無職転生IF ~異世界に行かなくても本気だす!~   作:hiro☆彡

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『無職転生』の登場人物たちが、現代日本に生まれていたら……というIF作品です。

本編は完成済みで、今回全話を公開します。

今後は、本編では描ききれなかったエピソードに加え、本編に登場しなかった原作キャラクターたちが、この世界でどのような人生を送っているのかについても、閑話として不定期に追加していく予定です。

原作とは異なる世界で生きるルーデウスたちの物語を、お楽しみいただければ幸いです。


本編 現代日本のルーデウス

 瀬戸内海からの穏やかな潮風が吹き抜ける四国の田園地帯。

 

 ルーデウス・グレイラットの物語は、地方都市の長閑な景色の中で、けれど常人には到底測り得ない規格外の知性とともに幕を開けた。

 

 父・パウロは四国で弁護士をしており、四国を越えて名の知れた凄腕だった。

 

 その豪放磊落にして奔放な背中と、母・ゼニスの深い愛情に包まれて育ったルーデウスは、物心ついた頃から飛び抜けた神童だった。

 

 文字を覚えるそばから家にあった本や新聞を貪るように読み耽り、五歳になる頃には高校数学にも手を伸ばしていた。特に関数や微積分といった解析系への理解は、周囲の大人を驚かせるほど突出していた。

 

 地方の公立小学校ではその早熟な頭脳を持て余すと考えた両親が家庭教師として迎えたのが、地元の大学に通う女子学生——ロキシーだった。

 

 小柄で物静か、だが芯のある知性と教養を持つロキシーは、早熟すぎて周囲と馴染めずにいたルーデウスの最初の理解者となった。

 

 ロキシーが教えたのは、数学だけではなかった。数学にばかり興味を向けていたルーデウスに、物理や地理、歴史、文化、言語など、学問の広さと面白さを教えたのである。

 

 一つのことを知れば、別のことへの興味が生まれる。学問は互いにつながっている。

 

 その教えは、ルーデウスの知的好奇心に決定的な火を灯した。

 

 ルーデウスは音楽を聴くのも好きだった。父パウロのCDを片っ端から聴き漁り、インターネットでもさまざまな国の曲を探しては聴いていた。

 

 歌うのも上手で、歌詞の意味も分からないまま、いろいろな国の歌を楽しそうに口ずさんでいた。

 

 そんな幼少期、ルーデウスにはもうひとつの運命的な出会いがあった。

 

 近所の空き地で悪童たちに囲まれ、泥だらけになって泣きじゃくっていた少女——シルフィエットだ。

 

 いじめの輪を強引に割ってシルフィを助け出したルーデウスは、彼女に勉強を教え、遊びを教え、知らなかった世界を惜しみなく広げてあげた。

 

 シルフィにとってルーデウスは、暗がりから自分を引き上げてくれた文字通りのヒーローであり、二人はいつも影のように寄り添い合っていた。

 

 学校の授業を退屈がり、サボることも少なくなかったルーデウスは、成績こそ抜群でも教師からは「不良生徒」扱い。一方のシルフィは、しっかり者の「委員長」。

 

 そんな対照的な二人は、周囲にもよく知られた幼馴染だった。

 

 中学進学を控えた頃、父パウロは中高一貫の地元の名門私立中学へルーデウスを進学させようと画策した。息子の才能を考えれば当然の親心だった。

 

 しかし、ルーデウスは進学を望まなかった。シルフィと離れたくなかったのだ。

 

 こうして二人は、地元の公立中学に進学した。

 

 しかし、中学の授業は、ルーデウスにとってあまりにも退屈だった。

 

 退屈を持て余したルーデウスが暇つぶしとして手を伸ばしたのが、インターネットの向こうに広がる世界中の言語だった。

 

 ロキシーから学んだ考え方を自分なりに発展させ、単に単語や文法を暗記するのではなく、その背景にある地理、歴史、文化の文脈ごと丸呑みするように吸収していった。

 

