たっち・みーがログアウトしたあと、闘技場は急に広くなった。
夜風が、石の観客席を撫でていく。超位魔法の熱で溶けた砂は、もうすっかり冷えていた。ガラス状に固まった表面のひびが、ときどき、ぱき、と小さく鳴る。
モモンガは、焦げ跡の縁にしゃがみ込んだ。
砕けた大剣の破片が、一つ落ちていた。〈上位道具創造〉で作った、ただの消耗品。砕かれることを見越して作り、見越したとおりに砕かれた刃。
拾い上げると、骨の指先に、冷たい金属の感触があった。魔法で作った剣は、決闘が終われば消えてしまうはずだった。それでも、破片が一つだけ、まだ砂の上に残っていた。
その隣に、白紙の羊皮紙が一枚。
最後の一拍を稼いだもの。何も書かれていない、何の力もない、ただの紙。
両方を、インベントリにしまった。
中には、ほかにも並んでいる。
雷を纏う刀。宝物殿の斧。そして、決闘のあと、たっち・みーが「ギルドのものですから」と返してくれた、赤い掛け軸。
借りたものと、預かったものばかりだった。
観客席の最前列では、アウラとマーレが、変わらずこちらを見下ろしていた。姉は腰に手を当て、弟は杖を抱えたまま。
「……見てたか、お前たち」
返事はない。
「負けたよ」
声に出すと、思っていたより、すっきりした響きがした。
「でも、たぶん、負けてよかった」
一人で背負わないでください。
たっち・みーの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
あの荒野で、自分は一人だった。一人で準備し、一人で背負い、一人で時計の針の音を聞いていた。
今夜は、違った。
建御雷さんの刀があった。宝物殿の秘宝があった。観客席には、ウルベルトさんがいた。
一人で戦ったつもりで、本当は、ずっと誰かに支えられていた。モモンガは、立ち上がった。
まずは、借りたものを返しに行かなければならない。
*
宝物殿の空気は、いつも少しだけ冷たい。
金貨の山。宝石の山。数え切れない武具と、名前さえ忘れかけた品々。その奥の霊廟には、ギルドメンバーたちの姿を模した像が並んでいる。
モモンガは、赤い掛け軸を、元の棚に戻した。
〈山河社稷図〉。
奪われ、使い返され、そして返された。所有権は、もう一度、ギルドに戻っている。棚に収めた赤い軸を、しばらく見つめた。
(……ちゃんと、動いた)
いつか、別の世界で、守護者たちにワールドアイテムを持たせる日が来る。この掛け軸も、そのとき誰かの腰に下げられるのだろう。今夜、自分の手で確かめておけたことは、きっと無駄にはならない。
〈血ヲ啜リ肉ヲ喰ウ〉も、隣の武器棚に戻した。
当たらなかった斧だった。けれど、当たらないことに意味があった。
「……お前も、ご苦労だったな」
斧の柄を軽く叩いて、モモンガは振り返った。
宝物殿の入口近くで、ドッペルゲンガーの領域守護者が、軍服姿で直立していた。帽子の下の、三つの穴だけの顔。
自分が作ったNPC。
自分が「格好いい」と思うものを、全部詰め込んだ存在。
前回、異世界で動き出したこいつを初めて見たとき、あまりの恥ずかしさに、骨の身体が勝手に精神の鎮静を繰り返したのを覚えている。
「……パンドラズ・アクター」
軍服の肩章が、宝物殿の灯りを受けて、無駄にきらびやかに光っていた。
「お前にも、今夜のことは報告しておくべきか……」
少し考えて、首を振った。
「いや。お前に話したら、たぶん、明日から敬礼の角度が変わる気がする」
返事はない。
それでも、なんとなく、敬礼が似合いそうな顔をしている気がした。
モモンガは、小さく笑って、宝物殿を出た。
建御雷八式だけは、インベントリに残したままだった。
これは、宝物殿に戻すものではない。持ち主に、直接返すものだ。
*
翌日の夜、円卓の間には、先客がいた。
四十一の席が並ぶ、巨大な黒曜石の円卓。
