4. プールサイド
放課後の校舎は、昼間とはずいぶん違った顔をしていた。
運動部の掛け声が遠くから聞こえる。
校庭からは、ボールを蹴る音や、誰かが笑う声が風に乗って届いてくる。
本来なら、私もとっくに帰っている時間だった。
なのに、どうして私はこんなところで、誰も使っていないプールの掃除なんてしているのだろう。
『……はぁ』
ため息をつき、バケツの水を替える。
プールサイドには、砂や枯れ葉が散らばっていた。
デッキブラシを動かすたび、水が跳ねて制服の裾を濡らしていく。
手際よく終わらせて帰ろう。
そう思っていたのだけれど、そもそも一人でやるには範囲が広すぎた。
しかも、今日は朝から少し体調がよくない。
無理をすれば、また熱を出してしまうかもしれない。
……いや、そんなことを考えても仕方がないか。
誰も代わってくれないのだから。
私はブラシを持ち直し、再び床をこすり始めた。
しばらくして、後ろから足音が聞こえた。
「……霧雨さん?」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると、そこには朝倉悠人が立っていた。
「……えっ?」
どうして。
こんな時間に。
どうして、彼がここにいるのだろう。
「朝倉君? どうしたの?」
「いや、ちょっと忘れ物を取りに来たんだけど……」
彼の視線が、私の手元に移った。
バケツ。
デッキブラシ。
濡れた制服の裾。
そして、誰もいないプール。
「……もしかして、ずっと一人で掃除してたの?」
「うん。ちょっと頼まれてね」
「ちょっとって……」
彼は眉をひそめた。
「それ、今日中に終わるの?」
「まあ、頑張れば……」
そう答えたものの、自分でも無理があると思った。
悠人はしばらく黙っていた。
それから、持っていた鞄をプールサイドの端に置いた。
「じゃあ、俺も手伝うよ」
「……え?」
「一人でやるの大変でしょ」
「いや、でも……」
思わず周囲を見回してしまう。
誰かに見られたら。
優香たちに知られたら。
彼まで、私と同じように何か言われてしまうかもしれない。
「大丈夫だよ。俺、こういう掃除は嫌いじゃないし」
「でも……朝倉君まで、こんなことしなくていいよ」
「俺が手伝いたいから、手伝うんだよ」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
彼は、まるで当たり前のことをするようにデッキブラシを手に取った。
「これ、どうやって使えばいい?」
「……えっ、知らないの?」
「掃除はするけど、プールサイドは初めて」
「ふふっ……何それ」
思わず笑ってしまった。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
悠人は少しだけ安心したように笑った。
「よかった。やっと笑ってくれた」
「……え?」
「今日、朝からずっと元気なかったから」
そう言って、彼はブラシを動かし始めた。
私は、その横顔を見つめていた。
どうしてだろう。
何か特別なことをしてもらったわけではない。
ただ、掃除を手伝ってくれているだけ。
それなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
*
掃除を始めてから、三十分ほどが経った。
プールサイドの床は、先ほどよりもずっときれいになっていた。
「……これで、だいぶ終わったかな」
「うん。あと少しだね」
二人で最後の枯れ葉を集め、バケツの水を捨てた。
これで、ようやく帰れる。
そう思ったところで、私はふと気になっていたことを口にした。
「……ねえ、朝倉君」
「ん?」
「どうして、手伝ってくれたの?」
彼は手を止めた。
「どうしてって……」
「だって、私が一人でやることになってたんだよ。朝倉君には関係ないじゃん」
「まあ、そうだけど」
彼は少し考えてから、困ったように笑った。
「一人で大変そうだったから、かな」
「……それだけ?」
「うん。それだけじゃ駄目?」
私は首を横に振った。
駄目なわけがない。
むしろ、それだけの理由で手伝ってくれる人がいることが、私には信じられなかった。
「……ありがと」
「どういたしまして」
彼は、いつものように自然に笑った。
その笑顔を見ていると、もう少しだけ話していたいと思ってしまう。
帰りたくないわけではない。
ただ、この時間が終わってしまうのが、少しだけ惜しかった。
「……ねえ、朝倉君」
「うん?」
「私って、そんなに変かな」
気づけば、そんなことを聞いていた。
悠人は驚いた顔をした。
「……急にどうしたの?」