 知的好奇心の命ずるままに没頭した結果、中学を卒業する頃には十数カ国語を専門書レベルまで自在に解読し、本人すら正確に何カ国語を操れるのか把握していないほどの語学の化け物となっていた。

 

 だが、そんな甘やかな日常にパウロの厳しい雷が落ちる。

 

 高校進学を控えた頃、このまま地元でシルフィとぬくぬくと馴れ合っていては息子が駄目になると痛感したパウロは、ついに強硬手段に出た。

 

 家を出て一人立ちすることを厳命したのだ。

 

「ただし、親戚がいる関東圏の超進学校へ行くなら、学費も生活費もすべて出してやる」

 

 条件を突きつけられたルーデウスが選んだのは、千葉にある共学の最難関校だった。

 

「男子校は嫌だ、共学がいい」

 

 という実にルーデウスらしい下心満載の理由だったが、それはシルフィにとって「遠く離れた都会の高校で、可愛い女の子たちに囲まれる」という、新たな不安の種をひとつ増やすことにもなった。

 

 シルフィ自身は家庭の経済的事情もあり、地元の県立高校へ進学した。地元屈指の進学校だった。

 

 地元の空港の出発ロビー。

 

 二人は固く手を握り合った。やがてルーデウスは保安検査場へと向かい、シルフィはガラス越しにその姿を見送った。

 

 これがそれぞれの人生を分かつ最初の分岐点となった。

 

 千葉での生活が始まったルーデウスは、そこで無二の親友となる男と出会う。

 

 ザノバだった。

 

 卓越した機械工学のセンスと異様な造形美へのこだわりを持ちながら、怪力と独特の風貌から校内では完全に浮いており、当然ながら友達もおらず女子にも全くモテなかった。

 

 だが、ルーデウスだけはその才能の真価を即座に見抜き、ザノバもまたルーデウスの底知れない知性に圧倒された。

 

 二人は互いを認め合い、深い絆で結ばれる。

 

 社交的で人当たりの良いルーデウスの輪に引き込まれたことで、ザノバも自然と同級生たち、とりわけ女子生徒たちとも言葉を交わせるようになっていった。

 

 そんな高校時代、ルーデウスたちの同級生の女子グループにいつもくっついていたのが、1学年後輩のジュリだった。

 

 小柄でおとなしく、目立たない女の子だったが、ルーデウスは彼女の飲み込みの早さと手先の器用さに目を留め、自分たちの実験室へ引き入れた。

 

 やがてジュリはザノバと心を通わせるようになり、不器用な二人はかけがえのないパートナーとなっていく。

 

 高校を首席クラスで卒業したルーデウスとザノバは、揃って東京大学理科一類へ進学する。

 

 本郷キャンパスで出会ったのが、もう一人の天才・クリフだった。

 

 おじいさんが大きな宗教団体の代表格らしいが(ルーデウスも詳しくは知らない)、理論物理と数理において飛び抜けた頭脳を持ちながら、プライドが高く理屈っぽいため周囲から浮き上がり、孤立していた男だ。

 

 だがルーデウスはクリフの才能を惜しみなく認め、クリフもまたルーデウスの凄まじい実力を目の当たりにして心服し、二人は生涯の親友となった。

 

 孤立していたクリフも、ルーデウスの人脈を通じて周囲と馴染み、人間関係の幅を広げていった。

 

 その東大で、ひときわ異彩を放っていたのが工学部の先輩・エリナリーゼだった。

 

 法学部でその名を知られるエリスとは、まったく別の理由で大学中に名を知られていた。リケジョの筆頭として肩で風を切り、数多の東大男子を侍らせていた華やかな才媛だ。

 

 ルーデウスとも気兼ねなく話せる間柄だったが、お互いに恋愛感情を抱くような相手ではなかった。

 

 そんなある日、クリフがルーデウスに「彼女を紹介してほしい」と真剣に頭を下げてきた。

 

 そしてクリフは、不器用ながらも真っ直ぐにエリナリーゼへ交際を申し込む。

 

 ルーデウスに負けず劣らず聡明でありながら、これまで言い寄ってきた男たちとはまるで違う。不器用で一途なクリフの純粋さに魅力を感じたエリナリーゼは、その申し出を快諾した。

