元病弱少女の接近戦   作:あえch

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0話 一周目の人生

「……っ、はぁ……はぁ……!」

 

息が苦しい。胸の奥が焼けるように痛む。それでも、私は拳を構えた。

 

目の前には男が居た。男は無傷のまま私を見下ろす。男の瞳には、傷だらけの私が映っていた。頬は腫れ、口の端からは血が流れている。足元はおぼつかず、今にも倒れそうだった。

 

「……おい。まだやるのか?」

 

男が呆れたように言った。

私は顔を上げ、笑ってみせた。

 

「当たり前でしょ」

 

一歩、前に出る。足に力を込めて、拳を握り直した。

 

「私には……まだ、やることがあるんだから!」

 

地面を蹴り、男の懐へ踏み込む。狙うのは顎。渾身の左フックを放った。

けれど、男はわずかに身体を傾けて、それを避けた。

次の瞬間、腹に強烈な衝撃が走る。

 

「がっ……!」

 

身体がくの字に折れた。息が詰まり、膝から力が抜けていく。まともに立っていることさえ難しかった。

それでも、倒れたくなかった。

ここで負けたら、薬が買えない。治療だって続けられない。

 

……私は、死んでしまう。

 

「……まだ、だよ」

 

声が震えていた。自分に言い聞かせているのか、それとも目の前の男に言っているのか。私にも分からなかった。

ただ、拳だけは下ろさなかった。

まだ戦える。まだ、生きられる。

そう信じて、私はもう一度顔を上げた。

 

─────────────────────────

 

私には親がいた。

 

……いや、もういない。

 

私が病気だと分かったとき、二人は私を置いていった。

 

白血病。それに加えて、心臓にも問題があるらしい。医者の説明は難しくて、全部を理解できたわけじゃない。それでも、治療を続けなければ命に関わるということだけは分かった。

治療にはお金がかかる。薬にもお金がかかる。

生きるためには、お金が必要だった。

親には捨てられた。頼れる親戚はいない。私を引き取ってくれる人も、助けてくれる人もいなかった。

周りの大人たちは、私を見るたびに可哀想だと言った。

 

「頑張ってね」

 

そう声をかけられることもあった。

 

……うん。頑張るよ。

 

頑張らなきゃいけないことくらい、私だって分かっている。

 

でも、頑張るだけじゃお腹は膨れないし、薬も買えない。病気が治るわけでもない。

結局、誰も私の代わりには生きてくれない。

だったら、自分でどうにかするしかない。

私は仕事を探した。けれど、病気の子供を雇ってくれる場所なんてなかった。少し走っただけで息が切れるし、無理をすれば胸が痛む。薬の副作用で髪も抜けてしまい、鏡を見るのも嫌になっていた。

 

以前は普通にできていたことが、少しずつできなくなっていく。

こんな身体で、私は何ができるんだろう。

考えても答えは出なかった。

そんなある日、街角のモニターに一人のボクサーが映っていた。

リングの上で、二人の男が拳を交わしている。観客の歓声が街中に響き、やがて一人がマットに倒れた。勝者の名前が呼ばれ、男は大勢の観客に祝福されながら賞金を受け取っていた。

 

私は、その光景をじっと見つめた。

 

勝てば、お金がもらえる。

 

お金があれば、薬が買える。

 

薬が買えれば、もう少し生きられる。

 

「……これだ」

 

気づけば、口から言葉がこぼれていた。

 

ボクシングなんて、やったこともない。殴り合いが怖くないわけでもない。相手は自分より大きくて、強くて、本気で殴りかかってくるのだ。

普通なら、そんなことをしようとは思わないだろう。

でも、私には選べる道がほとんど残っていなかった。

 

「私、これをやる」

 

そう決めた私は、近くにあったボクシングジムを調べ、次の日にはその扉を開いていた。

それが、私とボクシングの出会いだった。

 

─────────────────────────

 

初めてグローブをつけた日、私は自分がどれほど弱いのかを思い知らされた。

拳をまっすぐ出すことすら難しい。少し動いただけで息が上がり、構えを保っているだけで腕が重くなった。周りの人たちは軽々と動いているのに、私だけが何をするにも必死だった。

 

トレーナーは、私の様子を見て何度も練習を止めた。

 

「お前、本当にやるつもりか?」

「うん」

「遊びじゃないんだぞ。リングの上じゃ、相手がお前の病気を気遣ってくれるわけじゃない」

「分かってるよ」

「……死ぬぞ」

 

私は思わず笑ってしまった。

 

