無職転生IF ~異世界に行かなくても本気だす!~ 作:hiro☆彡
しかし、優秀な人間が一人いれば、すべて解決するわけではありません。
今回は、そんな状況を見たアリエルが動き出すお話です。
そして、エリスの学生時代を知る二人が、再び登場します。
第一幕 アリエルの決断
虎ノ門にあるアスラ法律事務所の代表室。
夕暮れの光が差し込む執務室で、アリエルは手元の案件管理リストを静かに閉じ、細い息を吐き出した。
「……鮮やか過ぎたわね」
ふっと漏れ出たその呟きには、苦笑と賞賛が入り混じっていた。
ルークが持ち込んだ、あの大型の国際商取引・知財紛争案件。
エリスは海外の手強い法務チームを相手に一歩も引かず、緻密な法理と大胆な交渉で相手を圧倒し、見事な条件で案件を着地させてみせた。
その評判は、国内外の企業法務関係者の間に広まっていた。
「あのアスラ法律事務所なら、複雑な国際知財案件にも対応できる」
そう見込んだ企業から、次々と相談が舞い込むようになったのだ。
本来なら喜ばしいことだった。
だが、アリエルの表情は晴れなかった。
エリスはすでに、祖父サウロスのボレアス法律事務所へ移っている。
両事務所は提携関係にあり、共同受任すること自体に問題はない。
しかし、案件が増えれば増えるほど、結局はエリスに仕事が集中する。
国内の企業法務なら、アスラにも優秀な弁護士は揃っている。
だが、最先端技術を理解し、外国の法律実務にも通じ、技術的な争点まで踏み込んで交渉できる弁護士となると、話は別だった。
アリエルは、あの夜の打ち上げを思い出した。
普段は底なしの酒豪であるエリスが、いつもの半分ほどの酒量で潰れてしまった夜。
迎えに来たルーデウスは、眠り込んだエリスを軽々と抱き上げ、申し訳なさそうに言った。
『最近、あまり寝ていませんでしたからね。ご迷惑をお掛けしました』
あのときは、エリスがルーデウスの腕の中で見せた、信じられないほど甘えた姿に皆の関心が集まっていた。
だが、今になって思う。
あの言葉は、決して軽いものではなかった。
(あの子、どれだけ無理をしていたのかしら……)
エリスは仕事を断らない。
難しい案件ほど燃える性格だ。
そして、いったん引き受ければ、自分が納得するまで徹底的にやり抜く。
それが彼女の強みであり、危うさでもあった。
(あの子が優秀だからといって、全部任せていいわけではないわね)
アリエルは案件管理リストをもう一度開いた。
エリスが関与した案件の作業を、細かく分解してみる。
資料の整理、契約書の確認、外国法の調査、証拠の収集、争点の整理、交渉案の作成……。
(全部が全部、エリスでなければできない仕事ではないはずよ)
仮に、一つの案件に必要な仕事を十とする。
最先端技術の本質を見抜き、法律上の争点と結びつける部分は、今のところエリスにしか任せられない。
だが、それ以外はどうだろう。
(まずは三か四。そこまで引き受けられる人材がいれば、ずいぶん違う)
そして、経験を積ませる。
(いずれは八。そこまでアスラでできるようになれば……)
エリスが本当に必要な部分に専念できる。
単純計算なら、今までの五倍の案件を扱えるはずだ。
もちろん、実際には指導や確認も必要になる。計算通りにはいかないだろう。
それでも、目指す価値は十分にある。
問題は人材だった。
「……そんな都合のいい弁護士、どこにいるのかしら」
四大法律事務所をはじめ、大手総合法律事務所には国際知財を扱う専門チームもある。
だが、すでに一人前となった専門家を引き抜こうとすれば、相応の条件が必要になる。
そもそも、エリスほどの人材など、そう簡単に見つかるものではない。
ならば育てるしかない。
しかし、英語から教えるのでは、あまりにも時間がかかる。
「……英語のできる弁護士、ね」
そこまで考えたときだった。
アリエルの脳裏に、あの夜のギレーヌの声がよみがえった。
『エリスがルーデウスに家庭教師を頼んだきっかけか? 大学の海外法務のゼミで、自分より英語のできる学生が二人いたからだ』
たしか、そんな話だった。
