元病弱少女の接近戦   作:あえch

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1話 初めての接近戦

「――よし!」

 

私は拳を握りしめ、森の中で大きく伸びをした。深く息を吸っても胸は痛まない。少し走ったくらいでは息も切れないし、心臓が苦しくなることもない。

 

気持ちいい。本当に、気持ちいい。

 

「ふふっ……あははっ!」

 

嬉しくて、思わず笑い声が漏れた。前の人生では、走ることすら怖かった。少し無理をすれば身体に負担がかかり、いつ倒れてもおかしくなかったからだ。でも、今は違う。私は両足に力を込め、地面を蹴った。

 

タッ、タッ、タッ!

 

木々の間を駆け抜ける。足が軽い。身体が思いどおりに動く。もっと走りたい。もっと動きたい。今までずっと我慢してきたものが、一気に溢れ出してくるようだった。

 

「ははっ! すごい、すごいよこれ!」

 

しばらく走り回ったあと、私はようやく足を止めた。少しだけ息が弾んでいるけれど、胸はまったく苦しくない。それどころか、まだまだ動けそうだった。

 

「……せっかくだし、やっちゃおうかな」

 

私は両足を肩幅より少し広く開き、片足を前に出した。顎を引き、両手を顔の前に構える。懐かしい構えだった。前世で何千回、何万回と繰り返してきた動き。もう二度とできないと思っていたものだ。

 

「……ふぅ」

 

息を吐き、左手をまっすぐ伸ばす。

 

シュッ!

 

続けて右。

 

シュッ、シュッ!

 

左、右、左。軽く足を踏み替えながら、拳を繰り出す。ジャブからストレート。そこから左フックへつなぎ、頭を振って相手の反撃を避ける。さらに一歩踏み込み、左右のボディーブローを打ち込んだ。

もちろん、目の前に相手はいない。ただのシャドーボクシングだ。それでも、楽しかった。

 

「ふふっ……!」

 

思わず頬が緩む。身体が動く。思い描いたとおりに拳が走る。それだけで、こんなに幸せな気持ちになれるなんて。

 

「……ああ、もう! 最高じゃん!」

 

誰も見ていない森の中で、私はしばらく拳を振り続けた。

前世では、体調が悪くて練習できない日も多かった。身体を休めながら試合の映像を見て、頭の中で何度も動きを繰り返したこともある。それが今はどうだろう。何度拳を振っても、息が乱れない。少し疲れてきた気はするけれど、胸が痛むこともなかった。

 

「……うぅ、嬉しい」

 

目の奥が熱くなった。でも、いつまでも泣いているわけにはいかない。せっかく健康な身体を手に入れたのだ。これからは、今までできなかったことをたくさんやる。美味しいものを食べる。知らない場所へ行く。友達だって作りたい。それに、ボクシングも続けたい。

 

今度は、お金を稼ぐためだけじゃない。自分が好きだから、自分がやりたいから、拳を振るうのだ。

 

「よーし……!」

 

私は改めて拳を構えた。そこで、ふと思った。

 

「そういえば、私って今、何歳なんだろう?」

 

自分の身体を見下ろす。小さな手に、細い腕。どう見ても大人ではない。前世の私は、死ぬ直前まで少女と呼べる年齢だったけれど、今の身体はそれよりもずっと幼い気がする。

 

「うーん、十歳くらい?」

 

正直、よく分からない。鏡もないし、自分の顔だって水たまりで見ただけだ。

 

「まあ、十歳くらいってことにしておこう!」

 

……いや、適当すぎるか。

 

そもそも、ここはどこなんだろう。さっき見えた大きなお城に、尖った耳、長い金色の髪。どう考えても前世の世界ではない。魔法とか、魔物とか、そういうものが存在する世界なのかもしれない。

 

「……魔物、かぁ」

 

口に出してから、私は少し考えた。もし本当に魔物がいるのなら、気をつけなければいけない。前世のボクシングは、人間と戦うための技術だ。相手の動きを読み、攻撃を避け、隙を突く。体格差があっても、技術と工夫で勝機をつかむ。

でも、相手が人間ではなかったら? そもそも、拳が通用するのだろうか。

 

「……まあ、何とかなるでしょ!」

 