「もう、とっくに死にかけてるよ」

 

トレーナーは黙り込んだ。

それから、私は毎日ジムに通った。

 

調子がいい日は、できる範囲で身体を動かした。調子が悪い日は、無理に練習せず、試合の映像を見て相手の動きを覚えた。どうすれば自分より大きな相手に勝てるのか。どうすれば少ない体力で戦えるのか。考えては試し、失敗してはまた考えた。

最初のスパーリングでは、相手の拳が飛んできた瞬間に目を閉じてしまった。まともにパンチをもらい、尻もちをついたこともある。

 

悔しかった。

 

痛かったし、怖かった。自分には向いていないのかもしれないと思ったこともある。

それでも、次の日にはまたジムへ向かった。

だって、私には時間がなかったから。

世界チャンピオンになりたいわけじゃない。誰かに褒められたいわけでもなかった。

 

ただ、生きたかった。

 

明日も目を覚ましたい。美味しいものを食べたい。いつか病気のことなんて忘れて、思いっきり笑ってみたい。

 

そんな当たり前のことがしたかった。

 

だから私は、拳を磨いた。

 

力で勝てないなら、相手の懐に潜り込む。体力が続かないなら、無駄な動きを減らす。相手のパンチを避け、隙を見つけて打ち込む。自分にできることを一つずつ増やしていった。

 

もちろん、すぐに上手くいったわけじゃない。

 

何度も負けた。練習で倒されて、悔しさに唇を噛んだこともある。それでも、どうすれば次は勝てるのかを考え続けた。

 

やがて、試合で勝てるようになった。

 

初めて勝利を告げられたときは、何が起きたのか分からなかった。相手が倒れ、ゴングが鳴り、私の名前が呼ばれる。少し遅れて、それが自分の勝利なのだと気づいた。

 

賞金を受け取った帰り道、私は薬局に立ち寄った。

薬の入った袋を抱えて店を出る。これで、もう少し生きられる。

そう思ったら、なんだかおかしくなって、私は一人で笑ってしまった。

 

それからも試合を重ねた。負けることもあったし、身体の調子が悪くて思うように動けない日もあった。それでも、リングに立つたびに少しずつ強くなっていった。

 

いつしか周りは、私を天才と呼ぶようになっていた。

 

……天才、か。

 

別に、そんな大層なものじゃない。

ただ、私は諦められなかっただけだ。

負けたら治療を続けられない。立ち止まったら、そこで終わってしまう。

 

だから、勝ち続けるしかなかった。

 

─────────────────────────

 

そして、最後の試合。

今日の相手は、今まで戦ってきた誰よりも強かった。

 

リングに上がる前から、身体の調子はよくなかった。胸の奥に嫌な違和感がある。少し動くだけで息が乱れ、いつもより身体が重く感じた。

 

それでも、試合をやめるつもりはなかった。

 

この試合に勝てば、まとまった賞金が手に入る。それだけあれば、しばらくは治療を続けられる。薬が買えるかどうかを心配せずに済む日が、少しだけ増える。

 

もう少しだけ、生きられる。

 

それだけで十分だった。

 

ゴングが鳴った。

 

私は相手の動きを見ながら、ゆっくりと距離を詰める。相手は大きく、リーチも長い。まともに打ち合えば不利になることは分かっていた。

 

だから、焦らない。

 

ジャブを放つ。相手のガードが動いたところへ、右ストレートを繰り出す。けれど、簡単に避けられた。

 

予想どおりだ。

 

私はそのまま前へ踏み込み、相手の懐に潜り込んだ。

 

――左フック。

 

拳が顎を捉えた。

 

男の身体が揺れる。

 

観客の歓声が、一気に大きくなった。

 

当たった。

 

私は笑った。

 

いける。まだ戦える。

 

このままなら、勝てるかもしれない。

 

そう思った、その瞬間だった。

 

ドクン。

 

「……え?」

 

心臓が大きく跳ねた。

 

次の瞬間、胸の奥に激痛が走る。

 

「っ……あ、ぐ……!」

 

息が吸えない。足に力が入らず、身体がぐらりと傾いた。

 

何が起きたのか、考える余裕もなかった。ただ、苦しかった。胸を押さえようとしても腕が動かない。目の前の景色がぼやけていく。

 

……ああ。

 

そっか。

 

もう、限界なんだ。

 

ずっと前から分かっていた。私の身体が、いつまでも持つはずがないことくらい。

 

それでも、まだ戦いたかった。

 

まだ生きていたかった。

 

「……まだ、だよ」

 