 

 ハードのザノバ、理論のクリフ、そして全体を束ねるソフトと頭脳のルーデウス。

 

 最強の理系トリオが完成した。

 

 そんな大学生活のなか、ルーデウスのもとに思いがけない家庭教師の話が舞い込んだ。

 

 その時、法学部3年だったのがエリス・ボレアスだった。

 

 エリスが東大法学部を目指したのには、祖父サウロスとギレーヌの存在があった。

 

 サウロスはボレアス法律事務所の代表で、エリスが幼い頃から憧れていた祖父だ。一方、父フィリップは弁護士としては凡庸で、サウロスによく叱られ、今は都議を務めている。

 

 そのためエリスにとって、弁護士という仕事そのものは、もともと特別に輝いて見えるものではなかった。

 

 そんなエリスの考えを変えたのが、ギレーヌだった。

 

 ギレーヌは若い頃、喧嘩に明け暮れ、学校にもろくに通わず、ついには親からも見放されていた。

 

 そんな彼女を拾ったのがサウロスだった。

 

 ボレアス法律事務所で警備の仕事を与えられたギレーヌは、働きながら猛勉強を重ね、大検を経て旧司法試験に挑んでいた。

 

 エリスが高校に入ると護衛を任され、最初こそ反発されたものの、やがて姉のように慕われるようになった。

 

 護衛の合間にも机に向かい、黒と赤の書き込みで埋め尽くされたノートを、何度も何度も読み返していた。

 

 ページの端は擦り切れ、紙は手垢で薄汚れている。そんなノートが机の上に何冊も積み重なっていた。

 

 その姿を間近で見て、エリスの「おじいちゃんみたいになりたい」は「私も弁護士になる」に変わった。

 

「おじいちゃん、弁護士になるならどの大学がいい?」

 

「東大じゃな」

 

 それからのエリスは、ギレーヌに負けまいと勉強した。

 

 高校二年のとき、ギレーヌが旧司法試験に合格すると、その思いはいっそう強くなった。

 

 のちに東大へ進み、二年で予備試験、三年で司法試験を突破したエリスに、ギレーヌはただ一言、「さすがお嬢様」と言った。

 

 そのギレーヌは、今ではボレアス法律事務所の弁護士として、サウロスを支えている。

 

 エリスは大学2年で司法試験予備試験に合格し、大学3年で司法試験を受験して、合格発表を待っていた。

 

 国内法務の勉強にはひと区切りをつけ、3年からはちょっとした興味で国際法務のゼミに所属していた。

 

 春から初夏にかけては司法試験の勉強を最優先にするよう配慮されていたため、ゼミには数回顔を出した程度だった。

 

 ところが、そのわずかな出席の中で、エリスは思わぬ強敵が二人いることを知った。

 

 一人は長期の留学経験者、もう一人は帰国子女。難解な英文契約書を、エリスよりも速く、正確に読みこなしていた。

 

 国内法務には自信があり、司法試験も受験を終えたばかり。だからこそ、秋からのゼミでほかの学生に後れを取るわけにはいかなかった。

 

「夏休みのうちに追い越して、秋には『当然よ』って顔でさらりと読んでやるわ!」

 

 祖父サウロスの伝手を使い、破格の報酬で実践的な語学の家庭教師を募集したところ、紹介されて白金台のボレアス邸に現れたのが、2学年下の理科一類1年——ルーデウスだった。

 

 最初の顔合わせの席、エリスは露骨に見下した態度を取った。

 

「なんで2学年下の理系のガキに英語を教わらなきゃいけないのよ」

 

 迎え撃ったルーデウスは、一瞬「コワッ……」と引いたものの、すぐに飄々とした笑みを浮かべた。

 

「英語だけでいいんですか? ドイツ語でもフランス語でも、中国語やアラビア語でも、専門書レベルの読解からディベートまで対応できますよ」

 

 言葉通り、ルーデウスの指導は完璧だった。

 

