付き合い始めてから、三日が経った。
……三日。
たった三日である。
なのに、私には随分と長い時間に感じられた。
毎朝、学校に行くのが少しだけ楽しみになった。
休み時間に彼と話せるかもしれない。
帰り道が一緒になるかもしれない。
そんなことを考えるだけで、自然と足取りが軽くなる。
もちろん、学校そのものが楽しくなったわけではない。
教室では相変わらず、私に向けられる視線がある。
誰かが小さく笑い、誰かがひそひそと話す。
風見優香は、私を見かけるたびに意味ありげな目を向けてくる。
それでも、悠人がいるという事実は、私の中で大きな支えになっていた。
そして、付き合い始めて最初の土曜日。
私たちは、初めてのデートに出かけることになった。
行き先は、駅前のショッピングモールと映画館。
特別な場所ではない。
けれど、私にとっては、その日を迎えるまでが一大イベントだった。
*
朝。
私は、鏡の前で悩んでいた。
「……何着ていこう」
普段なら、服なんて着られれば何でもいいと思っている。
でも今日は違う。
せっかくのデートなのだ。
少しくらい、おしゃれをしてみたい。
けれど、あまり気合いを入れすぎても変に思われるかもしれない。
かといって、いつもと同じ格好ではつまらない。
……いや、そもそも、私が何を着ようと、彼は気にしないかもしれない。
いやいや、でも。
そんなことを延々と考えた結果、家を出る時間が近づいてしまった。
結局、白いブラウスに淡い水色のスカートを合わせ、髪をいつもより丁寧に梳かした。
鏡に映る自分を見る。
『……変じゃないよな?』
返事はない。
当たり前だ。
私は小さく息を吐き、鞄を持った。
『行ってきます』
*
待ち合わせの駅に着いたのは、約束の十五分前だった。
早すぎる。
わかっている。
けれど、家にいても落ち着かなかったのだから仕方がない。
改札前で人の流れを眺めていると、少し離れたところに悠人の姿が見えた。
紺色のシャツに、黒いズボン。
学校で見るときよりも、少しだけ大人っぽく見える。
彼も私に気づいたようで、手を上げた。
「おはよう、魔理沙さん」
「お、おはよう!」
彼は私の服を見て、少しだけ目を細めた。
「……その服、似合ってるね」
「えっ」
「かわいいと思う」
頭が真っ白になった。
「そ、そそ、そういうこと急に言うなよ……!」
思わず声が裏返った。
悠人は驚き、それから笑った。
「ごめん。嫌だった?」
「嫌じゃない!」
また声が大きくなった。
周囲の人が何人か振り向いたので、私は慌てて顔を伏せた。
悠人は、そんな私を見て楽しそうに笑っていた。
……もう。
本当に、ずるいと思う。
こんなことで喜んでしまう私も、私だけれど。
「じゃあ、行こうか」
「……うん!」
私たちは並んで歩き始めた。
付き合う前も、何度かこうして二人で話したことはある。
でも、今日は違う。
隣を歩いている彼が、私の彼氏なのだ。
そう考えるたびに、顔が熱くなってしまった。
*
映画館では、何を見るかを決めるだけで、しばらく時間がかかった。
「魔理沙さん、何か見たいのある?」
「うーん……」
私は上映案内を見上げた。
恋愛映画、アクション映画、アニメ映画。
どれも面白そうに見える。
「……せっかくだし、恋愛映画とか?」
「おっ、いいね」
「……え?」
「え?」
一瞬、二人とも黙った。
恋愛映画。
恋人同士で。
……なんだか、急に恥ずかしくなってきた。
「い、いや! 別に、そういう意味じゃなくて……!」
「うん?」
「……いや、何でもない」
何でもなくない。
むしろ、ものすごく意識している。
悠人は、そんな私を見て笑いをこらえていた。
「じゃあ、それにしようか」
「……うん」
チケットを買い、飲み物を買い、上映開始を待つ。
映画の内容は、思っていたよりもずっとよかった。
主人公の女の子が、好きな男の子に気持ちを伝えられずに悩む話だった。
……何だか、他人事とは思えなかった。
隣を見ると、悠人は真剣な顔でスクリーンを見ていた。
その横顔を見ていると、不意に、付き合う前のことを思い出した。
私は、ずっと悩んでいた。
好きだと伝えて、嫌われるのが怖かった。
今までどおりに話せなくなるのが怖かった。
でも、伝えたからこそ、今ここにいられる。
自分の気持ちを伝えることは、怖いことばかりではないのかもしれない。
映画が終わり、明るくなった館内で、悠人がこちらを向いた。
「……どうだった?」
「うん。面白かった」
「そっか。俺も」
少しだけ、沈黙が流れた。
それから、彼は小さく笑った。
「……主人公の気持ち、ちょっとわかる気がした」