倒れそうになる身体を、必死に支える。もう一度、拳を握ろうとした。

 

けれど、指先に力が入らない。

 

目の前の男が何かを叫んでいる。観客の声も聞こえる。なのに、どんどん遠くなっていく。

 

嫌だ。

 

まだ死にたくない。

 

もっと生きたい。美味しいものをいっぱい食べたい。知らない場所にも行ってみたい。誰かと笑って、何でもない一日を過ごしてみたい。

 

私だって、普通に生きてみたかった。

 

病気のことを気にせず、明日のことを怖がらず、ただ好きなように生きてみたかった。

 

なのに。

 

私の身体は、もう動かなかった。

 

……悔しいな。

 

せっかく、ここまで頑張ったのに。

 

もう少しだったのに。

 

私は、ただ……。

 

もっと生きたかった。

 

その願いを抱いたまま、私の意識は途切れた。

 

─────────────────────────

 

「……ん」

 

何かが頬に触れていた。

温かい。

ゆっくりと目を開けると、青い空が見えた。

 

「……あれ?」

 

病院じゃない。

見慣れた天井もなければ、薬の匂いもしない。頬を撫でる風が心地よくて、私はしばらくぼんやりと空を眺めていた。

やがて身体を起こすと、目の前には見たこともない森が広がっていた。

大きな木。知らない草花。遠くから聞こえる鳥の鳴き声。

 

「……どこ、ここ?」

 

夢でも見ているのだろうか。

そう思って、私は頬をつねってみた。

 

「痛っ……」

 

……夢じゃない。

私は自分の身体を見下ろした。傷がない。あれだけ痛かった胸も、今は何ともなかった。

恐る恐る胸に手を当てる。

 

ドクン。ドクン。

 

心臓が動いている。

 

「……うそ」

 

息を吸ってみた。

苦しくない。

もう一度、深く息を吸う。胸は痛まなかった。何度繰り返しても、呼吸が苦しくなることはなかった。

私は立ち上がってみた。

足が動く。

ゆっくり歩いてみる。少しだけ走ってみる。

走れる。

息も切れない。

 

「……なんで?」

 

意味が分からなかった。

私は確かに死んだはずだ。最後の試合で身体が動かなくなって、そのまま意識を失った。

それなのに、どうしてこんな場所にいるのだろう。

 

そのとき、肩に髪が触れた。

 

「……髪?」

 

私は慌てて頭に手をやった。

指に長い髪が絡む。私の髪は、こんなに長くなかった。しかも、色が違う。

近くにあった水たまりを覗き込んだ。

そこには、見知らぬ少女が映っていた。

 

透き通るような肌。長い金色の髪。そして、人間にはない尖った耳。

 

「……エルフ?」

 

どうしてそんな言葉が出てきたのかは分からない。でも、そうとしか思えなかった。

 

私は死んだ。

 

なのに、知らない世界で目を覚ました。

しかも、身体は健康そのもの。

 

「……ふふっ」

 

気づけば、笑っていた。

だって、走れるんだよ?

息を吸っても苦しくない。胸が痛くならない。少し動いただけで倒れそうになることもない。

そんなことが、こんなに嬉しいなんて。

 

「……うっ、うぅ……」

 

涙がこぼれた。

止めようとしても止まらなかった。

 

ずっと、生きたかった。

ずっと、こうなりたかった。

前の人生では、最後まで叶わなかった願い。それが今、目の前にある。

 

私は自分の手を見つめた。

 

小さな手だった。それでも、指は思いどおりに動く。拳を握ってみると、ちゃんと力が入った。

 

何度か開いて、また握る。

そのたびに、胸の奥が熱くなった。

 

「……そっか」

 

もう一度、やれるんだ。

 

今度こそ、病気に怯えなくてもいい。明日が来るかどうかを心配しなくてもいい。

そう思ったら、自然と拳に力が入った。

 

「……今度こそ」

 

今度こそ、私は生きる。

誰かに見捨てられたからといって、自分まで自分を見捨てたりしない。怖いことがあっても、失敗することがあっても、今度は最後まで自分の人生を生きてやる。

 

私は顔を上げた。

 

森の向こうには、見たこともない大きな城がそびえていた。

 

あそこには、どんな人が住んでいるのだろう。魔法があるのかもしれない。魔物がいるのかもしれない。私の知らないことばかりの世界なのだろう。

 

……まあ、いいか。

 

どんな世界だろうと、やることは変わらない。

私は拳を握った。

 

「――この拳で、私は生きる」

 

今度こそ。

私の人生は、ここから始まる。

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