あれから、数週間が経った。
私は今、お城でメイドとして働いている。
「リリアさん、そちらのお皿をお願いできますか?」
「はい!任せてください!」
そう元気よく返事をして、私は食器を運び始めた。
ところが、数歩進んだところで足がもつれた。
「あっ!」
ガシャンッ!
やってしまった。
床に散らばった破片を見て、私は思わず頭を抱えた。
「うっ、またやっちゃった……」
「何をしている」
背後から、低く冷たい声が聞こえた。
振り向くと、白髪の髪をしたアルベルトが立っていた。相変わらず眉間には深いしわが刻まれている。
「アルベルト様。すみません、お皿を割ってしまいました」
「見れば分かる。お前は目の前の仕事すらまともにこなせないのか?」
「うっ……」
「たった一枚の皿すら運べないとはな。掃除も給仕も満足にできない。いったい、お前は何ならできるのだ?」
うっ、厳しい。
「えっと、床の掃除なら得意です」
「質問に答えろ。誰がそんなことを聞いた?」
「あっ、すみません!」
「まったく……。お前のような役立たずを雇ったこと自体、間違いだったのかもしれんな」
「うっ……」
「次に同じ失敗をしたら、ここで働き続けられると思うなよ」
アルベルトは吐き捨てるように言って、その場を去っていった。
私は俯き、隣に立っていたメイドさんに頭を下げる。
「ご、ごめんなさい……」
「大丈夫ですよ。怪我はありませんか?」
先輩のメイドさんは、怒るどころか心配そうに私の手を確認してくれた。
「はい……」
「ならよかったです。次から気をつけましょうね」
そう言って、彼女は一緒に破片を片づけてくれた。
このお城の人たちは、本当に優しい。失敗しても丁寧に教えてくれるし、食事のときには私の分まで気にかけてくれる。
エルフって、みんないい人たちなんだなあ。
「はぁ、一刻も早く仕事できるようにならないとだなあ」
私はため息をつきながら、床に落ちた食器の破片を片づけた。
前世では病気のせいで、やりたくてもできないことがたくさんあった。だからこそ、今は何でもできると思っていたのに。
健康な身体を手に入れたからといって、何でも上手くいくわけじゃないらしい。
「私、メイドに向いてないのかなあ……」
しょんぼりしながら廊下に出ると、ちょうど掃除道具を持ったメイドさんと出会った。
「あら、リリアさん。次は廊下のお掃除ですか?」
「はい……。せめて、何か一つくらい得意な仕事があればいいんですけど」
「ふふっ。リリアさんには、得意なことがあるじゃないですか」
「えっ?」
「雑巾掛けですよ。あれは本当にお上手ですから」
そう言われて、私は顔を上げた。
そうだった!
雑巾掛けだけは、誰にも負けない自信がある。
私はさっそく雑巾を手に取り、床に置いた。
両手をつき、腰を落として、身体を低くする。そのまま雑巾を前に滑らせ、一気に後ろへ引いた。
キュッ、キュッ。
身体全体を使い、重心を移しながら雑巾を滑らせる。ボクシングで身につけた身体の使い方が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「ふふん!」
私は勢いよく廊下を進んだ。
低い姿勢で動くのは得意だ。四つん這いだろうと中腰だろうと、身体の使い方なら分かっている。
あっという間に廊下の半分を磨き終え、私は満足げに顔を上げた。
「よしっ! 完璧!」
「本当にお上手ですねえ……」
メイドさんが感心したように呟く。
えへへ。もっと褒めてくれてもいいんだよ?
