魔法少女おりこ☆マギカ ショートストーリー   作:呉キリカ愛好海老

1 / 3
雨の後には甘いものを

 

一 嵐の置き土産

 

 ワルプルギスの夜が去った翌朝、美国織莉子は、窓の向こうに広がる街を眺めていた。

 

 空はまだ曇っていた。

 

 昨夜までの暴風雨が嘘のように静まっているものの、雨雲は厚く、遠くの空まで見通すことはできない。濡れた道路には折れた枝が散乱し、ところどころに水たまりが残っている。倒れた街路樹を囲むように人々が集まり、壊れた看板を見上げている姿もあった。

 

 魔法少女としての戦いは終わった。

 

 少なくとも、昨夜の襲来については。

 

 しかし、街に残されたものまで、戦いが終わった途端に消えてなくなるわけではない。

 

 織莉子は窓から離れ、卓上に置かれたティーカップを手に取った。昨晩から何度も淹れ直している紅茶は、とうに冷めている。

 

 口をつける気にはならなかった。

 

 ふと、視界の端が揺れた。

 

 濡れた床。崩れた壁。割れた窓ガラス。その向こうに、雨に打たれながら立ち尽くす少女の姿。

 

 黒い髪。

 

 見慣れた横顔。

 

 そして、こちらを向こうとする直前の、ほんのわずかな動き。

 

 織莉子は目を閉じた。

 

 次に目を開けたとき、そこにあったのは見慣れた自宅の居間だった。

 

 カップの中の紅茶は冷めている。時計の針は、先ほどからほとんど進んでいないように感じられた。

 

 予知。

 

 いつ訪れるのかも、何をきっかけにするのかも、織莉子には選べない。

 

 未来の断片が勝手に差し込んでくる。それが何を意味するのか、いつ起こるのか、そもそも必ず起こる未来なのか。見ただけでは分からないことも多い。

 

 だからこそ、今の光景を見ただけで、キリカの家がどうなったのかを断定することはできなかった。

 

 けれど。

 

「……キリカ」

 

 彼女の顔を思い浮かべる。

 

 織莉子は立ち上がった。

 

 電話をかけようとした、そのときだった。

 

 携帯電話が震えた。

 

 画面に表示された名前を見て、織莉子は小さく息をついた。

 

『織莉子、今いい?』

 

 短いメッセージだった。

 

 続けて、もう一通。

 

『ちょっと、困ったことになった』

 

 織莉子はすぐに返信した。

 

『どうしたの?』

 

 返事はなかなか来なかった。

 

 数分が経ち、もう一度携帯電話が震える。

 

『家がさ。思ってたより、ずっとひどい』

 

 織莉子は窓の外を見た。

 

 雨は上がっている。

 

 けれど、昨夜の嵐が残していったものは、まだあちこちにある。

 

『今、どこにいるの?』

 

『家の前。近所の人と話してる。中には入れないって』

 

 そこでメッセージが途切れた。

 

 織莉子は上着を手に取った。

 

 そのとき、また携帯電話が震える。

 

『……ごめん。ちょっとだけ、そっちに行ってもいい?』

 

 織莉子は、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

 ちょっとだけ。

 

 キリカらしい言い方だった。

 

 頼ることを決めたはずなのに、いざ言葉にすると、相手の負担を気にしてしまう。

 

 織莉子は返信を打った。

 

『もちろん。すぐに来て』

 

 少し考えてから、もう一通。

 

『ちょっとだけでなくても、構わないわ』

 

 送信してから、織莉子は自分の言葉を読み返した。

 

 これでよかったのだろうか。

 

 もっと気の利いたことを言えたのではないか。

 

 そんな考えが浮かんだものの、答えは出なかった。

 

 代わりに、彼女は玄関へ向かった。

 

 キリカが来る。

 

 それならば、まずは温かいお茶を用意しよう。

 

 それから、食事のことも考えなければならない。

 

 いつものように自分一人の生活を考えるのではなく、もう一人分。

 

 そう思ったとき、織莉子は自分の胸の奥に、妙に落ち着いた温かさがあることに気づいた。

 

 不謹慎なのかもしれない。

 

 キリカの家が被害を受けたというのに、彼女が自分の家へ来ることを、こんなにも自然に嬉しいと思ってしまうのだから。

 

 けれど、その気持ちを無理に否定することもできなかった。

 

 織莉子は台所へ戻り、湯を沸かし始めた。

 

 せめて、ここにいる間くらいは。

 

 彼女が安心して過ごせる場所にしよう。

 

 そう決めた。

 

     *

 

 キリカが到着したのは、それから一時間ほど経った頃だった。

 

 玄関のチャイムが鳴る。

 

 織莉子が扉を開けると、そこには大きな鞄を肩にかけたキリカが立っていた。

 

 いつもと変わらない黒い服。いつもと変わらない髪型。

 

 けれど、顔には疲れがにじんでいた。

 

「……やあ、織莉子」

 

「いらっしゃい、キリカ」

 

 織莉子は自然にそう言った。

 

 キリカは一瞬、目を瞬かせた。

 

「……なんか、普通だね」

 

「普通?」

 

「いや、ほら。もっとこう……大丈夫かとか、心配したとか、そういうのがあると思ってた」

 

「心配しているわ」

 

「うん。それは分かるけど」

 

 キリカは視線をそらした。

 

「……なんていうか、ちょっと安心した」

 

 織莉子は微笑んだ。

 

「それなら、よかったわ」

 

 キリカは靴を脱いで、玄関に上がった。

 

 そのとき、肩にかけた鞄がずり落ちそうになり、慌てて持ち直す。

 

「荷物、それだけ?」

 

「着替えと、必要なものを少し。家に入れないから、持ち出せたものも限られてるんだ」

 

「そう……」

 

 織莉子は、キリカの鞄を見た。

 

 大きくはない。

 

 けれど、その中に収まるものだけで、これからの生活をどうにかしなければならないのだ。

 

「部屋は用意してあるわ。必要なものがあれば言ってね」

 

「いやいや、そこまでしてもらうわけにはいかないよ」

 

「もう用意してしまったもの」

 

「……早いなあ」

 

「あなたが来ると分かったから」

 

 言ってから、織莉子は少しだけ言葉を選び直した。

 

「来てほしいと思っていたから、かしら」

 

 キリカは固まった。

 

「……え?」

 

「何か変なことを言ったかしら?」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

 キリカは口を開き、閉じ、もう一度開いた。

 

「……そっか。そっかあ」

 

 やがて、どこか困ったように笑った。

 

「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」

 

「ええ。そうしてちょうだい」

 

 織莉子はキリカの鞄を持とうと手を伸ばした。

 

 けれど、キリカはすぐに首を振る。

 

「これは自分で持てるから」

 

「そう?」

 

