感触。
白銀の剣が、モモンガの胸を貫いていた。
*
時計の文字盤に、細い亀裂が走った。
亀裂は、一瞬で全体に広がった。
巨大な時計が、ガラスの砕けるような音を立てて、黒雲の中に崩れ落ちていった。
青白い燐光の破片が、雨に混じって降り注ぐ。
モモンガの体力バーが、ゼロになった。
《決闘終了》
《勝者:たっち・みー》
同時に、世界が剥がれた。
墨絵の平原が、紙が裂けるような音を立てて、端から破れていく。黒雲が、山並みが、雨が、時計の破片と一緒に、一枚の絵の欠片になって夜風に舞い散った。
その向こうから、ブルー・プラネットの星空が戻ってきた。
モモンガの身体が、ゆっくりと後ろへ倒れていった。
背中が、闘技場の砂に沈む。
視界いっぱいに、星空が広がった。墨絵の欠片と時計の燐光が、星々の間を舞いながら、少しずつ消えていく。
(……あと、一秒)
身体が、動かない。蘇生のタイマーが、視界の端で静かに数字を刻んでいる。
*
足音が、近づいてきた。
砂を踏む、硬い音。一歩ごとに、少しだけ引きずるような響きが混じっている。
焼け焦げた白銀の騎士が、モモンガの隣に立った。
それから、どさりと腰を下ろした。重い鎧が砂に沈み、細かな粒が、モモンガの頬骨の上にぱらぱらと降りかかった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
夜風が、焼けた砂の匂いを運んでいく。遠くの森から、作り物の虫の声が、かすかに聞こえ始めていた。
「……一ミリと、一秒」
たっち・みーが、ぽつりと言った。
その声が、わずかに震えていた。
「ワールドチャンピオンになってから、ここまで追い詰められたのは、初めてです」
「……勝てませんでした」
「ええ。でも」
たっち・みーは、夜空を見上げた。
「最後の白紙がなければ、私はあと一歩早く届いていました。〈現断〉も、あの一拍がなければ撃たせていません。開幕の賭けも、建御雷さんの刀も、自分の胸を餌にした一撃も、最後まで隠していた掛け軸も。正直、何度も背筋が冷えました。あの一秒を作ったのは、モモンガさんです」
*
モモンガは、星空を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「……たっちさん」
「はい」
「最後、どうして〈次元断切〉を使ったんですか」
たっち・みーは、少し考えるように首を傾げた。
「使わなければ、負けていたからです」
「でも、ずっと温存してましたよね。俺が何か隠してるって、分かってたのに」
「ええ」
たっち・みーは、星空に目を向けたまま答えた。
「モモンガさんが、何を隠しているのか、ずっと待っていました。戦士化を見せられたとき、正直、それが最後の一枚だと思いかけました。でも、違った」
白銀の騎士の声が、少しだけ低くなった。
「モモンガさんは、最後の最後まで、自分の切り札を隠していた。私に〈次元断切〉を外させるために。……そして、外させられないと分かった瞬間に、それを正面から叩きつけてきた」
たっち・みーは、モモンガのほうを見た。
「あれを見て、私も、隠すのをやめました。正面から来る相手には、正面から返すしかない。掛け軸を使い返したのも、そういうことです」
モモンガは、黙っていた。
正面から。
あの荒野で、自分はシャルティアと、正面から向き合っていただろうか。
情報で勝った。準備で勝った。罠を張り、囮を使い、相手の手札を一枚ずつ削り取って、最後に、あの時計を背負った。
あれは、勝利だった。
けれど、時計の針が回る音を聞きながら、自分はシャルティアの顔を、ちゃんと見ていただろうか。
「……俺、ずっと、勝ち方ばかり考えてたんです」
モモンガは、星空に向かって呟いた。
「どうやったら、勝てるか。どうやったら、相手の切り札を潰せるか。どうやったら、紙一重で生き残れるか。……そればっかりで」
たっち・みーは、何も言わずに聞いていた。