「いや……その」
私は、プールの水面を見つめた。
夕日が反射して、オレンジ色の光が揺れている。
「私、よく変だって言われるからさ」
自分で口にして、少しだけ嫌な気持ちになった。
本当は、こんなことを聞きたいわけではなかった。
彼にまで、そんなことを言わせたかったわけでもない。
「名前もそうだし、髪の色もそうだし……。体も弱いし、勉強もそこまでできないし」
「……」
「だから、私と話してても楽しくないんじゃないかなって。たまに思うんだ」
言ってしまった。
ずっと心の中にしまっていたことを、こんなにも簡単に。
どうしてだろう。
彼の前では、少しだけ素直になれてしまう。
悠人はすぐには答えなかった。
少し考えるように視線を落とし、それから私を見た。
「俺は、霧雨さんと話すの、好きだよ」
「……え?」
あまりにも自然な言葉だったので、すぐには意味がわからなかった。
「霧雨さんと話してると、なんか楽しいし。もっと話したいって思う」
「……」
「だから、変だとか、そういうのはよくわからないけど……少なくとも、俺はそう思ってないよ」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
うれしかった。
とても、とても。
でも、同時に怖かった。
こんなことを言ってくれる人がいるなんて、思っていなかったから。
私は、うまく笑えなかった。
「……そっか」
それだけ答えるのが精一杯だった。
悠人は、少しだけ困った顔をした。
そして、何かを決心したように息を吸った。
「……霧雨さん」
「ん?」
「俺、前から言おうと思ってたことがあるんだ」
彼の表情が、いつもと違っていた。
少し緊張しているように見えた。
それを見て、私まで緊張してしまう。
「……何?」
「俺さ、霧雨さんのことが好きなんだ」
……え?
「……えっ?」
間の抜けた声が出た。
自分でも驚くほど、何も考えられなかった。
悠人は少し顔を赤くしながら、それでも真っすぐに私を見ていた。
「最初は、よくわからなかったんだけど……。話すようになってから、もっと一緒にいたいなって思うようになって」
「……」
「もしよかったら、俺と付き合ってほしい」
言葉が、頭の中を何度も反響した。
好き。
付き合ってほしい。
それは、私がずっと望んでいたことだった。
誰かに好きになってもらうこと。
私のことを、私自身として見てもらうこと。
それが、今、目の前で起きている。
なのに。
どうして私は、すぐに返事ができないのだろう。
「……私で、いいの?」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
悠人は少し驚いた顔をした。
「もちろん」
「でも、私……」
「うん」
「風見さんたちに、いじめられてるし……。私と付き合ったら、朝倉君まで何か言われるかもしれないよ」
それだけは、どうしても気になった。
自分が嫌な思いをするのは、もう慣れている。
けれど、彼まで巻き込んでしまうのは嫌だった。
せっかく、私に優しくしてくれる人なのに。
その優しさのせいで、彼が傷つくことになったら。
そんなの、耐えられない。
悠人は、少しだけ目を伏せた。
「……そうだね。何か言われるかもしれない」
私は、思わず顔を上げた。
てっきり、そんなことは気にしないとでも言ってくれるのかと思っていた。
けれど、彼は現実から目を背けなかった。
「でも、それで霧雨さんと話さないようにしようとは思わなかったんだ」
「……」
「俺は、霧雨さんのことが好きだから」
その言葉が、胸に深く染み込んでいった。
「だから、周りがどう思うかじゃなくて……霧雨さん自身が、どうしたいかを聞きたい」
私は、何も言えなかった。
彼は返事を急かさなかった。
ただ、私が考える時間をくれた。
「……すぐには、答えられないかもしれない」
ようやくそう言うと、彼は小さく頷いた。
「うん。待ってるよ」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
彼は、いつもの笑顔で言った。
「ちゃんと考えてくれたら、それでいいから」
その優しさが、今は少しだけ苦しかった。
私は、彼のことが好きだ。
それは、もう間違いない。
でも、付き合うということがどういうことなのか、私にはまだよくわからなかった。
好きという気持ちだけで、進んでしまっていいのだろうか。
彼を、傷つけてしまわないだろうか。
私は、いったいどうしたらいいのだろう。
夕焼けに染まるプールサイドで、答えの出ない問いばかりが頭の中を巡っていた。