茶と焼き菓子を愛する第2軍団司令官ロボス大将は、新たに幕僚へ迎えたグラス中佐を伴い、前線の各師団を視察する。育成院出身、士官学校を二年飛び級で首席卒業した彼女は、無表情で寡黙ながら、一度見た数字も名前も忘れない異才の持ち主だった。
視察先の第317師団では、冬を前に傷んだ陣地が放置され、補給記録にも不可解な食い違いが見つかる。人当たりのよい師団長、怒れるドワーフの領主、そして名簿に載っているのに姿の見えない兵士たち――。
穏やかな老将の人脈と、鋭い眼差しを持つ中佐の頭脳が、軍の帳簿に隠された不正を追い始める。
これは七年後のベルノ連隊にも影響を与える、帝国軍のある事件の記録である。
第1節 新しい上官
帝国歴224年10月。
帝国軍第2軍団司令部。
グラス中佐は、司令官執務室の前に立っていた。
三十八歳。
身長は百六十センチにも満たず、かなりの痩せ型だった。軍服に包まれた身体は華奢で、とても歴戦の軍人には見えない。
顔立ちは整っており、年齢相応の落ち着いた美しさがあった。しかし、その美貌以上に印象的なのは、鋭い眼差しだった。
普段から表情の変化が乏しく、滅多に笑顔を見せない。
小柄な体格にもかかわらず、真正面から見つめられると、相手は妙な威圧感を覚える。
大声を出すことも、相手を睨みつけることもない。
ただ、静かに見つめているだけだった。
彼女は育成院の出身だった。
十六歳で帝国軍士官学校に入学。通常六年間の教育課程を二年飛び級し、わずか四年間で卒業した。
しかも、卒業成績は首席。
当時、グラスはまだ二十歳だった。
育成院出身者が士官学校を首席で卒業するだけでも異例のことだったが、二年もの飛び級はさらに人々を驚かせた。
そのとき、帝都の新聞には大きな見出しが躍った。
『育成院出身、士官学校を首席卒業――三十年に一人の天才』
そんな見出しが新聞を賑わせたのも、今では十八年前のことである。
その後も軍人として実績を重ね、三十八歳にして中佐の階級にあった。
そしてこのたび、第2軍団司令官の幕僚として着任したのである。
グラスは扉を軽く叩いた。
「グラス中佐、入ります」
「どうぞ、どうぞ」
扉の向こうから、のんびりした声が返ってきた。
入室すると、執務机の向こうに、少し太った初老の男性が座っていた。
新しい上官、ロボス大将である。
中央貴族の侯爵であり、帝国軍でも長い経歴を持つ将軍だった。
「おお、君がグラス君かい?」
「はっ。本日付で第2軍団司令部に着任いたしました、グラス中佐であります」
「うんうん。待っていたよ。まあ、掛けてくれたまえ」
グラスが椅子に腰掛けると、ロボスは立ち上がり、自ら茶を用意し始めた。
「閣下、お茶でしたら自分が」
「いやいや、いいんだよ。私は自分で淹れるのが好きでねえ」
そう言いながら、焼き菓子も勧めてきた。
「これ、なかなか美味しいんだよ」
「ありがとうございます」
グラスは礼を述べたが、すぐには菓子に手を伸ばさなかった。
ロボスはそんな彼女を眺め、にこにこと笑った。
「いやあ、噂どおりだねえ。ずいぶん真面目な人だと聞いていたんだ」
「職務に忠実であるよう努めております」
「うん。それは結構なことだね」
ロボスはグラスの顔をしげしげと眺めた。
「でもねえ、グラス君。目が怖いよ。もうちょっと愛想よくしなよ。美人が台無しだよ」
「容姿は職務と関係ございません」
「ははは! そうだったねえ!」
ロボスは声を上げて笑った。
グラスの表情は、まったく変わらなかった。
「ところで、君の書いた報告書を読ませてもらったよ」
ロボスは机の上から一冊の書類を取り上げた。
「兵站関係の報告書だったんだけどねえ。いやあ、わかりやすかった。数字がたくさん並んでいるのに、何が問題なのか、どこを改善すればいいのかが、すぐわかる」
「必要な情報を整理しただけです」
「それが難しいんだよ、グラス君」
ロボスは笑った。
「私は数字が嫌いというわけじゃないんだけどね。数字ばかり並んでいる書類は、読んでいるうちに眠くなってしまうんだ」
「でしたら、結論を最初にお読みいただければよろしいかと」
「ははは! まったくそのとおりだねえ!」
ロボスは満足そうに頷いた。
「実を言うとね、君に来てもらったのは私の希望なんだよ」
「そうでございましたか」
「うん。君の報告書を読んで、一度一緒に仕事をしてみたいと思ったんだ」
「光栄でございます」
「それでね、さっそくお願いしたいことがあるんだよ」
「何でございましょうか」
「今度、軍団の各師団を見て回ろうと思っているんだ」
「視察でございますか?」
「うん。私は着任してまだ日が浅いからねえ。報告書だけじゃなく、実際にどんな兵隊が、どんな場所で戦っているのか見ておきたいんだよ」
「承知しました」
「君にも一緒に来てもらいたいんだ。補給や兵員の状況を見てもらえるかな?」
「了解いたしました」
「出発は二日後でいいかな?」
「はい。必要な資料を確認しておきます」
「うん。よろしく頼むよ」
グラスが立ち上がろうとすると、ロボスが慌てて声をかけた。
「おや、グラス君。お菓子は食べないのかい?」
「……いただきます」
グラスは焼き菓子を一つ取った。
「どうだい?」
「美味しいです」
「そうだろう! これ、帝都から取り寄せているんだよ」
ロボスは嬉しそうに笑った。
こうして、二人の最初の面会は終わった。
ロボス大将は、この時点ではまだ知らなかった。
自分が招いた小柄な中佐が、どれほど並外れた能力を持っているのかを。
第2節 山岳師団
二日後。
ロボス大将とグラス中佐は、第2軍団の担当戦区へ向けて出発した。
第2軍団の防衛地域は、第7軍団の南に位置している。
山地が多く、魔族軍の大規模な侵攻に適した場所は限られていた。
しかし、峠や谷を守る部隊は、厳しい地形と気候に対処しなければならなかった。
最初に訪れたのは、第24山岳師団だった。
帝国軍でも精鋭として知られる中央軍の部隊である。
師団司令部では、師団長と幕僚たちが一行を出迎えた。
会議室には、戦区の地図と補給計画表が用意されていた。
説明は簡潔で、部隊の配置や補給状況もよく整理されていた。
ロボスは満足そうに頷いた。
「うん。さすがは第24師団だねえ」
その横で、グラス中佐が補給計画表を見ていた。
「少々よろしいでしょうか」
「何でしょう、中佐殿」
「冬季の糧食および燃料の備蓄についてですが、現在の計画では二十一日分となっていますね」
「はい。通常の補給が途絶した場合に備えた備蓄です」
「不足する可能性があります」
師団の補給参謀は、少し驚いた。
「と申しますと?」
「この地域では、過去十年間に補給路が二十一日を超えて遮断された年が五回あります」
「……五回ですか?」
「はい。帝国歴217年は二十六日、219年は三十一日、220年は二十二日、221年は三十六日、223年は二十八日です」
グラスは、そのほかの年についても遮断日数と原因を次々に述べた。
会議室が静まり返った。
補給参謀は慌てて過去の記録を確認した。
紙をめくる音だけが響いた。
やがて、驚いた顔で報告した。
「……すべて一致しています」
「最長は221年の三十六日です。備蓄日数の再検討をお勧めします」
師団長は頷いた。
「もっともな指摘です。補給部門に検討を命じます」
ロボスは感心したようにグラスを眺めた。
「いやあ、グラス君。すごいねえ。着任する前から、この地域の資料を見ていたのかい?」
「いいえ。閣下から視察のお話がありましたので、確認いたしました」
「……それって、二日前だよねえ?」
「はい」
「二日で十年分を覚えたのかい?」
「はい」
「いやあ……」
ロボスは思わず天井を見上げた。
当の本人だけは、何事もなかったように次の資料へ目を向けていた。
* * *
午後、一行は山岳陣地を視察した。
岩盤を利用した掩体壕、山腹に設けられた交通壕、峠へ向けられた機銃陣地。
どれもよく整備されている。
秋も深まり、山の木々は葉を落とし始めていた。
日陰には、先日降った雪がわずかに残っている。
稜線を渡る風は冷たく、案内役の士官も時折、手袋をした両手を擦り合わせていた。
グラスは峠の近くに設けられた機銃陣地を眺めていた。
「こちらの機銃陣地ですが、冬季も同じ場所で運用する予定でしょうか?」
「その予定です」
「冬になると、敵から発見されやすくなると思います」
師団長が尋ねた。
「理由を伺っても?」
「積雪によって周囲の地形との色の差が生じます。それに落葉と太陽高度の変化によって、現在の偽装効果が低下するはずです」
グラスは地図の一点を指した。