その一席に、暗い赤の、侍の鎧。人の背丈をはるかに超える巨躯。左右で長さの違う角が、兜の上で三日月のように弧を描いていた。円卓の椅子が、その身体にはひどく窮屈そうに見えた。
武人建御雷。
ギルドの中で、物理攻撃の火力だけなら、誰にも負けない人。防御を削ってまで、一撃の重さを突き詰めた武人。
「おう、モモンガさん」
低い声が、円卓の間に響いた。
「待ってたぜ」
「こんばんは、建御雷さん」
モモンガは、自分の席には座らず、建御雷の隣まで歩いていった。
インベントリから、一振りの刀を取り出す。
刃渡りは、モモンガの背丈ほどもある。鞘に収まったままでも、ときどき、鍔元のあたりで青白い稲光が、ぱちり、と小さく弾けた。焦げた鉄と、雨の匂いが、ほんのかすかに漂う。
建御雷八式。
「ありがとうございました。お返しします」
両手で差し出すと、建御雷は、少しだけ間を置いてから、それを受け取った。
刀を膝の上に置き、鞘をゆっくりと撫でる。持ち主の手に戻った刀は、どこか落ち着いたように、稲光を静めていった。
「……で?」
建御雷が、顔を上げた。
「入ったのか。一太刀」
モモンガは、頷いた。
「二太刀、入りました」
「二太刀」
「一回目は、剣を投げて盾を上げさせて、その隙に脇腹へ。二回目は……自分の胸を餌にして、たっちさんの剣を骨で噛んで止めて、その間に、真上から肩口へ」
建御雷が、黙った。
それから、肩を震わせて、笑い出した。円卓の間に、遠慮のない笑い声が響き渡る。
「胸を、餌に?魔法詠唱者が?たっちさん相手に?」
「……はい」
「馬鹿だな、あんた」
笑いながら、建御雷は刀の柄を軽く握った。
「最高に馬鹿だ」
モモンガは、なんと返せばいいのか分からなくて、骨の指で頬骨を掻いた。
「それと、伝言があります」
「伝言?」
「たっちさんから。『確かに一太刀、もらいました』と」
建御雷の笑い声が、止まった。円卓の間が、急に静かになった。
膝の上の刀の、鍔元で、稲光が一度だけ、ぱちりと弾けた。
「……そうか」
ぽつりと、それだけを言った。
建御雷は、しばらく、膝の上の刀を見下ろしていた。
モモンガは知っている。
この人が、ずっと何を目指していたのか。
二の太刀いらず。一撃に全部を懸ける武人。その一撃を、いつか、あの白銀の騎士に届かせる。それが、この人の目標だった。防御を削り、火力だけを突き詰めたビルドも、全部そのためだった。
自分は、その刀を借りて、たっち・みーに届かせた。
本当なら、この人自身が届かせたかったはずの一太刀を。
「……すみません」
気づけば、そう口にしていた。
「建御雷さんが、自分で入れたかった一太刀だったのに」
建御雷が、顔を上げた。
「何で謝るんだよ」
「いや、その……」
「俺の刀が、たっちさんに届いた」
建御雷は、刀の柄を、ぐっと握りしめた。
「誰が振ったかなんて、関係ねえ。あの人の口から『一太刀もらった』って言葉が出た。それで十分だ」
声は、少しだけ震えていた。
けれど、それは悔しさではなかった。
「……それによ」
建御雷は、刀を鞘ごと持ち上げ、円卓の上に立てかけた。
「あんたが届かせたってことは、届くってことだ。あの人に」
兜の奥の目が、笑っていた。
「次は、俺が自分の手で入れる。二太刀なんてケチなこと言わねえ。一太刀で、決めてやる」
二の太刀いらず。
この人の口癖が、円卓の間に、まっすぐ響いた。
モモンガは、思わず笑った。
「……応援してます」
「おう」
建御雷は、鞘を軽く叩いた。
「で、負けたんだろ。どれくらいだった」
「一ミリと、一秒でした」
「一ミリと、一秒」
建御雷は、その数字を、噛みしめるように繰り返した。
「……たっちさんを、一ミリまで削ったのかよ」
「時計も、ワールドアイテムも、全部使って、です」
「全部使って、一ミリ」
建御雷は、長く息を吐いた。
「化け物だな、あの人は」
それから、モモンガのほうを見た。
「あんたもな」