我ながら楽観的だと思う。でも、せっかく健康な身体になれたのだ。何もせずに怖がっているなんてもったいない。

私は軽く拳を打ち合わせ、森の奥へと歩き出した。この世界がどんな場所なのか、少しずつ知っていこう。

 

そう思っていた。

 

――ほんの数分前までは。

 

「……ん?」

 

足を止めた。何か聞こえた気がする。

 

ガサッ。

 

草木が揺れる音。私はそちらへ顔を向けた。

 

ガサガサッ。

 

……大きい。

 

何かがいる。しかも、かなり大きい。

 

背中に嫌な汗が流れた。いやいや、待ってほしい。私は今、転生したばかりなのだ。異世界に来て、健康な身体を手に入れて、ようやくこれからというところなのだ。いきなり危険な目に遭うのは、さすがに展開が早すぎないだろうか。

 

そんなことを考えていると、茂みの向こうからそれが姿を現した。

 

「…………え?」

 

熊。

 

最初はそう思った。けれど、すぐに違うと分かった。

 

大きすぎる。

 

四本足で立っているのに、頭の位置が私の背丈を軽く超えている。全身を覆う黒い毛並み。太い腕。口元から覗く鋭い牙。そして、額には小さな角が一本生えていた。

 

魔物だ。

 

どう見ても魔物だった。熊に似ているけれど、普通の熊じゃない。

 

そいつは私を見つけると、低く唸った。

 

「グルルルル……」

 

私はゆっくりと後ずさった。

 

……うん。逃げよう。

 

そうだ。逃げるのが正解だ。相手は巨大な熊型の魔物。対して私は、十歳くらいのエルフの少女。いくら前世でボクシングをやっていたからといって、勝てる相手ではない。

そもそも、ボクシングは人間同士が拳で戦う競技だ。牙も爪もある魔物と戦うためのものじゃない。

 

「……じゃ、じゃあね!」

 

私は踵を返した。

その瞬間。

 

「グオオオオオッ!」

「ひゃあああああっ!?」

 

魔物が吠えた。そして、突進してきた。

 

「ちょっ、待って待って待ってぇぇぇっ!」

 

私は必死に走った。後ろを振り返る余裕なんてない。

 

ドドドドドッ!

 

地面が揺れる。足音が近づいてくる。

 

「速い速い速いっ! 何なのあれぇっ!?」

 

あっという間に距離を詰められた。横目に見えた巨大な影に、私は思わず悲鳴を上げる。

 

「いやぁぁぁっ!」

 

振り向きざまに飛び退く。直後、魔物の前脚が地面を叩いた。

 

ドゴォンッ!

 

土と草が派手に舞い上がった。

 

……うそでしょ。

 

今のを食らっていたら、どうなっていた? 考えたくもない。

 

私は荒い息を吐きながら、魔物と向かい合った。いや、正確には向かい合うしかなかった。後ろは木々が密集している。逃げようにも、相手の巨体なら木をなぎ倒して追ってきそうだ。

 

それに、私はまだ走れる。

 

健康な身体を手に入れたばかりなのだ。ここで簡単にやられるわけにはいかない。

 

「……落ち着け、私」

 

自分に言い聞かせる。

相手は大きい。力も強い。爪や牙だってある。まともに攻撃を受けたら、一発で終わるだろう。

 

なら、どうする?

 

私は魔物の動きを観察した。前脚が地面につくたび、巨体が大きく揺れる。突進の直前には頭が低くなり、勢いをつけるために後ろ脚へ体重が乗る。

 

……なるほど。

 

「意外と、分かりやすい?」

 

いや、そんなことを言っている場合じゃない。

 

私は拳を構えた。

ボクシング。前世で私が生きるために身につけた技術だ。

 

ボクシングは、ただ拳を相手に当てればいいというものじゃない。相手との距離を測り、攻撃を避け、隙を見つける。足を使って位置を変え、自分に有利な距離で戦う。相手の得意な距離で戦わず、自分の得意な距離に持ち込む。

そして、私が最も得意としていたのが――インファイトだった。

 

相手の懐へ潜り込み、近距離で打ち合う戦い方。リーチの長い相手には懐へ入り、長い腕を振り回しにくい距離で攻撃する。近づくまでが難しいけれど、そこまで入ってしまえば、こちらにも勝機が生まれる。

もちろん、相手が人間なら、という話だけど。

 

「……やるしかないか」

 

魔物が前脚を振り上げた。

 

来る!