「こちらの山腹の陰になる位置へ移設すれば、発見されにくくなる可能性があります。射界については現地で確認が必要ですが」
師団長は地図を覗き込み、参謀に命じた。
「工兵と機銃部隊に確認させろ。移設可能なら、冬季陣地として整備する」
「はっ!」
ロボスは満足そうに頷いた。
「いやあ、グラス君。よく気づいたねえ」
「地形を確認しただけです」
「うん。そうなんだろうねえ」
ロボスは苦笑した。
この視察中、グラスは一度も手帳を取り出さなかった。
師団の補給状況も、陣地の配置も、現地で聞いた説明も、すべて頭の中に収めていた。
師団長は見送りの際、グラスに向かって敬礼した。
「中佐殿。貴重なご指摘をいただき、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
ロボスは二人を眺めながら笑った。
「いやあ、いい視察になったねえ」
後年、グラスがこの第24山岳師団を率いることになるのは、まだずっと先の話である。
第3節 第317師団
次の視察先は、第317師団だった。
師団長はオルグ少将、五十二歳。
中央の公爵家に生まれた三男である。
父親は軍務省の有力者であり、長年にわたり帝国軍の人事に影響力を持っていた。
だが、その父も引退が近づいていた。
オルグ自身も政治的な才覚に優れ、中央貴族や軍務省との関係を巧みに維持していた。しかし、現在の地位には満足していなかった。
第317師団は、師団という名称こそ持っているものの、実兵力は約六千名。
中央軍の歩兵大隊と支援部隊、地方領主の基幹連隊、さらに別の領主の歩兵大隊などで構成されている。
地方領主軍の比率が高く、中央軍の正規師団とは事情が異なっていた。
オルグが望んでいたのは、中央軍の正規師団長という地位だった。
さらに、引退間際の父親が持つ公爵位も狙っていた。
二人の兄を出し抜くには、軍務省に影響力を持つ必要がある。
そして、そのためには金が必要だった。
「いつの時代も政治には金が必要なのだよ」
オルグは、長年付き従ってきた腹心の参謀長に、そう語っていた。
第317師団では長年、同じ地方領主の連隊が基幹部隊として派遣されていた。
その領主とオルグは、兵員管理や補給を巡って互いに利益を得ていた。
ところが今年、その領主の本領で自然災害が発生し、連隊を派遣できなくなった。
代わって派遣されてきたのが、ハルデン伯爵の連隊だった。
南ドワーフを主体とする、実戦経験豊富な部隊である。
ハルデン伯爵は、着任して間もなく激怒した。
「これはどういうことですかな!」
第317師団司令部。
ハルデンは机の上に陣地改修計画を広げていた。
「掩体壕の木材は腐りかけ、塹壕の排水もまともにできておりません! このまま冬を迎えたら兵士たちはどうなります!」
「これまでも問題なく使われてきた陣地だがね」
オルグは落ち着いた様子で答えた。
「問題がなかったのではありません! 放置されていただけです!」
「伯爵、落ち着きたまえ」
「落ち着いていられますか! これでは兵が可哀想です。もうすぐ冬ですよ!」
オルグは肩をすくめた。
「亜人は身体が丈夫だと聞く。それほど心配することかね。酒も届いているだろう?」
ハルデンの顔が険しくなった。
「その酒も高すぎます!」
「ここは山岳地域だからね。輸送費がかかるのは当然だろう」
「それにしても高すぎると言っているのです!」
ハルデン連隊の酒は、軍団の予算ではなく連隊自身の会計から購入していた。
ところが、師団側が指定する商人を通じた供給価格は、通常の相場よりも明らかに高かった。
「酒の件については確認させよう。資材についても、補給部門に手配するよう伝えておくよ」
「すでに何度も申し上げております!」
「輸送には時間がかかるのだよ、伯爵」
オルグは少しも慌てなかった。
「できる限り対応しよう」
ハルデンは不満を隠さなかったが、それ以上話しても無駄だと判断し、退出した。
その場にはラド男爵もいた。
第317師団に歩兵大隊を派遣している、エルディア地方の領主である。
オルグは不愉快そうに言った。
「薄汚いドワーフどもが酒で騒ぎおって。まだエルフの方がマシかな? ラド男爵」
「……はあ」
ラドは曖昧に答えた。
自分の領地にもエルフが住み、派遣大隊の名簿でも約三割を占めている。
迂闊なことは言えなかった。
オルグは参謀長に向き直った。
「資材を少し回してやれ。あれ以上騒がれても面倒だ」
「承知しました」
参謀長は即座に答えた。
オルグの野心も、資金の調達方法も知り尽くした腹心だった。
* * *
数日後。
第317師団司令部に、ロボス大将の車両が到着した。
建物の正面では、オルグ少将と参謀長以下、数名の幕僚が出迎えていた。
「第317師団長、オルグ少将であります。ロボス閣下、このたびは遠路お越しいただき、光栄に存じます」
「いやあ、ご苦労さん。立派な建物だねえ」
「ありがとうございます。元は地方貴族の別邸を利用したものでございます」
「そうかい。それは便利だねえ」
ロボスはにこやかに答えた。
「そうそう、紹介しよう。こちらは私の幕僚のグラス中佐だよ」
「グラスです。よろしくお願いいたします」
小柄な女性将校が一歩前に出て、敬礼した。
オルグは彼女に目を向けた。
痩せた華奢な身体に、整った顔立ち。
軍服を着ていなければ、とても中佐には見えない。
しかし、目が合った瞬間、オルグは思わず息を呑んだ。
鋭い眼光だった。
睨みつけているわけではない。ただ静かにこちらを見ているだけなのに、すべてを見透かされているような錯覚を覚える。
……何だ、この女は。
一瞬、言葉が途切れた。
だが、オルグはすぐに平静を取り戻した。
「これはこれは。お若いのに中佐とは、さぞ優秀なのでしょうな」
いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
グラスは無表情のまま答えた。
オルグは視線をロボスに戻した。
……妙な目をした女だ。
だが、それ以上気にすることはなかった。
軍団司令官の幕僚の一人にすぎない。
オルグはそう考えていた。
* * *
司令部での説明は要領がよかった。
戦線は安定し、損害は少なく、兵員充足率も高い。
地図には各部隊の担当区域が整然と示され、補給報告にも大きな問題は見当たらなかった。
ロボスは満足そうに頷いた。
「いやあ、オルグ君。ずいぶん兵隊が揃っているねえ」
「はい。地方領主との良好な関係を維持し、安定した部隊運用に努めております」
「それは結構なことだねえ」
オルグは穏やかに微笑んだ。
その横で、グラスは提出された補給報告書を読んでいた。
何も書き留めず、次々にページをめくっていく。
「それでオルグ君。ハルデン伯爵の陣地も見てみたいんだがね」
「もちろん、ご案内いたします。ただ、現在は大規模な改修工事中で、少々お見苦しい状態かと存じます」
「いやあ、それはちょうどいい。南ドワーフの工兵は優秀だと聞いているからねえ」
「……さようでございますか」
オルグは丁寧に頭を下げた。
* * *
ハルデン連隊の陣地では、南ドワーフの工兵たちが忙しく働いていた。
古い掩体壕を解体し、石材を積み上げ、新しい塹壕を整備している。
石を削る音と、土を掘り返す音が、冷たい空気の中に響いていた。
ただし、木材や鋼材の不足で、工事の多くが途中で止まっていた。
積み上げられた石材の横には、屋根を完成させられないままの掩体壕がいくつも並んでいる。
「いやあ、ずいぶん大がかりな工事だねえ」
ロボスが感心したように言った。
「資材さえ届けば、もっと早く進むのですがな!」
ハルデンは不満を隠さなかった。
グラスは近くにいたドワーフ兵に声をかけた。
そして、南ドワーフ語で話し始めた。
兵士は目を丸くした。
だが、すぐに嬉しそうな顔で答えた。
グラスは工事の進捗や不足している資材について尋ねた。
「木材と鋼材が足りねえんです。もうすぐ届くと、ずっと言われてますがね」
「いつ頃からですか?」
「工事を始めた頃からです」
「わかりました。ありがとうございます」
一行のところへ戻ると、ロボスが尋ねた。
「グラス君、南ドワーフ語はどこで覚えたのかね?」
「育成院の寮母が南ドワーフでした。彼女に習いました」
「ほう、育成院でかい?」
「はい」
ハルデン伯爵はしきりに感心していた。
「いやはや、見事ですな! 南ドワーフ語をこれほど流暢に話す人間の将校には、滅多にお目にかかれませんぞ!」
「ありがとうございます」
その様子を、オルグは黙って眺めていた。
育成院だと?