「うん。織莉子にこれからお世話になるのに、そこまでしてもらっては私の沽券に関わるよ」

 

 その言葉に、織莉子は少しだけ考えた。

 

 その小柄な身には似合わないとても大きなボストンバッグ。

 

 その不釣り合いさに微笑ましさすら感じてくる。

 

「分かったわ。それなら、お願いしようかしら」

 

 キリカは、不服そうな顔をした。

 

「……そんなに私の格好は面白いのかい?」

 

「いえ、可愛らしいわ。」

 

「……うん」

 

 気恥ずかしそうにするその表情が少しだけ明るくなったのを見て、織莉子は安心した。

 

 何でもしてあげればいいわけではない。

 

 キリカが自分でできることまで奪ってしまえば、彼女はきっと落ち着かないだろう。

 

 頼ってほしいと思うことと、相手の意思を尊重すること。

 

 その両方を忘れないようにしよう。

 

 織莉子は、そう心に留めた。

 

 

 キリカの滞在は、当初の予想よりも長くなることになった。

 

 家の被害は、外から見た以上に深刻だったらしい。屋根の一部が損傷し、窓も複数枚割れていた。雨水が入り込んだ部屋もあり、安全を確認したうえで修繕する必要があるという。

 

 ごめんね。キリカ。どこも大変みたいでまだ家の修繕の目処は立ちそうにないの。数週間はかかるかしら。

 

 そう告げられたキリカは、電話口で「分かった」と答えたものの、その後しばらく黙っていた。

 

 織莉子は、何も聞かなかった。

 

 ただ、キリカが電話を切ったあとに、温かい紅茶を差し出した。

 

「ありがとう」

 

 キリカはカップを受け取り、両手で包むように持った。

 

「……しばらく、お世話になります」

 

「ええ。こちらこそ、よろしくね」

 

「こちらこそ?」

 

「あなたがいてくれるのだから、私も楽しいと思うわ」

 

 キリカは紅茶を飲みかけて、むせた。

 

「げほっ、げほっ……!」

 

「大丈夫?」

 

「だ、大丈夫! ちょっと変なところに入っただけ!」

 

 織莉子は心配そうに背中をさすった。

 

 キリカは顔を赤くしながら、カップをテーブルに置いた。

 

「……織莉子って、そういうことを平然と言うよね」

 

「そういうこと?」

 

「……なんでもない」

 

 キリカは、紅茶をもう一口飲んだ。

 

 今度はむせなかった。

 

 翌朝。

 

 織莉子が目を覚ますと、すでに台所から物音が聞こえていた。

 

 まだ朝早い。

 

 彼女は身支度を整え、台所へ向かった。

 

 そこではキリカが、真剣な顔で何かを作っていた。

 

「……キリカ?」

 

「わっ!」

 

 キリカが振り返る。

 

 その手には、泡立て器が握られていた。

 

 台所の作業台には、小麦粉、卵、牛乳、バター。さらに、見慣れない瓶や容器がいくつも並んでいる。

 

 茶色のもの。透明なもの。琥珀色のもの。白い粉末が入った小瓶。

 

 そして、その隣には、すでに何枚ものパンケーキが積み重ねられていた。

 

「……これは?」

 

「朝ごはん!」

 

 キリカは胸を張った。

 

「昨日からお世話になってるわけだし、何か私にできることはないかなって思ってさ」

 

「それで、パンケーキを?」

 

「うん。織莉子、甘いものは嫌いじゃないだろう?」

 

「嫌いではないわ」

 

「よし!」

 

 キリカは満足そうに頷いた。

 

「じゃあ、ちょっと待ってて。今、仕上げるから!」

 

 織莉子は作業台に並んだ瓶を見た。

 

 その数は、朝食の準備というには少々多い。

 

「……キリカ。この瓶は全部、パンケーキに使うものなの?」

 

「そうだよ!」

 

 返事は即座だった。

 

「こっちはメープルシロップ。こっちは別の種類。こっちは黒砂糖で、こっちは白砂糖。あと、こっちは蜂蜜で、こっちは……」

 

 説明が始まった。

 

 キリカはそれぞれの容器を指さしながら、採取された樹液や加工方法、風味の違い、口に入れたときの広がり方について、実に楽しそうに語り始めた。

 

 いつもキリカが紅茶に角砂糖を幾つも入れるほどの甘党なのは知っていたけれど、ここまでのこだわりがあったなんて。

 

 いや、そうではなく、普段は織莉子が知らない一面なのだろう。

 

 好きなものについて話すキリカの表情は、驚くほど生き生きとしていた。

 

「……それでね、同じメープルシロップでも、香りが結構違うんだ。こっちはすっきりしてるけど、こっちはもっと濃い。黒砂糖も種類によって風味が違うし、白砂糖だって使い方で感じ方が変わるんだよ」

 

「そうなのね」

 

「うん! 甘いって一言でまとめるのは、もったいないんだ」

 

 キリカは、そこでふと我に返ったように口を閉じた。

 

「……あ、ごめん。つい話しすぎた」

 

「いいえ」

 

 織莉子は首を振った。

 

「もっと聞きたいわ」

 

「……え?」

 

「あなたが好きなものの話をしているとき、とても楽しそうだもの」

 

 キリカは、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、耳まで赤くしながら、泡立て器を持ち直す。

 

「……そ、そう? じゃあ、あとでまた話すよ」

 

「楽しみにしているわ」

 

 織莉子は、作業台の端に置かれた皿を見た。

 

 パンケーキは、すでに十分な高さに積み上がっている。

 

 その上に、キリカが一つ目のシロップの瓶を手に取った。

 

「さて、ここからが本番だ」

 

「本番?」

 

「うん!」

 

 キリカは真剣な顔で、パンケーキにシロップをかけ始めた。

 

 最初は琥珀色の液体。

 

 次に、濃い色のシロップ。

 

 それから、別の瓶。

 

 最後に、粉砂糖。

 

 パンケーキの表面が、見る間に甘味料で覆われていく。

 

 織莉子はその様子を静かに見守っていた。

 

 キリカは決して、織莉子を困らせようとしているわけではない。

 

 むしろ、喜んでもらいたいのだろう。

 

 自分の好きなものを、好きな相手にも楽しんでほしい。

 

 その気持ちは、織莉子にもよく分かった。

 

 だからこそ、ここで「そんなに甘くしなくてもいいのに」と言うのは違う気がした。

 

 キリカが楽しそうに用意してくれた朝食だ。

 

 ならば、その気持ちごと受け取ろう。

 

 もちろん、全部を同じように味わえるとは限らないけれど。

 

「……できた!」

 

 キリカが、満面の笑みで皿を差し出した。

 

 パンケーキの上には、色も香りも異なるシロップが幾重にも重なっている。

 

 その横には、織莉子のために淹れた紅茶が置かれた。

 

「どうぞ!」

 

