無職転生IF ~異世界に行かなくても本気だす!~ 作:hiro☆彡
エリスの仕事を手伝うはずが、待っていたのは想像以上の激務。
果たして二人は、無事に初陣を終えられるのでしょうか。
一 初陣
「……聞いていた話と違うわ」
イゾルテ・クルーエルは、机の上の資料を見つめていた。
「何が?」
隣でニナ・ファリオンが、パソコンから顔を上げる。
「アリエル先生は、エリスの仕事を三割か四割、私たちが引き受けるとおっしゃっていたでしょう?」
「言ってたわね」
「これ、三割?」
ニナは資料の山を見た。
「……三割かどうかは知らないけど、多いわね」
「多いなんてもんじゃないわよ!」
二人がアスラ法律事務所に加わって、初めての大型案件だった。
複数の国にまたがる企業間の紛争。
契約、技術、知的財産。
関係する資料は膨大で、しかも取り扱いには細心の注意が必要だった。
「エリスは、こんな仕事を一人で抱えていたの?」
「全部一人じゃないでしょうけど……」
ニナは肩をすくめた。
「まあ、あのエリスだものね」
「……そうね」
大学時代、二人はエリスをよく知っていた。
負けず嫌いで、強引で、誰よりも努力する。
そして、一度決めたことは、何があってもやり遂げる女だった。
「……私たちだって、負けていられないわ」
「もちろん」
二人が顔を見合わせたところで、扉が開いた。
「始めるぞ」
ギレーヌだった。
「ニナ、国内側。イゾルテ、海外側。時系列を整理しろ。食い違いを見つけたら上げてこい」
「はい!」
「分かりました!」
「判断に迷ったら聞け。勝手に決めるな」
ギレーヌは資料を置いた。
「以上だ」
それだけ言って、次の仕事に向かった。
イゾルテは小さく息を吐いた。
「余計なことは言わない人よね」
「でも、分かりやすいわ」
「そうね」
二人は資料を開いた。
二 昼と夜
数日後。
「……ニナ、そっちは?」
「国内側の資料、ひと通り確認した。気になるところは印をつけてあるわ」
「こっちは、まだ半分」
「じゃあ、続きはお願い」
「分かった」
二人は交代で作業を続けていた。
膨大な資料を読み、照合し、疑問点を拾い上げる。
必要なものはギレーヌへ。
技術的な判断が必要なものはエリスへ。
さらに高度な技術的判断が必要なものは、ルーデウスのいる四階へと回されていた。
「……エリス、よくこれだけのことをやってたわね」
ニナが呟いた。
「認めたくないけど、そうね」
「本人に言えば喜ぶんじゃない?」
「絶対に言わないわよ!」
二人は笑った。
だが、笑っていられたのもそこまでだった。
追加資料が届く。
確認すべき事項が増える。
気がつけば、夕方になっていた。
「はぁ、帰りたいなぁ……」
ニナが時計を見て、ため息をついた。
「ジノも心配してるんじゃない?」
「ええ。毎日連絡はしてるんだけどね」
「新婚さんはいいわね」
「結婚してから、もうそれなりに経ってるわよ」
「私なんて、ますます婚期が遅れるわ」
「またそれ?」
「またって何よ!」
「仕事を始めてから、何回聞いたと思ってるの」
「……数えてないわよ」
ニナは笑った。
「さて、続きをやりましょうか」
「……そうね」
二人は再び資料に向き直った。一件、また一件。
資料を照合する。
見つけた違和感を記録する。
気になるところは、もう一度確認する。
やがて、午後六時が近づいた。
仮眠は二組に分かれて取ることになっていた。
イゾルテは午後六時から午前零時まで。ニナは午前一時から七時まで。
「イゾルテ、そろそろ休め」
ギレーヌが声をかけた。
「……あの、ギレーヌ先生」
「何だ?」
「ホテルを取っていただけませんか?」
イゾルテは、思い切って言った。
「死んでもいいならホテルを取りな」
「……え?」
「二階にシャワーがある。寝袋もある」
「……」
「休め」
「……はい」
イゾルテは、それ以上何も言えなかった。
怖かった。
ギレーヌの言葉も、表情も。
だが、納得したわけではない。
(……死んでもいいなら、って)
今回の案件が重要なのは分かる。
機密性が高いことも分かる。
しかし、いくら何でも大げさではないだろうか。
(……ちょっと、ボレアス事務所って鬼畜?)