……なるほど。奴隷の子か。
しかし、表情には出さなかった。
目の前の女性はロボス侯爵が自ら選んだ幕僚である。
余計なことを口にする必要はなかった。
そのときだった。
「おーい! そこの姉ちゃん!」
工事現場から野太い声が響いた。
「後で俺たちと飲まねえか!」
南ドワーフ語だった。
ハルデンが慌てて怒鳴った。
「こら! 軍団司令部の中佐殿に何を言っておる!」
しかし、グラスは少しも気にした様子がなかった。
工兵たちに向き直ると、南ドワーフ語で答えた。
「私は、姉ちゃんと言える歳ではありません」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、工事現場が爆笑に包まれた。
「がはははは!」
「聞いたか! この姉ちゃん、面白えぞ!」
「姉ちゃんじゃねえって言ってるだろ!」
「じゃあ何て呼べばいいんだ!」
「中佐殿だろうが!」
ドワーフたちは腹を抱えて笑っていた。
グラスは相変わらず真面目な顔だった。
それがかえって面白かったらしい。
ハルデン伯爵まで大笑いした。
「はっはっは! いやあ、中佐殿。お見事です!」
ロボスも楽しそうに笑った。
「なかなか楽しい部隊だねえ」
* * *
その後、グラスは近くにいた南ドワーフの士官に、同じ言語で声をかけた。
「お願いがあります。こちらの陣地の設計図を、軍団司令部へ送っていただけませんか」
「もちろんです。伯爵にお伝えします」
「それと、もう一つ」
グラスは少し声を落とした。
「こちらの連隊で保管している資材の受領書類も、送っていただきたいのです」
士官の表情が変わった。
「……受領書類ですか?」
「はい。実際に受け取った数量と日付がわかるものです。できれば、師団司令部を通さずに」
士官は少し考え、オルグの方へちらりと目を向けた。
「なるほど……」
そして小さく頷いた。
「わかりました。後で伯爵に話をしておきます」
「ありがとうございます」
少し離れた場所から、その様子をオルグが眺めていた。
ロボスが声をかけた。
「グラス君、今度は何を話していたのかね?」
「塹壕の設計書をお願いしました」
「ほう、設計書かい?」
「はい。こちらの築城技術は優秀ですので、参考にしたいと思いました」
ハルデンが嬉しそうに笑った。
「はっはっは! 設計書なら喜んでお見せしますぞ!」
オルグも微笑んだ。
「でしたら、師団司令部を通じてお届けいたしましょう」
「ありがとうございます、少将閣下」
グラスは丁寧に頭を下げた。
* * *
視察の最後に、一行は師団の補給集積場へ立ち寄った。
倉庫の中には木箱や鋼材が並べられ、壁際には出庫待ちの資材が積まれていた。
グラスは保管されている資材を確認し、担当者から受領と出庫について説明を受けた。
帳簿にも目を通した。
しかし、一切メモを取らなかった。
その日の昼食会は、終始なごやかだった。
オルグは中央の貴族や軍人の話題を巧みに選び、ロボスと親しく談笑した。
食後の茶が運ばれてくると、ロボスは満足そうに言った。
「いやあ、オルグ君。今日はなかなか有意義だったよ」
「ありがとうございます、閣下」
「それでね、オルグ君」
「はい」
「あとは頼むよ。せっかく良い陣地ができそうだ。しっかり支援してやってくれ」
「もちろんでございます」
オルグは即座に答えた。
「ハルデン伯爵の連隊は、我が師団の重要な戦力でございます。必要な資材は、できる限り優先して手配いたします」
「うん。それはありがたいねえ」
ロボスは嬉しそうに頷いた。
* * *
ロボス大将一行が帰った後、オルグは参謀長を呼んだ。
「それで、あのグラスという中佐は何を調べていた?」
「いえ。詳しくはわかりません」
「なぜだ?」
「あの女、いっさいメモを取っておりません」
「……メモを?」
「はい。工兵とも話しておりましたし、補給集積場の帳簿も確認しておりましたが、何一つ書き留めておりません」
オルグは少し考えた。
「妙な女だな」
「単に視察に不慣れなのでは?」
「いや、そうとも限らん」
オルグは首を横に振った。
「ロボス侯爵が自ら選んだ幕僚だ。何か理由があるはずだよ」
「経歴を調べさせます」
「頼む。それと、補給関係の資料はおまえが確認しておけ」
「承知しました」
オルグは窓の外へ目を向けた。
メモを取らない中佐、か。
いったい何を考えているのやら。
もっとも、視察そのものは成功したはずだった。
ロボス侯爵との関係も良好である。
オルグは、そう考えていた。
第4節 帳簿の数字
第317師団からの帰り道。
ロボス大将は車の窓から山々を眺めていた。
夕暮れが近づき、山の陰に入った道は薄暗くなっていた。
「いやあ、オルグ君はなかなかの人物だねえ」
「はい」
「話も上手いし、中央の事情にも詳しい。ただねえ、どうも腹に一物抱えているようだ」
グラスは隣の上官に顔を向けた。
「閣下も、そうお感じになりましたか」
「ほう。グラス君もかい?」
「はい。ただし、現時点では確証がありません」
グラスは補給集積場で確認した資材について説明した。
「帳簿上の受領数量に対して、集積場の在庫が少なすぎます。ハルデン連隊の資材不足も気になります」
「なるほどねえ」
「まずは書類を確認したいと思います」
ロボスは思い出したように尋ねた。
「そういえば、ドワーフの士官には設計書を頼んでいたね」
「はい。ただ、実際には資材の受領記録も依頼しました」
「おやおや!」
ロボスは目を丸くした。
「それで南ドワーフ語だったわけかい?」
「オルグ少将が近くにおられましたので」
ロボスは愉快そうに笑った。
「ははは! 君もなかなかやるじゃないか」
「必要な確認だと判断しました」
「うん。いい判断だね。ただし、最初からオルグ君を疑ってかかってはいけないよ」
「承知しております」
「何かの手違いということもあるからねえ」
「はい。現在は、帳簿の数字が一致しない理由を確認している段階です」
「そうだね。それが大事だよ」
ロボスは満足そうに頷いた。
* * *
数日後、第2軍団司令部に第317師団から設計図が届いた。
南ドワーフの工兵が作成した図面は精密で、実際の工事現場とも一致していた。
だが、図面の片隅に小さな走り書きがあった。
南ドワーフ語だった。
酒の供給価格が高すぎる。
ラド男爵の兵員数が少なすぎる。
軍団司令部で確認していただきたい。
先日話した士官からの訴えらしい。
グラスはその文面を読み、図面を伏せた。
酒の価格については、ハルデン伯爵自身が不満を漏らしていた。
しかし、ラド男爵大隊の兵員数については、まだ具体的な資料がなかった。
さらに翌日、第24山岳師団を経由して、ハルデン連隊の資材受領記録が届いた。
ハルデン伯爵が、師団司令部を通さずに送ってきたものだった。
グラスは師団側の補給報告書と照合した。
そして、ロボスへの報告を求めた。
「閣下。第317師団の資材交付記録と、ハルデン連隊が実際に受け取った資材の数量に、明らかな食い違いがあります」
「ほう」
「特に木材と鋼材の差が大きくなっています。師団の集積場の在庫でも説明できません」
「でも、グラス君。君はあそこで何も記録していなかったよねえ?」
「頭の中に入っています」
「……全部かい?」
「はい。軍団司令部に戻ってから、現地で確認した帳簿の内容を書き起こしました。こちらが写しになります」
ロボスは差し出された書類を眺めた。
そこには、グラスが現地で見た受領記録や在庫数量が、日付とともに整然と記されていた。
「……これを全部覚えていたのかい?」
「はい」
「いやあ……君には本当に驚かされるねえ」
グラスは淡々と続けた。
「ただし、ほかの部隊へ配分された可能性もあります。正式な出庫記録と、各部隊の受領記録を確認する必要があります」
「うん。そのとおりだね。君の記憶を疑っているわけじゃないが、調査には原本が必要だからねえ」
「承知しております」
ロボスは頷いた。
「それにしても、酒の値段まで問題になっているとはねえ」
「はい。兵士の待遇に関わりますので、こちらも確認が必要です」
「うん。それなら、ちょうどいい人がいるよ」
ロボスは楽しそうに笑った。
