今振り返れば、午後の授業は最悪だった。
数学の授業で、運悪く私の番が回ってきてしまったのだ。
黒板の前に立ち、チョークを手に取る。
けれど、問題を前にすると、頭の中が真っ白になってしまった。
確かに数学は苦手な科目ではある。
それでも、解き方くらいはわかっていたはずなのに。
どうしてだろう。
黒板を見つめたまま、二度、三度と立ち尽くしていると、不意に声がした。
「先生。霧雨さんが答えられないようなので、私が代わりにやりましょうか?」
風見優香だった。
人を助けるための声ではなかった。
少なくとも、私にはそう聞こえた。
その声には、どこか嬉しそうな響きが混じっていた。
「んじゃあ、風見頼んだ。霧雨、しっかり勉強しろよー」
壬生先生は、特に気にする様子もなく優香に場所を譲った。
私は小さく頭を下げ、自分の席へ戻る。
席に着く直前、優香と目が合った。
彼女はほんの一瞬だけ、こちらに笑いかけた。
……ああ、もう。
本当に、嫌になる。
その後の授業も、ろくに頭に入ってこなかった。
ただ、早く帰りたかった。
誰とも話さず、誰にも顔を見られず、家に帰ってしまいたかった。
けれど、その日の放課後、そんなささやかな願いすら叶わなかった。
「霧雨。ちょっと来い」
担任に呼び止められたのだ。
何事かと思って職員室へ向かうと、壬生先生は手元の書類を見ながら言った。
「今日の放課後、プールサイドの掃除を頼まれてくれないか」
「……え?」
「プールの使用準備で、周辺が少し汚れているらしい。風見から、君が担当することになっていると聞いてな」
思わず顔を上げた。
「私、そんなこと……」
「ん? 違うのか?」
先生の問いに、言葉が詰まる。
違う。
私は何も引き受けていない。
そもそも、プール掃除の当番ですらなかったはずだ。
「……いえ」
けれど、その先を言うことができなかった。
先生はもう次の書類に目を落としている。
ここで違うと言ったところで、誰が信じてくれるのだろう。
風見優香がそう言った。
それだけで、私が何を言っても言い訳だと思われるのではないか。
「頼んだぞ。終わったら鍵を職員室に返しておいてくれ」
「……はい」
結局、私はそう答えることしかできなかった。
職員室を出ると、廊下の向こうに優香たちの姿が見えた。
彼女たちは私に気づくと、顔を見合わせて笑った。
「ちゃんと掃除しなさいよ、霧雨さん」
「せっかくだから、隅々まできれいにしてね」
優香は、にこやかな顔でそう言った。
「……」
何も言い返せなかった。
反論したところで、きっとまた面白がられるだけだ。
私は黙って歩き出した。
背中の方から、笑い声が聞こえてきた。