「でも、たっちさんは、最後まで、俺のことを見てた。スクロールを見抜いても、時計を背負わされても。俺が何を考えてるのか、何を隠してるのか、ずっと」
骨の指が、砂を掴んだ。
「それで、負けたんだと思います」
*
蘇生のタイマーが、ゼロになった。
身体に、力が戻ってくる。砕けた左腕も、削れた鎖骨も、亀裂の走った肋骨も、元に戻っていた。モモンガは、ゆっくりと上体を起こした。
隣で、たっち・みーが、赤い掛け軸を差し出していた。
「それと、これを」
深紅の表装が、星明かりを受けて、鈍く光っていた。
「ギルドのものですから。使わせてもらいましたけど、預かっておくわけにはいきません」
モモンガは、しばらくそれを見つめていた。
それから、骨の指で、そっと受け取った。
墨と古い紙の匂いが、かすかに残っていた。
《ワールドアイテム〈山河社稷図〉の所有権が、モモンガに移りました》
システムメッセージが、静かに流れて、消えた。
白銀の騎士は、もう一度、焼け焦げた籠手を差し出した。
「立てますか」
「……はい」
その手を握る。
籠手は、まだかすかに熱を帯びていた。超位魔法の熱と、雷の熱が、白銀の装甲に残っているのだ。
引き起こされて、立ち上がる。
二人は、闘技場の中央で、並んで立った。
足元の砂は、ところどころが溶けてガラス状に固まり、星明かりを受けて鈍く光っていた。その中に、時計の破片の燐光と、墨絵の欠片が、まだいくつか消え残っている。
「モモンガさん」
たっち・みーが、言った。
「正直に言います。楽しかったです。今まで戦った誰よりも」
「……俺もです」
「それと」
白銀の騎士は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「何を背負っているのかは、聞きません。モモンガさんが、聞かないでくれと言ったので」
モモンガの骨の指が、わずかに強張った。
「でも、一つだけ」
たっち・みーは、モモンガのほうへ向き直った。
「一人で背負わないでください。今夜のモモンガさんの戦い方は、まるで、誰の助けも借りられない場所で戦ってきた人みたいでした」
夜風が、二人の間を吹き抜けた。
モモンガは、何も答えられなかった。
あの荒野で、自分は一人だった。誰にも頼らず、誰にも任せず、一人で時計を背負った。
それが、ギルド長としての責任だと思っていた。
けれど。
「……はい」
やっと、それだけを返した。
たっち・みーは、それ以上は何も言わなかった。
*
砂を踏む音がした。
二人が振り返ると、観客席から続く階段を、一つの影が降りてくるところだった。
捻じれた二本の角。
山羊の頭。
深紅と漆黒のマント。
ウルベルトは、闘技場の中央まで歩いてくると、焦げ跡の縁で足を止めた。ガラス状に固まった砂を、靴の先で軽く蹴る。
それから、たっち・みーを見た。
焼けた鎧。ひびの走ったサファイア。亀裂の走った肩当て。半分焼け落ちたマント。首元にあったはずの首飾りは、もうない。
山羊頭の悪魔は、しばらく黙っていた。
「……ざまあねえな」
ぼそりと、それだけを言った。
「ワールドチャンピオン様が、魔法詠唱者相手に一ミリと一秒かよ」
たっち・みーは、怒らなかった。
ただ、肩をすくめた。
「ええ。危なかったです」
「認めんのかよ」
「事実なので」
ウルベルトは、ふんと鼻を鳴らした。
それから、モモンガのほうを向いた。
「モモンガさん」
「はい」
「途中で、二人とも消えましたが、あれは何ですか?」
「……〈山河社稷図〉です」
「ワールドアイテムですか……」
ウルベルトの声が、わずかに裏返った。
「宝物殿から持ち出して、奪われて、使い返されて、それでも時計で最後まで食らいつきましたか」
「……はい」
「開幕の賭けも、スクロールの小細工も、白紙も、戦士化も、建御雷の刀も。いつから仕込んでたんです」
「……ずっと前から、です」
嘘ではなかった。
