新学期が始まって三日目。
朝、教室に入ると、私の机の周りに数人の女子が集まっていた。
何をしているのだろう。
そう思って近づこうとしたところで、彼女たちがこちらに気づいた。
一人が、慌てたように手元のものを鞄にしまう。
もう一人は、わざとらしく笑った。
「……あ、来た」
「じゃ、またあとでね」
彼女たちは、何事もなかったかのように自分の席へ戻っていった。
私は、少しだけ足を止めた。
机の上には、何も置かれていない。
見たところ、いつもと同じだ。
……気のせいだろうか。
そう思って鞄を置き、教科書を取り出そうとした。
そのとき、ノートが目に入った。
表紙に、黒いペンで大きく書かれている。
『魔女』
一瞬、呼吸が止まった。
昨日までは、こんなものはなかった。
少なくとも、夏休み前には。
私はノートを閉じた。
周囲を見回す。
誰もこちらを見ていなかった。
いや、正確には、見ていないふりをしていた。
斜め前の席の女子が、ちらりと私を見た。
目が合った。
彼女は、すぐに顔を逸らした。
……そうか。
私は、ゆっくりと椅子に座った。
始まったのだ。
夏休みの前と同じように。
いいや、たぶん、それ以上に。
私が悠人君と付き合っていると知ったから。
たった、それだけのことで。
『……はぁ』
ため息をつき、ノートを鞄にしまった。
授業で使うには、少し気分が悪かった。
別のノートに書けばいい。
そんなことは簡単だ。
でも、どうして私がこんなことをしなければならないのだろう。
どうして、普通に学校へ来て、普通に授業を受けることすら、こんなにも難しいのだろう。
答えは、わかっている。
この教室では、私よりも優香の方が強いからだ。
風見優香。
彼女の家がどれほどの影響力を持っているのか、私は詳しく知らない。
ただ、優香の親がPTAの中心的な立場にいるということだけは、誰もが知っていた。
先生たちは優香に強く注意しない。
誰かが優香と揉めれば、なぜか揉めた側が先生に呼び出される。
優香が何かを言えば、それが正しいことのように扱われる。
そんな場面を、私は何度も見てきた。
そして、クラスメイトたちは学んでしまったのだろう。
優香に逆らわない方がいい。
彼女の機嫌を損ねない方がいい。
自分が標的になるくらいなら、誰かが標的になっていた方がいい。
……私のような人間が、そこにいればいい。
それが、この教室で生きていくための方法になってしまったのだ。
もちろん、全員が心から優香を支持しているわけではないと思う。
実際、陰では彼女のことを怖がっている人もいる。
やりすぎだと話している人だっている。
けれど、そういう人たちは、決して私の隣には来ない。
私を見て、少しだけ申し訳なさそうな顔をする。
それだけだ。
その気持ちに、悪意はないのかもしれない。
でも、私が一人でいるという事実は、何も変わらなかった。
*
昼休み。
私は、いつものように教室の前で玲夢を待っていた。
彼女は私の顔を見るなり、眉をひそめた。
「……魔理沙、どうしたの?」
「え?」
「顔。なんか暗い」
私は、少しだけ迷った。
けれど、鞄の中からノートを取り出し、彼女に見せた。
「……これ」
玲夢は表紙を見ると、すぐに表情を変えた。
「……何、これ」
声が低くなった。
「朝、机に入ってたの?」
「ううん。机の上に置いてあった」
「誰がやったの?」
「……わからない」
そう答えたけれど、本当は少しわかっていた。
たぶん、優香の周りにいる誰かだ。
直接、彼女がやったのかもしれない。
それとも、取り巻きの一人が気を利かせたつもりでやったのだろうか。
どちらにせよ、私には確かめようがなかった。
玲夢は、ノートを見つめたまま黙っていた。
しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。
「……先生には?」
「言ってない」
「どうして?」
「……言っても、たぶん」
言いかけて、私は口を閉じた。
玲夢の前でまで、諦めたようなことを言いたくなかった。
けれど、彼女は私の言葉の続きを理解したらしい。
「……わかった」
そう言って、ノートを返してくれた。
「でも、何かあったら絶対に言うのよ。ノートだけじゃなくて、ほかにも何かされたら」
「……うん」
「アンタ、すぐ一人で何とかしようとするんだから」
「……ごめん」
「謝ることじゃないでしょ」
玲夢は、少しだけ困ったように笑った。
「まったく……」
その顔を見て、私はようやく少しだけ笑うことができた。
この子がいてくれて、本当によかった。
心の底から、そう思った。