……いや、調子に乗るとまた失敗しそうだから、やめておこう。
私は気を引き締め直し、残りの廊下を磨き始めた。
せっかく健康な身体を手に入れたんだ。
できないことがあっても、少しずつ覚えていけばいい。
そう思いながら、私は雑巾を動かし続けた。
その日の夕方。
私は仕事を終え、城の裏庭で休憩していた。
「リリアさん!」
声をかけられて振り向くと、レオンがこちらへ歩いてくるところだった。
「レオン!どうしたの?」
「いえ、仕事が終わったところだったので。リリアさんはどうですか?」
「うん!今日は食器を一枚割っちゃったけど、雑巾掛けは完璧だったよ!」
「いつも、ありがとうございます」
レオンは笑いながら感謝の言葉を述べてくれた。
最近、私はレオンと話す機会が増えている。
ただ、森で出会った頃と違って、彼は相変わらず敬語を使ってくる。私としては、そろそろ普通に話してほしいところなんだけど。
「……ねえ、レオン」
「はい?」
「私はアルベルトさんに怒られてばっかりなんだけど、レオンはアルベルトさんと仲良いの?」
「えっ……」
レオンの表情が固まった。
しまった。聞いちゃいけないことだったかな。
「ご、ごめん!答えたくなかったらいいんだけど」
「いえ、大丈夫です」
レオンはそう言ったものの、すぐには続けなかった。
しばらくして、彼は小さく息を吐いた。
「父上は、昔は優しい人だったんです」
「昔は?」
「はい。今みたいに、何かにつけて小言を言う人ではありませんでした」
レオンは遠くを見つめた。
「母上が生きていた頃は、もっと笑っていたんです」
母上。
そういえば、レオンのお母さんの話は聞いたことがなかった。
「母上は、とても綺麗な人でした。赤い髪をしていて、いつも優しく笑っていて……」
そこで、レオンは自分の髪に触れた。
彼の髪は、鮮やかな赤色をしている。
「僕の髪も、母上と同じ色なんです」
「そうなんだ……」
「でも、本当は違うんですよ」
「えっ?」
レオンは私の顔を見て、少しだけ笑った。
「見ていてください」
彼は片手を前に出した。
すると、掌の上に水が集まり始めた。前世じゃ見たことがないもの。これは、まさか、魔術ってやつだよね?そうだ、間違いない。これはレオンの魔術だ。
私は興味深々といった表情で目を輝かせ、彼の手元を見る。
水は小さな球になり、レオンの手の上で揺れている。
彼はそれを自分の頭に向けた。
ばしゃっ。
「わっ!?」
水が赤い髪を濡らし、頬を伝って流れ落ちる。
次の瞬間、濡れた髪の色がみるみる変わっていった。
赤色が薄れ、その下から闇のような漆黒が現れる。
「ええっ!?髪の色が変わった!?」
「ふふっ。驚きましたか?」
「驚くよ!えっ、どうなってるの!?」
「魔術で染めているんです。水をかければ、元の色に戻ります」
レオンは濡れた髪を指で梳いた。
そこにあったのは、私の知らないレオンの姿だった。
「僕、本当は赤髪じゃないんです」
「じゃあ、どうして赤くしてるの?」
「……父上が喜ぶからです」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「母上が亡くなってから、父上はずっとあの髪色を見ていたんです。僕が赤い髪でいると、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をするんです」
だから、彼は赤い髪でいるのか。
自分の本当の髪色を隠してまで。
「……母上は、人族に殺されました」
その言葉を聞いて、私は息を呑んだ。
「人族との争いに巻き込まれたんです。父上は母上を救えなかった。それから、少しずつ変わっていきました」
レオンは濡れた髪を見つめた。
「昔の父上は、僕にも優しかったんです」
彼の声が、ほんの少し震えた。
「実は、僕は父上に拾われた子なんです」
「拾われた……?」
「はい。母上が生きていた頃、父上は僕を引き取ってくれました。そのときは、母上も一緒に迎えてくれたんです。僕のことを、本当の子供みたいに大切にしてくれました」
レオンは微笑んだ。
けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
「でも、母上が亡くなってからは……」
言葉が途切れる。
「父上は、僕を見ているようで、別の誰かを見ている気がするんです」
私は何も言えなかった。
「それに、僕には何もないんです」
「そんなこと……」
「本当ですよ。魔術だって、無詠唱で使えるだけです。大きな魔術は使えませんし、兄上のように剣が強いわけでもありません。父上の役に立てることなんて、何もないんです」
レオンは俯いた。
「僕は拾われた子で、何の取り柄もない。母上がいなくなった今、父上が僕を大切にしてくれる理由なんて、もうないのかもしれません」
「……」
「僕と父上の仲がどうなのかって質問でしたね。きっと、僕は嫌われていると思いますよ。父上から」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
そんなこと、言わないでよ。
私はレオンの前に立った。
「……レオン」
「はい?」
「顔、上げて」
レオンがゆっくりと顔を上げる。
私は彼の目をまっすぐ見つめた。
「でもね、レオン。髪の色とか、魔術がどれだけ使えるとか、そんなことで自分の価値を決めなくていいと思う」
「……」
「だって、私なんてメイドとして雇ってもらったのに、全然何もできてないよ?毎日失敗ばっかりで、みんなに迷惑かけてるし……」
私は自分の手を見つめた。
食器を割ったことも、仕事で失敗したことも、思い返すと情けなくなる。
それでも、私はここにいる。
「でも、だからって私に何の価値もないわけじゃないでしょ? 今はできないことが多くても、これからできるようになればいいんだよ。だから、自分には何もないなんて言わないで」
私は顔を上げ、レオンを見た。
「それに、私はレオンに助けてもらったよ。あの森で、私をお城まで連れてきてくれたでしょ?住む場所だってできたし、みんな優しくしてくれる。レオンがいなかったら、私はどうなっていたか分からないもん」
「リリアさん……」
「だから、レオンはレオンにしか出来ないことがある。私にとってレオンは、何もない人なんかじゃないよ」
私は笑った。
「少なくとも、私にとっては大切な友達!」
「……友達、ですか?」
「うん!」
レオンは目を丸くしたまま、しばらく動かなかった。
やがて、彼の頬が少しずつ赤くなっていく。
「……そっか」
レオンは顔を伏せた。
その口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのが見えた。
「ありがとうございます、リリアさん」
「えへへ。どういたしまして!」
そのときだった。
「……なるほどな」
「わっ!?」
突然、背後から声がした。
振り向くと、そこにはルークが立っていた。
「兄上!?いつからそこに!?」
「ん?お前たちが話し始めたあたりからかな」
「ほとんど最初からじゃないですか!」
「悪い悪い。声をかけるタイミングを逃しちゃって」
ルークは悪びれもせずに笑った。
……この人、絶対わざとだ。
レオンは顔を真っ赤にしていたけれど、ルークは気にせず私たちの隣に腰を下ろした。
「それにしても、リリア。お前、なかなかいいことを言うじゃないか」
「そ、そうかな?」
「ああ。レオンには、そういう言葉が必要だったのかもしれないな」
ルークは弟の頭に手を置いた。
「兄上……」
「お前は昔から、自分に厳しすぎるんだよ。もう少し気楽に生きたらどうだ?」
「……分かっています」
「本当に分かってるのか?」
「うっ、分かっているつもりです」
レオンが言葉に詰まる。
ルークは楽しそうに笑った。
それから、ふと表情を引き締めた。
「さて。二人には、少し話しておきたいことがあるんだ」
「話?」
「ああ。この国のことだ」
ルークは遠くに見える城壁へ目を向けた。
「父上のことも含めてな」
─────────────────────────
「まず、父上のことだが、あの人の手腕は本物だ」
ルークは静かに話し始めた。
「今のエルフの国がここまで大きくなったのは、父上の功績が大きい。国をまとめ、領地を広げ、かつて人族に虐げられていたエルフたちの立場を少しずつ回復させてきた」