 

私は横へ跳んだ。

 

ドゴォンッ!

 

地面が砕ける。

 

すぐさま反対側へ踏み込んだ。魔物の身体の横。攻撃を終えたばかりで、体勢が崩れている。

 

今しかない。

 

「せぇいっ!」

 

私は拳を握り、魔物の脇腹へ打ち込んだ。

 

ドスッ!

 

……硬い。

 

「いったぁっ!?」

 

拳がじんじんと痺れた。

 

何これ!? 毛皮の下、筋肉が分厚すぎる! 人間の身体とはまるで違う。普通に殴っても、こっちの拳が壊れそうだ。

 

魔物が唸り、身体をひねった。

 

「わっ!」

 

私は慌てて後ろへ飛び退いた。危なかった。今の一撃で倒せるなんて、もちろん思っていなかった。けれど、ここまで硬いとは予想外だ。

 

正面から殴り合うのは無理。

 

なら、もっと工夫するしかない。

 

私は一度距離を取り、拳を握り直した。

 

前世でも、体格の大きな相手と戦うことはあった。リーチが長く、パンチが重い相手。真正面から打ち合えば、こちらが不利になる。だからこそ、私は相手の懐へ潜り込む技術を磨いてきた。

相手が腕を伸ばした瞬間に頭を外へずらす。肩の動きを見てパンチを避け、踏み込む。攻撃をもらわずに近づき、相手が力を発揮しにくい距離で拳を打ち込む。

 

そして、私の得意技はもう一つ。

 

ボディーブロー。

 

腹部へのパンチだ。

 

人間なら、腹に強い一撃を受ければ呼吸が乱れ、動きが鈍ることがある。顔面へのパンチほど派手ではないけれど、相手の体力を削り、戦う力を奪うための重要な技術だ。

 

ただし、魔物にも同じことが通用するとは限らない。

 

「……試すしかないよね」

 

魔物が再び吠えた。今度は、私も逃げなかった。

相手が突進してくる。私はぎりぎりまで引きつけ、地面を蹴った。

 

巨体が迫る。あと少し。もう少しだけ。

 

魔物が前脚を振り上げた瞬間、私は身体を横へ滑らせた。風圧が頬をかすめる。そのまま懐へ潜り込む。

 

「ここっ!」

 

左の拳を、魔物の脇腹へ打ち込んだ。

 

ドスッ!

 

すぐに右。

 

ドゴッ!

 

さらに左。

 

ドスッ!

 

連続したボディーブロー。

 

人間相手なら、一発ごとに呼吸や姿勢を崩させることを狙う。でも、こいつは違う。毛皮も筋肉も厚い。拳を当てても、手応えが浅い。

 

それでも、打ち続けた。

 

一発で倒れないなら、何発でも打つ。

 

相手が大きいなら、そのぶん動きを観察する。拳が通じないなら、通じる場所を探す。前世の私は、そうやって勝ち続けてきた。

 

「まだまだぁっ!」

 

右、左、右。

 

魔物が身体をひねり、私を振り払おうとする。私はすぐに頭を振り、その動きに合わせて足を踏み替えた。

インファイトの強みは、ただ近づいて殴ることじゃない。相手の動きに合わせて位置を変え、攻撃を避けながら自分のパンチを当て続けることだ。

 

もちろん、相手が熊のような魔物だなんて初めてだけど!

 

「ちょっとくらい、効いてよぉっ!」

 

私は最後に、身体をひねって右拳を突き込んだ。

今までよりも深く。魔物の脇腹、その奥へ。

 

ドゴンッ!

 

「グオオオオオッ!?」

 

魔物が大きく吠えた。そして、よろめいた。

 

……効いた!