エリスが悔しがり、祖父サウロスに頼み込んで家庭教師を探した。
そして現れたのが、ルーデウスだった。
「……二人?」
アリエルは、ゆっくりと顔を上げた。
エリスが、あれほど悔しがった相手。
少なくとも当時の英語力では、エリスより上だった学生たち。
「……調べてみる価値はありそうね」
アリエルの口元に、いつもの微笑が戻っていた。
第二幕 正しい負けず嫌い
数日後。
アリエルは、エリスが在籍していた大学の海外法務ゼミを訪ねていた。
迎えてくれたのは、当時の指導教授だった。
「エリスかね? ふふ、あの子はね、とにかく『正しい負けず嫌い』だったよ」
教授は紅茶を啜りながら、懐かしそうに目を細めた。
「できる学生がいれば悔しがる。だが、相手を貶めたりはせん。自分が努力して追い越そうとするんだ」
「いかにもエリス先生らしいですわ」
「ただ、最初から何でも一番だったわけではない。特に英語では、あの子よりできる学生が二人いてね」
アリエルは静かに身を乗り出した。
「そのお二人について、詳しく伺えますか?」
教授は頷いた。
「エリスは当時、司法試験の勉強を優先していてね。私も司法試験を優先するよう勧めていたから、夏休みまではゼミへの参加は数えるほどだったよ。だから、ほかの学生に遅れを取るのも無理はなかったんだが……本人は許せなかったらしい」
教授は愉快そうに笑った。
「ところが、夏休み明けに出てきたら、まるで別人だった。英語の法律文書を読む速さも、理解の深さも、見違えるほどになっていたよ」
「それで、二人を追い越したのですね」
「ああ。だが、面白いのはその後だ。三人は互いに刺激し合って、ずいぶんいい関係になっていた」
教授は少し考え込んでから続けた。
「一人はニナ・ファリオン。仙台から来た、非常に優秀な学生だった。もう一人はイゾルテ・クルーエル。こちらも優秀だったね。二人とも日本法の基礎はしっかりしていたし、司法試験にも難なく合格した優秀な弁護士で、英語力も申し分ない。」
「現在は、どちらに?」
「ニナは結婚したと聞いている。旦那さんも弁護士だったはずだ。イゾルテは実家のクルーエル法律事務所にいるんじゃないかな」
アリエルは微笑んだ。
「ありがとうございます。大変参考になりました」
教授は不思議そうに尋ねた。
「しかし、なぜ今になってあの二人を?」
アリエルは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「エリス先生の睡眠時間確保のためです」
「……は?」
アリエルは、それ以上説明せずに微笑んだ。
第三幕 二人の才女
事務所に戻ったアリエルは、すぐに二人の経歴を調べさせた。
ニナ・ファリオン。
司法試験に順調に合格した優秀な弁護士で、英語力も申し分ない。
現在は夫ジノが営むブリッツ法律事務所に所属している。
ただし、取り扱う案件は限られ、国際商取引や大型知財紛争の実績はほとんど見当たらなかった。
一方、イゾルテ・クルーエル。
老舗のクルーエル法律事務所に所属し、次代を担う存在と目されている。
国内案件では堅実な実績を積んでいるが、国際法務の経験は学生時代の能力に比べると物足りない。
アリエルは二人の資料を並べた。
「……なるほどね」
完成された国際知財弁護士ではない。
だが、二人とも法律家としての基礎能力が高く、英語という大きな障壁もすでに越えている。
(あとは実務経験と、技術に対する理解をどこまで深められるか)
エリスと同じものを求めるつもりはなかった。
そもそも、あの子と同じ人材を育てようとすること自体、無理がある。
(でも、エリスの仕事を支えられる人材なら、育てられるかもしれない)
そして、二人の経歴にはそれぞれ気になる点があった。
ニナは、能力の割に仕事の幅が狭い。
イゾルテは、恵まれた環境にいるものの、新しい挑戦が少ない。
(どちらも、今の場所では少しもったいないわね)
アリエルは最初の電話を取った。
第四幕 イゾルテの武者修行
クルーエル法律事務所。
アリエルの訪問を受けた代表のレイダは、用件を聞くなり大きく頷いた。
「イゾルテを、そちらで?」