ウルベルトは、モモンガの顔をじっと見つめた。表情のない骸骨の顔から、何かを読み取ろうとするように。
それから、ふっと、口の端を吊り上げた。
「悪くないですよ……いや、最高だ。俺好みの悪辣さですよ」
山羊頭の悪魔は、たっち・みーのほうへ顔を戻した。
「次は、俺がやる」
たっち・みーが、わずかに顔を上げた。
「あんたが来られなくなる前に、一回、俺とやれ。本気でな」
一瞬の沈黙。
それから、白銀の騎士は、焼け焦げた籠手をゆっくりと持ち上げた。
「……いつでも」
ウルベルトは、その籠手を見つめていた。
握り返しは、しなかった。
けれど、その代わりに、自分の拳を軽くぶつけた。金属と、悪魔の拳が触れ合う、小さな音が、夜の闘技場に響いた。
「勘違いするなよ」
ウルベルトは、背を向けながら言った。
「あんたが弱ってるうちに叩いておきたいだけだ」
「ええ。分かってます」
たっち・みーの声は、どこか嬉しそうだった。
*
ウルベルトは、観客席への階段を上りながら、一度も振り返らなかった。
最上段で転移の光が弾け、深紅と漆黒のマントが夜の中に溶けていく。
《ウルベルト・アレイン・オードルさんがログアウトしました》
システムメッセージが、静かに流れて消えた。
闘技場に、二人だけが残された。
夜風が、少しだけ冷たくなっていた。超位魔法の熱で溶けた砂が冷えていくたびに、ぱき、ぱき、と小さな音を立てる。ガラス状に固まった表面に、細かなひびが走っていく音だった。遠くの森から聞こえる作り物の虫の声が、さっきより近く感じられた。
たっち・みーは、観客席の一番下の段に腰を下ろした。
焼けた鎧が石の段に触れ、鈍い音がした。半分焼け落ちたマントの裾が、砂の上にだらりと垂れる。
「少しだけ、休んでいってもいいですか」
「……はい。もちろん」
モモンガも、その隣に座った。石の段は冷たかった。
骨の身体越しに、その冷たさがじわりと伝わってくる。
しばらく、二人は何も言わなかった。
*
モモンガは、闘技場の中央の焦げ跡を見つめていた。
〈失墜する天空〉が落ちた場所。円形に焼けた砂の中で、時計の破片の燐光が、まだ一つ二つ、消え残っている。
天から光が降り注ぐ光景を、モモンガは、もう一つ知っていた。
カッツェ平野。
霧に煙る、荒れた平原。整然と並んだ、王国の兵士たちの隊列。数え切れないほどの旗。鎧が擦れ合う音。馬のいななき。
その全部に向けて、自分は、一つの魔法を放った。
超位魔法〈黒き豊穣への貢(イア・シュブニグラス)〉。
戦場の一角が、一瞬で黒く塗り潰された。
そこにいた兵士たちが、声も上げずに倒れていった。そして、その死を糧にして、黒い仔山羊たちが生まれた。
あとは、蹂躙だった。
逃げ惑う兵士たちの悲鳴。踏み潰される音。仔山羊たちの、どこか楽しげな鳴き声。
十八万。
あの日、自分の魔法一つで、それだけの命が消えた。
あのときの自分は、何も感じなかった。アンデッドの身体が、感情の大きな揺れを、そのたびに平坦に均していった。王国の兵士たちは、敵だった。魔導国の力を示すために、必要な犠牲だった。そう考えて、それで終わった。
そのあとも、同じだった。
王国は、地図から消えた。都市が焼かれ、人々が逃げ惑い、かつて自分が冒険者モモンとして歩いた街並みが、瓦礫に変わっていった。
あのとき、何も感じなかった自分の心を、今の鈴木悟は、思い出すだけで吐き気がする。
画面の向こうで、悟は、口元を手で押さえていた。
(……たっちさんが、あれを見たら)
隣に座る、焼けて煤けた白銀の騎士。
弱き者を守る正義を、誰よりもまっすぐに信じている人。警察官として、現実の理不尽と向き合い続けている人。異形種狩りの草原で、見ず知らずのレベル1の骸骨のために、剣を抜いてくれた人。
この人が、あの平野を見たら。
あの仔山羊たちを放った、骸骨の魔導王を見たら。
*
「……たっちさん」
声が、勝手に出ていた。
「はい」