「商売の話なら、商人に聞くのが一番だからねえ」
* * *
数日後、帝国総合商社の軍事部門に所属するヴェルナーが、軍団司令部を訪ねた。
ロボス大将の古い知り合いだった。
「いやあ、ヴェルナー君。わざわざすまないねえ」
「とんでもございません、閣下」
「こちらはグラス中佐。私の幕僚でね。君に聞きたいことがあるそうなんだ」
「グラスです。よろしくお願いいたします」
「ヴェルナーです。何なりとお尋ねください」
グラスは三つのことを質問した。
ハルデン連隊が購入している酒の適正価格。
軍の鋼材やセメントが民間市場へ流出する可能性。
そして、オルグ少将が個人的に懇意にしている商人についてだった。
ヴェルナーはすでにロボスから概要を聞き、ある程度調べを進めていた。
「まず鋼材とセメントですが、現在は需要が非常に高く、各商社が奪い合っている状況です。まとまった数量が正規市場に出れば、すぐに話題になります」
「そのような動きは?」
「確認できませんでした」
「では、闇市場でしょうか?」
「可能性はあります。ただし、そこへ入ってしまえば、私どもでは現物の行方を追えません」
ヴェルナーは茶を一口飲んだ。
「それから、オルグ少将と懇意にしている商人もわかりました」
「どのような人物でしょうか?」
「なかなか胡散臭い男ですな。表向きは一般の物資を扱っていますが、闇市場にも強い人物です」
「その商人と第317師団に取引はありますか?」
「ございます。ただし、それだけでは不正の証拠になりません」
グラスは頷いた。
「承知しています」
「もっとも、品物の行方がわからなくても、金の流れは残るかもしれません」
ロボスが尋ねた。
「ほう。どういうことだい?」
「大量の鋼材やセメントを売買するとなれば、すべて現金というわけにはまいりません。銀行が関与するはずです」
「なるほどねえ」
「ただし、銀行の取引記録を調べるとなれば、中央民警による正式な捜査が必要になります」
「中央民警かい」
「はい。しかも、銀行を調べれば何か出るかもしれないというだけでは、捜査は始められません。先に不正を疑うに足る証拠が必要です」
グラスは静かに頷いた。
「まずは軍の帳簿ですね」
「そのとおりです」
ヴェルナーは続けた。
「それから酒の価格ですが、品目と輸送条件を考慮しても、ハルデン連隊が支払っている価格は高すぎるようです。正式な見積書を作成しておきましょう」
「ありがとうございます」
「しかし、中佐殿」
「はい」
「随分と多くのことをお尋ねになりますが、何も書き留めなくてよろしいのですか?」
「はい。覚えていますので」
ヴェルナーはロボスを見た。
ロボスは嬉しそうに笑った。
「ははは! そうなんだよ。この人は全部覚えてしまうんだ」
ヴェルナーは苦笑した。
「なるほど。私どもの商社に来ていただきたいくらいですな」
「軍務がありますので」
「ははは! 残念です」
ロボスも笑った。
「ヴェルナー君、私の優秀な幕僚を引き抜かないでくれたまえよ!」
* * *
ヴェルナーが帰った後、ロボスは焼き菓子を一つ摘まんだ。
「そうそう。グラス君、実はもう一人、友人にお願いしてあるんだよ」
「どなたでしょうか?」
「ベルノ伯爵領はわかるかな?」
「はい。ラド男爵領の隣ですね」
「そうそう。ベルノ伯爵とは茶飲み友達でね。私は酒はやらないから、会えばいつもお茶なんだよ」
ロボスは楽しそうに笑った。
「ちょっとお隣がどうなっているか、見てきてほしいって頼んでおいたよ」
「ラド男爵領のことですか?」
「うん。兵隊の出入りとか、最近変わったことがないかとかね」
グラスは少し考えた。
「非常に助かります」
「そうかい。それはよかった」
ロボスは満足そうに頷いた。
「商人の話も聞けるし、隣の領地の様子も調べてもらえる。師団の帳簿も取り寄せている」
そして、にこやかに尋ねた。
「これでグラス君の知りたいことは、だいたいいいかな?」
「はい。十分です。ありがとうございます、閣下」
「いやいや。友人にちょっと頼んだだけだよ」
* * *
ベルノ伯爵からの返事が届いたのは、それから数日後だった。
「グラス君、ベルノ伯爵から連絡があったよ」
「はい」
「ラド男爵領には、二個中隊の歩兵が残っているそうだ」
グラスは顔を上げた。
「二個中隊ですか」
「うん。でも、軍団の配置表では一個中隊だったねえ」
「そのとおりです」
「一個中隊ほど数がおかしいね」
「はい」
ロボスは手紙を机に置いた。
「それで、どうするのかな?」
「もう一度行きませんか?」
「第317師団へかい?」
「はい。点呼を取ればわかります」
ロボスは少し考えた。
「でもねえ、グラス君。オルグ君なら対策してくるでしょ?」
「対策できれば、です」
「ほう?」
「ラド男爵の派遣大隊ですが、名簿上では兵員の約三割がエルフです」
「うん」
「人間の兵士なら、ほかの部隊から借りて人数を合わせることもできるでしょう。しかし、エルフ兵はそう簡単にはいきません」
「エルフ兵も借りればいいんじゃないかな?」
「現在、中部戦線に展開しているエルディア地方の部隊は、ラド男爵領の部隊だけです」
「……ああ、なるほど!」
「エルディア地方以外の軍には、エルフ兵はほとんどおりません。南部にはおりますが、あちらはダークエルフですので、外見ですぐに区別できます」
ロボスは感心したように頷いた。
「なるほどねえ」
「それに、前回の視察では、エルフ兵が名簿上の割合よりも著しく少ないように見えました」
「そうだったのかい?」
「はい」
ロボスはしばらく考えた。
やがて、にやりと笑った。
「グラス君。君、案外意地が悪いねえ」
「……そうでしょうか?」
「ははは! 褒めているんだよ!」
ロボスは楽しそうに笑った。
「よし。もう一度行ってみようか」
第5節 点呼
第317師団。
ラド男爵の大隊が、練兵場に整列していた。
朝から冷たい風が吹いていた。
兵士たちは厚手の軍服を着込み、各小隊ごとに列を作っている。
その前には、第317師団の将校たちが集まっていた。
ロボス大将の再訪を迎えるため、オルグ少将は準備を整えていた。
軍団司令部から兵員点検の実施を通知されると、参謀長は前日のうちに中央軍大隊から兵士を集め、不足する人数を補っていた。
オルグもその対応を了承していた。
兵士はみな帝国軍の軍服を着ている。
一時的な部隊間の人員移動なら、いくらでも説明がつく。
二人はそう考えていた。
「閣下。本日は兵員の状況を確認されたいとのことでございましたな」
「うん。冬も近いからねえ。実際に兵隊たちの顔を見ておこうと思ってね」
「それは結構なことでございます」
オルグは余裕のある笑みを浮かべた。
その横で、グラス中佐が口を開いた。
「少将閣下。エルフ兵が少ないようですが」
「各小隊に分散しているので、そう見えるのだろう」
「名簿上では、兵員の約三割がエルフのはずです」
オルグは参謀長に目を向けた。
「そうだったかな?」
「はい。中佐殿のおっしゃるとおりです」
「では、名簿を持ってこさせよう」
しかし、グラスは首を横に振った。
「必要ありません」
「……何?」
「名簿はすべて記憶しておりますので」
オルグは眉を動かした。
グラスは整列した兵士たちに向き直った。
「これから名前を呼びます。呼ばれた方は返事をして、一歩前へ出てください」
そして、何の書類も見ずに、エルフ兵の名前を呼び始めた。
「エルンスト・ヴァイナー上等兵」
「はっ!」
「アルベルト・リューデン一等兵」
「はっ!」
「エミール・カルテン一等兵」
返事はなかった。
グラスはもう一度呼んだ。
沈黙。
「不在ですね。次、ルドルフ・エルマー上等兵」
「はっ!」
「ヨハン・フェルナー一等兵」
返事はなかった。
名前を呼ばれて返事をする兵士より、返事のない兵士の方が多かった。
練兵場を冷たい風が吹き抜けた。
整列する兵士たちの顔には、次第に戸惑いが広がっていく。
呼ばれるはずの名前が呼ばれず、呼ばれた名前の持ち主も現れない。
兵士たちは互いに顔を見合わせていた。
オルグ少将は、グラスをじっと見ていた。
……この女、本当に覚えているのか?