「ありがとう、キリカ」

 

 織莉子は椅子に座った。

 

 キリカは向かい側に腰を下ろすと、期待に満ちた目でこちらを見ている。

 

「……どう?」

 

「まだ食べていないわ」

 

「あ、そっか」

 

 キリカは照れくさそうに笑った。

 

 織莉子はナイフとフォークを手に取った。

 

 小さく切り分け、口へ運ぶ。

 

 甘い。

 

 予想していた以上に甘い。

 

 けれど、ただ甘いだけではなかった。最初に広がる香りがあり、その後に別の甘さが重なり、最後に濃い風味が残る。

 

 キリカが説明していたことを思い出す。

 

 なるほど、確かに違いはある。

 

「……どう?」

 

 キリカが、もう一度尋ねた。

 

 織莉子は飲み込んでから、微笑んだ。

 

「おいしいわ。あなたが選んだものだけあって、それぞれに違いがあるのね」

 

「でしょ!」

 

 キリカの顔がぱっと明るくなった。

 

「こっちのシロップはね、香りが強いから、こっちの黒砂糖と合わせると……」

 

 また説明が始まる。

 

 織莉子はパンケーキをもう一口食べながら、その話に耳を傾けた。

 

 甘さは、自分には少々強すぎる。

 

 けれど、キリカが嬉しそうにしている姿を見ていると、それだけで十分に満たされた気持ちになる。

 

 彼女が自分のために起きて、台所に立ち、これほど手間をかけてくれた。

 

 その事実が、織莉子には途方もなく幸福なことに思えた。

 

 紅茶を一口飲む。

 

 こちらは、いつもどおりストレートだ。

 

 甘さの残る口の中が、すっきりと落ち着く。

 

 キリカが自分のカップを持ち上げた。

 

 その紅茶には、砂糖がたっぷりと入っている。

 

「織莉子も、こっち飲んでみる?」

 

 差し出されたカップを見て、織莉子は少しだけ迷った。

 

 けれど、キリカが勧めてくれるのなら。

 

「……一口だけ、いただこうかしら」

 

「うん!」

 

 織莉子はカップを受け取り、ほんの少し口をつけた。

 

 甘い。

 

 紅茶の香りよりも、甘さが先にやってくる。

 

 織莉子はカップを返した。

 

「……やっぱり、私には甘すぎるみたい」

 

「えーっ! おいしいのに!」

 

「おいしくないとは言っていないわ」

 

「じゃあ、もう一口!」

 

「ふふ。今日はこれで十分よ」

 

 キリカは少しだけ不満そうに頬を膨らませたものの、すぐに笑顔に戻った。

 

「そっか。じゃあ、私が飲むね」

 

「ええ。あなたの好きなように」

 

 キリカは満足そうに自分のカップを持ち上げた。

 

 織莉子はその様子を眺めながら、もう一口パンケーキを食べた。

 

 自分の好みとは違う。

 

 それでも、キリカが好きなものを知るのは楽しい。

 

 そして、キリカが自分のために何かをしてくれることが、こんなにも嬉しい。

 

 織莉子は、そんな自分の気持ちを、今さらながら不思議に思っていた。

 

 朝食を終えたあと、キリカは食器を洗おうとした。

 

「いいわ。私がやるから」

 

「いやいや、作ったのは僕なんだから、片づけくらいはさせてよ」

 

「でも……」

 

「それに、織莉子の家の台所を使わせてもらったんだしさ。これくらいはね」

 

 キリカはそう言って、食器を流しへ運んだ。

 

 織莉子は、その後ろ姿を見ていた。

 

 キリカが自分の家にいる。

 

 それだけなら、以前にも何度かあったことだ。

 

 けれど、こうして朝食を作り、食器を洗い、まるで以前からここで暮らしていたかのように振る舞う姿を見るのは、少し新鮮だった。

 

 キリカが蛇口をひねる。

 

 水音が響く。

 

 織莉子は、ふと気づいた。

 

 未来の断片を見ていたとき、彼女はキリカが自分の家にいる光景を見たことがあった。

 

 けれど、今のような朝を、予知の中で見たことがあっただろうか。

 

 あったかもしれない。

 

 なかったかもしれない。

 

 どちらにせよ、未来を見たからといって、今この瞬間の幸福が薄れるわけではない。

 

「織莉子?」

 

 呼ばれて、織莉子は顔を上げた。

 

「どうしたの? ぼーっとして」

 

「いいえ。なんでもないわ」

 

「……本当?」

 

「ええ」

 

 織莉子は少し考え、付け加えた。

 

「ただ、あなたがいてくれてよかったと思っていたの」

 

 キリカの手が止まった。

 

「……そっか」

 

 それだけ言うと、キリカは再び食器を洗い始めた。

 

 耳が赤くなっている。

 

 織莉子は、見なかったことにした。

 

 

 

 数日後、二人は買い物に出かけた。

 

 キリカの家から持ち出せなかった日用品を揃えるためでもあり、食材を買い足すためでもある。

 

 キリカの家の修繕にはまだ時間がかかる。

 

 それでも、少しずつ生活は落ち着き始めていた。

 

 朝食を作るのは、交代制になった。

 

 ただし、キリカが担当する日は、食卓に甘いものが増える傾向がある。

 

 織莉子が担当する日は、紅茶の種類が増える傾向がある。

 

 互いの好みが少しずつ分かってきた結果だった。

 

「そういえば、織莉子」

 

 店へ向かう道すがら、キリカが言った。

 

「何かしら?」

 

「私がここに来てから、織莉子の家の食費、結構増えてるんじゃない?」

 

「そうかしら」

 

「そうだよ。だって、私が食べる分もあるし……甘いものも買ってるし」

 

「あなたが気にすることではないわ、むしろ、グリーフシードで世話になってるのは私の方よ」

 

「でもさ」

 

 キリカは歩きながら、少しだけうつむいた。

 

「……私、いつまでお世話になるか分からないだろう? だから、せめて自分の分くらいは」

 

 織莉子は足を止めた。

 

 キリカも、つられて立ち止まる。

 

「キリカ」

 

「……うん?」

 

「あなたは、私に迷惑をかけていると思っているの?」

 

「いや、そういうわけじゃ……」

 

「なら、どうしてそんなに気にするの?」

 

 キリカは口をつぐんだ。

 

 しばらく考えたあと、ぽつりと言った。

 

「……私、織莉子に何かしてもらうのは、嬉しいんだ」

 

「ええ」

 

「でも、してもらってばっかりなのは、嫌なんだよ」

 

 織莉子は、キリカの言葉を聞いていた。

 

「織莉子が私に優しくしてくれるのは、すごく嬉しい。だからこそ、私も織莉子に何かしてあげたいんだ」

 

 キリカは少しだけ笑った。

 

「……変かな?」

 

「いいえ」

 