ウルベルトにも、同じようなことを思われていた気がした。モモンガは、何も言わずに、小さく頭を下げた。
化け物、という言葉が、少しだけ引っかかっていた。
レベルは、前回と同じ百だ。ビルドも、ほとんど変わっていない。ステータスの数字だけを並べれば、前回の十二年の自分と、今の自分に違いはないはずだった。
それなのに、前回は一度も勝てなかった。
一つ一つの決闘を、今でも覚えている。あと少しだと思った瞬間も、きっとあった。けれど、その「あと少し」が埋まったことは、一度もなかった。最後には必ず、自分が砂の上に倒れていた。
今回は、一ミリまで届いた。
違うのは、数字に表れないものだけだ。
異世界で過ごした日々。シャルティアとの死闘で覚えた、格上の相手と向き合う感覚。冒険者モモンとして、何百回と振るった剣。命のやり取りの中で身につけた、相手の考えそのものを罠にする駆け引き。
それが、この骨の身体のどこかに、確かに残っている。
(……前より、強くなってるのかもしれないな)
口に出すには、まだ少し気恥ずかしい考えだった。
あの世界で覚えたものを、今度は何のために使うのか。それを決めるのは、これからの自分だ。
「なあ、モモンガさん」
建御雷が、ふと円卓の空席を見回した。
四十一の席。今夜埋まっているのは、二つだけだった。
「このゲームも、いつかは終わるだろ」
「……そうですね」
「そのときはよ、みんな集めて、馬鹿みたいに暴れようぜ。最後くらい、全員で」
モモンガは、すぐには答えられなかった。
前回の最後の夜。
誰もいない玉座の間。
四十人分の空席に囲まれて、一人で終わりを待っていた、あの夜。
「……はい」
骨の指が、膝の上で、静かに握られた。
「必ず」
*
その夜の日課は、いつもより少しだけ長くなった。
最初は、いつもどおりセバスだった。
第九階層の廊下。執事は、変わらず背筋を伸ばして立っている。白い髪。整えられた髭。皺一つない燕尾服。
「来たぞ、セバス」
モモンガは、その前で足を止めた。
「昨日、お前の創造主と戦ったよ」
鋼のような瞳は、まっすぐ前を見ている。
「負けた。一ミリと、一秒で」
少しだけ、間を置いた。
「お前の創造主はな、もし俺が間違えたら、正面から止めに来るって言ってたよ」
廊下の灯りが、執事の白い髪を淡く照らしていた。
「それから、お前の設定に書いておけばよかった、とも言ってた。『モモンガさんが間違えたら、止めること』って」
モモンガは、首を振った。
「書かなくていいって、言っておいた。お前は、もう、そういう子だからな」
前回、王都で。
この老執事は、踏みにじられた娘に手を伸ばした。至高の御方の命令よりも先に。そして、それを咎めた自分の前で、拳を振り上げた。
あの拳を、今度は、自分が間違えたときのために取っておいてほしい。
「……頼んだぞ、セバス」
返事はない。
それでも、執事の背筋は、いつもより少しだけ、まっすぐに見えた。
*
第二階層、死蝋玄室。
天蓋つきの寝台の前に、銀色の髪の少女が佇んでいた。漆黒のボールガウン。真紅の瞳。
モモンガは、部屋の入口で、少しだけ長く立ち止まった。
「……シャルティア」
声が、わずかに掠れた。
「昨日、お前と戦ったときの手を、使ったよ」
真紅の瞳は、何も映していない。
「〈完璧なる戦士〉も。時計も。……あの荒野で、お前に向けたものを、ほぼ全部」
骨の指が、ローブの袖を握った。
「あのときは、お前の顔を、ちゃんと見ていなかった。時計の針の音ばかり聞いて、勝つことばかり考えてた」
ペロロンチーノさんの娘。自分の手で、一度、殺した子。
「昨日は、相手の顔を、最後まで見てたよ。それで、負けた」
少しだけ、笑うような声になった。
「でも、そのほうが、ずっとよかった」
寝台の天蓋から垂れる薄布が、ほんのかすかに揺れた。空調の風だろう。分かっている。
「……もう、お前に、あの時計を向けることはない」