「えっ?」
「好きって言うの、結構勇気いるんだなって」
私は、思わず彼を見つめた。
彼も、少し恥ずかしそうに笑った。
「……いや、今さらだけどね」
「……うん」
そうだ。
今さらなのだ。
私たちは、もう付き合っている。
なのに、こうして少しずつ、お互いのことを知っていく。
それが、何だか不思議だった。
*
お昼は、映画館の近くにある小さな洋食屋に入った。
私はハンバーグセット、悠人はオムライスを注文した。
「……ねえ、悠人君」
「ん?」
私は、注文した料理が届くのを待ちながら、少しだけ考えていたことを口にした。
「悠人君って、どうして私のこと好きになったの?」
彼は、少し驚いたようだった。
「どうしてって……」
「だって、私、そんなにいいところないし」
口にしてから、しまったと思った。
せっかく楽しいデートをしているのに。
何を聞いているのだろう。
でも、一度気になり始めると、どうしても止められなかった。
彼は、しばらく考えていた。
「……うまく言えないんだけど」
「うん」
「最初は、もっと話してみたいと思ったんだよね」
「……」
「教科書を貸したときも、ちゃんとお礼を言ってくれたし。話してみると、意外とよく笑うし」
「意外とって……」
「ごめん、ごめん」
彼は笑った。
「でも、学校で一人でいるときの霧雨さんを見てると、何か気になってさ」
その言葉に、胸が少しだけ痛くなった。
「……かわいそうだから?」
「違うよ」
悠人は、すぐに否定した。
「かわいそうだから付き合いたいなんて、思ってない」
私は、顔を上げた。
彼は、真剣な顔をしていた。
「俺は、魔理沙さんと一緒にいると楽しいし、もっといろんなことを知りたいと思った。それだけじゃ駄目かな?」
「……」
「それに、俺が好きになったのは、誰かにいじめられてる魔理沙さんじゃなくて、魔理沙さん自身だから」
言葉が、出てこなかった。
私は、ずっと気にしていた。
誰かに同情されているのではないか。
一人でいる私を見て、かわいそうだと思っただけなのではないか。
でも、彼は違うと言ってくれた。
私自身を好きになったのだと。
その言葉が、どうしようもなくうれしかった。
「……ありがとう」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「ん?」
「……何でもない」
私は、顔を伏せた。
本当は、もっといろいろと言いたかった。
けれど、うまく言葉にできなかった。
その代わりに、私は目の前に届いたハンバーグをひと口食べた。
……おいしい。
いつもと同じような料理なのに、今日は少しだけ違う味がした。
*
午後は、ショッピングモールを歩き回った。
本屋に寄って、雑貨屋を覗いて、ゲームセンターにも入った。
悠人はクレーンゲームが驚くほど下手で、私は隣で笑いすぎてお腹が痛くなった。
「……いや、今のは絶対取れたと思ったんだけどな」
「いやいやいや! 全然違うところに引っかかってたじゃん!」
「次こそはいける」
「さっきも同じこと言ってたぞ?」
そう言いながら、私もつい挑戦してしまう。
結果は、二人そろって惨敗だった。
それでも、楽しかった。
ただ一緒に歩いて、同じものを見て、くだらないことで笑う。
それだけなのに、どうしてこんなに楽しいのだろう。
夕方になり、駅へ向かう途中、悠人がふと立ち止まった。
「……魔理沙さん」
「ん?」
「手、つないでもいい?」
私は、少しだけ笑ってしまった。
「……さっきも聞いてたじゃん」
「いや、今日はまだ、ちゃんと聞いてなかったから」
「……何だよ、それ」
そう言いながらも、私は手を差し出した。
彼は、そっと私の手を握った。
温かい。
その温かさに、少しだけ安心する。
駅までの道を、二人でゆっくり歩いた。
夕焼けが、街並みを淡いオレンジ色に染めていた。
私は、この時間がずっと続けばいいと思った。
でも、同時に、少しだけ怖くもなった。
こんなに幸せでいいのだろうか。
いつか、この幸せがなくなってしまったら。
そのとき、私はどうなってしまうのだろう。
……まただ。
せっかく楽しい時間を過ごしたのに、私はすぐに悪い方へ考えてしまう。
そんな自分が、少し嫌になった。
けれど、隣を歩く悠人が、握った手にほんの少し力を込めた。
「……魔理沙さん?」
「……ん?」
「疲れた?」
「ううん。大丈夫」
私は、笑ってみせた。
本当は、少しだけ不安だった。
でも、今はまだ、その不安をすべて言葉にする勇気がなかった。
だからせめて、この手の温かさだけは、覚えておこうと思った。