 織莉子は首を振った。

 

「とても、あなたらしいと思うわ」

 

「そ、そう?」

 

「ええ」

 

 織莉子は、キリカの手元に目を向けた。

 

 買い物用の袋を持つ手に、少し力が入っている。

 

「それなら、こうしましょう」

 

「こう?」

 

「あなたが何かをしてくれたら、私はそれを喜んで受け取る。私が何かをしたら、あなたも喜んで受け取る。お互いに、無理のない範囲で」

 

 キリカは、目を瞬かせた。

 

「……それだけでいいの?」

 

「それだけ、ではないわ」

 

 織莉子は微笑んだ。

 

「私にとっては、大切なことよ」

 

 キリカは、しばらく織莉子を見つめていた。

 

 やがて、いつものように笑った。

 

「……うん。分かった」

 

 そして、少しだけいたずらっぽい顔をする。

 

「じゃあ、今日の買い物では、私のおすすめの甘いものを買ってもいい?」

 

「予算の範囲内ならね」

 

「やった!」

 

「ただし、私のおすすめの茶葉も買うわ」

 

「もちろん!」

 

 二人は再び歩き出した。

 

 雨は降っていない。

 

 けれど、空にはまだ雲が残っていた。

 

 スーパーに着くと、キリカは甘味料の棚の前で足を止めた。

 

 そこには、さまざまな砂糖やシロップが並んでいた。

 

 キリカの目が輝く。

 

「……あっ」

 

 その声だけで、織莉子には何が起きたのか分かった。

 

「見つけたの?」

 

「うん! これ、前から気になってたんだ!」

 

 キリカが手に取ったのは、見慣れない瓶だった。

 

「これね、いつものとは違う種類のメープルシロップなんだ。香りが強いらしくて、パンケーキにかけると……」

 

 説明が始まる。

 

 織莉子は、買い物かごを持ったまま話を聞いていた。

 

 キリカは、瓶の裏側を確かめ、原材料や説明を読み、値段を見比べる。

 

 その真剣な様子に、織莉子は思わず微笑んだ。

 

「……そんなに違うものなの?」

 

「違うよ!」

 

 キリカは即座に答えた。

 

「甘いものって、ただ甘ければいいってわけじゃないんだ。香りも、舌触りも、後味も違う。それぞれに合うものがあるし、組み合わせによっても変わるんだよ」

 

「そう」

 

「……あ、ごめん。また話しすぎた?」

 

「いいえ。あなたの話を聞くのは好きよ」

 

 キリカは、瓶を持ったまま固まった。

 

「……そういうこと、さらっと言うの禁止」

 

「禁止なの?」

 

「禁止!」

 

 キリカは顔を赤くしながら、瓶をかごに入れた。

 

「……でも、ありがとう」

 

 小さな声だった。

 

 織莉子は聞こえなかったふりをした。

 

 その代わり、キリカが選んだ瓶をそっとかごの中央に置き直した。

 

 割れないように。

 

 大切なものを扱うように。

 

 キリカは、その手元を見ていた。

 

 何か言いたそうだったけれど、結局、何も言わなかった。

 

 ただ、織莉子の隣を歩く足取りが、少しだけ軽くなっていた。

 

 買い物を終えた頃、空が急に暗くなった。

 

 店を出た途端、細かな雨粒が落ちてくる。

 

「あ、雨だ」

 

 キリカが空を見上げた。

 

 織莉子も足を止めた。

 

 その瞬間、視界が揺れた。

 

 濡れた道路。

 

 強く吹きつける風。

 

 傘が裏返り、キリカが驚いた顔でこちらを向く。

 

 そして、買い物袋の中から転がり落ちる瓶。

 

 未来の断片は、一瞬で消えた。

 

 織莉子は、手に持った袋を見下ろした。

 

「……織莉子?」

 

 キリカが不思議そうに顔を覗き込んでくる。

 

「どうしたの?」

 

「傘を出しましょう」

 

「え? ああ、うん」

 

 織莉子は鞄から折り畳み傘を取り出した。

 

 キリカが持っていた傘も開く。

 

 雨は、少しずつ強くなっていた。

 

「……急いだほうがいいかな」

 

「そうね」

 

 織莉子は、買い物袋を持ち直した。

 

 そして、キリカの傘の柄に目を向ける。

 

「キリカ。そちらの袋、少し持ってもらえる?」

 

「いいよ」

 

 キリカは、すぐに手を伸ばした。

 

 二人はそれぞれ荷物を持ち、歩き始めた。

 

 やがて、風が吹いた。

 

 キリカの傘が揺れる。

 

「わっ!」

 

 織莉子は、とっさにキリカの腕をつかんだ。

 

 同時に、買い物袋を自分の身体側へ引き寄せる。

 

 傘は何とか持ち直した。

 

 瓶も無事だった。

 

「……危なかったわね」

 

「う、うん。ありがとう」

 

 キリカは、織莉子に腕をつかまれたまま、少しだけ固まっていた。

 

 織莉子は手を離した。

 

「ごめんなさい。急につかんでしまって」

 

「い、いや! 全然!」

 

 キリカは慌てて首を振った。

 

「助かったよ。ほんとに」

 

「なら、よかったわ」

 

 再び歩き始める。

 

 今度は、キリカが織莉子の歩調に合わせていた。

 

 織莉子は気づいていたが、何も言わなかった。

 

 予知で見た未来は、あくまで断片にすぎない。

 

 少なくとも、今はそう思っている。

 

 けれど、未来の一部を知っていたからといって、必ずそのとおりに行動しなければならないわけではない。

 

 目の前にいるキリカを見て、必要だと思ったことをする。

 

 それでいいのだろう。

 

 織莉子は、隣を歩くキリカを見た。

 

 キリカも、ちょうどこちらを見ていた。

 

 目が合う。

 

 キリカは少し照れくさそうに笑った。

 

 織莉子も微笑み返した。

 

 雨の中、二人は並んで歩き続けた。

 

 

 

 その夜、キリカはなかなか眠れなかった。

 

 布団に入ってから、どれほど時間が経ったのだろう。

 

 目を閉じても、意識が静まらない。

 

 自宅のことが気になっていた。

 

 修繕が終わるまで、しばらくかかる。

 

 そう聞かされたことは理解している。

 

 必要な手続きも、今後の見通しも、少しずつ分かってきた。

 

 それでも、家に帰れないという事実は、思っていた以上に落ち着かなかった。

 

 いつも自分がいた場所。

 

 自分の持ち物があり、自分の生活があった場所。

 

 そこへ戻れない。

 

 そのことを考えるたびに、胸の奥が妙に重くなった。

 

 キリカは寝返りを打った。

 

 隣の部屋は静かだった。

 

 織莉子は、もう眠っているのだろうか。

 

 起こすわけにはいかない。

 