二階には簡易シャワーがあった。
仮眠用の寝袋も用意されていた。
そして、着替えとして渡されたのは、ボレアスのロゴが入ったスウェットだった。
「……何なのよ、これ」
鏡の中には、化粧を落とし、髪を乾かしたばかりの自分がいた。
名門クルーエル法律事務所の後継者候補。
華やかな渉外弁護士としての将来。
それが今では、事務所のスウェットを着て寝袋で寝ようとしている。
「……お祖母様」
レイダの顔が浮かんだ。
一度、外で揉まれてこい。
そう言われて送り出された。
「……揉まれすぎじゃない?」
イゾルテは小さくため息をついた。
「……分かってるわよ」
イゾルテは寝袋に潜り込んだ。
三 一階の大男
午前六時を少し回った頃。午後六時から午前零時まで仮眠を取り、仕事に戻っていたイゾルテは、資料の食い違いに気づいた。
「……あった」
イゾルテは画面に顔を近づけた。
別々の資料に記載された内容が、どうしても合わない。
小さな食い違いだった。
だが、無視するには気になる。
「……ギレーヌ先生!」
しばらくして、ギレーヌが来た。
「どうした」
「ここを見てください」
ギレーヌは資料を確認した。
「……なるほど」
「使えますか?」
「裏を取る」
「はい!」
「よく見つけた」
イゾルテは思わず顔を上げた。
「……ありがとうございます!」
「イゾルテ、少し休憩してこい」
ギレーヌが声をかけた。
「でも、まだ確認する資料が……」
「それは後でいい。七時から後半組が起きてくる。それまで休んでこい」
「……ありがとうございます」
イゾルテは三階を出た。
二階は静まり返っていた。
(あ、そうか。まだみんな寝ている時間よね)
後半組はあと一時間寝ていられる。
ここで物音を立てるのも気が引けた。
(……一階なら、誰かいるかしら)
イゾルテは階段を下りた。
一階には、まだ明かりがついていた。
スーツ姿のルイジェルドが、こちらに気づいて顔を上げた。
「どうされました?」
「……あの、休憩をいただいたんですけど、二階はまだ皆さん寝ているので……」
「構いません。こちらでお休みください」
そのとき、パーテーションの向こうから、大柄な男が姿を現した。
ポロシャツにチノパン。
背が高く、肩幅も広い。
昼間、ルイジェルドの後ろに立っていた男だ。
「……あ、あの、不審者じゃないわよ!」
「……イゾルテ先生。知っている」
「……そう」
男は少し考えた。
「……珈琲、飲むか?」
「……珈琲?」
「……ああ」
「……いただこうかしら」
男は一階の給湯スペースから、ドリッパーとペーパーフィルターを取り出した。
珈琲の粉を量り、少量のお湯を注ぐ。
「……何をしているの?」
「……蒸らしている」
「蒸らす?」
「……ああ」
しばらく待つ。
それから、ゆっくりとお湯を注ぎ始めた。
大きな手なのに、動きは驚くほど丁寧だった。
「……慣れているのね」
「……毎日、淹れている」
「そう」
イゾルテは、その手元を眺めていた。
やがて、珈琲の香りが広がった。
「……どうぞ」
「ありがとう」
カップを受け取り、一口飲む。
「……おいしい」
男は、少しだけ表情を緩めた。
「……よかった」
イゾルテは、ふと尋ねた。
「あの、お名前は?」
「……ドーガ」
「ドーガさんね。私はイゾルテ」
「……知っている」
「そうだったわね」
二人は少し笑った。
イゾルテはカップを見つめた。
「……今日、初めての大きな仕事だったの」
「……そうか……」
「自信はあったのよ。でも、思っていたより、ずっと大変で」
ドーガは黙って聞いていた。
「……何だか、悔しいわ」
「……よく頑張っていると思う」
イゾルテは顔を上げた。
「……え?」
「遅くまで、仕事をしていると聞いた」
「……そう」
イゾルテは、もう一口珈琲を飲んだ。
「……ありがとう」
ドーガは頷いた。
「……休めるときに、休んだ方がいい」
「……ギレーヌ先生にも言われたわ」
「……そうか」
「でも、あなたの言い方の方が優しいわね」
ドーガは、少し困ったような顔をした。
イゾルテは笑った。
「……また、珈琲をいただいてもいいかしら」
「……ああ」
「本当?」
「……いつでも」
珈琲を飲みながら、ぽつぽつと言葉を交わしているうちに、七時が近づいていた。
「ドーガいるか?」
ギレーヌが一階へ降りてきた。
「あ、イゾルテも一緒か。まあいい。ドーガ、あの資料の件だが、お前、どう思った?」
ドーガは少し考え、資料の論点を順序立てて説明した。
「では、そちらの解釈を採った場合はどうなる?」
「……その場合は、別の資料との整合性を確認する必要がある」
「なるほどな」
イゾルテは二人のやり取りを聞いていた。
(……ギレーヌ先生が、ドーガさんに法律上の意見を求めている?)