それは、報告ではなかった。
約束だった。
「おやすみ、シャルティア」
*
ほかの守護者たちにも、一人ずつ、報告して回った。
アウラとマーレには、「お前たちの闘技場、ずいぶん焦がしちゃったな」と謝った。焦げた砂は、もうシステムが元に戻している。それでも、言わずにはいられなかった。
コキュートスの前では、少しだけ長く立ち止まった。
「お前の創造主に、刀を返してきたよ」
蟲の武人の、冷たい外骨格。四本の腕。
前回、建御雷さんは、最後にログアウトする前、自分の刀をこの子に託していった。
今度は、あの刀が別れの品にならなければいい。
「次は、自分の手で一太刀で決めるってさ。……お前の創造主らしいよな」
*
第七階層は、いつ来ても熱い。
溶岩の川が、赤く粘りつくような光を放ちながら流れている。硫黄の匂い。足元の岩盤から、じりじりと熱が這い上がってくる。骨の身体に熱さは関係ないはずなのに、この階層に来るたびに、喉の奥が乾くような気がした。
赤熱神殿の奥に、デミウルゴスが立っていた。
三つ揃いの赤いスーツ。丸い眼鏡。その奥の、宝石の瞳。背後では、銀の装甲に覆われた尾が、ゆるやかな弧を描いたまま止まっている。
「……デミウルゴス」
モモンガは、悪魔の前で足を止めた。
「昨日の決闘、お前の創造主も見てたぞ」
溶岩の弾ける音が、遠くで鳴った。
「観客席の、一番上の段でな。最初は頬杖をついて、つまらなそうに座ってた」
闘技場の最上段。星空を背にした、捻じれた二本の角。
「でも、途中から身を乗り出してた。最後のほうは、立ち上がってたよ」
宝石の瞳は、虚空を見つめている。
あの人が何を考えていたのかは、分からない。ただ、決闘のあいだ、何度か最上段を見上げるたびに、あの角の影は、少しずつ前に出てきていた。
「決闘が終わったら、階段を降りてきてな」
モモンガは、小さく笑った。
「たっちさんに、『ざまあねえな』って。開口一番だぞ」
ワールドチャンピオン様が、魔法詠唱者相手に一ミリと一秒かよ。
いかにも、あの人らしい言い方だった。
「それから、俺の戦い方を褒めてくれた。俺好みの悪辣さです、って」
悪辣、と言われて嬉しいのも、どうかと思う。
けれど、あの人の口から出る「悪」は、いつだって最上級の褒め言葉だった。
「それで、最後に、たっちさんに決闘を申し込んでた」
溶岩の川面で、泡が一つ、ゆっくりと弾けた。
「あんたが来られなくなる前に、一回、俺とやれ。本気でな、って」
赤いスーツの悪魔は、変わらず静かに立っている。
「握手はしなかった。代わりに、拳をぶつけてたよ。たっちさんの籠手に」
金属と、悪魔の拳が触れ合う、小さな音。
あの音を、今でも覚えている。
「……お前の創造主とセバスの創造主が、拳をぶつけてたんだ」
モモンガは、宝石の瞳を見上げた。
前回、異世界で。この悪魔と白髪の老執事は、顔を合わせるたびに、静かに火花を散らしていた。創造主同士の確執を、そのまま受け継いだかのように。
その創造主同士が、昨日、拳をぶつけた。勘違いするなよ、と言いながら。
「お前にも、見せてやりたかったな」
返事はない。
溶岩の熱だけが、変わらず足元から這い上がってくる。
モモンガは、少しだけ視線を落とした。
ウルベルトの、現実のことは、よく知らない。オフ会に来られなかったこと。二か月以上、何の連絡もなかったこと。
ペロロンチーノが引退する前に、あの人のことを気にかけてほしいと、何度も頼んでいったこと。
前回、あの人は、最後の夜に来なかった。
「……あの二人の決闘、俺も見てみたいんだ」
ぽつりと、言った。
「だから、お前の創造主には、ちゃんと来てもらわないとな」
約束の日まで。その先も。できることなら、ずっと。
「おやすみ、デミウルゴス」
振り返る直前、溶岩の光が、丸い眼鏡の表面を赤く撫でていった。その奥の宝石の瞳が、ほんの一瞬、何かを見送るように光った気がした。
*