 歴史や文化、地政学的な背景ごと体系化された教授法は凄まじく、エリスのプライドの高い噛みつきも全て真正面から受け止め、それ以上の知性で打ち返してみせた。

 

 もっと一緒にいたい。

 

 エリスがそう思うようになるのに、時間はかからなかった。

 

 ルーデウスのほうも、どんなに手厳しい課題を課しても音を上げず、気迫と根性で言語を吸収していくエリスのひたむきさに惹かれていった。

 

 秋にエリスが宣言通り司法試験に一発合格した際、ルーデウスは心底感嘆し、エリスは学内でルーデウスが「理系の神童」と騒がれるたびに誇らしく胸を張った。

 

 夏休みの終わり、「英語はもう十分でしょう」と家庭教師を終えようとするルーデウスに、エリスは食ってかかった。

 

「英語が使える弁護士なんて、いまどき五万といるじゃない! ドイツ法もフランス法も原語で読めなきゃ一流とは言えないでしょ! 次はドイツ語! その次はフランス語!」

 

 エリスは大学3年の秋、司法試験合格を機に、アリエル率いる大手「アスラ法律事務所」でアルバイトとして働き始めた。

 

 大学4年の秋に司法修習が始まるまで、学業と法律事務所での仕事を両立させていた。その後、司法修習を終えて弁護士資格を取得し、正式に入所した。

 

 その間も、エリスはルーデウスと会う口実を次々に見つけていた。

 

「じゃあ次はスペイン語!」

 

「中国語!」

 

「韓国語、アラビア語、タイ語!」

 

 と新しい言語を要求するたび、ルーデウスもボレアス邸へ通い続けた。

 

 エリスの意地と恋心が、結果として多言語の法律文書や契約書を完璧に読み解く驚異的なスキルを彼女に授けることとなった。

 

 だが、二人の間に「付き合ってください」という言葉が交わされることはなかった。

 

 転機は、ルーデウスの学部卒業間近に訪れた。

 

 大学院進学を予定していたルーデウスに、マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授から直接「うちの研究室に来ないか」と声がかかったのだ。

 

 ザノバはジュリと結婚し、ジュリは大学を休学して夫についていくことを決意した。

 

 クリフもまた、大学院の修士課程を終えたエリナリーゼと結婚。夫婦揃って渡米することを決めた。

 

 変わり者ゆえに孤独だった天才たちが、ルーデウスの引き合わせた最愛の伴侶を伴って海を渡る。

 

 それを知ったエリスが、アスラでのキャリアを中断して単身アメリカへついていく決断を下すまでに、迷いは一切なかった。

 

 アリエルとサウロスに直談判し、ルーデウスのMIT留学に同行することを希望した。二人は、「ルーデウスの留学期間である2年以内に米国の弁護士資格を取得すること」を条件に渡米を認めた。

 エリスはボストン大学ロースクールに進学し、マサチューセッツ州の司法試験に挑むこととなった。アリエルとサウロスからの条件を満たすためには「一発合格」しかなかった。

 

 渡米が決まったその夜、ルーデウスはエリスの前で頭を下げた。

 

「僕と、付き合ってください」

 

 エリスは勝ち誇ったように腕を組み、精一杯の強がりで返した。

 

「仕方がないわね。付き合ってあげるわよ」

 

 エリスが日本でのキャリアを中断して追いかける側であるにもかかわらず、プロポーズでもないその台詞。

 

 すべてが一つずつズレていたが、その夜、エリスは子供のように飛び跳ねて喜んだ。

 

 ボストンでの生活は、甘い新婚ごっことは程遠い戦場だった。

 

 ザノバは高校の後輩だったジュリエットと、クリフは大学の先輩だったエリナリーゼと、それぞれ日本で籍を入れて渡米していたため、周囲からはルーデウスとエリスも完全に「夫婦」として扱われた。

 

 エリスはボストン大学ロースクールで学び、マサチューセッツ州の司法試験に一発で合格。米国の弁護士資格を取得した。

 

「一度で受かってよかったわ。落ちていたら、お祖父様とアリエルに何を言われるか分からないもの」

 