「そうなんだ……」
「もちろん、父上一人の力じゃない。多くの人が努力してきた結果だ。それでも、父上が優れた王であることは間違いない」
ルークは少しだけ苦笑した。
「ただ、家族のこととなると、どうにも不器用でな」
私はさっきのレオンの話を思い出した。
アルベルトだって、最初からあんな人だったわけじゃない。
大切な人を失って、変わってしまったのだ。
「……それで、今の国は平和なの?」
「ああ。少なくとも、表面上はな」
ルークは頷いた。
「人族との関係も、以前よりは落ち着いている。もちろん、エルフの中には人族を憎んでいる者も多いが、昔ほど一方的に虐げられる状況ではなくなってきた」
「じゃあ、もう戦争なんてしなくてもいいんじゃない?」
「そうだな。俺もそう思う」
ルークは少し困ったように笑った。
「実は、つい最近まで獣族と戦争をしていたんだ」
「えっ!?獣族と!?」
「ああ。だが、今はもう大勢が決している。力の差を考えれば、向こうもじきに降伏してくるだろう。これ以上、大きな戦いが続くとは思っていない」
私は首を傾げた。
「……なんで戦争なんてするんだろう」
「ん?」
「だって、殺し合うんだよね?病気とか、事故とか、自分ではどうにもできないことなら分かるよ。でも、人間同士で争って、わざわざ命を奪い合うなんて……おかしいよ」
口にしてから、少しだけ胸が痛んだ。
前世の私は、病気で命を落とした。
もっと生きたかった。もっと身体を動かしたかった。もっと、いろんなことをしてみたかった。
だからこそ、誰かが誰かの命を奪うことが、どうしても理解できなかった。
「……そうだな」
ルークは否定しなかった。
「エルフは、人族にひどい目に遭わされてきた。そのせいで、人族とは協力しないという考えを持つ者も多い」
「うん……」
「一方、獣族は違う。人族は強く、優れたところも多い。だからこそ、協力して生きていくべきだと考える者が多い」
「どっちも、人族にひどい目に遭わされたんだよね?」
「ああ。それでも、考え方は違う」
ルークは膝に肘をつき、手を組んだ。
「どちらの考えにも、そうなった理由はあるんだろう。だが、だからといって戦争をする必要があるのか、俺には分からない」
彼は遠くを見つめた。
「勝ったところで、失った命は戻らない。大切な人を失った悲しみだって、消えるわけじゃないんだ」
その言葉に、私は何も返せなかった。
ルークもまた、戦争を望んでいるわけではないのだろう。
「……難しいね」
「ああ。まったく、面倒な話だよ」
ルークはそう言うと、私とレオンの頭にぽんと手を置いた。
「まあ、お前たちはあまり難しく考えすぎるな。少なくとも、今は平和なんだからな」
「……はい」
「うん!」
私は元気よく頷いた。
平和なら、それでいい。
せっかく手に入れた二度目の人生だ。今度こそ、思いっきり生きなきゃだから!
─────────────────────────
数日後。
私は城の訓練場に立っていた。
「……えっと、どうしてこうなったの?」
「ははっ。まあ、そう言うな」
目の前で木刀を肩に担いでいるのは、ルークだった。
私は今、戦争に備えた訓練を受けることになっている。
この国では、いざというときに戦える者を把握するため、定期的に体力や戦闘能力を確認しているらしい。
メイドとして働いている私も例外ではない。
ただ、普通なら走り込みや簡単な体力測定をするところを、今回は特別にルークが相手をしてくれることになった。
「リリアが森で魔物を倒したって話、聞いたぞ。しかも、素手で仕留めたんだって?」
「ふふっ、うん。でも、誰も信じてくれないんだけどね」
「ははっ、だろうな。俺も信じていない」
「酷いなぁ」
「はははっ!」
ルークは楽しそうに笑った。
「だけど、リリア。確かにお前は何かをやってくれそうだ。俺はそれを、その何かを見てみたい」
「そう言ってくれるなら、私も全力を出せる」
「遠慮はいらない。思いっきり来い!」
「分かった!」
私は拳を握った。
よーし!せっかくの機会だ。私のボクシングを見せてやる!
