1. 霧雨魔理沙
蒸し暑い昼間と比べると、この夜の時間というのはとても過ごしやすい。
今日は雲もなく、星々が皆瞬いているというのがよくわかる。
ついこの間まで雪が降り、寒いと感じていたはずなのに、気づけば一面が淡紅色で覆われていて……。
再び気がつけば梅雨空が広がるような時期に差しかかり、そして、その梅雨空もいつの間にか夏空へと変わっていた。
こうして季節は巡り巡っていく。
しかし……季節は巡れど、私の時間はとある霞がかった一点で止まっている。
言いたい。伝えたい。
でも、その行動が全てを無に帰してしまうかもしれない。
そんな思考が四六時中、頭の中をぐるぐると回っている。
『こういうのって、なんて言うんだろう……』
思わず夜空に向かって話しかけてしまう。
当然ながら、星たちは輝き続けるばかりで答えは返してくれない。
『はぁ……』
結局、答えを出すのは自分自身なのだ。
それくらいはわかっている。
わかっているのだけれど……。
『……どうしたらいいんだろうなぁ』
夜風が、少しだけ頬を撫でていった。
*
朝日が昇ってきたのが、カーテン越しにも伝わってくる。
朝は強い方だと自負している。とはいえ、昨日は悩みの分だけ寝つけなかったので、少しばかり眠い。
それでも起きなければならないので、私は体に力を入れてベッドから起き上がった。
『おはよう』
誰もいない家の中で一人、鏡の中の自分に向かって挨拶をする。
同じように、もう一人の私も挨拶を返してくれた。
……もちろん、ただの自分の姿なのだけれど。
『あっ……食パン買い忘れた』
部屋を出ようとしたところで、ふと思い出した。
ないものねだりをしても仕方がないので、今朝はご飯を食べることにする。
朝にお米を食べるなんて、いったいいつ以来だろう。
そんな、どうでもいいことをぼんやりと考えているうちに、朝の身支度は終わっていた。
『行ってきます』
玄関の鏡に向かって声をかける。
返事はない。
いつものことだ。
こうして、私、霧雨魔理沙の一日が始まった。
*
通学中だろうと、学校にいる間だろうと、私は基本的に一人である。
何故かって?
髪の色が他の人よりもやや茶色いこと。それに、病弱な体質というのが相まって、いじめのターゲットとしては格好だったのかもしれない。
何人かは、私の名前に「魔」という文字が入っていることが気持ち悪い、なんてことも言っていたかな。
いずれにしても、この生活ももう長いので、特に気にすることもなくなった。
……正確には、気にしないようにしている、という方が正しいのかもしれないけれど。
教室に着くと、私に向けられる視線はあまり居心地の良いものとは言えない。
もっとも、これもいつものことなので、今さら気にかけるまでもない。
「霧雨のやつ、今日も来やがったよ」
「風見さんに目をつけられた時点で終わりなのにね」
「でも、風見さんもやりすぎなところあるよね……」
「まあ……ね」
私が教室に入っただけで、至るところから聞こえてくるひそひそ声。
若干名、私を擁護するような人間もいるにはいる。
けれど、所詮は風見優香の周囲にいる人たちだ。
何か助け舟を出してくれるわけでもない。
もとより、期待なんてこれっぽっちもしていないけれど。
自分の席に着き、鞄を机の横にかける。
窓から差し込む朝日が、机の端を照らしていた。
ぼんやりと外を眺めていると、前の席に座る彼の背中が目に入った。
朝倉悠人。
私と同じクラスの男子で、成績は学年でも上の方らしい。
授業中に先生から指名されても、ほとんど困った様子を見せない。かといって、わざわざ自分の頭の良さをひけらかすようなこともしない。
誰かがわからない問題について尋ねれば、嫌な顔をせずに教えていることもあった。
私が彼のことを気にするようになったのは、いつからだっただろう。
たぶん、ほんの些細なことがきっかけだったのだと思う。
ある日の朝、私は教科書を一冊、家に忘れてしまった。
いつものように先生の話を聞き流しながら、隣のクラスに借りに行こうかと考えていると、前の席から声がした。
「霧雨さん、教科書ある?」
「えっ?」
「なかったら、俺の見ていいよ」
そう言って、彼は自分の机を少しだけ後ろにずらした。
「……いいの?」
「うん。俺、そこまで真面目に書き込んでないし」
彼はそう言って笑った。
私は小さく礼を言い、彼の机との間に教科書を広げた。
ただ、それだけのことだった。
その日は、それ以上何かを話したわけでもない。
それなのに、私は授業が終わるまで、彼の横顔を妙に意識してしまった。
自分でも馬鹿みたいだと思う。
たった一冊の教科書を見せてもらっただけなのに。
けれど、私にとっては、それが少しだけ特別だったのだ。
誰かに何かをしてもらうとき、私はいつも、その裏にあるものを考えてしまう。
同情なのか。
気まぐれなのか。
それとも、後で笑いものにするためなのか。
今までの経験から、そう考えることが癖になっていた。
でも、悠人は違った。
教科書を貸したことなんて、すっかり忘れてしまったような顔で、いつもどおり授業を受けていた。
私も、いつかそのくらい自然に誰かと接することができるようになるのだろうか。
……なんてね。
そんなことを考えているうちに、朝の会が始まった。
壬生先生が何かいろいろと話している。
たぶん、今度の集会についての話を中心に、簡単な連絡事項を伝えているのだろう。
おおよその予想はつくけれど、具体的なことは私の頭には何一つ入ってこなかった。
そう。ひとたび前方を見つめれば、彼の背中が見えるのだから。
朝の会が終わり、一限目、二限目と授業が過ぎていく。
正直、勉強はあまり得意な方ではない。
定期テストの成績だって、良くも悪くも真ん中付近。通知表も三を中心に、ときどき四が転がっている程度のものだ。
それに比べて、悠人は頭がいい。
先生に当てられてもすらすら答えられるし、休み時間には友達に勉強を教えていることもある。
そんな彼が、私にも何のためらいもなく声をかけてくれる。
そのことが、どうしようもなくうれしかった。
なんで私はこうも彼のことばかり考えてしまうのだろう。
この胸の中にある、破裂しそうな想いを全て出し切れたらいいのにな。
けれど、そんなことができるわけもない。
だって、もしこの気持ちを伝えてしまったら。
今までどおりに話すことすらできなくなってしまうかもしれないのだから。
そうして、チョークの音が響く教室で、私は一人、青い空を見つめていた。