「……っ、はぁ……はぁ……!」
息が苦しい。胸の奥が焼けるように痛む。それでも、私は拳を構えた。
目の前には男が居た。男は無傷のまま私を見下ろす。男の瞳には、傷だらけの私が映っていた。頬は腫れ、口の端からは血が流れている。足元はおぼつかず、今にも倒れそうだった。
「……おい。まだやるのか?」
男が呆れたように言った。
私は顔を上げ、笑ってみせた。
「当たり前でしょ」
一歩、前に出る。足に力を込めて、拳を握り直した。
「私には……まだ、やることがあるんだから!」
地面を蹴り、男の懐へ踏み込む。狙うのは顎。渾身の左フックを放った。
けれど、男はわずかに身体を傾けて、それを避けた。
次の瞬間、腹に強烈な衝撃が走る。
「がっ……!」
身体がくの字に折れた。息が詰まり、膝から力が抜けていく。まともに立っていることさえ難しかった。
それでも、倒れたくなかった。
ここで負けたら、薬が買えない。治療だって続けられない。
……私は、死んでしまう。
「……まだ、だよ」
声が震えていた。自分に言い聞かせているのか、それとも目の前の男に言っているのか。私にも分からなかった。
ただ、拳だけは下ろさなかった。
まだ戦える。まだ、生きられる。
そう信じて、私はもう一度顔を上げた。
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私には親がいた。
……いや、もういない。
私が病気だと分かったとき、二人は私を置いていった。
白血病。それに加えて、心臓にも問題があるらしい。医者の説明は難しくて、全部を理解できたわけじゃない。それでも、治療を続けなければ命に関わるということだけは分かった。
治療にはお金がかかる。薬にもお金がかかる。
生きるためには、お金が必要だった。
親には捨てられた。頼れる親戚はいない。私を引き取ってくれる人も、助けてくれる人もいなかった。
周りの大人たちは、私を見るたびに可哀想だと言った。
「頑張ってね」
そう声をかけられることもあった。
……うん。頑張るよ。
頑張らなきゃいけないことくらい、私だって分かっている。
でも、頑張るだけじゃお腹は膨れないし、薬も買えない。病気が治るわけでもない。
結局、誰も私の代わりには生きてくれない。
だったら、自分でどうにかするしかない。
私は仕事を探した。けれど、病気の子供を雇ってくれる場所なんてなかった。少し走っただけで息が切れるし、無理をすれば胸が痛む。薬の副作用で髪も抜けてしまい、鏡を見るのも嫌になっていた。
以前は普通にできていたことが、少しずつできなくなっていく。
こんな身体で、私は何ができるんだろう。
考えても答えは出なかった。
そんなある日、街角のモニターに一人のボクサーが映っていた。
リングの上で、二人の男が拳を交わしている。観客の歓声が街中に響き、やがて一人がマットに倒れた。勝者の名前が呼ばれ、男は大勢の観客に祝福されながら賞金を受け取っていた。
私は、その光景をじっと見つめた。
勝てば、お金がもらえる。
お金があれば、薬が買える。
薬が買えれば、もう少し生きられる。
「……これだ」
気づけば、口から言葉がこぼれていた。
ボクシングなんて、やったこともない。殴り合いが怖くないわけでもない。相手は自分より大きくて、強くて、本気で殴りかかってくるのだ。
普通なら、そんなことをしようとは思わないだろう。
でも、私には選べる道がほとんど残っていなかった。
「私、これをやる」
そう決めた私は、近くにあったボクシングジムを調べ、次の日にはその扉を開いていた。
それが、私とボクシングの出会いだった。
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初めてグローブをつけた日、私は自分がどれほど弱いのかを思い知らされた。
拳をまっすぐ出すことすら難しい。少し動いただけで息が上がり、構えを保っているだけで腕が重くなった。周りの人たちは軽々と動いているのに、私だけが何をするにも必死だった。
トレーナーは、私の様子を見て何度も練習を止めた。
「お前、本当にやるつもりか?」
「うん」
「遊びじゃないんだぞ。リングの上じゃ、相手がお前の病気を気遣ってくれるわけじゃない」