 

何が決め手になったのかは分からない。けれど、確かに今の一撃で動きが鈍った。

私はすぐに距離を取った。追撃はしない。相手の反撃が届く場所に居続けるのは危険だ。まずは様子を見る。

魔物は荒い息を吐きながら、こちらを睨んでいた。その腹部が、わずかに上下している。

 

「……そっか」

 

私は小さく呟いた。

こいつも生き物だ。どれだけ大きくても、どれだけ頑丈でも、身体の構造がまるで違うとは限らない。なら、狙う場所を変えればいい。

 

私はもう一度、拳を構えた。

 

今度は魔物の動きが少し遅くなっている。突進してくる魔物を横へ避け、前脚が地面を叩いた瞬間に踏み込む。左、右、左。脇腹へ拳を打ち込む。

 

魔物が身体をよじる。私は頭を引いて爪をかわし、空いた場所へ潜り込んだ。

 

「これで――!」

 

腰を回し、右拳を振り抜いた。

 

ドゴォッ!

 

魔物の巨体がぐらりと傾いた。

 

「グ……オ……」

 

膝が地面につく。私は拳を構えたまま、息を止めた。

 

倒れる?

 

それとも、まだ動く?

 

魔物は何度か身体を揺らしたあと、ついに横倒しになった。

 

ドスンッ!

 

地面が揺れた。

 

静かになった森の中で、私はしばらく動けなかった。

 

倒した。本当に? あの巨大な魔物を?

 

「…………勝った?」

 

返事はない。

 

「……勝ったぁぁぁぁっ!」

 

私は両手を突き上げた。

 

「やった! やったよ! 私、勝った! 熊みたいな魔物に勝ったぁっ!」

 

嬉しかった。とにかく嬉しかった。

前世では、どんなに練習しても、身体の調子が悪ければ思うように動けなかった。試合に勝てた日でさえ、帰り道には疲れ果てていたこともある。

それが今はどうだろう。魔物と戦って、あれだけ動き回ったのに、まだ立っていられる。もちろん疲れてはいる。でも、胸は痛くない。

 

私は胸に手を当てた。

 

ドクン、ドクン。

 

心臓が動いている。

 

「……ありがとう」

 

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。神様なのか、この身体なのか。それとも、もう一度生きる機会をくれた何かに向けてなのか。ただ、言わずにはいられなかった。

 

「……私、今度こそ生きるからね」

 

そう呟いてから、私はふと気づいた。

 

「……あれ?」

 

身体が、妙に涼しい。

 

いや、涼しいというか……風が直接、肌に当たっているような。

 

私はゆっくりと、自分の身体を見下ろした。

 

そして。

 

「………………え?」

 

固まった。

 

もう一度、見下ろす。

 

見間違いじゃない。

 

服がない。

 

一枚も。

 

「………………は?」

 

私は自分の腕を見た。脚を見た。お腹を見た。そして、慌てて両手で身体を隠した。

 

「い、いやいやいやいやっ!?」

 

声が裏返った。

 

「な、なんで!? なんで裸なの!? 私、いつ脱いだの!? 脱いでないよね!? そもそも服なんて着てなかったっけ!?」

 

思い返してみる。

前世の記憶。病院。リング。死。森。

……そういえば。

 

転生してから、自分の身体が健康なことに夢中で、服のことなんてまったく気にしていなかった。

 

というか、気づかなかった。

 

「うそでしょぉぉぉっ!?」

 

私はその場にしゃがみ込んだ。

恥ずかしい。

いや、誰も見ていない。周りには木しかない。さっきの魔物だって倒れているだけだ。

 

だから大丈夫。

 

大丈夫……だよね?

 

「……うぅ」

 

顔が熱い。誰かに見られたわけでもないのに、穴があったら入りたい。そもそも、どうして裸なんだろう。転生するときって、普通は服くらい一緒についてくるものじゃないの?

 

いや、普通が何なのかは知らないけど!

 

「神様ぁっ! いるなら説明してよぉっ!」

 

森に私の叫び声が響いた。当然、返事はなかった。

 

「……もうっ!」

 

私は頬を膨らませた。

とりあえず、服を探さなければ。葉っぱでも、布でも、なんなら魔物の毛皮でもいい。とにかく、この状況をどうにかしなければ!

 

「あ、あの……」

 

そのとき、背後から声がした。

 

「…………え?」

 

私は凍りついた。

 

今の、誰?