ルークが木刀を構える。私も拳を顔の前に構え、じっと相手の動きを観察した。足の位置、肩の向き、重心の移動。相手がどう動こうとしているのか、それを見極める。
「いつでもいいぞ!」
ルークの声を合図に、私は一気に踏み込んだ。
「はっ!」
顔面を狙ってジャブを放つ。ルークは木刀を持ち上げて防いだが、私はすぐに拳を引き、今度は反対の拳を突き出した。
「っ!」
鋭いストレート。
ルークは身体をひねってかわしたものの、拳は頬のすぐ横を通り過ぎていった。
(空気を裂くような鋭い拳。素手なのに隙がない)
「おいおい、なかなかやるじゃないか!」
まだ余裕があるらしい。ルークは笑いながら木刀を構え直した。
なら、もっと攻めるだけだ。
私は細かく足を動かしながら距離を詰めた。ジャブを一発。もう一発。ルークが木刀で受け止めた瞬間、今度は踏み込んでストレートを放つ。
「くっ!」
ルークが木刀を横にして受け流す。
だが、私はすぐに拳を戻し、再びジャブを繰り出した。狙いは顔。攻撃を当てることだけが目的じゃない。視線を上へ誘導し、意識を顔に集中させる。
ジャブ。ジャブ。ストレート。
一発ごとに拳を引き、足を動かす。相手の反応を見ながら、少しずつ攻める場所を変えていく。
「……っ、本当に、素手で戦ってるんだよな?」
ルークの声から、さっきまでの余裕が薄れていた。
「うん、素手。ボクシング」
私は答えながら、またジャブを放った。
ルークの視線と腰が浮き、木刀を持ち上げる。その動きを見て、私はすぐに身体を沈めた。
その瞬間、ルークの背中に冷たいものが走った。
速い。
そう思ったときには、もう遅かった。
目の前の少女が、視界から消えたように低く潜り込んでくる。木刀を振り下ろすには近すぎる。後ろへ下がろうにも、踏み込んでくる速度が尋常じゃない。
素手の相手に、ここまで懐へ入られるとは思わなかった。
「なっ……!」
私の拳が、ルークの腹部へ向かって伸びていく。
狙いはボディー。しかも、ただ拳を突き出すわけじゃない。足の踏み込みから腰の回転まで、全身の力を一つにして放つ。
まともに食らえば、木刀を持っていようが関係ないよ。
ルークはとっさに身体を引こうとした。
けれど、そのときには私の拳が、もう目の前まで迫っていた。
「もらった!」
私は腰をひねり、渾身のボディーブローを叩き込もうとした。
――その瞬間。
「あっ」
足元に何かが引っかかった。
自分のメイド服の裾だった。
「えっ、ちょっ、待っ――!」
ずべしゃああっ!!
盛大に転んだ。
拳はルークの腹部に届くことなく、私はその足元に勢いよく突っ伏した。
「…………」
「…………」
訓練場が静まり返った。
私は地面に顔を伏せたまま、ぴくりとも動けなかった。
……うそでしょ。
今、絶対に決まるところだったのに!
「……リリア?」
「……はい」
「今の、わざとじゃないよな?」
「わざとなわけないでしょ!?」
慌てて顔を上げると、ルークは呆然と私を見下ろしていた。
さっきまで背筋が冷えるような感覚を味わっていたのに、目の前ではメイド服の少女が盛大に転んでいる。
ルークはしばらく何も言わなかった。
やがて、額に手を当てて深く息を吐いた。
「……いや、そうか。本当に、すごいな」
その声には、呆れだけじゃなく、まだ驚きが残っていた。
「素手であんな動きをする奴、俺は見たことがない。最後の一撃なんて、正直、背筋が冷えた」
「えっ、ほんと?」
私はぱっと顔を上げた。
褒められた!
「うん!ボディーに打つつもりだったんだよ!視線を上に向けさせてから、下に潜り込んで一気に――」
「分かった、分かった!そこまででいい!」
ルークは慌てて手を上げた。
「動きは本当にすごかった。だがな……」
彼は私の足元に目を落とした。
「なんで最後に自分の服に負けるんだよ!」
「うううっ!仕方ないじゃん!メイド服なんだから!」
「いや、そもそも訓練だって言ってるんだからメイド服で来るな!」
「分かってるもん!」
私は頬を膨らませた。
くっ……!あと少しだったのに!