 こうして当初の目標を達成したエリスだったが、ルーデウスたちの学内起業によって、米国での滞在期間が延びることとなった。

 

 そこでアリエルとサウロスの紹介を受け、現地の提携法律事務所で実務に就くことになる。

 

 企業法務、とりわけ最先端の知的財産や国際商取引の分野で、次第に頭角を現していった。

 

 一方のルーデウスたちは、在学中に起業。

 

 父パウロからの経済的な支援はあったものの、AIやロボット、宇宙工学の先端研究や起業には多額の資金が必要だった。

 

 現地の法律事務所で高い報酬を得るようになったエリスも、生活費を含む資金繰りを、精神的にも金銭的にもガッチリと支えた。

 

 当時のアメリカはディープテックスタートアップの激戦区だった。

 

 彼らの研究は長期的な開発が中心で、短期的な収益につながりにくい。技術力はあっても事業化には時間と多額の資金を要し、日本人である彼らは市場開拓と資金調達の難しさに直面していた。

 

 エリスは、ベッドの中でルーデウスとの会話を楽しむため、テクノロジーについて熱心に勉強していた。

 

 理解できたことを話せば「おお、よくわかってるね」と頭を撫でてもらえる。わからないところを尋ねれば、ルーデウスは嬉しそうに説明してくれる。

 

 どちらもエリスにとっては、かけがえのない時間だった。

 

 そしていつしか、技術の中身まで深く理解し、ルーデウスたちの研究と事業を法律の力で守る、最強の盾となっていた。

 

 ルーデウスたちの技術力は、米国の第一線で活躍する研究者たちから見ても、頭一つ抜けていた。

 

 その真価に目をつけたのが、先端技術分野での国際競争力強化を目指す日本の官民ファンドだった。

 

 日本での事業展開を条件に巨額の資金提供を申し出られ、ルーデウスたちは凱旋帰国を決断する。

 

 もちろん、その隣にはエリスがいた。

 

 帰国後、エリスは快く送り出してくれたアスラ法律事務所へ、お礼奉公として一時的に復帰した。

 

 もともと、祖父サウロスが代表を務める「ボレアス法律事務所」へ移るつもりだったが、まずはアリエルたちへの義理を果たしたかったのだ。

 

 そんなエリスを待ち構えていたかのように、パートナー弁護士のルークが大型の国際商取引・知財紛争案件を持ち込んできた。

 

 エリスの力量を存分に発揮できる、難度の高い案件だった。

 

 エリスの手腕は凄まじかった。

 

 海外の手強い法務チームを相手に一歩も引かず、緻密な法理と大胆な交渉で相手を圧倒し、実質的に一人で案件を着地させてみせた。

 ルークも「あいつは化け物だ」と舌を巻く完勝だった。

 

 そして開かれた、港区の高級ダイニングでの打ち上げ。

 

「……もう、飲めないわよ……」

 

 普段は底なしの酒豪であるエリスも、連日の激務と睡眠不足が祟り、いつもの半分の酒量でテーブルに突っ伏してしまった。

 

 ルークがからかい半分に肩に手を伸ばしかけた瞬間、エリスは目を閉じたまま、その手を容赦なくバシンと払いのける。

 

 普段から男性の不躾な視線を「狂犬」のような鋭い目つきで跳ね返してきたエリスは、酔っていても警戒を解かなかった。

 

 見かねたギレーヌが連絡を入れ、代表のアリエルが「エリスの王子様に会ってみたいわ」と招き入れたことで、迎えに来たルーデウスが個室へと姿を現した。

 

 先ほどまで近くで官民ファンドの担当者と食事をしていたというルーデウスは、仕立ての良いダークスーツを着こなしていた。

 

 理知的で、一見華奢にも見えるが、スーツ越しにも引き締まった筋肉質な体つきがうかがえる。

 

 ルーデウスは、アリエルたちに丁寧な会釈を済ませると、迷わずエリスの元へ歩み寄った。

 

「最近、あまり寝ていませんでしたからね。ご迷惑をお掛けしました」

 

 ルーデウスは滑らかな所作でエリスの背中と膝裏に腕を滑り込ませると、軽々とお姫様抱っこで抱き上げた。

 