「ええ。国際商取引や知財紛争の実務を経験していただきたいのです」
「ほう……」
レイダは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「正直に言えば、ありがたい話じゃ。ちょうどよい機会かもしれん」
アリエルは微笑んだ。
「そうおっしゃっていただけるとは」
「能力はある。努力もしておる。だが、最近は少々天狗になっておってのう。ここで仕事をしていれば、いずれ代表になれるとでも思っておるんじゃろう」
レイダは小さく息を吐いた。
「今のままでは、わしの後を継がせるわけにはいかん」
老舗の法律事務所を継ぐということは、単に優秀な弁護士であればよいという話ではない。
新しい分野に挑み、未知の相手と渡り合い、顧客を獲得し、組織を率いる力が必要になる。
「一度、外の世界で鼻っ柱をへし折られてくるくらいが、あの子にはちょうどよい」
「ご期待に添えるだけの仕事は、用意できますわ」
「ただし、甘やかさんでくれよ」
アリエルは、にっこりと笑った。
「もちろんです。うちも慈善事業ではありませんもの」
その後、呼ばれたイゾルテは、アリエルから直接説明を受けた。
国際知財案件の増加。
エリスの過重負担。
そして、アスラが新たに構築しようとしている国際法務体制。
「……エリスが?」
イゾルテの表情が変わった。
「ええ。あの子は相変わらず、とんでもない仕事をしていますわ」
「そう……」
一瞬、学生時代の記憶がよみがえった。
夏休み前には、自分たちより英語ができなかったエリス。
それが夏休み明けには、信じられないほどの勢いで追い抜いていった。
あの負けず嫌いは、今も変わっていないらしい。
「……面白そうですね」
イゾルテは顔を上げた。
「私にも、やらせていただけますか?」
アリエルは満足そうに頷いた。
「ええ。ぜひ」
第五幕 ニナの出稼ぎ
次にアリエルが向かったのは、ブリッツ法律事務所だった。
都心から少し離れた、古びた雑居ビル。
事前に調べた所在地は、過去数年で何度か変わっていた。
家賃の安い物件へ、少しずつ移ってきたらしい。
(……なるほど。噂どおりの方のようね)
事務所に入ると、ジノが書類に目を落としていた。
その傍らでは、ニナが別の書類を整理している。
挨拶を済ませたアリエルは、まずジノの仕事について尋ねた。
「お引き受けになる案件は、かなり厳選されているとか」
「ええ。自分が納得できる仕事をしたいので」
ジノは悪びれる様子もなく答えた。
「それで経営が成り立つなら、何も申しませんけれど」
アリエルの言葉に、ニナが小さく肩をすくめた。
ジノは腕の立つ弁護士だった。
しかし、金になるからという理由だけで仕事を引き受けることを嫌う。
依頼人のために全力を尽くす一方、納得できない案件には見向きもしない。
ニナはそんな夫を尊敬していた。
だが、尊敬だけで家賃が払えるわけではない。
「ところで、ニナ先生」
アリエルは話題を変えた。
「エリス先生が最近、どんな仕事をしているかご存じ?」
ニナの目が動いた。
「……エリス?」
アリエルは、先日の大型国際商取引・知財紛争案件について語った。
海外の法務チームを相手に、エリスが見せた圧倒的な手腕。
そして、その成功によってアスラに次々と舞い込んでいる依頼。
「相変わらずね、あいつ……」
ニナは呆れたように呟いた。
だが、その目には明らかに別の光が宿っていた。
アリエルは続けた。
「実は、イゾルテ先生にも来ていただくことになったの」
「……イゾルテも?」
「ええ。クルーエル法律事務所から、武者修行という形で」
ニナは黙り込んだ。
エリス。
イゾルテ。
学生時代、互いに競い合った二人。
その二人が、今また国際法務の最前線に立とうとしている。
自分はどうだ。
ジノの仕事を支えることに不満はない。
だが、自分の力を試してみたいという気持ちまで、なくなったわけではなかった。
アリエルは、そんなニナの表情を見逃さなかった。
「ニナ先生。うちにいらっしゃいませんか?」
「……え?」
「あなたの力が必要なの。もちろん、相応の報酬はお支払いします」