名簿を見ていない。
手帳も持っていない。
それなのに、階級、氏名、所属小隊まで正確に呼び上げている。
やがて、最後のエルフ兵の名前が呼ばれた。
「以上です」
グラスは大隊長に向き直った。
「名簿に記載されたエルフ兵が、多数不在です。現在の勤務場所について、確認をお願いします」
大隊長は額に汗を浮かべていた。
オルグが口を挟んだ。
「中佐、兵士が全員練兵場にいるとは限らんだろう」
「おっしゃるとおりです。ですので、不在者の所在を確認したいのです」
オルグは口を閉じた。
ロボスはラド男爵を見た。
「ラド男爵。何か言いたいことはないかね?」
「はっ、閣下」
「君の兵隊だろう? ずいぶん人数が合わないようだが」
ラドは一瞬、オルグに視線を向けた。
ロボスが穏やかに言った。
「いやいや、オルグ君に聞いているんじゃないよ。君に聞いているんだ」
「……一部の兵士については、領地への一時帰郷を認めております」
「ほう。帰郷かい?」
「はい。領地の事情もございまして……」
「なるほどねえ。それは大変だ」
ロボスは頷いた。
「でもねえ、男爵。帰郷しているなら、そう報告してもらわないと困るんだよ」
ラドは黙った。
「帰郷した兵士の記録は残っているね?」
「……はい」
「それなら後で提出してくれたまえ」
「承知いたしました」
* * *
グラスが再び口を開いた。
「閣下。引き続き、人間の兵士についても点呼を行ってよろしいでしょうか?」
「うん。せっかくだから全員確認しようか」
グラスは次々に名前を呼び始めた。
こちらはエルフ兵と異なり、多くの返事があった。
しかし、点呼が進むにつれて、妙なことが起こった。
いつまでも名前を呼ばれない兵士が、相当数残っていたのである。
兵士たちは次第に落ち着きを失い始めた。
小隊長たちも、不安そうに互いの顔を見合わせている。
やがて、最後の名前を呼び終えた。
「以上です。名前を呼ばれなかった方は、その場に残ってください」
練兵場には、大勢の兵士が残された。
ロボスが首を傾げた。
「おやおや。ずいぶん残ったねえ」
「はい。この方々は、ラド男爵大隊の名簿に記載されておりません」
ロボスはオルグに顔を向けた。
「オルグ君。これはどういうことかな?」
「おそらく、他部隊からの臨時増強兵でございましょう。冬季の陣地整備に備えた配置変更かと存じます」
「ほう。増強兵かい」
「はい」
グラスは周囲を見渡した。
そして、オルグの近くに立っていた士官に声をかけた。
「そちらの少佐殿。少々お話を伺ってもよろしいでしょうか?」
少佐は驚いた顔をした。
「自分ですか?」
「はい」
ロボスが尋ねた。
「グラス君、知り合いかね?」
「いいえ。初めてお目にかかります。第317師団所属、中央軍歩兵大隊の大隊長殿ですね」
少佐はさらに驚いた。
「はい。そのとおりですが……」
「師団所属士官の顔写真は、すべて記憶しております」
「……全員の写真を?」
「はい」
ロボスは思わず笑った。
「いやあ、グラス君。君には本当に驚かされるねえ」
そして少佐に向き直った。
「少佐君、ちょっといいかな?」
「はっ!」
「君の大隊から、こちらへ兵隊を派遣したそうだね?」
「はい、閣下」
「いつ移動させたのかな?」
「昨日であります」
「昨日かい。それは急な話だったねえ。誰からの命令かな?」
「師団参謀長からであります」
オルグの隣に立っていた参謀長の表情が変わった。
ロボスは質問を続けた。
「それで、どんな命令だったのかね?」
「ラド男爵大隊へ、一時的に兵員を派遣せよとの命令でした」
「理由は?」
少佐は一瞬ためらった。
ロボスは微笑んだ。
「構わないよ。聞いたことをそのまま話してくれればいいんだ」
「はっ」
少佐は姿勢を正し直した。
「軍団司令官閣下による兵員点検があるため、ラド男爵大隊の不足人員を補うように、と」
練兵場が静まり返った。
風に揺れる軍旗の音だけが聞こえていた。
「……不足人員を補う?」
「はい」
「冬季の部隊運用という話ではなかったのかね?」
「自分が受けた命令では、そのような説明はございませんでした」
オルグ少将が口を開いた。
「少佐、それは命令の趣旨を誤解しているのではないかね?」
ロボスが静かに割って入った。
「いや、オルグ君。今は私が聞いているからね」
「……失礼いたしました」
ロボスは少佐に向き直った。
「君は命令を受けて兵隊を移動させた。それだけだね?」
「はい、閣下」
「君の大隊の名簿は?」
「変更しておりません。一時派遣として処理しております」
「なるほど。ありがとう、少佐君」
ロボスは頷いた。
そして、オルグを見た。
「オルグ君」
「はい、閣下」
「君の参謀長は、私が来るから兵隊を集めたそうだねえ」
「……部隊の運用上、必要な措置と判断したのでしょう」
「そうかい」
ロボスはしばらく考えた。
「でもねえ、私はラド男爵の兵隊が何人いるのか知りたかったんだよ。ほかの大隊の兵隊を連れてこられても困ってしまうねえ」
オルグは黙っていた。
ロボスは静かに続けた。
「オルグ君。すぐに軍団司令部に来るように」
「……は?」
「もう少し詳しく話を聞きたいんだよ」
「閣下。まずは師団内で事情を調査し、その結果をご報告するという形ではいかがでしょうか」
「いや、今回は直接聞きたいんだ」
ロボスの声は穏やかだった。
「これは正式な命令だよ。そこの参謀長も一緒にね」
オルグは一瞬、言葉を失った。
「……承知いたしました、閣下」
「うん。よろしく頼むよ」
「しかし、私と参謀長が同時に不在となりますと、師団の指揮に支障が生じます」
「ああ、そうだったねえ」
ロボスは周囲を見渡した。
「さて、残っている指揮官で最上位は、ハルデン伯爵かな?」
ハルデンが顔を上げた。
「はっ。私でございます」
「そうかい」
ロボスは微笑んだ。
「ハルデン伯爵。君のところで師団を預かってもらえないかな?」
「……私が、でございますか?」
「うん。オルグ君たちが軍団司令部にいる間だけでいいんだ」
ハルデンは姿勢を正した。
「閣下のご命令とあれば、お引き受けいたします」
「いやあ、助かるよ」
そのとき、グラスが口を開いた。
「閣下。命令書を作成いたします」
「うん。お願いするよ」
グラスは近くにいた士官から用紙と万年筆を借りた。
そして、その場で書き始めた。
一切の下書きもなく、迷いなく筆を走らせていく。
しかも、ものすごいスピードであった。
さらさらと、ほとんど休むことなく文字が書き込まれていく。
近くにいた士官は、思わずその手元を覗き込んだ。
速い。
速すぎる。
それでいて文字は美しく整い、文面にも一切の迷いがない。
オルグも、いつの間にかグラスの手元を見つめていた。
やがて、グラスは最後の一文を書き終えると、万年筆を置いた。
「できました」
その瞬間だった。
「化け物か、この女……!」
オルグが思わず声を上げた。
周囲が静まり返った。
参謀長が慌ててオルグを見た。
「閣下……!」
オルグ自身も、自分が声に出してしまったことに気づいた。
「あ……いや、失礼」
珍しく言葉に詰まった。
グラスはオルグに顔を向けた。
「何かございましたか?」
「いや、その……ずいぶん筆が速いと思ってね」
「ありがとうございます」
グラスは軽く頭を下げた。
ロボスが笑い出した。
「ははは! オルグ君、気持ちはわかるけど、化け物は失礼だよ」
「……申し訳ございません」
グラスは命令書を差し出した。
「閣下。内容をご確認ください」
「うん。どれどれ」
ロボスは書類に目を通した。
オルグ少将と参謀長の出頭命令。
ハルデン伯爵への臨時指揮権の委任。
各部隊の指揮関係。
さらに、師団司令部の兵員名簿、命令書、補給記録、会計帳簿の保全まで、必要な事項が漏れなく記されていた。
「ふむふむ……なるほど。うん、全部書いてあるねえ」
ロボスはもう一度書類を眺めた。
「それにしても達筆だね。あの速度でこれを書ける人って、帝国にはいないんじゃないかな」
「恐れ入ります」
「しかも私が言わなかった書類の保全まで入っているね」
「はい。後日の調査に必要になると考えました」
「うん。いい判断だねえ」
グラスは書類の末尾を指した。
「閣下。内容に問題がなければ、こちらにご署名をお願いいたします」
「ああ、そうだったね」
ロボスは万年筆を受け取り、命令書の末尾に署名した。
グラスは署名を確認すると、ハルデン伯爵に向き直った。
「ハルデン伯爵閣下。第2軍団司令官命令を伝達いたします」
ハルデンは姿勢を正した。
「はっ!」