 ただでさえ、世話になっているのだ。

 

 キリカは目を閉じた。

 

 けれど、眠れなかった。

 

 しばらくして、とうとう布団から起き上がった。

 

 喉が渇いた。

 

 そういうことにして、部屋を出る。

 

 廊下を歩き、居間へ向かった。

 

 明かりは消えていた。

 

 窓の外では、雨が降っている。

 

 強い雨ではない。

 

 けれど、窓ガラスに当たる音が、妙に耳についた。

 

 キリカはソファに腰を下ろした。

 

「……はあ」

 

 小さく息をつく。

 

 すると、背後から声がした。

 

「眠れないの?」

 

「うわっ!」

 

 キリカは飛び上がりそうになった。

 

 振り返ると、織莉子が立っていた。

 

 薄い上着を羽織り、少し眠そうな顔をしている。

 

「ご、ごめん。起こした?」

 

「いいえ。私も、ちょうど目が覚めたところよ」

 

 織莉子は居間の明かりをつけた。

 

「紅茶を淹れましょうか?」

 

 キリカは、少しだけ迷った。

 

 甘いものがほしい。

 

 けれど、こんな時間に甘いものをねだるのもどうかと思う。

 

「……普通の紅茶でいいよ」

 

「分かったわ」

 

 織莉子は台所へ向かった。

 

 キリカは、その背中を見送った。

 

 やがて、湯が沸く音が聞こえてくる。

 

 茶葉を量る音。

 

 カップを用意する音。

 

 どれも、いつもなら気にも留めないような音だった。

 

 けれど今は、それが不思議と心地よかった。

 

 織莉子が戻ってきた。

 

 二つのカップを持っている。

 

 一つをキリカの前に置き、もう一つを自分の前に置いた。

 

「どうぞ」

 

「……ありがとう」

 

 キリカはカップを持ち上げた。

 

 湯気が立っている。

 

 一口飲む。

 

 温かい。

 

 それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 織莉子は、向かい側に座った。

 

「……家のことを考えていたの?」

 

 キリカはカップを見つめた。

 

「……うん」

 

「そう」

 

「……なんかさ」

 

 キリカは、言葉を探した。

 

「家に帰れないって、こんなに落ち着かないんだなって思った」

 

 織莉子は、黙って聞いていた。

 

「別に、今すぐ帰れないと困るってわけじゃないんだ。必要なものは持ってこられたし、ここにいれば生活もできるし……織莉子には、すごくよくしてもらってる」

 

「ええ」

 

「でも、なんか……」

 

 キリカは、カップを両手で包み直した。

 

「自分の場所がなくなったみたいな気がするんだ」

 

 言ってから、キリカは少しだけ顔をしかめた。

 

「……ごめん。変なこと言った」

 

「変ではないわ」

 

 織莉子は、すぐに答えた。

 

「あなたがそう感じるのなら、それはあなたにとって大切なことなのだと思う」

 

 キリカは、顔を上げた。

 

「……そうかな」

 

「ええ」

 

 織莉子は紅茶を一口飲んだ。

 

「家は、ただ寝たり食事をしたりする場所ではないもの。自分の持ち物があって、いつもの生活があって、何も考えずに過ごせる場所。そこに戻れないのなら、落ち着かなくても不思議ではないわ」

 

 キリカは、黙って聞いていた。

 

「だから、無理に気にしないようにしなくてもいいと思う」

 

「……うん」

 

「それに」

 

 織莉子は、少しだけ微笑んだ。

 

「ここにいる間は、あなたの居場所がないなんて思わないでほしいわ」

 

 キリカは、目を見開いた。

 

「……織莉子」

 

「あなたがここで過ごしてくれることを、私は嬉しく思っているの。だから、遠慮しすぎないで」

 

 キリカは、しばらく何も言わなかった。

 

 それから、カップを口元へ運んだ。

 

 紅茶を一口飲む。

 

 今度は、少しだけゆっくりと。

 

「……うん。分かった」

 

 声は、いつもより小さかった。

 

 織莉子は、それ以上何も言わなかった。

 

 ただ、二人で紅茶を飲み続けた。

 

 雨の音が聞こえる。

 

 時計の針が進む。

 

 やがて、キリカがぽつりと言った。

 

「……織莉子って、優しいよね」

 

「そうかしら」

 

「そうだよ」

 

 キリカは、少しだけ笑った。

 

「……私、織莉子のそういうところ、好きだよ」

 

 織莉子の手が止まった。

 

 カップの中で、紅茶が小さく揺れる。

 

「……ありがとう」

 

 織莉子は、そう答えた。

 

 それだけだった。

 

 けれど、その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

 

 

 

 しばらくして、キリカは眠そうに目をこすった。

 

「……そろそろ、寝ようかな」

 

「ええ。明日もあるものね」

 

 キリカは立ち上がり、カップを片づけようとした。

 

 織莉子は、そっと手を伸ばした。

 

「それは私が片づけるわ」

 

「……え?」

 

「あなたは、もう休んで」

 

 キリカは少しだけ考えた。

 

 それから、頷いた。

 

「……うん。じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 廊下へ向かいかけて、ふと振り返る。

 

「織莉子」

 

「何かしら?」

 

「……明日も、一緒に紅茶飲んでいい?」

 

 織莉子は、微笑んだ。

 

「もちろん」

 

 キリカは、安心したように笑った。

 

「……おやすみ」

 

「おやすみなさい、キリカ」

 

 キリカが部屋へ戻っていく。

 

 織莉子は、その足音が遠ざかるのを聞いていた。

 

 それから、テーブルの上のカップを片づけた。

 

 自分のカップ。

 

 キリカのカップ。

 

 二つ並んだカップを見て、織莉子は少しだけ微笑んだ。

 

 誰かと過ごす夜は、こんなにも静かなものなのだ。

 

 未来を予知する必要もない。

 

 何かを成し遂げる必要もない。

 

 ただ、目の前にいる人と紅茶を飲む。

 

 それだけのことが、こんなにも大切に思える。

 

 織莉子は、キリカのカップを洗いながら、そんなことを考えていた。

 

 

 

 キリカが滞在を始めてから、一週間ほどが経った。

 

 生活は、すっかり落ち着いていた。

 

 朝食を作り、学校へ行き、帰ってきたら宿題をする。夕食を食べ、時にはテレビを見て、時には二人で話をする。

 

 特別なことは、何もない。

 

 けれど、織莉子はその日々を、以前よりもずっと楽しんでいた。

 

 朝、台所へ行くとキリカがいる。

 

 帰宅すると、キリカが「おかえり」と言ってくれる。

 

 紅茶を淹れると、キリカが自分の分も用意してくれることがある。

 

 反対に、キリカが何かを作っているときには、織莉子が手伝う。

 

 それは、誰かと暮らすということの、当たり前の一部なのかもしれない。

 