「分かってるよ」
「……死ぬぞ」
私は思わず笑ってしまった。
「もう、とっくに死にかけてるよ」
トレーナーは黙り込んだ。
それから、私は毎日ジムに通った。
調子がいい日は、できる範囲で身体を動かした。調子が悪い日は、無理に練習せず、試合の映像を見て相手の動きを覚えた。どうすれば自分より大きな相手に勝てるのか。どうすれば少ない体力で戦えるのか。考えては試し、失敗してはまた考えた。
最初のスパーリングでは、相手の拳が飛んできた瞬間に目を閉じてしまった。まともにパンチをもらい、尻もちをついたこともある。
悔しかった。
痛かったし、怖かった。自分には向いていないのかもしれないと思ったこともある。
それでも、次の日にはまたジムへ向かった。
だって、私には時間がなかったから。
世界チャンピオンになりたいわけじゃない。誰かに褒められたいわけでもなかった。
ただ、生きたかった。
明日も目を覚ましたい。美味しいものを食べたい。いつか病気のことなんて忘れて、思いっきり笑ってみたい。
そんな当たり前のことがしたかった。
だから私は、拳を磨いた。
力で勝てないなら、相手の懐に潜り込む。体力が続かないなら、無駄な動きを減らす。相手のパンチを避け、隙を見つけて打ち込む。自分にできることを一つずつ増やしていった。
もちろん、すぐに上手くいったわけじゃない。
何度も負けた。練習で倒されて、悔しさに唇を噛んだこともある。それでも、どうすれば次は勝てるのかを考え続けた。
やがて、試合で勝てるようになった。
初めて勝利を告げられたときは、何が起きたのか分からなかった。相手が倒れ、ゴングが鳴り、私の名前が呼ばれる。少し遅れて、それが自分の勝利なのだと気づいた。
賞金を受け取った帰り道、私は薬局に立ち寄った。
薬の入った袋を抱えて店を出る。これで、もう少し生きられる。
そう思ったら、なんだかおかしくなって、私は一人で笑ってしまった。
それからも試合を重ねた。負けることもあったし、身体の調子が悪くて思うように動けない日もあった。それでも、リングに立つたびに少しずつ強くなっていった。
いつしか周りは、私を天才と呼ぶようになっていた。
……天才、か。
別に、そんな大層なものじゃない。
ただ、私は諦められなかっただけだ。
負けたら治療を続けられない。立ち止まったら、そこで終わってしまう。
だから、勝ち続けるしかなかった。
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そして、最後の試合。
今日の相手は、今まで戦ってきた誰よりも強かった。
リングに上がる前から、身体の調子はよくなかった。胸の奥に嫌な違和感がある。少し動くだけで息が乱れ、いつもより身体が重く感じた。
それでも、試合をやめるつもりはなかった。
この試合に勝てば、まとまった賞金が手に入る。それだけあれば、しばらくは治療を続けられる。薬が買えるかどうかを心配せずに済む日が、少しだけ増える。
もう少しだけ、生きられる。
それだけで十分だった。
ゴングが鳴った。
私は相手の動きを見ながら、ゆっくりと距離を詰める。相手は大きく、リーチも長い。まともに打ち合えば不利になることは分かっていた。
だから、焦らない。
ジャブを放つ。相手のガードが動いたところへ、右ストレートを繰り出す。けれど、簡単に避けられた。
予想どおりだ。
私はそのまま前へ踏み込み、相手の懐に潜り込んだ。
――左フック。
拳が顎を捉えた。
男の身体が揺れる。
観客の歓声が、一気に大きくなった。
当たった。
私は笑った。
いける。まだ戦える。
このままなら、勝てるかもしれない。
そう思った、その瞬間だった。
ドクン。
「……え?」
心臓が大きく跳ねた。
次の瞬間、胸の奥に激痛が走る。
「っ……あ、ぐ……!」
息が吸えない。足に力が入らず、身体がぐらりと傾いた。
何が起きたのか、考える余裕もなかった。ただ、苦しかった。胸を押さえようとしても腕が動かない。目の前の景色がぼやけていく。
……ああ。
そっか。
もう、限界なんだ。
ずっと前から分かっていた。私の身体が、いつまでも持つはずがないことくらい。