 その瞬間、部屋の空気が凍りついた。

 

「……ん……ルディ……?」

 

 つい先ほどまでルークの手を粉砕せんばかりに弾き飛ばしていた女が、ルーデウスの腕に収まった途端、ふにゃりと表情をとろけさせたのだ。

 

 赤みを帯びた頬を彼の胸元へ深くうずめ、両手の指先でジャケットをぎゅっと掴む。

 

「……遅い……ずっと、待ってた……」

 

 消え入りそうな、甘い甘い声。

 

 ジャケットを掴んだ手はそのままに、喉を鳴らす子猫のように小さく身をすり寄せる。

 

 冷徹無比な「狂犬」から、この世で最も無防備な「甘え猫」への劇的な変身。

 

「キャーッ!」

 

「可愛い……! え、あれがエリス先生!?」

 

 女性アソシエイトたちが悲鳴を上げ、ルークは顎が外れそうな顔で固まり、アリエルも目を見張る。

 

「平常運転だ」

 

 スコッチをあおるギレーヌの冷めた声が響く中、アリエルが艶然と微笑みながらプレッシャーをかけた。

 

「素晴らしいエスコートね。……ところで、うちのエースをいつ正式に貰ってくださるのかしら?」

 

 ルーデウスは苦笑しつつ、腕の中の温もりを落とさないよう抱き直した。

 

「善処いたします、代表」

 

 二人が去ったあとの個室は、二人の歴史を肴にした壮絶な二次会へと雪崩れ込んだ。

 

「それにしても、エリス先生ってば完璧なバイリンガルで、海外の弁護士たちと堂々と渡り合ってましたよね。あれだけ難しい話を、あんなに自信たっぷりに……本当にかっこよかったなあ」

 

 うっとりと呟いた若いアソシエイトの言葉に、ギレーヌがスコッチのグラスを揺らしながらフッと鼻を鳴らした。

 

「いやいや、バイリンガルどころではないぞ。エリスは英語以外にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、中国語、韓国語、アラビア語、タイ語……ざっと8カ国語くらいは使いこなせたはずだ。日常会話はともかく、契約書や公文書なら完璧に読み解ける」

 

「は、8カ国語!?」

 

 個室に悲鳴のような驚愕の声が響き渡る。

 

「ちなみに私も、当時ボレアスの屋敷であいつらと一緒にルーデウスに教わってな。おかげで英文メールや海外の法律資料も、普通に読み書きできるようになった」

 

 至極平然と言ってのけるギレーヌに、ルークが頭を抱えた。

 

「ちょっと待ってください、ギレーヌ先生が英文メールをすらすら書けるのも、ルーデウス君仕込みだったんですか!?」

 

 酒で口が緩んだギレーヌから次々と明かされる家庭教師時代の驚愕のエピソードに、感嘆と悲鳴は途切れることなく続き、気づけば深夜2時半。

 

 店のマスターの厚意で閉店時間をとっくに過ぎていたことに気づき、エリート弁護士たちが大慌てで夜の街へ飛び出していく幕切れとなった。

 

 翌朝、昨夜の記憶を取り戻したエリスは、顔を真っ赤にした。

 

 ルーデウスに抱き上げられ、彼の胸に顔をうずめて「ずっと待ってた」と甘えたこと。しかも、アリエルやルークたちの目の前で。

 

「…………っ!」

 

 恥ずかしさのあまり、隣で寝ているルーデウスの胸元を、思わず拳で叩いてしまった。

 

「痛っ! な、何?エリス!?」

 

「うるさいっ! あんたが悪いのよ!」

 

 もちろん、ルーデウスには何の落ち度もなかった。

 

 後日、正式に婚約を交わしたルーデウスが、アスラ法律事務所へ挨拶に訪れた。

 

 並んで立つエリスの肩に手を添え、ルーデウスは真っ直ぐに言った。

 

「普段は気が強くて突っ走りがちなところもありますが、僕にとっては本当に、誰よりも可愛い彼女なんです」

 