 けれど織莉子にとっては、その当たり前が新鮮だった。

 

 

 

 ある休日の午後。

 

 織莉子が居間で本を読んでいると、キリカが台所から顔を出した。

 

「織莉子、ちょっといい?」

 

「ええ。どうしたの?」

 

「今日は、ちょっと試したいことがあるんだ」

 

 キリカは、妙に真剣な顔をしていた。

 

 織莉子は本を閉じた。

 

「試したいこと?」

 

「うん。お菓子の食べ比べ!」

 

 織莉子は、少しだけ目を瞬かせた。

 

「……食べ比べ?」

 

「そう!」

 

 キリカは、台所のほうを指さした。

 

「この前買ったシロップがあるだろ? それと、黒砂糖と白砂糖、それから蜂蜜も使って、どれがどのお菓子に合うのか調べてみたいんだ」

 

「なるほど」

 

「で、織莉子にも手伝ってほしい」

 

 織莉子は、キリカを見つめた。

 

「私も?」

 

「うん。私だけだと、どうしても好みが偏っちゃうからさ。織莉子の意見も聞きたいんだ」

 

 それは、もっともな話だった。

 

 キリカは甘いものが好きだ。

 

 好きだからこそ、どの甘味料を使っても、ある程度はおいしいと感じるかもしれない。

 

 自分とは違う好みの人間の意見を聞きたいのだろう。

 

「分かったわ。私でよければ」

 

「やった!」

 

 キリカは嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ、準備してくる!」

 

 そう言って、台所へ戻っていった。

 

 織莉子は、その背中を見送った。

 

 食べ比べ。

 

 なるほど、キリカらしい提案だ。

 

 けれど、彼女はふと思った。

 

 自分が甘味料の違いをどれほど理解できるのだろう。

 

 普段、紅茶はストレートで飲むことが多い。お菓子も、甘すぎないものを好む。

 

 キリカのように、甘さそのものを楽しむという感覚は、まだよく分からない。

 

 それでも。

 

 キリカが自分を誘ってくれたのなら、参加してみたいと思った。

 

 それが、今の織莉子の気持ちだった。

 

 

 

 テーブルの上には、小さなパンケーキが何枚も並んでいた。

 

 それぞれに異なる甘味料が使われている。

 

 キリカは、メモ帳まで用意していた。

 

「じゃあ、まずはこれ!」

 

 最初の皿が差し出される。

 

 織莉子は小さく切り分け、口へ運んだ。

 

 甘い。

 

 けれど、先日のものほどではない。

 

「どう?」

 

「そうね……香りが少し強いけれど、後味はすっきりしているわ」

 

「おお!」

 

 キリカがメモを取る。

 

「なるほど、そういう感じ方か……!」

 

 次の皿。

 

 その次の皿。

 

 織莉子は一つずつ味わい、思ったことを伝えた。

 

 キリカは、そのたびに真剣に聞いていた。

 

「こっちはどう?」

 

「こっちは、甘さが長く残るわね」

 

「長く残る……確かに!」

 

「ただ、紅茶と合わせるなら、私は最初のほうが好きかしら」

 

「なるほど……!」

 

 キリカは、楽しそうにメモを取っていた。

 

 織莉子は、その姿を眺めながら、少しだけ微笑んだ。

 

 自分が口にした感想を、キリカは真剣に受け止めてくれている。

 

 ただ「おいしい」と言うだけではなく、どう感じたのか、何が違ったのか。

 

 そういうことを聞いてくれる。

 

 自分の意見が、キリカの好きなものを知るための手がかりになっている。

 

 それが、嬉しかった。

 

「……織莉子?」

 

「何かしら?」

 

「今、ちょっと嬉しそうだった」

 

 織莉子は、目を瞬かせた。

 

「そう?」

 

「うん」

 

 キリカは、にやりと笑った。

 

「もしかして、私のお菓子研究会、気に入った?」

 

「……そうね」

 

 織莉子は、少し考えてから答えた。

 

「あなたが楽しそうにしているのを見るのは、好きよ」

 

 キリカは、メモ帳を落としかけた。

 

「……っ!」

 

「キリカ?」

 

「な、なんでもない!」

 

 キリカは慌ててメモ帳を拾い上げた。

 

「……次! 次に行こう!」

 

 その声が少し上ずっている。

 

 織莉子は、何も言わなかった。

 

 ただ、次の皿を受け取った。

 

 

 

 食べ比べが終わる頃には、テーブルの上はずいぶん賑やかになっていた。

 

 キリカは満足そうにメモ帳を閉じた。

 

「……よし。今日の結果は、なかなかよかった!」

 

「それはよかったわ」

 

「織莉子のおかげだよ。自分じゃ気づかなかった違いも分かったし」

 

「そう言ってもらえるなら、参加した甲斐があったわ」

 

 キリカは、少しだけ考えた。

 

「……ねえ、織莉子」

 

「何かしら?」

 

「また、付き合ってくれる?」

 

 織莉子は、すぐに頷いた。

 

「ええ。もちろん」

 

 キリカは、嬉しそうに笑った。

 

 そして、残ったパンケーキを見下ろす。

 

「……ところで、これ、どうしようか」

 

「食べきれないの?」

 

「いや、食べられるけど……さすがに一度には無理かな」

 

 織莉子は、思わず笑ってしまった。

 

「そうね。明日の朝に回しましょうか」

 

「うん!」

 

 キリカは元気よく頷いた。

 

「じゃあ、明日の朝もパンケーキだ!」

 

「……また甘いもの?」

 

「もちろん!」

 

 織莉子は、少しだけ呆れたように笑った。

 

 けれど、嫌だとは思わなかった。

 

 明日の朝、キリカが台所に立っている。

 

 そう思うと、少しだけ楽しみだった。

 

六 予知できないもの

 

 その日の夕方、織莉子は一人で買い物に出かけた。

 

 キリカは部屋で宿題をしている。

 

 夕食の材料を買い足すだけの、短い外出だった。

 

 帰り道、織莉子は小さな花屋の前を通りかかった。

 

 店先には、色とりどりの花が並んでいる。

 

 その中に、白い小さな花があった。

 

 織莉子は、ふと足を止めた。

 

 理由は分からない。

 

 ただ、キリカがそれを見たら、どんな顔をするだろうと思った。

 

 彼女は花を一輪買った。

 

 家に帰ると、キリカはまだ宿題をしていた。

 

「おかえり、織莉子」

 

「ただいま」

 

 織莉子は買い物袋を置き、花を小さな花瓶に挿した。

 

 キリカが顔を上げる。

 

「……あれ? 花?」

 

「ええ。帰り道で見かけたの」

 

「へえ……きれいだね」

 

「そうね」

 

 織莉子は花瓶の位置を少しだけ調整した。

 

「ここに置いてもいいかしら?」

 