「一つ、変な質問をしてもいいですか」
たっち・みーが、兜をこちらへ向けた。
「どうぞ」
モモンガは、すぐには言葉を続けられなかった。
聞いてどうするのか、自分でも分からなかった。聞いたところで、過去が変わるわけではない。あの平野で消えた命が、戻ってくるわけでもない。
それに、あれはまだ起きていない。
この世界のどこにも、カッツェ平野はない。魔導国もない。十八万の兵士も、仔山羊も、何もない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「もし」
骨の指が、膝の上で、ローブの布地を握りしめた。
「もし、俺が、どこか別の世界で……何の罪もない人たちを踏みにじる、魔王になったら」
夜風が、止まった気がした。
「たっちさんは、どうしますか」
*
たっち・みーは、何も言わなかった。
兜の奥の表情は見えない。けれど、その沈黙が、いつもの穏やかな沈黙とは違うことは分かった。
ひびの入った籠手が、膝の上で、ゆっくりと組み直された。
「……それは、ゲームの話ですか」
低い声だった。
警察官の声だ、とモモンガは思った。相手の言葉の裏にあるものを、確かめようとする声。
「……もしもの話です」
モモンガは、そう答えるしかなかった。
「別の世界、というのは」
「それも、もしもです。ユグドラシルでも、現実でもない、どこか」
たっち・みーは、しばらく闘技場の焦げ跡を見つめていた。
それから、短く息をつく気配がした。
「止めます」
迷いのない声だった。
「モモンガさんが、本当に何の罪もない人たちを踏みにじっているなら。私は、止めます」
モモンガは、うつむいた。
分かっていた答えだった。この人なら、そう言う。
それなのに、胸の奥が、きしむように痛んだ。
「……ですよね」
「ただ」
たっち・みーが、言葉を継いだ。
「いきなり斬りかかったりは、しないと思います」
*
モモンガは、顔を上げた。
白銀の騎士は、夜空を見上げていた。ブルー・プラネットの星々が、煤けた兜の表面に、小さな光の点を落としている。
「まず、聞くと思います。何があったのか」
「……聞く、ですか」
「ええ。仕事柄、というのもありますけど」
たっち・みーは、少しだけ肩をすくめた。
「人がそこまでのことをするときは、たいてい、そこに至るまでの何かがあります。それで罪が軽くなるわけではありません。踏みにじられた人たちにとっては、理由なんて関係ない。でも、止めるためには、知らないといけない」
ひびの入った籠手が、ゆっくりと開かれた。
「それに、モモンガさんが、理由もなくそんなことをするとは思えないので」
「……理由があっても、許されないことだったら」
「許されないでしょうね」
たっち・みーは、はっきりと言った。
「理由があっても、許されないことは、許されません。それは、モモンガさんが相手でも変わりません」
モモンガは、何も言えなかった。
骨の指が、ローブを握りしめたまま、動かなかった。
「でも」
たっち・みーの声が、少しだけ柔らかくなった。
「止めることと、見捨てることは、違います」
*
夜風が、また吹き始めた。
焦げた砂の匂いが、二人の間を通り抜けていく。冷えたガラスの砂が、ぱき、と小さく鳴った。
「もし、モモンガさんが魔王になったら」
たっち・みーは、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「たぶん、それは、モモンガさんの周りに、誰もいなかったからだと思います」
モモンガの身体が、強張った。
「今日の戦い方を見て、思ったんです。モモンガさんは、全部一人で考えて、全部一人で背負って、全部一人で決める。誰にも相談しないで、一番重いものを、自分の手で選ぶ」
白銀の兜が、モモンガのほうを向いた。
「そういう人が、もし、止めてくれる誰かのいない場所に行ったら。……一番重い選択を、一番重いと感じないまま、選んでしまうかもしれない」
