魔法少女おりこ☆マギカ ショートストーリー 作:呉キリカ愛好海老
キリカが織莉子の家に滞在するようになって、十日ほどが過ぎていた。
ワルプルギスの夜が町を襲ったあの日、織莉子の家はワルプルギスの夜の被害を免れたものの、キリカの家は屋根や窓を中心に大きな被害を受けていた。修理が終わるまではまともに暮らせそうにないということで、ひとまず織莉子の家に身を寄せることになったのだ。
当初こそ、他人の家で暮らすことに遠慮があったキリカだが、十日も経てばすっかり馴染んでしまった。
朝食の時間になれば当たり前のように席に着き、織莉子が本を読んでいると隣から話しかけ、夜になれば風呂の順番を巡って軽い言い合いをする。
以前から頻繁に行き来していた二人にとって、同じ家で過ごすというのは、思いのほか自然なことだった。
ただ、ひとつだけ困ったことがある。
「織莉子、今日の予定は?」
朝食を終え、食器を片づけていた織莉子に、キリカが尋ねた。
「午前中に少し用事を済ませて、それから町を見て回ろうと思っているわ。魔女の出現が増えているらしいから」
「ああ、そっか。ワルプルギスの夜がいなくなったからって、魔女までいなくなったわけじゃないもんね」
「ええ。しばらくは気を抜けないでしょうね」
「じゃあ、私も行くよ」
「そのつもりだったわ」
織莉子がそう答えると、キリカは満足そうに笑った。
その顔を見て、織莉子も自然と頬を緩める。
キリカが家に来てから、日常の中に小さな楽しみが増えた。
一人で食べていた朝食も、誰かと話しながら食べるようになった。読書の途中で話しかけられることも増えたが、不思議と集中を邪魔されているとは感じない。
むしろ、キリカが別のことに夢中になっていると、少し物足りないと思うことすらあった。
そんな自分の変化を、織莉子は嫌いではなかった。
「……何?」
気づけば、キリカがこちらを覗き込んでいた。
「いいえ。今日はどこか行きたいところでもあるのかしらと思って」
「魔女退治に行くんだろう?」
「その前に、何か食べたいものでもあるのかと思ったのよ」
「えっ、いいの?」
「まだお昼にもなっていないのだけれど」
「いいじゃないか。今日はいっぱい歩くかもしれないし、腹ごしらえは大事だよ」
「そうね。あなたの場合は、歩かなくても腹ごしらえが必要そうだけれど」
「ひどいな! 私だって、いつも食べてばかりいるわけじゃないぞ」
「そうかしら?」
「そうだよ」
自信満々に答えるキリカを見て、織莉子は小さく笑った。
こうして過ごせる時間が、いつまでも続けばいい。
そんなことを考えたのは、初めてではなかった。
けれど、織莉子はそれを口に出さなかった。
キリカがここにいるのは、あくまでも家の修理が終わるまでの間だ。いずれは自分の家に戻る。それが自然なことであり、そうなるべきだとも思っている。
それなのに、期限が近づくことを想像すると、ほんの少しだけ寂しかった。
織莉子はそんな気持ちに蓋をして、食器を片づけ終えた。
町を歩き始めてから一時間ほどが経った頃だった。
織莉子の手の中で、ソウルジェムが淡く光った。
「……反応があるわね」
「魔女?使い魔?」
「まだ分からないわ。けれど、近くに何かあるのは確かよ」
織莉子は立ち止まり、ソウルジェムを見つめた。
魔力の反応を追う方法は、織莉子にとってもキリカにとっても、特別なことではない。ソウルジェムを手がかりにすれば、魔女の気配を探ることができる。
ただし、反応の強さや方向が分かったからといって、居場所を正確に特定できるとは限らない。
「こっちかな?」
キリカが路地の奥を覗き込む。
「待って。もう少し確認を――」
言いかけたところで、織莉子の視界が揺れた。
目の前の景色が、一瞬だけ別の光景に置き換わる。
薄暗い場所。
不協和音を奏でる壁一面の時計。
舞い上がる埃。
そして、床に片手をついたキリカの姿。
その手のすぐそばには、黒い影が伸びていた。
光景は、瞬きをする間もなく消えた。
「織莉子?」
キリカの声で、織莉子は我に返った。
「……何でもないわ」
「何でもないって顔じゃないよ。どうしたの?」
「少し、考え事をしていただけよ」
そう答えながらも、織莉子は自分の手の中にあるソウルジェムを見た。
今のは予知だったのだろう。
しかし、見えたものが何を意味するのかまでは分からない。
あの光景が本当にこれから起こることなのか。起こるとすれば、どこで、いつなのか。自分たちが何をすれば避けられるのか。
考えようとしても、答えは出なかった。
