翌日の放課後。
私は、教室に忘れ物を取りに戻った。
宿泊学習に提出する書類を、机の中に置きっぱなしにしていたのだ。
教室には、もうほとんど人が残っていなかった。
窓際の席に夕日が差し込んでいる。
私は自分の机から書類を取り出し、鞄にしまった。
そのとき、廊下から声が聞こえた。
「ねえ、朝倉君」
風見優香の声だった。
私は、思わず手を止めた。
「宿泊学習の準備、もう終わった?」
「え? ああ、だいたいね」
悠人君の声。
どうやら、二人は廊下で話しているらしい。
「そうなんだ。私、まだ全然終わってなくてさ」
「そうなの?」
「うん。荷物とか、何を持っていけばいいのかわからないし」
優香は、楽しそうに笑った。
「ねえ、朝倉君って、こういうの得意そうじゃない?」
「いや、別に普通だと思うけど」
「えー、そんなことないでしょ。勉強もできるし、何でもちゃんとしてそうだし」
「……そうかな」
悠人君は、少し困ったように笑っていた。
私は、机の横に立ったまま、じっと耳を澄ませていた。
別に、二人が話すこと自体は悪いことではない。
同じクラスなのだから、話をすることくらいあるだろう。
優香が彼を好きなのだとしても、彼が誰と話すかは彼の自由だ。
……そんなことは、わかっている。
わかっているのに。
どうして私は、こんなにも嫌な気持ちになるのだろう。
「……あ、そうだ」
優香の声が、少しだけ弾んだ。
「朝倉君、今度の宿泊学習なんだけどさ」
「うん?」
「夜のレクリエーションのあと、少しだけ話せない?」
……え?
私は、思わず息を止めた。
「話す?」
「うん。ちょっと相談したいことがあって」
「……何の?」
「それは、そのときに」
優香は、意味ありげに笑った。
「ね?」
少しの沈黙。
私は、胸の鼓動が速くなっているのを感じた。
嫌だ。
そんなふうに思ってしまった。
彼が、何と答えるのか。
どうしても気になった。
「……ごめん。夜は、班の仕事とかもあるだろうし」
悠人君は、少し考えてから答えた。
「相談なら、今聞くよ」
「……そっか」
優香の声が、一瞬だけ低くなった。
けれど、すぐにまた明るくなる。
「じゃあ、いいや。また何かあったらお願いするね」
「うん」
足音が遠ざかっていく。
私は、ようやく息を吐いた。
……何をやっているのだろう、私は。
聞き耳を立てるなんて。
自分でも、少し嫌になった。
悠人君は、何も悪いことをしていない。
優香だって、今のところは普通に話しかけただけだ。
それなのに、私は勝手に不安になって、勝手に嫌な想像をしている。
こんな自分は、あまり好きではなかった。
私は、鞄を持ち、教室を出た。
廊下には、もう誰もいなかった。
*
帰り道。
私は、悠人君と一緒に歩いていた。
先ほどのことを聞くべきかどうか、ずっと迷っていた。
けれど、黙っているのも嫌だった。
「……ねえ、悠人君」
「ん?」
「……さっき、優香と話してたよね」
口にした瞬間、少しだけ後悔した。
まるで、彼を責めているように聞こえたかもしれない。
「……ああ、うん」
悠人君は、特に隠す様子もなく答えた。
「宿泊学習のことで、何か相談したかったみたい」
「……そっか」
私は、俯いた。
「……何か、嫌だった?」
彼が尋ねてきた。
私は、少しだけ驚いた。
「え?」
「俺が風見さんと話してたこと」
私は、すぐには答えられなかった。
嫌だった。
正直に言えば、そうだった。
でも、そう答えたら、彼を束縛してしまうような気がした。
彼が誰と話すかまで、私が決めていいわけではない。
「……嫌、というか」
言葉を探す。
「……ちょっとだけ、不安になった」
ようやく、それだけ言えた。
悠人君は、静かに頷いた。
「……そっか」
「……ごめんね。変なこと言って」
「だから、謝らなくていいよ」
彼は、少しだけ笑った。
「不安になること自体は、悪いことじゃないと思う」
「……うん」
「ただ、俺が誰と話したかだけじゃなくて、俺がどうしたいのかも見てほしいな」
私は、顔を上げた。
「……どういうこと?」
「俺は、魔理沙さんと付き合ってるんだよ」
彼は、当たり前のことを言うように続けた。
「風見さんに話しかけられたからって、それで何か変わるわけじゃない」
私は、しばらく黙っていた。
その言葉が、胸の中にゆっくりと落ちていく。
そうだ。
彼は、私を選んでくれた。
私が怖がっているからといって、彼の気持ちまで疑ってしまうのは違うのかもしれない。
「……うん」
私は、小さく頷いた。
「……ありがとう」
「うん」
彼は、私の手を取った。
私は、その手を握り返した。
さっきまで胸の中にあった不安が、少しだけ小さくなっていた。