それでも、まだ戦いたかった。
まだ生きていたかった。
「……まだ、だよ」
倒れそうになる身体を、必死に支える。もう一度、拳を握ろうとした。
けれど、指先に力が入らない。
目の前の男が何かを叫んでいる。観客の声も聞こえる。なのに、どんどん遠くなっていく。
嫌だ。
まだ死にたくない。
もっと生きたい。美味しいものをいっぱい食べたい。知らない場所にも行ってみたい。誰かと笑って、何でもない一日を過ごしてみたい。
私だって、普通に生きてみたかった。
病気のことを気にせず、明日のことを怖がらず、ただ好きなように生きてみたかった。
なのに。
私の身体は、もう動かなかった。
……悔しいな。
せっかく、ここまで頑張ったのに。
もう少しだったのに。
私は、ただ……。
もっと生きたかった。
その願いを抱いたまま、私の意識は途切れた。
─────────────────────────
「……ん」
何かが頬に触れていた。
温かい。
ゆっくりと目を開けると、青い空が見えた。
「……あれ?」
病院じゃない。
見慣れた天井もなければ、薬の匂いもしない。頬を撫でる風が心地よくて、私はしばらくぼんやりと空を眺めていた。
やがて身体を起こすと、目の前には見たこともない森が広がっていた。
大きな木。知らない草花。遠くから聞こえる鳥の鳴き声。
「……どこ、ここ?」
夢でも見ているのだろうか。
そう思って、私は頬をつねってみた。
「痛っ……」
……夢じゃない。
私は自分の身体を見下ろした。傷がない。あれだけ痛かった胸も、今は何ともなかった。
恐る恐る胸に手を当てる。
ドクン。ドクン。
心臓が動いている。
「……うそ」
息を吸ってみた。
苦しくない。
もう一度、深く息を吸う。胸は痛まなかった。何度繰り返しても、呼吸が苦しくなることはなかった。
私は立ち上がってみた。
足が動く。
ゆっくり歩いてみる。少しだけ走ってみる。
走れる。
息も切れない。
「……なんで?」
意味が分からなかった。
私は確かに死んだはずだ。最後の試合で身体が動かなくなって、そのまま意識を失った。
それなのに、どうしてこんな場所にいるのだろう。
そのとき、肩に髪が触れた。
「……髪?」
私は慌てて頭に手をやった。
指に長い髪が絡む。私の髪は、こんなに長くなかった。しかも、色が違う。
近くにあった水たまりを覗き込んだ。
そこには、見知らぬ少女が映っていた。
透き通るような肌。長い金色の髪。そして、人間にはない尖った耳。
「……エルフ?」
どうしてそんな言葉が出てきたのかは分からない。でも、そうとしか思えなかった。
私は死んだ。
なのに、知らない世界で目を覚ました。
しかも、身体は健康そのもの。
「……ふふっ」
気づけば、笑っていた。
だって、走れるんだよ?
息を吸っても苦しくない。胸が痛くならない。少し動いただけで倒れそうになることもない。
そんなことが、こんなに嬉しいなんて。
「……うっ、うぅ……」
涙がこぼれた。
止めようとしても止まらなかった。
ずっと、生きたかった。
ずっと、こうなりたかった。
前の人生では、最後まで叶わなかった願い。それが今、目の前にある。
私は自分の手を見つめた。
小さな手だった。それでも、指は思いどおりに動く。拳を握ってみると、ちゃんと力が入った。
何度か開いて、また握る。
そのたびに、胸の奥が熱くなった。
「……そっか」
もう一度、やれるんだ。
今度こそ、病気に怯えなくてもいい。明日が来るかどうかを心配しなくてもいい。
そう思ったら、自然と拳に力が入った。
「……今度こそ」
今度こそ、私は生きる。
誰かに見捨てられたからといって、自分まで自分を見捨てたりしない。怖いことがあっても、失敗することがあっても、今度は最後まで自分の人生を生きてやる。
私は顔を上げた。
森の向こうには、見たこともない大きな城がそびえていた。
あそこには、どんな人が住んでいるのだろう。魔法があるのかもしれない。魔物がいるのかもしれない。私の知らないことばかりの世界なのだろう。
……まあ、いいか。
どんな世界だろうと、やることは変わらない。
私は拳を握った。
「――この拳で、私は生きる」
今度こそ。
私の人生は、ここから始まる。