形式的な相談ではない。ギレーヌはドーガの答えを聞いて、自分の考えを整理しているようだった。
「……わかった。ありがとう」
ギレーヌは時計を見た。
「そろそろ七時だ。引継ぎだ。上がるぞ」
「あ、はい!」
「ドーガさん、珈琲、ごちそうさまでした」
「……また、どうぞ」
「はい。ありがとうございます」
イゾルテはギレーヌとともにエレベーターへ向かった。
扉が閉まると、ギレーヌが何気なく口を開いた。
「ドーガもうちの弁護士だ」
「……えっ? 弁護士なんですか?」
「ああ、いつも一階にいるがな。これからも仲良くしてやってくれ」
ギレーヌはそれ以上、何も言わなかった。
イゾルテは先ほどの二人のやり取りを思い返した。
(……そうだったんだ)
「はい!」
イゾルテは微笑んだ。
「ふっ」
ギレーヌは小さく笑った。エレベーターが三階に着いた。
午前七時からの引継ぎは長引き、終わった頃には八時を回っていた。
「ねえ、二人とも。ちょっと二階でお茶しない? 顔も洗いたいし」
まだ頭がすっきりしないニナが、エリスとイゾルテを誘った。
「いいわよ」
三人で二階へ降りると、パーティションで仕切られた一角から英語が聞こえてきた。
ニナが足を止めた。
「あれ、何やってるの?」
「ルーデウスが新人に英語を教えているの」
エリスは何でもないことのように答えた。
「えっ? ルーデウスさんが?」
「ええ。毎朝八時から九時までよ」
イゾルテはパーティションの向こうに目を向けた。
(……なるほど。目の前の案件だけじゃなく、次の国際案件に備えているのね)
ボレアスでは、すでにその先を見据えた人材育成が始まっている。
「四階の社長でしょう? それなのに、毎朝?」
ニナは改めて驚いた。
「ルーデウスはすごいんだから!」
エリスは誇らしげに胸を張った。
「あなたの元家庭教師ですものね」
ニナはいたずらっぽく笑った。
イゾルテもつられて笑みをこぼした。
四 初陣の終わり
それからも、仕事は続いた。
資料を読み、疑問点を拾い、ギレーヌに報告する。
エリスが判断する。
必要に応じて、ルーデウスが技術的な確認を行う。
ニナとイゾルテも、少しずつ仕事の流れを掴んでいった。
「……ニナ、これ見て」
「何?」
「昨日の資料と、ここの説明が違う」
「……本当ね」
「ギレーヌ先生に上げましょう」
「そうね」
最初の頃は、何を確認すればいいのかも分からなかった。
だが、今は違う。
二人とも、自分たちの仕事がどこにつながっているのか、少しずつ見えるようになっていた。
「……エリス、やっぱりすごいわね」
ニナが呟いた。
「……そうね」
「素直に認めるの?」
「本人の前では言わないわよ!」
「でしょうね」
二人は笑った。
そして、ようやく案件は一区切りを迎えた。
ボレアスでの缶詰生活も終わった。
イゾルテは久しぶりに、自分の服を着て鏡の前に立った。
「……やっと人間に戻った気がするわ」
ニナが笑った。
「寝袋生活、そんなに嫌だった?」
「当たり前でしょう!」
「でも、仕事は面白かったわね」
「……それは、そうね」
二人は顔を見合わせた。
「またやる?」
「……寝袋じゃなければ」
「ははっ!」
五 アリエルの種明かし
アスラ法律事務所に戻ったイゾルテは、アリエルに報告を終えると、とうとう我慢できなくなった。
「アリエル先生! 一つ言わせてください!」
「何でしょう?」
「ボレアス事務所ですよ!」
「はい?」
「シャワーを浴びて、寝袋で寝るんです! ホテルくらい取ってくれてもいいと思いません?」
アリエルは少し笑った。
「大変でしたね」
「大変なんてもんじゃありません! ギレーヌ先生なんて、『死んでもいいならホテルを取りな』って!」
アリエルの表情が変わった。
「……そうおっしゃったのですね」
「ひどいでしょう!?」
「いえ。適切な判断だったと思います」
「……え?」
アリエルは、静かに説明を始めた。