モモンガは、息ができなかった。
肺などない。
それでも、喉の奥が、締めつけられるように苦しかった。
カッツェ平野で、自分は誰かに相談しただろうか。
デミウルゴスは、献策した。アルベドは、賛同した。守護者たちは、誰一人として反対しなかった。当然だ。彼らにとって、自分は至高の御方だったのだから。
止めてくれる誰かは、あの世界に、一人もいなかった。
「だから、止めに行きます」
たっち・みーは、静かに言った。
「斬るためじゃなくて。正面から、もう一度、向き合うために。今日、モモンガさんがしてくれたみたいに」
*
モモンガは、長い間、何も言えなかった。
言いたいことは、喉元まで来ていた。
全部、話してしまいたかった。自分が何者なのか。どこから戻ってきたのか。あの平野で、何をしたのか。この先に、何が待っているのか。
けれど、言えば、この人を巻き込むことになる。
この人には、娘がいる。つかまり立ちを始めたばかりの、小さな娘が。
「……たっちさん」
やっと、絞り出した。
「その世界に、たっちさんは、いますか」
*
たっち・みーが、わずかに首を傾げた。
「もしもの話の中で、ですか」
「はい」
白銀の騎士は、少しだけ考えるように、夜空を見上げた。
それから、ゆっくりと首を振った。
「……いないでしょうね、たぶん」
その声には、自嘲のような響きがあった。
「月に一度来られるかどうか、と言ったばかりですから。モモンガさんがどこか遠くに行ってしまったとしても、私は、きっとそこにはいない」
モモンガは、うつむいた。
前回、そうだった。
あの最後の夜、玉座の間に、たっち・みーはいなかった。異世界にも、いなかった。セバスだけが、あの人の面影を背負って、そこにいた。
「だったら」
たっち・みーが、ふっと笑う気配がした。
「セバスに、頼んでおけばよかったですね。私の代わりに、モモンガさんを止めるように、と」
モモンガは、思わず顔を上げた。
「設定に、書いておけばよかった。『モモンガさんが間違えたら、正面から止めること』って」
冗談めかした口調だった。
けれど、その奥に、本気の何かが混じっていた。
モモンガは、しばらくその言葉を噛みしめていた。
設定は、書き換えない。そう決めている。たっち・みーの書いたセバスの設定に、自分が何かを足すことはない。
けれど。
「……書かなくても、大丈夫だと思います」
モモンガは、言った。
「セバスは、もう、たっちさんの代わりに怒れる子ですよ」
前回、異世界で。
セバスは、一人の娘を拾った。王都の裏路地で、踏みにじられ、捨てられかけていた娘を。ナザリックの誰もが、それを無駄だと考えた。それでもセバスは、彼女を助けた。至高の御方の命令よりも先に、目の前で困っている誰かに、手を伸ばした。
あのときの自分は、それを試した。セバスの忠誠を疑い、娘を殺せと命じた。
セバスは、迷わず拳を振り上げた。あの拳が止められたのは、自分が止めたからだ。けれど、あの一瞬、白髪の老執事の背中に、モモンガは確かに見ていた。
この人の、背中を。
「誰かが困っていたら、助けるのは当たり前」
モモンガは、ぽつりと呟いた。
たっち・みーの肩が、わずかに動いた。
「……それ、私の口癖ですか」
「はい。セバスの設定にも、似たようなことが書いてありますよね」
「ええ。書きました」
「あの子は、ちゃんと、それを持ってます。たぶん、たっちさんが思ってるよりずっと」
*
たっち・みーは、しばらく黙っていた。
それから、観客席の段から、ゆっくりと立ち上がった。焼けた鎧が、軋むような音を立てる。
「……モモンガさんは、時々、ずっと先のことを知っているみたいな話し方をしますね」
モモンガの身体が、固まった。
「初めて会った日も、そうでした。造物主の試練のときも。今日の、開幕の一手も。それに、もしもの話も」
白銀の騎士は、モモンガのほうを振り返らずに、闘技場の焦げ跡を見下ろしていた。