ルークはしばらく私を見つめていたが、やがて堪えきれないように笑い出した。
「ははははっ!いやあ、驚いた!本当に驚いたよ!」
ひとしきり笑ったあと、ルークは改めて私を見た。
「リリア、お前の動きはただ速いだけじゃない。相手の反応を見て、狙いを変えて、隙ができるように誘導している。あれを素手でやられたら、相手はたまったもんじゃないな」
「えへへ」
「リリア、お前、本当に何者なんだ?」
「えっ?うーん、私の正体……。インファイトが得意なメイドでいいのかな?」
私が答えると、ルークはしばらく黙り込んだあと、また笑った。
「ふふっ。そうだったな。今はただのメイドだったな」
─────────────────────────
「いやあ、面白かった」
訓練を終えたルークは、満足そうに頷いた。
「リリア、お前は本当に強いな。魔物を倒したという話も、これなら納得できる」
「えへへ……。最後は転んじゃったけどね」
「まぁ、そこはメイド服だったからだろう」
ルークは苦笑しながら、木刀を片づけた。
「それで、リリア。お前に一つ頼みたいことがある」
「頼み?」
「ああ。これからもレオンの近くにいて、あいつを守ってやってくれないか」
「……レオンを?」
私は目を瞬かせた。
「そうだ。お前なら、いざというときにあいつを助けられるだろう。もちろん、今すぐ何かが起きるとは思っていない。国は平和そのものだしな」
ルークは優しく笑った。
「それでも、念のためだ。頼めるか?」
私は少しだけ考えてから、頷いた。
「うん!任せて!」
「ははっ、頼もしいな」
レオンには、いろいろと助けてもらった。
それに、せっかくできた友達だ。
守れるなら、守ってあげたい。
そう思った。
「ねえ、ルーク」
「ん?」
「私、そろそろお給料とかもらえるのかな?」
「給料?」
「うん。私、最近メイドのお仕事を頑張ってるでしょ?雑巾掛けだって上手になったし!」
「うーん、そうだな。だが、リリアはまだ見習い扱いだろう? 正式な給金は、もう少し仕事を覚えてからじゃないか?」
「そ、そんなあ……」
私は肩を落とした。
前世では、ボクシングでしかお金を稼げなかった。
試合に出て、拳を振るって、ようやく手に入れたお金。あの頃は生きるために必死だった。
でも、今度は違う。
ボクシング以外の仕事で、自分のお金を稼いでみたい。
せっかく異世界に転生したんだから、いろんなことを経験してみたいのだ。
「まあ、焦らなくてもいいだろ。衣食住は用意されているんだし」
「それはそうだけど……」
うーん。
お金があれば、好きなものを買えるのに。
おいしいものだって食べたいし、いつか自分のグローブも欲しい。
そんなことを考えていると、隣から声がした。
「……リリアさん、そうしたら、僕と買い物に行きませんか?」
振り向くと、レオンが立っていた。
「あっ、レオン!」
「リリアさん、いつも頑張っていますから。たまには息抜きも必要でしょう?」
「えっ、いいの!?」
「はい。僕でよければ、町を案内しますよ」
レオンは微笑んだ。
「本当!?やったあ!」
思わず飛び跳ねてしまった。
買い物!異世界の町で買い物!
どんなものが売っているんだろう。食べ物も見てみたいし、服だって気になる。
「兄上も、一緒に行きませんか?」
「ん?俺もか?」
「はい!三人で行きましょう!」
レオンがそう言うと、ルークは少し驚いたあと、楽しそうに笑った。
「ははっ、いいぞ。久しぶりに町をゆっくり歩くのも悪くない」
「やったあ!」
私は両手を上げて喜んだ。
楽しみだなあ!
今度こそ、失敗ばかりのメイド生活から抜け出して、異世界を満喫してやるんだから!
……そのときだった。
城の外から、慌ただしい足音が響いてきた。
兵士が駆け込んでくる。
その顔は青ざめ、息も絶え絶えだった。
「ルーク様!大変です!」
「どうした?」
「森の方で、火の手が上がっています!」
ルークの表情が変わった。
「何だと?」
私たちは一斉に窓の外を見た。
遠くに広がる森。その向こうから、黒い煙が立ち上っていた。
風に流されながら、煙は少しずつ空を覆っていく。
「……まさか」
レオンが呟いた。
ルークは何も言わず、森を見つめていた。
さっきまでの穏やかな笑顔は、もうなかった。
平和な日々は、まだ続くと思っていた。
明日になれば、三人で町へ買い物に行ける。
そんな当たり前のことを、疑いもしなかった。
けれど――
私たちが買い物に出かけることは、なかったんだ。