命令書が読み上げられ、ハルデンに手渡された。
「拝命いたしました!」
ハルデンは力強く敬礼した。
ロボスは満足そうに頷いた。
「中央軍大隊長の少佐君も、引き続き自分の大隊を指揮してくれたまえ。師団全体の運用については、ハルデン伯爵と調整するように」
「承知いたしました!」
「ラド男爵も、それでいいね?」
「はっ。承知いたしました!」
「うん。これで大丈夫そうだね」
ロボスはオルグに向き直った。
「さて、オルグ君。これで師団の方は心配いらないね」
「……はい、閣下」
「それでは軍団司令部で会おうか」
「承知いたしました」
オルグは敬礼した。
参謀長もそれに続いた。
二人が退出すると、ハルデン伯爵は大きく息を吐いた。
「いやはや、思わぬ大役を仰せつかりましたな」
「すまないねえ、伯爵」
「いえ。兵士たちの命に関わることでございます。お任せください」
「うん。頼もしいねえ」
ハルデンは改めてグラスを見た。
「それにしても中佐殿。全員の名前を覚えているだけでなく、あんな速さで命令書まで書いてしまうとは!」
「ありがとうございます」
「はっはっは! ロボス閣下は、たいした幕僚をお持ちですな!」
ロボスも笑った。
「そうなんだよ、伯爵。私も毎日驚かされているんだ」
グラスは、いつもの無表情で一礼した。
「恐れ入ります」
第6節 闇商人
第317師団の再視察から十日余りが過ぎた。
山岳地帯には冬が迫っていた。
第2軍団司令部のある街でも朝晩の冷え込みが厳しくなり、遠くに見える山々は、すでに頂を白く染めていた。
司令部の廊下には、忙しく行き交う士官たちの軍靴の音が響いていた。
その一角にある会議室では、グラス中佐が机いっぱいに書類を広げていた。
窓から差し込む朝の光が、積み重ねられた紙の端を照らしている。
ハルデン伯爵の協力によって確保された補給記録、ラド男爵大隊の兵員名簿、中央軍大隊からの兵員移動命令。
さらに、ラド男爵領からの兵員派遣に関する書類と、第317師団への到着記録も取り寄せられていた。
グラスは一枚ずつ確認し、照合を終えた書類を分類していた。
現地で一度見た数字は、ほとんどすべて頭の中に入っている。
しかし、今回必要なのは彼女自身の記憶ではなかった。
誰が見ても確認できる、正式な記録だった。
やがて、扉が開いた。
「いやあ、グラス君。ずいぶん書類が増えたねえ」
ロボス大将が入ってきた。
片手には茶の入ったカップを持っている。
「おはようございます、閣下」
「うん、おはよう。どうだい、何かわかったかな?」
「はい。ほぼ確認できました」
グラスは机の上の書類を揃えた。
ロボスは向かいの椅子に腰掛け、カップを置いた。
「それじゃあ、聞かせてもらおうか」
「閣下。兵員の水増しは確認できました」
「そうかい」
「ラド男爵大隊では、約百五十名の兵士が、最初から第317師団に派遣されていませんでした」
ロボスの手が止まった。
「……最初からかい?」
「はい。大半はエルフ兵です。派遣されたことになっている兵士たちは、実際にはラド男爵領に残っていました」
グラスは二枚の書類を並べた。
一枚は、ラド男爵側が提出した派遣兵員名簿。
もう一枚は、第317師団側の人員受領記録だった。
「こちらでは、全員が派遣され、到着したことになっています。しかし、実際の移動記録や現地での確認結果と一致しません」
「ふむ……」
「さらに、領地に残された兵士たちの勤務記録も確認できました。前線にいるはずの期間、ラド男爵領内で勤務していたことがわかっています」
「なるほどねえ」
ロボスは書類を手に取った。
「じゃあ、あの男爵が言っていた一時帰郷という話は?」
「虚偽です。帰郷したのではありません。一度も前線に到着していなかったのです」
「そうかい……」
ロボスはしばらく書類を眺めていた。
「それじゃあ、ずっといない兵隊の分まで、お金を請求していたということかな?」
「はい。糧食費や補給費などが継続して請求されていました」
「いやあ……ずいぶん大胆なことをするねえ」
いつもの笑みは浮かんでいなかった。
グラスは別の書類を差し出した。
「それから、資材についても不自然な点があります」
「うん」
「鋼材とセメントについて、師団の受領記録と部隊への交付記録が一致しません。集積場の在庫でも説明できません」
ロボスは書類を受け取り、数字を追った。
「ずいぶん足りないねえ」
「はい。一部は、民間の運送業者へ引き渡された記録が残っています」
「民間の業者に?」
「ヴェルナー氏が名前を挙げていた商人と関係のある業者です」
「……そうかい」
ロボスは書類を机に置いた。
窓の外では、冷たい風に吹かれた木々が揺れていた。
「酒の方はどうかな?」
「ヴェルナー氏から見積書が届きました。ハルデン連隊が支払っている金額とは、相当な開きがあります」
「やっぱり高かったんだねえ」
「はい。ただし、現在確認できるのは、通常の取引価格より著しく高いという事実までです」
「その差額がどこへ行ったのかは、まだわからないわけだね」
「そのとおりです」
ロボスは腕を組んだ。
しばらく考え込んでから、グラスに顔を向けた。
「これなら、中央民警にお願いできそうだね」
「はい。正式な捜査が必要と考えます」
「うん。法務官に相談しよう」
ロボスは立ち上がった。
そして、机の上に積み上がった書類をもう一度眺めた。
「しかしねえ、グラス君」
「はい」
「百五十人もの兵隊が、最初からいなかったとはねえ……」
その言葉には、いつもの軽やかさがなかった。
グラスも答えず、静かに頭を下げた。
* * *
数日後。
第2軍団司令部の法務官から、中央民警へ正式な捜査要請が出された。
提出された資料は膨大だった。
兵員名簿と実際の派遣記録の不一致。
軍需資材の受領数量と交付数量の食い違い。
そして、特定の民間商人が関係する不自然な取引。
中央民警は、軍の会計記録と民間業者の取引記録を照合することから捜査を始めた。
最初に調べられたのは、第317師団と取引のあった運送業者だった。
軍の資材が民間の倉庫へ運ばれた記録が残されていたのである。
ある運送業者は、鋼材を軍の補給集積場から指定された倉庫へ運んだと証言した。
別の業者は、セメントを民間の商会に引き渡したと認めた。
どちらも、通常の軍需物資の交付手続きとは異なっていた。
さらに、輸送先として使われていた複数の倉庫から、不審な取引書類が見つかった。
書類の中には、第317師団の名前が記されていないものもあった。
しかし、日付と数量を突き合わせると、軍から消えた資材と一致する部分があった。
捜査の対象は、次第に一人の商人へと絞られていった。
オルグ少将と個人的に懇意にしていた男である。
表向きは酒類や生活物資を扱う商人だった。
しかし、裏では闇市場の業者と取引し、正規の流通経路に乗せられない品物の仲介も行っていた。
中央民警は捜査を進め、帳簿や運送記録などの証拠を確保したうえで、その商人を逮捕した。
* * *
中央民警の取調室には、狭い窓が一つだけあった。
窓の外は曇り空だった。
室内には机と椅子が置かれ、壁際には押収された書類を入れた箱が積まれている。
商人は椅子に腰掛け、向かいの捜査官を見つめていた。
上等な上着を着ていたが、襟元は少し乱れていた。
「私は軍から正式な注文を受けて、品物を納めただけです」
商人は、同じ説明を繰り返していた。
捜査官は返事をせず、机の上に二冊の帳簿を並べた。
一冊は、商会が通常の取引記録として保管していたもの。
もう一冊は、倉庫から押収された裏帳簿だった。
「この二つの帳簿では、酒の価格が違いますね」
商人は黙っていた。
「ハルデン連隊には、こちらの高い価格で請求しています。しかし、実際の仕入れ価格と輸送費は、こちらの裏帳簿の金額です」
「山岳地帯ですから、特別な経費が……」
「その特別経費の支払先も調べました」
捜査官は別の書類を取り出した。
「運送業者は、その金額を受け取っていません」
商人は唇を結んだ。
部屋の中が静かになった。
廊下の向こうから、誰かの足音が聞こえてきた。
捜査官はさらに書類を一枚、机の上へ滑らせた。
「存在しない輸送費や手数料まで請求していますね。差額はどこへ行ったのですか?」
商人は視線を落とした。
しばらく沈黙が続いた。
「……全部が私の利益というわけではありません」
「では、誰に渡したのですか?」
「師団の関係者です」
「具体的には?」
商人は窓の方へ顔を向けた。
灰色の空が、細長く切り取られて見えた。
「……参謀長ですよ」