「もちろん!」

 

 キリカは笑った。

 

「なんか、いいね。部屋が明るくなった感じがする」

 

 織莉子は、その言葉を聞いて微笑んだ。

 

 花を買ったのは、ほんの思いつきだった。

 

 けれど、キリカが喜んでくれた。

 

 それだけで、買ってよかったと思えた。

 

 その瞬間だった。

 

 視界が揺れた。

 

 未来の断片。

 

 花瓶が倒れる。

 

 水がこぼれる。

 

 白い花が、テーブルの上に横たわる。

 

 そして、キリカがこちらを見て、何かを言おうとしている。

 

 織莉子は、目を閉じた。

 

 数秒後、視界が戻る。

 

 花瓶は、まだそこにあった。

 

 キリカは宿題をしている。

 

 何も起こっていない。

 

 織莉子は、花瓶を少しだけ奥へ移動させた。

 

「……織莉子?」

 

 キリカが顔を上げた。

 

「どうしたの?」

 

「いいえ。少し、位置を変えただけよ」

 

「ふうん?」

 

 キリカは不思議そうに花瓶を見た。

 

「……もしかして、また未来を見た?」

 

 織莉子は、一瞬だけ言葉に詰まった。

 

「……どうして、そう思うの?」

 

「なんとなく」

 

 キリカは、少しだけ笑った。

 

「織莉子が何かを見たあとって、時々、そういう顔をするから」

 

 織莉子は、キリカを見つめた。

 

 そんなところまで見られていたのか。

 

「……ええ。少しだけ」

 

「そっか」

 

 キリカは、それ以上追及しなかった。

 

 ただ、花瓶を見て、微笑んだ。

 

「……でも、今は倒れてないね」

 

「そうね」

 

「じゃあ、いいんじゃない?」

 

 織莉子は、目を瞬かせた。

 

「……いいの?」

 

「うん。未来がどうなるかは分からないけどさ。今、花がきれいなら、それでいいんじゃないかな」

 

 キリカは、何でもないことのように言った。

 

 織莉子は、しばらく黙っていた。

 

 予知は、未来を見せる。

 

 けれど、未来を見たからといって、今あるものの価値が変わるわけではない。

 

 花が倒れる未来を見たとしても、今、花はきれいに咲いている。

 

 キリカがそれを見て、喜んでくれた。

 

 その事実は、未来の断片とは別に、ここにある。

 

「……そうね」

 

 織莉子は、微笑んだ。

 

「あなたの言うとおりだわ」

 

 キリカは、少しだけ得意そうな顔をした。

 

「でしょ?」

 

 織莉子は、もう一度花を見た。

 

 白い花びらが、窓から差し込む光を受けている。

 

 この先、どうなるのかは分からない。

 

 けれど、今はここにある。

 

 それでいいと思えた。

 

 

 

 夜。

 

 織莉子が居間で紅茶を飲んでいると、キリカがやってきた。

 

 手には、小さな皿を持っている。

 

「織莉子、これ」

 

「……お菓子?」

 

「うん。今日の食べ比べで、織莉子が一番気に入ってたやつ。少しだけ残しておいたんだ」

 

 皿の上には、小さな焼き菓子が二つ並んでいた。

 

 甘味は控えめで、香りが穏やかなものだった。

 

 織莉子は、少しだけ目を見開いた。

 

「……覚えていてくれたの?」

 

「もちろん」

 

 キリカは、当然のように頷いた。

 

「織莉子が好きだって言ってたからさ」

 

 織莉子は、皿を受け取った。

 

「ありがとう、キリカ」

 

「どういたしまして!」

 

 キリカは隣に座った。

 

 織莉子は、焼き菓子を一つ手に取った。

 

 一口食べる。

 

 優しい甘さが、口の中に広がった。

 

「……おいしいわ」

 

「よかった!」

 

 キリカは、自分の分を食べながら笑った。

 

 織莉子は、紅茶を一口飲んだ。

 

 それから、キリカを見た。

 

「キリカ」

 

「ん?」

 

「あなたは、私の好きなものを覚えていてくれるのね」

 

「……そりゃあ、覚えるよ」

 

 キリカは、少しだけ照れくさそうに目をそらした。

 

「織莉子のことだもん」

 

 織莉子は、手に持ったカップを見つめた。

 

 予知で、キリカがこの焼き菓子を持ってくる未来を見たことはない。

 

 もしかしたら、見ていたのかもしれない。

 

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 

 今、キリカが自分のために焼き菓子を残してくれた。

 

 それが嬉しい。

 

 その気持ちに、嘘はなかった。

 

「……ありがとう」

 

 織莉子は、もう一度言った。

 

 キリカは、少しだけ目を丸くした。

 

 そして、柔らかく笑った。

 

「……どういたしまして」

 

 

 

 キリカの家の修繕が終わったという連絡が届いたのは、滞在を始めてから三週間ほど経った頃だった。

 

 完全に元どおりになったわけではない。

 

 けれど、生活するうえで必要な部分は修復され、安全に生活ができる状態になったという。

 

 キリカは、電話を切ったあと、しばらく黙っていた。

 

 織莉子は、向かい側で紅茶を飲んでいた。

 

「……帰れるのね」

 

「うん」

 

 キリカが言った。

 

 織莉子は、カップを置いた。

 

「よかったわね」

 

「……うん」

 

 キリカは笑った。

 

 嬉しそうだった。

 

 自分の家に帰れる。

 

 それは、喜ぶべきことだ。

 

 織莉子も、そう思う。

 

 けれど。

 

 胸の奥に、ほんの少しだけ、寂しさがあった。

 

 キリカがここに来てから、三週間。

 

 朝食を作り、紅茶を飲み、買い物をし、時には夜遅くまで話をした。

 

 それが、明日からはなくなる。

 

 もちろん、会えなくなるわけではない。

 

 キリカは自分の家に帰るだけだ。

 

 以前のように、会いたいときに会えばいい。

 

 そう分かっている。

 

 それでも、織莉子は寂しかった。

 

 自分が、こんなふうに思うとは考えていなかった。

 

 未来を予知することはできても、自分の気持ちがこれほど変化することまでは、予知できなかったのだろう。

 

「……織莉子?」

 

 キリカが、こちらを見た。

 

「どうしたの?」

 

「……いいえ」

 

 織莉子は微笑んだ。

 

「あなたが帰れるようになって、安心したのよ」

 

「……そっか」

 

 キリカは、少しだけ視線を落とした。

 

「……私も、嬉しいよ」

 

 それから、ぽつりと付け加えた。

 

「でも……」

 

 言葉が途切れる。

 

 織莉子は、続きを待った。

 

「……ちょっとだけ、寂しいね」

 

 キリカは、照れくさそうに笑った。

 

「ここでの生活、結構楽しかったからさ」

 