玉座の間では、いつもどおり、アルベドの設定を確かめた。
最後の一行は、変わっていない。
タブラさんが書いた、あの長い設定のまま。誰の手も入っていない。
「……よし」
それだけを確かめて、玉座の間を出た。
*
ビビアンの部屋の扉を開けると、いつもどおり、壁一面のモモンガがこちらを見下ろしていた。
写真。ポスター。肖像画。玉座に座るモモンガ。杖を掲げるモモンガ。マントを翻すモモンガ。天井には、横顔のモモンガ。
腰まで届く紫の髪が、ゆるやかな波を描いて背に流れていた。 菫色の髪の合間を、白い光の筋がいくつも横切っている。尖った耳。左の目元の小さなほくろ。赤い瞳は、今夜も壁にあるモモンガのどれか一枚を、うっとりと見つめているように見えた。
白いブラウスに、黒いスカート。胸元の紫のリボン。手には、黒い花の模様が咲く菫色の日傘。
白と黒と紫だけでできた、静かな少女だった。
「……ビビアン」
何度来ても、この部屋に入るときだけは、少しだけ覚悟がいる。
「昨日、負けたよ。たっちさんに」
ビビアンの瞳は、ただモモンガを、うっとりと見つめているように見えた。
「一ミリと一秒。かなり惜しかったんだ」
返事はない。
けれど、なんとなく、「推しが負けても推しは推しです」と言いそうな顔をしている気がした。
モモンガは、天井の横顔を見上げて、ため息をついた。
「……お前の創造主に見せたら、たぶん、決闘の場面の肖像画も追加しろって言い出すんだろうな」
それだけは、勘弁してほしかった。
「おやすみ、ビビアン」
扉を閉める直前、壁一面の自分と目が合った。
やっぱり、少しだけ恥ずかしかった。
*
第九階層の、奥まった一室。
扉を開けると、空気が変わった。
ほかの部屋よりも、少しだけ冷たい。灯りは絞られ、壁際の燭台の炎が、細く揺れているだけだった。磨かれた石の床に、その炎が、ぼんやりと滲んでいる。
部屋の中央に、ジュデッカが立っていた。
深い藍色の、短い髪。陶器のように白い肌。蝙蝠の翼のように裾の広がった、黒い外套。そして、後ろ手に回された両腕には、鈍い色の拘束具の腕輪が嵌められている。
罪人として自らを縛りながら、処刑人として刃を振るう。
自分が書いた一文が、今夜は、いつもよりずっと重く感じられた。
「……ただいま、ジュデッカ」
モモンガは、部屋の入口で足を止めた。
いつもなら、もう少し近くまで歩いていく。けれど今夜は、なぜか、この距離から動けなかった。
藍色の瞳は、ただ、まっすぐ前を見ている。
「昨日、たっちさんに聞いたんだ」
声が、石の壁に吸い込まれていく。
「もし俺が、どこか別の世界で、何の罪もない人たちを踏みにじる魔王になったら、どうするかって」
燭台の炎が、わずかに揺れた。
「止めに行くって言われたよ」
骨の指が、ローブの袖を握った。
「斬るためじゃなくて。正面から、もう一度、向き合うために」
ジュデッカは、何も言わない。
拘束具の腕輪が、燭台の炎を受けて、鈍く光っていた。
「前の俺には、そういう人がいなかった」
カッツェ平野。霧に煙る平原。十八万の命。
止めてくれる誰かは、あの世界に、一人もいなかった。
いや。違う。
止めてくれる誰かがいなかったのではない。
自分が、誰にも止めさせなかったのだ。
「お前みたいに、自分で自分を縛ることもしなかった」
モモンガは、ジュデッカの後ろ手の腕輪を見つめた。
罪人として、自らを縛る。
この子の設定を書いたとき、自分は何を考えていたのだろう。前回の記憶が、どこかでこの一文を書かせたのかもしれない。
自分が、そうあるべきだったものを。
「……でも、一人で縛るのも、たぶん違うんだろうな」
たっち・みーの声が、耳の奥でよみがえる。
一人で背負わないでください。
「たっちさんに言われたよ。一人で背負うなって」
燭台の炎が、ふっと細くなって、また戻った。
「だから、今度は、ちゃんと縛られていようと思う。自分の鎖じゃなくて、仲間の言葉に」