 居並ぶ事務所の面々は、「あなたには、ね……」と強烈な羨望と納得の眼差しを向けた。

 

 あの夜の甘え猫の姿を見せつけられては、誰も反論などできようはずがない。

 

 からかいの視線が集中する中、エリスは恥じることもなく、かつて見たことがないほど誇らしげな笑顔を咲かせた。

 

「当然でしょ。ルーデウスはスゴイんだから!」

 

 迷いのないその一言に、応接室は温かな拍手と祝福に包まれた。

 

*

 

 それから数年後。

 

 四国の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

 

 地元の県立病院の医局でカルテを整理していたシルフィエットは、ふと窓の外を見上げた。

 

 ルーデウスとエリスが日本で正式に入籍したという知らせを聞いたのは、少し前のことだ。

 

 その報せを聞いたとき、胸の奥にあったのは焦燥でも嫉妬でもなく、ただ純粋な「おめでとう」の気持ちと、「エリス、どうかルディを支えてあげてね」という祈りだった。

 

 かつて、地元の国立大学の医学部への進学を選んだのは、家庭の経済的な事情が大きかった。

 

 だが、ルディがアメリカへ渡ったとき、自分はどうだったか。

 

 既に法曹としてのキャリアを歩み始めていたにもかかわらず、すべてを投げ打って単身海を渡り、彼の隣に立つ道をもぎ取ったエリス。

 

 それに引き換え自分は、「医学部5年生で臨床実習中だから」という正当な理由を盾にして、動かなかった。

 

 休学して留学を追いかける選択肢がなかったわけではない。何が何でも彼の隣に立つという、覚悟と心意気が違っていたのだ。

 

 その差を突きつけられたとき、幼い頃からの淡い恋心は静かな納得へと変わっていた。

 

*

 

 シルフィは地元の地域医療に身を捧げ、気づけば30代半ばとなっていた。

 

 そして今日、彼女は同じ志を持つ同僚の医師と、ささやかな結婚式を挙げていた。

 

 地元の式場。

 

 親族や親しい医療関係者に囲まれ、穏やかな祝福を受けていたその時、司会者が驚いたようにアナウンスを入れた。

 

「……新婦のシルフィエット様に、特別な電報……いえ、メッセージが届いております」

 

 会場のスクリーンに映し出されたのは、地球の衛星軌道上から撮影された、息を呑むほど美しい日本の輪郭だった。

 

 そして、スピーカーから流れてきたのは、懐かしく、けれど大人の深みを帯びたルーデウスの声だった。

 

『シルフィ、結婚おめでとう。君が僕たちの生まれ育った地で、たくさんの命を救う素晴らしい医師として歩んできたこと、心から誇りに思っています。僕たちが打ち上げたこの衛星通信の最初の民間祝電を、どうしても君に贈りたかった。君のこれからの人生が、光に満ちた温かいものであることを、宇宙の端っこから祈っています』

 

 静まり返る会場の中で、シルフィの目から大粒の涙が溢れ出した。

 

 両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。

 

 遠く離れても、別々の道を選んでも、あの人は自分のことをずっと大切に覚えていてくれた。見守ってくれていた。

 

 幼い頃、泥だらけの自分を救い上げてくれたあの手の温もりは、形を変えて今も自分を照らしてくれていたのだ。

 

 ひとしきり泣き晴らしたあと、シルフィは涙を拭い、隣に立つ夫の手をしっかりと握りしめた。

 

 夫は優しく微笑み、その手を力強く包み返してくれた。

 

 胸の奥の澱は、完全に消え去っていた。

 

 それぞれの選んだ場所で、それぞれの覚悟を持って、愛する人と共に前を向いて生きていく。

 

 見上げた青空の向こう、目には見えない遥かな宇宙軌道へ向けて、シルフィは心の中で、満面の笑みで呟いた。

 

 ——ルディ、ありがとう。私、絶対に幸せになるね。




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

本編はこれで完結です。

今後は、本編では描ききれなかったエピソードや、本編に登場しなかった原作キャラクターたちの物語を、閑話として不定期に追加していく予定です。
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