ニナは思わずジノを見た。
ジノは、しばらく妻の顔を見つめていた。
「……やりたいのか?」
ニナは少し迷い、それからはっきりと頷いた。
「やりたい」
ジノはしばらくニナを見つめ、それからふっと笑った。
「そういう目をしてるお前、やっぱりいいな」
「……な、何よ、急に」
「いや。久しぶりに見た気がしてさ」
ニナは一瞬言葉に詰まり、照れ隠しのように顔を背けた。
「……じゃあ、稼いでくるわ」
「ああ。頼む」
その短いやり取りに、アリエルは思わず笑いそうになった。
(なるほど。こちらはこちらで、いいご夫婦ね)
第六幕 まずは三か四
こうして、ニナ・ファリオンとイゾルテ・クルーエルが、アスラ法律事務所の新たな戦力として加わることになった。
初日の顔合わせ。
会議室に集まった二人を前に、アリエルは一冊の分厚い案件ファイルを置いた。
「さて、お二人には早速、仕事をしていただきます」
ニナが眉を上げた。
「いきなり?」
「ええ。実務を覚えるには、実務が一番ですもの」
イゾルテはファイルを開き、素早く目を通した。
英文契約書。
技術仕様書。
海外企業との交渉記録。
複数の国にまたがる知的財産権の問題。
「……これは、なかなか」
「面白そうじゃない」
ニナは不敵に笑った。
アリエルは二人を見渡した。
「最初からエリス先生と同じ仕事ができるとは思っていません」
二人の表情が引き締まる。
「まずは、あの子が一人で抱えている仕事の三割から四割。そこを、あなたたちに引き受けてもらいたいの」
「三割から四割……」
「ええ。資料の分析、法的論点の整理、契約条件の検討、交渉準備。あなたたちの力でできる部分は、できる限りこちらで処理する」
アリエルは少し間を置いた。
「ただし、それで終わりではありません」
「……と、おっしゃいますと?」
イゾルテが尋ねた。
アリエルは微笑んだ。
「最終目標は八割です」
二人が顔を見合わせた。
「八割!?」
「ええ。高度な技術的判断や、技術と法律の境界にある難しい問題は、どうしてもエリス先生にお願いするしかありません。でも、それ以外の仕事をいつまでもあの子に頼り続けるつもりはないの」
ニナは腕を組んだ。
「……ずいぶん高い目標ね」
「だからこそ、あなたたちをお呼びしたのよ」
アリエルは静かに続けた。
「エリス先生は優秀です。でも、優秀な人に仕事を集中させ続けるのは、組織として正しい姿ではありません」
あの夜、眠り込んだエリス。
そして、ルーデウスの言葉。
『最近、あまり寝ていませんでしたからね』
アリエルは、その光景をもう一度思い出した。
「あの子には、あの子にしかできない仕事をしてもらいたいの」
ニナが、ふっと笑った。
「なるほどね。つまり、エリスの仕事を奪えってこと?」
「少し違いますわ」
アリエルも笑った。
「エリス先生が、もっと大きな仕事をできるようにするのです」
イゾルテは静かに頷いた。
「……分かりました」
ニナも、目の前のファイルを引き寄せた。
「いいじゃない。やってやろうじゃないの」
学生時代、エリスの背中を追いかけた二人。
あれから年月が経ち、三人はそれぞれ違う道を歩んできた。
そして今、再び同じ舞台に立とうとしている。
ただし、今度は競争相手としてだけではない。
エリスの力を最大限に生かすための、仲間として。
アリエルは満足そうに二人を見つめた。
(さて……どこまで育ってくれるかしら)
アスラ法律事務所の、新たな挑戦が始まった。
ニナとイゾルテにも、それぞれの道がありました。
決して能力が低いわけではなく、むしろ優秀な二人。ただ、その能力を十分に発揮できる場所にいたかというと、少し違ったようです。
今回の主役は、二人を見つけ出したアリエルかもしれません。
エリス一人の頑張りに頼るのではなく、優秀な人材を集め、育て、組織として仕事を引き受けられるようにする。
もっとも、アリエルの当初の目的は、エリスの睡眠時間を確保することだったのですが(笑)。
ニナとイゾルテが加わったことで、アスラ法律事務所がどう変わっていくのか。二人の今後にも期待していただければ幸いです。