止めに行く、と言ってくれた人の言葉に。
一人で背負うな、と言ってくれた人の言葉に。
一太刀入れてこい、と刀を貸してくれた人の言葉に。
しばらく、部屋は静かなままだった。
冷たい空気の中で、燭台の炎だけが、細く、細く揺れている。
藍色の瞳は、変わらずまっすぐ前を見ていた。けれど、その瞳に映る炎が、ほんの一瞬だけ、こちらを向いたような気がした。
気のせいだ。分かっている。
「……おやすみ、ジュデッカ」
扉を閉める。冷たい空気が、背中から少しずつ離れていった。
*
日課の最後に、暖炉の家の扉を開けた。
薪のはぜる音。橙色の灯り。乾いた木の香り。
ジュデッカの部屋の冷たさが、まだ骨の奥に残っている気がして、モモンガは扉の前で一度だけ立ち止まった。
それから、中に入った。
暖炉の前に、クロワが立っている。白い髪に、黒い一筋。黒衣のロングコート。肩には、紅い月を思わせる聖骸布。赤い十字の瞳が、暖炉の炎を映している。
「ただいま、クロワ」
モモンガは、暖炉脇の椅子に、深く腰を下ろした。
骨の身体に、温もりはない。それでも、この部屋に入ると、何かが少しずつほどけていく気がする。
「負けたよ」
炎が揺れる。
「一ミリと、一秒だった」
言ってから、首を振った。
「いや、違うな。あの一ミリと一秒は、たぶん、何百回やっても埋まらない」
クロワは、暖炉の炎を見つめている。
「前は、一度も勝てなかった人なんだ。何度やっても、届かなかった。……今回は、最初の一撃だけは届いた。賭けだったけどな」
薪が、小さく崩れた。
「「時計も、使ったんだ。前に、あの荒野で、シャルティアに向けたやつを。あのときは、針の音を聞きながら、相手の顔を見てなかった。今回は、見てた。最後の一秒まで、ずっと」
赤い十字の瞳が、炎を映して揺れている。
「それで負けたのに、なんでだろうな。前より、ずっと気分がいい」
モモンガは、椅子の背にもたれた。
天井の木の梁を、暖炉の灯りが柔らかく照らしていた。
「今日な、建御雷さんに刀を返してきた」
少しだけ、声が明るくなった。
「馬鹿だって言われたよ。最高に馬鹿だって。……それで、次は自分の手で、一太刀で決めるってさ」
薪のはぜる音が、笑い声の代わりのように響いた。
「刀を借りて、宝物殿のものを使って、観客席にはウルベルトさんがいて。一人で戦ったつもりだったのに、全然、一人じゃなかった」
骨の指を、膝の上で組む。
「たっちさんに言われたんだ。一人で背負うなって」
小さく、息を吐く。
「……お前たちを、ちゃんと頼れるようにならないといけないな」
炎の音だけが、部屋を満たしていた。
クロワの声は、まだ決めていない。この子自身に決めてほしくて、空けたままにしてある。
いつか、その声を聞く日が来る。
そのとき、この子に、何を頼めるだろう。何を、一緒に背負ってもらえるだろう。
「おやすみ、クロワ。また明日な」
扉を閉める直前、振り返る。赤い十字の瞳が、暖炉の炎を映して、静かにこちらを向いていた。
*
翌朝、鈴木悟は、机の引き出しからノートを取り出した。
たっち・みー。
その名前の横に、ペンを走らせる。
『決闘 負け 残り一ミリ、一秒』
その上の余白には、数日前に書いた一行が残っていた。
『前回の戦績 〇勝』
悟は、少し考えてから、その下にもう一行、書き足した。
『一人で背負うな、と言われた』
ページをめくる。
武人建御雷。その名前の横にも、短く書き込んだ。
『刀を返した 次は自分で一太刀で決める、と』
もう一枚、めくる。
ウルベルト・アレイン・オードル。
『あの二人の決着を、見届けたい』
ペンを置く。
窓の外は、相変わらず灰色だった。空気清浄機が、規則正しい唸りを上げている。
それでも悟は、しばらくの間、そのページを見つめていた。
一人で書いたノートの中に、いつの間にか、誰かの言葉ばかりが増えていた。