織莉子の予知は、欲しい答えをいつでも与えてくれるものではない。
未来の光景が突然脳裏に浮かぶことはあっても、望む未来を自由に選んで確認できるわけではなかった。
それでも、見えてしまった以上、無視することもできなかった。
「織莉子?」
もう一度呼ばれて、織莉子は顔を上げた。
「……行きましょう。反応はこちらの方向で間違いないと思うわ」
「うん。でも、無理はしないでよ」
「分かっているわ」
織莉子はそう答えて歩き出した。
自分の中に残った光景を、どうにか頭の隅へ押しやりながら。
魔女の結界を見つけるまでに、それほど時間はかからなかった。
人気のない建物の裏手。ソウルジェムの反応が強まった場所を調べると、案の定魔女結界の入り口があった。
「ここだね」
「ええ。気をつけて」
「分かってるよ」
キリカが先に結界へ踏み込む。
織莉子もその後に続いた。
結界の内部は、奇妙な装飾に満ちていた。壁にはいくつもの時計が埋め込まれ、床には砕けたガラスのようなものが散らばっている。針のない時計が一斉に回転し、不規則な音を立てていた。
「うわあ……趣味が悪いなあ」
「そうね。けれども、意味もなくそんな時計が存在するとも思えないわ。何かしらの仕掛けがあると思うの」
「何かって?」
「そこまでは分からないけれど」
「そっか。じゃあ、壊してみれば分かるかな」
「キリカ。あなた、いくら何でも単純すぎるんじゃないの?」
「そんなことないよ。ちゃんと考えてる」
そう言って、キリカは得意げに笑った。
「まずは壊してみて、そこからわかることもあると思うんだ」
「それは考えているとは言わないのではないかしら」
「ええっ?」
いつもの調子で言い合いながら、二人は奥へ進んだ。
魔女の使い魔らしき影が、壁の時計から次々と這い出してくる。
キリカが前に出た。
魔法によって相手の動きを遅らせ、間合いを詰める。影が反応するよりも早く、彼女の刃がそれを切り裂いた。
「こっちは任せて!」
「ええ。後ろは私が見ているわ」
織莉子はキリカの動きに合わせて進み、危険があれば声をかけた。
しかし、使い魔の数は予想以上だった。
倒しても倒しても、時計の内側から新たな影が現れる。しかも、使い魔が床に散らばったガラス片を踏むたびに別の場所へ移動していた。
「これ、きりがないな!」
「奥に本体がいるはずよ。突破しましょう」
「了解!」
キリカが走り出した、その瞬間。
織莉子の視界に、再び光景が差し込んだ。
キリカが足を止める。
その背後で、大きな時計が崩れ落ちてくる。
次の瞬間には、砕けた破片が床を覆い、黒い影がキリカの足元へ伸びていた。
「キリカ、右へ!」
織莉子は叫んだ。
キリカが反射的に右へ跳ぶ。
直後、頭上から巨大な時計が落下し、床に叩きつけられた。
「うわっ!」
キリカは間一髪で直撃を避けられた。
落下の衝撃で飛び散った時計の破片から使い魔が湧き出ているのが見えた。
「織莉子、今のは――」
「まだ来るわ!」
織莉子は続けて警告した。
予知した光景を避けられた。そう思ったのも束の間、結界全体が大きく揺れた。
壁の時計が一斉に破裂し、無数の破片が二人へ降り注ぐ。
キリカが身を翻して距離を取ろうとする。しかし、彼女の背後にも使い魔が迫っていた。
「くっ……!」
織莉子は魔法を使った。
光をまとった球が、キリカへ向かう破片の軌道を逸らす。
だが、それと同時に、彼女のソウルジェムが急速に濁っていくのを感じる。
予知によって見えた断片を頼りに行動を選ぶことはできる。
それでも、未来のすべてが見えるわけではない。ひとつの危険を避けたからといって、その先にある危険まで分かるとは限らない。
今、織莉子がしようとしているのは、限られた光景を頼りにキリカを守ることだった。
もう一度、予知が脳裏をかすめる。
キリカが振り返る。
その背後に、黒い影。
「キリカ、後ろ!」
「分かってる!」
キリカは身を低くして攻撃をかわし、背後へ向けて刃を振るった。
使い魔は消えた。
しかし、その直後、キリカの足元から床が崩れた。
「えっ――」
身体が傾く。
キリカはとっさに壁へ手をついたが、その壁もまた、ひび割れた。
織莉子は駆け寄ろうとした。
けれど、足が動かなかった。
魔力を使いすぎたのだと、すぐに分かった。
予知で見えた光景を避けようとするたびに、魔法を使ってキリカを助けようとしていた。その積み重ねによって、彼女自身の余力がほとんど残っていなかったのだ。
「織莉子!」
キリカが叫んだ。