 

聞き間違い? いや、絶対に誰かの声だった。

 

恐る恐る振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。

 

赤い髪。尖った耳。整った顔立ち。私と同じ、エルフだ。青年は片手に弓を持ち、倒れた魔物と私を交互に見ていた。

 

そして、戸惑ったように口を開いた。

 

「……あの、君がこれを倒したの?」

 

「…………」

 

私は答えられなかった。

 

だって。

 

だって、そんなことより。

 

「………………っ!」

 

私は勢いよく両手で顔を覆った。

 

「きゃああああああああっ!!」

 

森に、今日一番の悲鳴が響き渡った。

 

「えっ!? あっ、ご、ごめん! 僕、何もするつもりは……!」

 

青年が慌てて背を向ける。

 

「見たぁぁぁっ! 今、絶対見たでしょぉぉぉっ!」

「い、いや、その……目の前にいたから、少しだけ……!」

「言い訳しないでぇぇぇっ!」

「ご、ごめん! 本当にごめん!」

 

青年の声も、だんだん悲鳴じみてきた。

……ごめんなさい。

でも、仕方ないじゃない!

 

転生して早々、魔物と戦って、裸のまま知らない男の人に遭遇するなんて、誰が想像できるの!?

私は顔を真っ赤にしながら、周囲を見回した。

服。何でもいいから服!

葉っぱでも、布でも、なんなら魔物の毛皮でもいい!

とにかく、この状況をどうにかしなければ!

 

「あ、あの……これ、使ってくれる?」

 

青年が、背を向けたまま口を開いた。

 

「僕の上着なんだけど……。その、よかったら着て。僕はあっちを向いているから」

 

そう言って、何かを後ろへ差し出した。

上着だった。

私はそれをひったくるように受け取ると、慌てて身体に巻きつけた。

 

「…………」

 

着た。

 

服を着た。

 

助かった。

 

私はその場にへたり込んだ。

 

「よかったぁ……」

 

心の底から安堵した。

青年がゆっくりと振り返る。今度はちゃんと服を着ている。いや、上着を巻きつけただけだけど。それでも、さっきよりはずっとマシだ。

青年は私を見て、ほっとしたように息を吐いた。

 

「……よかった。少しは落ち着いたかな?」

「…………」

 

私は顔を上げた。

 

「……今のこと、忘れて」

「えっ? あ、うん……できるだけ、そうするよ」

「できるだけ!?」

「ご、ごめん! 忘れる! 絶対に忘れるから!」

 

青年は慌てて両手を上げた。

私は膝を抱え、顔を埋めた。

……もう嫌だ。

魔物を倒したときは、あんなに格好よく決められたのに。どうしてこうなった。

転生初日。熊型の魔物を撃破。その直後、全裸でエルフの青年と遭遇。

 

……うん。

 

最悪だ。

 

「……帰りたい」

 

ぽつりと呟く。

 

「えっ……どこに?」

「……何でもない」

 

前世には戻りたくない。でも、せめて服を着てから人と出会いたかった。

私は上着の裾をぎゅっと握りしめた。その横で、青年が倒れた魔物を見て、改めて驚いたように呟く。

 

「でも、本当に君が倒したんだよね? あの魔物を……すごいな。僕だったら、逃げることしかできなかったと思う」

「…………」

 

私は顔を上げた。

そうだ。この人は誰なんだろう。そして、ここはどこなのだろう。聞きたいことは山ほどある。

……あるのだけれど。

 

「……その前に」

 

私は青年をじっと見つめた。

 

「服、貸してくれてありがとう」

「あっ、うん。どういたしまして。僕の服でよければ、いくらでも使ってくれていいから」

 

青年は少し照れくさそうに笑った。

 

「僕はレオン。君の名前を聞いてもいいかな?」

 

私は少し考えた。

前世の名前を名乗るべきなのだろうか。それとも、この身体には別の名前があるのだろうか。

 

……分からない。

 

でも、名前くらいは自分で名乗ってもいいはずだ。

 

私は小さく息を吸った。

 

「私の名前は――」

 

そうして、私は新しい世界で初めて、誰かと向き合った。

もっとも、そのときの私の頭の中は、魔法や魔物や異世界のことよりも、

 

『この人、あとで絶対に裸のことを思い出すんじゃないかな』

 

という不安でいっぱいだったのだけれど。

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