捜査官は表情を変えなかった。
「第317師団の参謀長ですね?」
「そうです」
「その人物に、何の名目で金を渡したのですか?」
「商売を続けるためですよ」
「詳しく説明してください」
商人は両手を組み直した。
「軍との取引を続けるには、あの方の了解が必要だったんです。指定業者になれなければ、品物を売ることもできませんでした」
捜査官は質問を続けた。
「オルグ少将も承知していたのですか?」
商人は頷いた。
「知らないはずがありません」
「推測ではなく、あなたが直接確認したことを話してください」
商人は困ったように顔をしかめた。
しばらく口を閉じていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「少将に直接、取引の利益について話したことがあります」
「いつですか?」
商人は日時と場所を答えた。
捜査官はその内容を確認し、別の書類を取り出した。
すでに押収されていた送金記録と、商人の説明が一致していた。
* * *
取調べが進むにつれて、取引の仕組みが明らかになった。
ハルデン連隊は、自分たちの部隊会計から酒を購入していた。
しかし、前線への輸送には師団の補給経路を利用する必要があり、取引先も事実上、師団が指定した商人に限られていた。
商人は、酒の仕入れ価格に不当な上乗せを行い、存在しない輸送費や取扱手数料まで請求していた。
連隊が支払った代金の一部は商人の利益となり、残りは参謀長の管理する関係先へ送金されていた。
その一部が、オルグ少将の私的な資金となっていた。
鋼材やセメントについても、同じ商人の関与が確認された。
軍の予算で購入された資材が、正規の交付手続きを経ずに民間の倉庫へ運び込まれていた。
そこから闇市場へ流された資材の行方は、完全には追えなかった。
しかし、裏帳簿には数量と売却代金が残されていた。
さらに、ラド男爵大隊の兵員水増しによって生じた不正な経費の一部も、実体のない納入取引を経て、同じ商人の関係先へ流れていた。
中央民警は、関係する銀行への捜査を進めた。
調べが進むにつれ、資金の流れが少しずつ浮かび上がってきた。
商会から仲介業者へ。
仲介業者から参謀長の関係先へ。
そして、オルグ少将の私的な口座や、帝都の関係者へ。
表向きの取引名目は、それぞれ異なっていた。
物資の購入代金。
輸送費。
商取引に伴う手数料。
しかし、その支払日や金額を裏帳簿と照合すると、軍から流出した資金とのつながりが見えてきた。
銀行記録、押収された帳簿、商人の供述。
それぞれ別々だった証拠が、次第に一つの不正の仕組みを示し始めていた。
* * *
第2軍団司令部。
夜になっても、グラスの執務室には明かりがついていた。
窓の外では、冷たい雨が降っている。
机には、中央民警から届いた調査資料と、軍団内の会計記録が並べられていた。
グラスは最後の書類を読み終え、そっと机の上に置いた。
窓ガラスを雨粒が伝っていく。
酒の購入代金。
軍需資材の売却代金。
派遣されていない兵士たちの経費。
一見すると、何の関係もない取引だった。
しかし、金の流れを追っていくと、すべてが同じ人物の周囲へ集まっていた。
しかも、過去の記録を調べると、同じような取引が何年にもわたって繰り返されていた。
グラスは机の上の書類を一つにまとめた。
その表情に変化はなかった。
ただ、最後に重ねた一冊の帳簿には、何年も前の日付が記されていた。
第317師団の不正は、一時的な出来事ではなかった。
長い年月をかけて作り上げられた、組織的な仕組みだったのである。
第7節 不正の代償
翌朝、雨は上がっていた。
しかし、空には低い雲が広がり、軍団司令部の建物を冷たい風が吹き抜けていた。
中庭では、兵士たちが落ち葉を掃き集めている。
濡れた石畳の上を軍靴が行き交い、時折、馬車の車輪が軋む音が聞こえてきた。
第2軍団司令官室では、ロボス大将が中央民警の捜査官を待っていた。
室内のストーブには火が入り、執務机の上には温かい茶が用意されている。
いつもなら焼き菓子の皿も置かれているところだったが、今日は茶だけだった。
窓際に立っていたグラス中佐が、廊下から近づいてくる足音に気づいた。
やがて、扉が叩かれた。
「中央民警の捜査官が参りました」
「うん。通してくれたまえ」
扉が開き、書類鞄を抱えた捜査官が入ってきた。
「失礼いたします」
「いやあ、ご苦労さん。寒かっただろう。まあ、掛けてくれたまえ」
「ありがとうございます、閣下」
捜査官が椅子に腰掛けると、グラスは用意されていた茶を差し出した。
「恐れ入ります」
捜査官は一口飲んでから、鞄を開けた。
中には、調査報告書と銀行の取引記録が詰め込まれていた。
「閣下。第317師団の不正について、主要な資金の流れが確認されました」
「そうかい」
ロボスはカップを置いた。
「それじゃあ、聞かせてもらおうか」
「はい。現在までに確認されたのは、兵員の水増し、軍需資材の横流し、さらにハルデン連隊への酒類の不当な高額販売です」
捜査官は書類を三つに分けて並べた。
「それぞれ異なる方法で資金を得ていますが、調査の結果、最終的に共通する関係先へ送金されていたことがわかりました」
ロボスは書類を眺めた。
「酒の方も、やっぱり不正だったのかい?」
「はい。商人が差額を不正に取得し、その一部を師団参謀長とオルグ少将側へ送金していました」
「なるほどねえ」
「裏帳簿と銀行記録が一致しています。商人自身も、取引の仕組みを認めています」
ロボスは静かに頷いた。
「それは、ずいぶん悪質だねえ」
室内が静かになった。
窓の外では、風に吹かれた枝がガラスを軽く叩いていた。
ロボスは、ハルデン伯爵の顔を思い浮かべていた。
あの陣地で、伯爵は怒っていた。
冬を迎える前に塹壕を直したい。
兵士たちが寒さに苦しむことのないようにしたい。
そのために必要な木材や鋼材が届かないと、何度も訴えていた。
ロボスは小さく息を吐いた。
「ハルデン伯爵は、あれほど兵隊のために資材を求めていたのにねえ」
グラスは答えた。
「兵士の待遇を犠牲にして、私的な利益を得ていたことになります」
「うん……そうだねえ」
捜査官はさらに書類を広げた。
「資金の一部は、帝都の政治関係者にも流れています」
ロボスが顔を上げた。
「ほう」
「ただし、その支払いが贈賄に当たるかどうかは、今後の捜査が必要です。現時点では、資金が送られていることまでしか確認できておりません」
「うん。そこは慎重にお願いしたいね」
「承知しております」
ロボスは差し出された銀行記録に目を通した。
送金日、送金額、取引先。
いくつもの数字が整然と並んでいた。
「それで、これは今年だけの話なのかな?」
捜査官は首を横に振った。
「いいえ。銀行に残る記録から、同様の不正が何年も続いていたことが確認されています」
「……そうかい」
ロボスは椅子に深く腰掛けた。
「ずいぶん根が深い話だったんだねえ」
いつもより長い沈黙があった。
グラスは隣で黙っていた。
ロボスは冷めかけた茶を一口飲んだ。
「わかったよ。報告ありがとう。今後も必要な調査を進めてくれたまえ」
「承知いたしました」
捜査官は立ち上がり、敬礼した。
扉が閉まると、室内には再び二人だけになった。
ロボスは机に置かれた銀行記録を眺めていた。
やがて、グラスに向かって言った。
「いやあ、グラス君。これだけのことをしていたとはねえ」
「はい」
「オルグ君は、もっと賢い男だと思っていたんだけどね」
「軍務以外のことに、その能力を使っていたようです」
「……そうだねえ」
ロボスは苦笑した。
「さて。本人にも話を聞かないといけないね」
「すでに出頭を命じております」
「うん。ありがとう」
ロボスは窓の外へ目を向けた。
低い雲の向こうに、わずかな青空が覗き始めていた。
* * *
その日の午後。
オルグ少将と参謀長が、軍団司令官室へ呼ばれた。
廊下を歩くオルグの足取りは、普段と変わらなかった。
軍服は隅々まで整えられ、襟元にも乱れはない。
しかし、彼の胸中は穏やかではなかった。
中央民警が銀行の取引記録を調べていることは、すでに耳に入っていた。
長年付き合ってきた商人が逮捕されたことも知っている。
あの商人が、どこまで話したのか。
どの銀行まで調べられたのか。
オルグにはわからなかった。
参謀長が小声で尋ねた。
「閣下。いかがいたしましょう」
「余計なことは言わなくていい」
オルグは前を向いたまま答えた。
「わかっていることだけを話せ。推測で答えるな」