今回の案件では、関係者への接触や情報収集の動きが懸念されていた。
外部の宿泊先を利用すれば、移動経路や滞在先が新たな弱点になりかねない。
そのため、ボレアス事務所内にとどまることも、危機管理の一環だった。
「……そうだったんですか」
「ええ」
「でも、私たちには……」
「危険性を詳しくお伝えして、不安を大きくする必要もなかったのでしょう」
イゾルテは黙った。
あのとき、ギレーヌは言った。
『死んでもいいならホテルを取りな』
脅しだと思った。
大げさだと思った。
だが、違った。
本当に、そういう危険を考えていたのだ。
「……私、何も分かっていなかったんですね」
「初めての案件ですもの。経験して初めて分かることもあります」
アリエルは微笑んだ。
「ボレアスビルにも仮眠室があれば、もう少し楽だったのでしょうけど。四階と五階にはルーデウスさんたちの会社が入っていますから、寝袋になってしまうのよね」
「……そうですね」
「それから、移動中も安全に配慮されていたはずですよ」
「……移動中?」
「ええ。ドーガ先生にも、お世話になったでしょう?」
「……はい。ギレーヌ先生から、弁護士だと伺いました」
「そうでしたか。ギレーヌ先生も信頼なさっています」
イゾルテは、一階で飲んだ珈琲を思い出した。
丁寧に珈琲を淹れる大きな手。
疲れた自分の話を、静かに聞いてくれた人。
「……私、あの方にも助けられてたんですね」
アリエルは頷いた。
「今度お会いしたら、お礼をお伝えになるといいと思いますわ」
「……はい」
イゾルテは、静かに答えた。
六 もう一度、ありがとう
数日後。
イゾルテは再び、ボレアス法律事務所を訪れた。
用件を済ませた後、一階へ向かう。
ルイジェルドが、いつものように迎えてくれた。
「御用ですか?」
「……あの、ドーガ先生はいらっしゃいますか?」
「おります」
ルイジェルドが奥へ声をかけた。
「ドーガ」
パーテーションの向こうから、大柄な男が姿を現した。
「……イゾルテ先生」
「……こんにちは」
「……こんにちは」
イゾルテは、少しだけ背筋を伸ばした。
「あの……先日は、ありがとうございました」
「……珈琲?」
「それも、ですけど」
ドーガは首を傾げた。
「アリエル先生から聞きました。今回の案件で、私たちの安全にも気を配ってくださっていたんですね」
「……ああ」
「……私、全然知りませんでした」
「……そうか」
「ギレーヌ先生から伺いました。ドーガ先生も、弁護士だったんですね」
「……ああ」
「あのときは、びっくりしました」
ドーガは少し考えた。
「……聞かれなかったから」
イゾルテは目を丸くした。
そして、思わず笑ってしまった。
「……そうですね」
ドーガも、少し笑った。
「……でも、本当にありがとうございました」
「……無事でよかった」
イゾルテは、彼を見上げた。
その言葉には、飾りがなかった。
ただ、本当にそう思っているのだと分かった。
「……あの」
「……何だ?」
「また、珈琲を淹れていただけますか?」
ドーガは頷いた。
「……ああ」
そして、少しだけ付け加えた。
「……今日は、ゆっくり飲めるか?」
イゾルテは目を瞬いた。
それから、微笑んだ。
「……はい」
「……なら、よかった」
ドーガは、珈琲の準備を始めた。
ルイジェルドは何も言わず、いつもの仕事に戻る。
三階では、ギレーヌが次の案件の資料を読んでいた。
ニナとイゾルテの初陣は、終わった。
だが、イゾルテにとっては、もう一つ。
まだ名前のついていない何かが、静かに始まろうとしていた。
ボレアス事務所は鬼畜なのか?
少なくとも、イゾルテにとっては、そう思わずにはいられない初陣だったようです。
もっとも、ギレーヌの厳しさには理由があり、寝袋生活にも事情がありました。
そして、そんな激務の中で出会った、無口で大柄な弁護士。
イゾルテとドーガの関係が、この先どうなっていくのか。それは、まだ誰にも分かりません。