目覚ましが鳴るよりも少し早く、私は目を覚ました。
普段なら、朝は比較的強い方だ。けれど、今日は違った。
昨日の夜、玲夢の家から帰ってきてからというもの、どうにも落ち着かなかったのだ。
何度も時計を確認して、何度も明日のことを考えて、そのたびに布団の中で寝返りを打った。
眠れなかったというほどではない。
ただ、目を閉じると、どうしても彼の顔が浮かんできてしまう。
『……はぁ』
私は枕に顔を埋めた。
昨日、私は玲夢に言った。
朝倉君と付き合いたい、と。
あのときは確かにそう思ったのだ。カードの結果がどうであれ、自分の気持ちを誤魔化すのはもうやめよう、と。
それなのに、いざ当日がやってくると、急に怖くなってしまうのだから不思議なものだ。
本当に、私なんかでいいのだろうか。
彼は、きっと優しい人だ。
私が困っていたら助けてくれるし、私が話せばちゃんと聞いてくれる。昨日だって、返事を急かすことなく待ってくれた。
けれど、それは彼が優しいからであって、私が特別だからではないのかもしれない。
もし、私と付き合ってから、彼が後悔するようなことになったら。
もし、彼まで風見さんたちに目をつけられてしまったら。
……いや。
まただ。
また、同じことを考えている。
『もう……!』
私は勢いよく上半身を起こした。
『考えても仕方ないだろ……』
そう。考えたところで答えは出ない。
だったら、もう自分の気持ちに従うしかないじゃないか。
私はベッドから降り、制服に着替え始めた。
鏡の前で髪を整え、鞄を持つ。
いつものように、玄関の鏡に向かって声をかける。
『行ってきます』
今日は、いつもより少しだけ声が弾んでいた。
*
学校に着いてからも、私は何度も彼の方を見てしまった。
前の席に座る悠人は、いつもどおりだった。
友達と話し、授業の準備をし、先生が来ると教科書を開く。
昨日、あんなことを言ってくれた人と同じ人物なのだろうか。
いや、もちろん同じ人なのだけれど。
何だか、それまでとは少し違って見えてしまう。
『……落ち着け、私』
小さく呟いて、教科書を開いた。
一時間目。
二時間目。
休み時間。
何度か目が合いそうになったけれど、結局、私は話しかけることができなかった。
向こうも、こちらを気にしているようだった。
けれど、無理に話しかけてくることはなかった。
そのことに、私は少しだけ救われた。
そして、放課後。
帰りの会が終わり、クラスメイトたちが次々と教室を出ていく。
私は、鞄を持って立ち上がった。
「……朝倉君」
声をかけると、彼はすぐに振り向いた。
「ん? どうしたの?」
「あの……少し、話せるかな」
言いながら、心臓が大きく鳴った。
彼は一瞬だけ驚いたようだったけれど、すぐに頷いた。
「うん。大丈夫だよ」
私たちは、誰もいなくなりかけた教室を出た。
向かった先は、昨日と同じプールサイドだった。
掃除をしたときに比べれば、ずっときれいになっている。
水面は静かで、空の青さをそのまま映していた。
私は、フェンスの近くで立ち止まった。
「……昨日は、ごめんね」
「え?」
「せっかく告白してくれたのに、すぐに返事できなくて」
「ああ、そのことか」
悠人は、少し照れくさそうに笑った。
「気にしてないよ。ちゃんと考えてくれたなら、それでいいし」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
本当に、この人は優しい。
だからこそ、私はちゃんと伝えなければならないと思った。
自分の気持ちを。
他の誰でもない、自分の言葉で。
「……あのね」
「うん」
「私、昨日、玲夢に相談したんだ」
「博麗さんに?」
「うん。どうしたらいいか、わからなくて……」
恥ずかしくなって、私は俯いた。
「それで、占いまでしてもらった」
「占い?」
「……タロットカード」
言ってしまった。
どうしよう。
笑われるだろうか。
そう思って恐る恐る顔を上げると、悠人は少し驚いたあと、楽しそうに笑った。
「へえ。そんなことまでしたんだ」
「う、うん……」
「それで、結果は?」
「……悪くなかった」
「そっか」
彼は、それ以上何も聞かなかった。
占いがどうだったのか、本当はどう思ったのか。
そういうことを、無理に聞き出そうとはしなかった。
ただ、私が話したいことだけを聞いてくれる。
その優しさに背中を押されて、私はようやく顔を上げた。
「……私も」
「うん?」
「私も、朝倉君のことが好きです」
言葉にした瞬間、顔が熱くなった。
それでも、目を逸らさないように頑張った。
「だから……私でよかったら、付き合ってください」
最後の方は、ほとんど聞こえないくらいの声になってしまった。
けれど、彼にはちゃんと届いたらしい。
「……本当に?」
悠人は、少し目を見開いていた。
私は、小さく頷いた。
「……うん」
その瞬間、彼の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、魔理沙さん!」
あまりにも嬉しそうに言うものだから、私は思わず笑ってしまった。
「な、何だよ……そんなに喜ばなくても」
「いや、だって……!」
彼は少し言葉に詰まり、それから照れたように頭を掻いた。
「……正直、断られるかもしれないって思ってたから」
「……え?」
「だから、すごく嬉しい」
その言葉を聞いて、私は胸がいっぱいになった。
彼も、不安だったのだ。
私ばかりが悩んでいたわけではなかった。
そう思うと、少しだけ不思議な気持ちになった。
「……私も、すごく嬉しいよ」
そう答えると、彼は照れくさそうに笑った。
しばらく、二人とも何も言えなかった。
水の音が、遠くから小さく聞こえてくる。
何か話さなければと思うのに、何を話せばいいのかわからない。
今まで何度も言葉を交わしてきたはずなのに、たった一つの約束をしただけで、こんなにもぎこちなくなってしまうなんて。
「……えっと」
先に口を開いたのは、悠人だった。
「これから、よろしくね」
「……うん。よろしく」
また、二人で笑った。
何だか、すごく恥ずかしかった。
けれど、嫌な恥ずかしさではなかった。
私は、もう一度プールの水面を見た。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ空。
なのに、今日の景色は少しだけ違って見えた。
私は、朝倉悠人の彼女になったのだ。
まだ実感は湧かない。
だけど、その事実がどうしようもなく嬉しかった。
*
校門を出たところで、悠人が私を呼び止めた。
「魔理沙さん」
「ん?」
「……手、つないでもいい?」
私は一瞬、固まってしまった。
手。
手をつなぐ。
それは、恋人同士なら普通のことなのだろう。
ドラマでも、漫画でも、何度も見たことがある。
なのに、いざ自分のことになると、どうしてこんなにも緊張するのだろう。
「……う、うん」
小さく頷く。
悠人は、少しだけためらったあと、そっと私の手に触れた。
指先が重なる。
それから、ゆっくりと手のひらが重なった。
温かかった。
思っていたよりも、ずっと。
私は、ぎゅっと握り返した。
すると彼も、少しだけ力を込めてくれた。
「……嫌じゃない?」
「……嫌なわけないだろ」
思わず、そんな言葉が出てしまった。
悠人は笑った。
「そっか。よかった」
夕方の道路を、二人で歩いていく。
まだ、何も変わっていない。
明日になれば、また学校が始まる。
風見さんたちは、相変わらず私をいじめるのだろう。
クラスメイトたちも、今までどおりなのかもしれない。
それでも。
私の手には、温かさがあった。
それだけで、もう少し頑張れるような気がした。