ある日の昼休み。
私は、玲夢と一緒に校舎裏のベンチに座っていた。
彼女は、コンビニで買ってきたパンを食べながら、今日の授業について愚痴をこぼしていた。
「……ほんっと、数学って何なのかしらね」
「え、数学?」
「だってさ、何でわざわざ文字に数字を当てはめる必要があるわけ?」
「いや、それが数学だからだろ……」
「そういうことを言ってるんじゃないの!」
玲夢は、少しだけ頬を膨らませた。
私は、思わず笑ってしまった。
「……ふふっ」
「何よ、その笑い方」
「いや、玲夢って本当に面白いなって」
「失礼ね!」
そう言いながらも、彼女は少し嬉しそうだった。
こういう時間は、やっぱり好きだ。
学校では、どうしても周りの目が気になってしまう。
けれど、玲夢といるときだけは、そういうことを忘れられる。
普通に話して、普通に笑って、普通に過ごす。
それだけのことが、私にはとても大切だった。
「……そういえばさ」
玲夢が、不意に声を落とした。
「最近、風見さんが何か言ってるらしいわよ」
「……え?」
私は、思わず顔を上げた。
「何かって?」
「アンタと朝倉君のこと」
……やっぱり。
そんな予感はしていた。
「……何て?」
玲夢は、少しだけ眉をひそめた。
「詳しいことは知らないけど、あんまり面白く思ってないみたい」
「……そっか」
私は、パンの袋を指先で弄んだ。
別に、驚くことではない。
優香が私を好きではないことなんて、今に始まった話ではないのだから。
ただ、悠人君とのことが、その理由に加わった。
それだけだ。
……それだけなのに。
「ねえ、魔理沙」
玲夢が、こちらを見た。
「アンタ、朝倉君のこと、ちゃんと信じてる?」
「……え?」
急にそんなことを聞かれて、私は戸惑った。
「そ、それは……」
言葉に詰まる。
信じていないわけではない。
むしろ、誰よりも信じたいと思っている。
でも、優香の言葉が頭に残ってしまうこともある。
彼は優しい。
それは間違いない。
けれど、その優しさが、いつか自分以外の誰かに向けられる日が来るのではないか。
そんなことまで考えてしまう。
玲夢は、私の様子を見て小さく息を吐いた。
「……まあ、いいわ」
「……ごめん」
「だから、何で謝るのよ」
彼女は、苦笑した。
「私は別に、アンタが絶対に不安にならない人間になれなんて言ってないの」
「……うん」
「ただ、自分が好きになった人のことくらい、信じてあげてもいいんじゃないかなって思っただけ」
私は、黙って頷いた。
信じる。
簡単なようで、難しいことだ。
特に、今まで誰かに裏切られたり、傷つけられたりすることが多かった私にとっては。
でも、悠人君は違う。
彼は、私の話を聞いてくれる。
私が不安になったら、一緒に考えようと言ってくれる。
何度も、私の気持ちを確かめてくれた。
だったら、私も彼を信じなければならないのかもしれない。
「……うん」
私は、もう一度頷いた。
「……信じてみる」
玲夢は、それを聞いて、ようやく笑った。
「そうそう。その調子」
*
その日の放課後。
私は、教室に忘れ物を取りに戻った。
もうほとんどの生徒が帰ったあとで、教室には数人しか残っていなかった。
机の中からノートを取り出し、鞄にしまう。
帰ろうとしたところで、廊下から声が聞こえた。
「……だから、私は別にそういうつもりじゃないって」
風見さんの声だった。
何となく足が止まった。
「でもさ、風見さん、最近ちょっと変じゃない?」
別の女子が言った。
「何が?」
「……朝倉君のこと」
心臓が、どきりとした。
私は、教室の扉の陰で立ち止まっていた。
「別に、普通だけど」
優香は、何でもないことのように答えた。
「だって、ずっと仲よかったじゃん。前から、朝倉君のこと気にしてたでしょ?」
「……」
「それなのに、霧雨と付き合うなんてさ」
しばらく、沈黙があった。
私は、息をひそめた。
「……別に、あんな子が相手だとは思わなかっただけ」
優香の声が聞こえた。
その声には、いつものような余裕がなかった。
「だって、そうでしょ? 何もできないし、いつも一人でいるし。朝倉君だって、どうせ同情してるだけじゃないの?」
女子が、少しだけ困ったように笑った。
「……でも、本当に付き合ってるんでしょ?」
「……だから、何?」
優香の声が低くなった。
「……私が、面白くないって言ってるの」
それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけないような気がした。
私は、足音を立てないように、そっと教室を離れた。
廊下に出ると、胸の奥がどきどきしていた。
……そうだったんだ。
優香は、悠人君のことが好きだった。
だから、私が彼と付き合っていることが気に入らない。
それなら、今までのことにも少しだけ納得がいった。
名前のこと。
髪の色のこと。
私が一人でいること。
それらは、いじめるための理由であって、本当の理由は別にあったのかもしれない。
私が、優香の好きな人に選ばれてしまったこと。
ただ、それだけのことが。
こんなにも大きな問題になってしまうなんて。
私は、廊下の窓から外を眺めた。
夕焼けが、校庭を赤く染めていた。
……私、どうしたらいいんだろう。
もう、悠人君と付き合わなければよかった、とは思わない。
彼と一緒にいる時間は、本当に幸せだから。
でも、その幸せが誰かを怒らせているのなら。
そのせいで、何かが悪くなっていくのなら。
私は、どうすればいいのだろう。
答えは、まだ出なかった。