 織莉子は、キリカを見つめた。

 

 その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

「……私もよ」

 

 織莉子は、素直に答えた。

 

「あなたがいてくれて、とても楽しかったわ」

 

 キリカは、目を見開いた。

 

 それから、嬉しそうに笑った。

 

「……そっか」

 

 その声は、少しだけ弾んでいた。

 

 

 

 帰る日の朝。

 

 キリカは、自分の荷物をまとめていた。

 

 鞄の中には、持ってきた着替えや日用品が収まっている。

 

 それから、滞在中に買った甘味料の瓶も。

 

 織莉子は、その様子を見ていた。

 

「……それも持って帰るの?」

 

「もちろん!」

 

 キリカは、瓶を一つ手に取った。

 

「これは結構気に入ったんだ。家に帰ったら、またパンケーキを作るつもり」

 

「そう」

 

「……織莉子も、食べに来る?」

 

 織莉子は、少しだけ驚いた。

 

「私も?」

 

「うん!」

 

 キリカは、笑った。

 

「今度は私の家で、織莉子にパンケーキを作ってあげたいんだ」

 

 織莉子は、しばらくキリカを見つめていた。

 

 そして、微笑んだ。

 

「……楽しみにしているわ」

 

「ほんと?」

 

「ええ。ただし、紅茶はストレートでお願いね」

 

「えーっ! せっかくなら、砂糖を入れようよ!」

 

「あなたの分には、好きなだけ入れていいわ」

 

「……じゃあ、織莉子の分は?」

 

「ストレートで」

 

「……むう」

 

 キリカは頬を膨らませた。

 

 けれど、すぐに笑った。

 

「……分かった。織莉子の分は、ちゃんとストレートにするよ」

 

「ありがとう」

 

 織莉子は、キリカの鞄に目を向けた。

 

「……それと、キリカ」

 

「ん?」

 

「また、いつでも来てね」

 

 キリカは、動きを止めた。

 

 織莉子は、少しだけ言葉を続けた。

 

「あなたがここに来てくれることを、私は嬉しく思っているから」

 

 キリカは、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……うん」

 

 小さく頷く。

 

「……また来るよ」

 

 その顔には、いつもの笑顔が戻っていた。

 

 

 

 玄関で靴を履き、キリカは振り返った。

 

「……じゃあ、またね、織莉子」

 

「ええ。またね、キリカ」

 

 キリカは扉を開けた。

 

 外は晴れていた。

 

 雨雲は遠くへ流れ、空には青い色が広がっている。

 

 キリカは一歩外へ出て、それから、もう一度振り返った。

 

「……織莉子!」

 

「何かしら?」

 

「……三週間、ありがとう!」

 

 織莉子は、微笑んだ。

 

「こちらこそ。楽しかったわ」

 

 キリカは、嬉しそうに笑った。

 

 そして、今度こそ歩き出した。

 

 織莉子は、その後ろ姿が見えなくなるまで、玄関に立っていた。

 

 やがて、扉を閉める。

 

 家の中は静かだった。

 

 いつもと同じ家。

 

 けれど、どこか違う。

 

 台所には、キリカが使っていた甘味料の瓶が一つ、置き忘れられていた。

 

 織莉子はそれを手に取った。

 

 黒砂糖の小さな瓶だった。

 

 ラベルには、キリカが書いたらしい文字で、簡単な説明が添えられている。

 

『パンケーキにおすすめ!』

 

 その下には、小さく。

 

『織莉子も、今度試してみて』

 

 織莉子は、しばらくその文字を見つめていた。

 

 そして、静かに笑った。

 

「……そうね」

 

 瓶を、棚の上に置く。

 

 いつか、使ってみよう。

 

 キリカがまた来たときに。

 

 そう思った。

 

 

 

 その日の夜。

 

 織莉子は、いつものように紅茶を淹れた。

 

 カップは一つ。

 

 テーブルの向かい側には、誰も座っていない。

 

 静かな夜だった。

 

 窓の外には、雲の切れ間から月が見えている。

 

 織莉子は紅茶を一口飲んだ。

 

 いつもと変わらない味。

 

 けれど、少しだけ物足りなさを感じた。

 

 キリカがいた三週間。

 

 朝食を作ってくれたこと。

 

 甘味料について、楽しそうに語ってくれたこと。

 

 眠れない夜に、二人で紅茶を飲んだこと。

 

 その一つ一つが、思い出される。

 

 織莉子は、窓の外を見た。

 

 ふと、視界が揺れた。

 

 未来の断片。

 

 見慣れた居間。

 

 テーブルの上に並ぶ二つのカップ。

 

 そして、向かい側に座るキリカの姿。

 

 キリカは、何かを話している。

 

 手には、あの黒砂糖の瓶。

 

 織莉子は、目を閉じた。

 

 映像は消えた。

 

 次に目を開けたとき、居間は静かなままだった。

 

 織莉子は、少しだけ微笑んだ。

 

 未来がいつ訪れるのかは分からない。

 

 どんな話をするのかも、どんなお菓子を食べるのかも分からない。

 

 けれど、次にキリカがここへ来ることを、楽しみにしている。

 

 それだけは、確かだった。

 

 織莉子は携帯電話を手に取った。

 

 キリカから、メッセージが届いていた。

 

『家に帰ってきたよ! まだ片づけが残ってるけど、ちゃんと寝られそう』

 

 その下に、もう一通。

 

『今度、パンケーキ作るからね。約束!』

 

 織莉子は、少しだけ笑った。

 

 返信を打つ。

 

『ええ。楽しみにしているわ』

 

 それから、少し考えて、もう一通。

 

『あなたが好きな甘味料の話も、また聞かせてね』

 

 送信する。

 

 すぐに返事が来た。

 

『もちろん! 次はもっと詳しく教えてあげる!』

 

 織莉子は、その画面を見つめていた。

 

 そして、携帯電話をそっと置いた。

 

 紅茶を飲む。

 

 静かな夜。

 

 けれど、今は寂しくなかった。

 

 キリカは、キリカの家にいる。

 

 自分は、自分の家にいる。

 

 それでも、二人の間には、次の約束がある。

 

 未来を予知する必要はない。

 

 未来を確かめる必要もない。

 

 キリカがまた来てくれる。

 

 そして、そのときには、きっとまた二人で紅茶を飲むのだろう。

 

 キリカは甘い紅茶を。

 

 織莉子はストレートの紅茶を。

 

 同じテーブルで、違う味を楽しみながら。

 

 織莉子は、カップを置いた。

 

「……またね、キリカ」

 

 誰もいない居間で、そっと呟く。

 

 その言葉は、別れのためのものではなかった。

 

 次に会う日まで、続いていく約束のようなものだった。

 

 窓の外では、雨上がりの夜風が静かに吹いていた。




呉キリカ可愛すぎだろ!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。