「何を背負っているのかは、聞きません。さっき、そう言いましたから」
ひびの入った籠手が、ゆっくりと持ち上がった。
「その代わり、一つだけ、覚えておいてください」
たっち・みーが、振り返った。
「誰かが困っていたら、助けるのは当たり前です」
星明かりの下で、半分焼け落ちた赤いマントが、夜風にはためいた。
「
*
モモンガは、何も答えられなかった。
骨の身体には、涙腺がない。それでも、画面の向こうで、鈴木悟の視界はひどくぼやけていた。
「……はい」
やっと、それだけを言った。
たっち・みーは、それ以上は何も言わなかった。
ただ、ひびの入った籠手を一度だけ軽く上げて、それから、システムウィンドウを開いた。
ログアウトの項目に、白銀の指先が伸びる。
「……たっちさん」
モモンガの声に、その指が止まった。
「はい」
モモンガは、自分でも何を言おうとしているのか、よく分からなかった。
月に一度来られるかどうか。この人は、そう言った。それも、約束はできないと。
次にこの人と、こうして並んで座れるのは、いつになるのだろう。
前回は、それが最後になった。最後だと気づかないまま、いつの間にか、円卓に白銀の騎士の姿がなくなっていた。
「あの……」
骨の指が、膝の上で、また布地を握りしめた。
「もう少しだけ、ここにいてもらっても、いいですか」
*
たっち・みーは、しばらく黙っていた。
ウィンドウの光が、煤けた兜の表面を、青白く照らしている。
明日も仕事があるはずだ。娘が夜中に目を覚ますかもしれない。この人の時間は、もうこの人一人のものではない。
モモンガは、言ってしまったことを、少しだけ後悔した。
「すみません。無理なら――」
ウィンドウが、閉じた。
青白い光が消え、星明かりだけが、白銀の兜を淡く縁取った。
「いいですよ」
たっち・みーは、もう一度、観客席の段に腰を下ろした。焼けた鎧が、石の段に触れて、鈍い音を立てた。さっきと同じ場所。モモンガの隣。
「娘は、今夜はよく寝ているので」
「……ありがとうございます」
「お礼を言われることじゃありませんよ」
白銀の騎士は、膝の上で籠手を組んだ。
「私も、もう少しここにいたかったので」
*
それから二人は、しばらく何も言わずに座っていた。
夜風が、闘技場を吹き抜けていく。冷えたガラスの砂が、ときどき、ぱき、と小さく鳴った。焦げ跡の中で、時計の破片の最後の燐光が、一つ、また一つと消えていく。
遠くの森の虫の声。
観客席の最前列で、変わらずこちらを見下ろしているアウラとマーレ。
頭上いっぱいに広がる、ブルー・プラネットの星空。
モモンガは、その全部を、目に焼きつけるように見つめていた。
「それにしても」
たっち・みーが、ふと口を開いた。
兜の奥で、くすりと笑う気配がした。
「モモンガさんは、魔王にはなれないと思いますよ」
「……どうしてですか」
「毎晩、NPC一人一人に今日の出来事を報告して回る魔王なんて、聞いたことがありませんから」
モモンガは、思わず額に骨の手を当てた。
「それ、ペロロンチーノさんから聞いたやつですよね」
「ええ」
たっち・みーの声は、どこか楽しそうだった。
「でも、もし本当に魔王になったら」
白銀の騎士は、夜空を見上げた。
「そのときは、私が勇者役ですね。魔王を止めに行くのは、勇者の役目ですから」
「……正義降臨、ですか」
「あれは外せないんです。ワールドチャンピオンの装備なので」
「知ってます」
モモンガは、小さく笑った。
たっち・みーも、笑った。
笑い声は、すぐに夜風に溶けて消えた。
それきり、二人はまた何も言わなかった。
言葉は、もういらなかった。
白銀の騎士と、骸骨の魔法詠唱者。
さっきまで、互いの全部を賭けて、正面から刃を向け合っていた二人。
その二人が今、同じ石の段に腰を下ろして、同じ星空を見上げている。
勇者と魔王は、夜が更けるまで、ただ並んで星を見上げていた。