「……承知しました」
「それに、まだ調査の段階だ」
オルグは足を止めた。
「慌てる必要はない」
参謀長は黙って頷いた。
やがて、二人は司令官室の前に到着した。
当直の士官が扉を開けた。
「オルグ少将、参謀長。入室いたします」
「どうぞ、どうぞ」
部屋の奥から、いつもの柔らかな声が聞こえた。
* * *
ロボス大将は執務机の向こうに座っていた。
机の上には数冊の書類が揃えられている。
その横に、グラス中佐が立っていた。
彼女はいつもと同じ無表情だった。
オルグは入室して敬礼した。
「お呼びにより参上いたしました」
「いやあ、オルグ君。ご苦労さん。まあ、座ってくれたまえ」
「失礼いたします」
オルグは椅子に腰を下ろした。
参謀長も隣に座った。
ロボスは二人を眺め、穏やかに口を開いた。
「オルグ君。今日は少々困った話なんだよ」
「どのようなことでございましょうか」
ロボスは机の上の書類を軽く叩いた。
「君の師団の資材が、民間に流れていたそうだね」
「……その件につきましては、現在調査中でございまして」
「うん。それは知っているよ」
ロボスは頷いた。
「それでね。銀行の記録も調べてもらったんだ」
オルグの目が、わずかに動いた。
「銀行、でございますか」
「うん」
ロボスは一枚の書類を差し出した。
「軍の資材を売ったお金や、兵隊の経費を不正に請求したお金が、君の関係先へ流れているそうだよ」
オルグは書類を受け取った。
送金先の名前を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
そこには、見覚えのある商会や仲介業者の名前が並んでいた。
次のページをめくる。
さらに、その次。
彼の顔から、わずかに血の気が引いた。
表情だけは崩さなかったが、書類を持つ指先の動きが止まった。
……ここまで調べたのか。
オルグは顔を上げた。
視線の先には、グラス中佐がいた。
あの初対面のときと同じ、鋭い目だった。
身動きもせず、静かにこちらを見ている。
この女が……。
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
しかし、すぐに打ち消した。
ここで動揺を見せれば、それこそ相手の思うつぼだ。
オルグは書類に目を落とした。
「……これは」
「うん?」
「私的な資金移動については、合法的な取引も多く含まれております」
「そうだろうねえ」
ロボスは頷いた。
「だから、そこはきちんと調べてもらわないとね」
オルグは少し身を乗り出した。
「閣下。私は公爵家の一員として、中央との交際もございます。政治的な活動に伴う支出を、すべて不正と見なされては困ります」
「うん。それもわかるよ」
ロボスは穏やかに答えた。
まるで、普段の世間話の延長のような口調だった。
しかし、その表情には笑みがなかった。
「ただねえ、オルグ君」
「はい」
「その金が、どこから来たのかが問題なんだよ」
オルグは黙った。
「君が自分のお金で政治活動をするのなら、私が口を挟むことじゃない」
ロボスは書類に目を落とした。
「でも、兵隊の食費や、陣地を直すための資材を売ったお金では困るんだよ」
部屋の中が静まり返った。
ストーブの中で、小さく火が弾けた。
オルグは口を開きかけたが、何も言わなかった。
「それにね、ハルデン伯爵のところの酒まで高く売っていたそうじゃないか」
「……」
「あれは伯爵の連隊が、自分たちのお金で買っていたものだろう?」
「はい」
「兵隊たちが楽しみにしている酒からまで、お金を取らなくてもよかったんじゃないかなあ」
ロボスの声は、相変わらず静かだった。
オルグは答えなかった。
隣の参謀長も、机の上の銀行記録を見つめていた。
そこには、自分たちが長年使ってきた資金の経路が並んでいた。
それまで、彼らにとって帳簿とは、都合よく数字を動かせるものだった。
しかし、今目の前にある数字は、何一つ動かせなかった。
ロボスは書類を閉じた。
「君たちには、まだ説明してもらわなければならないことがたくさんある」
「……はい」
「これからは軍の内部調査だけでは済まないよ。法務官と中央民警にも協力してもらうことになる」
オルグはゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました、閣下」
参謀長も、それに続いた。
ロボスは二人を見つめていた。
怒鳴ることも、声を荒らげることもなかった。
ただ、少し残念そうな顔をしていた。
「オルグ君」
「はい」
「私はね、君がもう少し兵隊のことを考えてくれていたらと思うよ」
オルグは答えなかった。
沈黙の後、二人は席を立った。
敬礼を済ませ、扉へ向かう。
オルグは最後まで姿勢を崩さなかった。
扉が閉まる直前、彼は一度だけ振り返った。
ロボス大将は、すでに机の上の書類へ目を落としていた。
グラス中佐は、その隣に立っていた。
オルグは何も言わず、廊下へ出ていった。
重い扉が閉まった。
* * *
夕方。
軍団司令部の窓から差し込む光が、少しずつ弱くなっていた。
遠くの山々は雲に覆われ、街の屋根には冷たい風が吹きつけていた。
司令官室では、ロボス大将が椅子に深く腰掛けていた。
グラスは机の上の書類を片付けている。
銀行記録、兵員名簿、補給報告書。
そのどれもが、事件の一部を示していた。
ロボスは深いため息をついた。
「いやあ、グラス君。まいったねえ」
「はい」
「公爵家の息子が関わっているとなると、帝都も騒がしくなりそうだよ」
「その可能性があります」
「それに、これだけ長い間続いていたとなると、今回だけの問題ではなさそうだね」
「はい」
グラスは書類を揃えながら答えた。
「地方部隊が長年同じ戦線に配置されているのであれば、ほかでも同様の問題が発生する可能性があります」
「そうだねえ」
ロボスは窓の外へ目を向けた。
「同じ部隊が、同じ場所に何年もいる。上官も、取引する商人も変わらない」
「はい」
「そうなると、いろいろと都合のいい関係ができてしまうんだろうねえ」
「その可能性があります」
グラスは一冊の書類を机の上に置いた。
「部隊配置の仕組みそのものについても、確認が必要だと思います」
ロボスは静かに頷いた。
「うん。私もそう思うよ」
しばらく、二人とも口を開かなかった。
外では、風が強くなっていた。
ロボスは机に置かれたカップを取り上げたが、中身はすでに冷めていた。
「おやおや。すっかり冷たくなってしまったねえ」
グラスが顔を上げた。
「新しいお茶をお持ちしましょうか?」
「いや、いいよ。そろそろ仕事も終わりにしよう」
ロボスはカップを置き、椅子から立ち上がった。
「それにしても、グラス君」
「はい」
「いやあ、君を呼んでよかったよ」
「ありがとうございます」
「もっとも、こんな大仕事になるとは思わなかったけどねえ」
「申し訳ございません」
「ははは! だから君が謝ることじゃないって!」
ロボスは声を上げて笑った。
グラスは、いつもの無表情で一礼した。
しかし、その様子を見たロボスは、また笑った。
「グラス君。君は本当に変わらないねえ」
「何か問題がございますか?」
「いやいや。何もないよ」
ロボスは首を振った。
「そのままでいてくれたまえ」
「承知いたしました」
ロボスは再び笑った。
グラスは書類の束を抱え、執務室を出ていった。
廊下には、夕方の薄暗さが広がっていた。
遠くから、交代勤務に向かう兵士たちの足音が聞こえてくる。
グラスは一度も振り返らず、自分の執務室へ向かった。
その後ろで、ロボスの笑い声がまだかすかに聞こえていた。
* * *
窓の外では、いつの間にか細かな雪が舞い始めていた。
軍団司令部の中庭では、当直の兵士が襟を立て、白い息を吐いていた。
冬が来ようとしていた。
第317師団の前線でも、兵士たちは寒さに備えて塹壕を補修し、掩体壕を整えているはずだった。
あの南ドワーフたちも、今頃は工事を続けているだろう。
ハルデン伯爵が求めていた木材や鋼材は、ようやく正しい行き先へ届き始めていた。
机の上に積み上がった帳簿には、何年もの間、実際には行われていない勤務の記録が書き込まれていた。
だが、その数字の向こうには、実際に寒さの中で働き、戦っている兵士たちがいた。
* * *
この事件を契機に、帝国軍では地方領主軍を同じ戦線へ長期間固定して派遣する従来の慣行が見直されることになった。
新たな派遣方針は、七年後、オリヴィエがベルノ連隊を率いる時代にも引き継がれていた。