彼女は崩れかけた床を蹴り、織莉子のもとへ戻ってくる。
「大丈夫!?」
「私は……」
「いいから、下がって!」
キリカは織莉子の手を取った。
織莉子が何かを答えるより先に、キリカは彼女を引き寄せ、襲いかかってきた使い魔の攻撃をかわした。
そのまま、二人で一気に後退する。
キリカの呼吸は荒くなっていた。
それでも、彼女は織莉子の手を離さなかった。
「ごめんなさい……」
「今はいいから!」
いつもの明るい声ではなかった。
それが、織莉子には何よりもこたえた。
結局、二人はどうにか結界の奥へたどり着き、協力して魔女を倒した。
最後の一撃を加えたのはキリカだった。
魔女は奇妙な叫び声を上げ、黒い影となって消えていく。
残されたグリーフシードを拾い上げ、キリカは深く息を吐いた。
「……終わった」
「ええ」
織莉子は答えた。
二人とも無事だった。
それなのに、織莉子は素直に安堵することができなかった。
魔女を見つけ、倒すことができた。けれど、その過程で自分は何度もキリカの助けを借りた。
予知で見た光景を避けようとして、かえって魔力を消耗し、最後にはキリカに守られてしまった。
もし自分がもっと冷静に判断できていれば。
もし、あの場で無理に援護しようとしなければ。
そんな考えばかりが、頭の中を巡っていた。
「織莉子」
キリカが呼んだ。
彼女は手の中のグリーフシードを差し出した。
「はい。今日の分」
いつものように、何でもないことのように。
織莉子はその手を見つめた。
「……あなたが持っていて」
「え?」
「今日は、あなたが持っているべきよ」
キリカは一瞬、きょとんとした顔をした。
「いや、でも、これは二人で倒したんだし、織莉子のソウルジェムの穢れの貯まり具合もひどいものじゃないか」
「あなたが、ほとんど一人で戦っていたようなものだわ。私のせいで余計に魔力を使わせてしまったもの」
「そんなことないよ」
「いいえ。私があなたの足を引っ張ってしまったのは事実だもの」
織莉子は、静かに首を振った。
「受け取るわけにはいかないわ」
キリカの表情から、少しずつ笑みが消えていった。
「……どうして?」
「え?」
「どうして、受け取れないの?」
「だから、あなたに負担をかけてしまったから――」
「私が負担だと思ってるって、織莉子が決めたの?」
織莉子は言葉に詰まった。
キリカはグリーフシードを差し出したまま、織莉子を見つめていた。
「私は、織莉子が困っていたから助けたんだよ。私がそうしたかったから、そうしたんだ」
「分かっているわ」
「分かってないよ」
その言葉は、思っていたよりもずっと強かった。
織莉子は、思わず目を見開いた。
「……キリカ?」
「私が渡したいって言ってるのに、どうして受け取ってくれないの?」
「あなたの気持ちは嬉しいわ。でも――」
「でも、何?」
キリカの声が震えた。
「私が勝手にやったことだから、織莉子は気にしなくていいって、そういうこと?」
「そうではないわ」
「じゃあ、どういうことなの?」
織莉子は答えられなかった。
キリカの言葉を拒みたいわけではない。
けれどキリカのソウルジェムも私と同じくらい濁っていて、その理由が自分の失態だというのだからなおさらだ。
自分が魔力を使い果たし、キリカに助けられたこと。そのせいで、キリカが余計な危険を負うことになったこと。
それなのに、何もなかったかのようにグリーフシードを受け取るのは、あまりにも自分勝手な気がしたのだ。
「私は、あなたに無理をしてほしくないの」
ようやく、織莉子はそう答えた。
「だから、あなたが私のために何かをしてくれるのは嬉しいけれど、それであなたが苦しむことになるのは嫌なのよ」
「……じゃあ、私はどうすればよかったの?」
キリカの問いに、織莉子は顔を上げた。
「え?」
「織莉子が困っているとき、助けないでいればよかった? 自分だけ安全なところにいて、織莉子が何とかするのを待っていればよかったの?」
「そんなことを言っているわけでは――」
「じゃあ、どうすればよかったんだよ!」
キリカの声が、路地裏の静寂に響いた。
織莉子は何も言えなかった。
キリカは、自分がしたことを後悔しているのではない。
自分が織莉子を助けようとしたことを、迷惑だったかのように扱われるのが嫌なのだ。
織莉子は、ようやくそこに気づきかけた。
けれど、自分の中にある後ろめたさを、簡単に捨てることもできなかった。
「……私は、あなたに迷惑をかけたくないの」
その言葉を聞いた瞬間、キリカの顔から、最後に残っていた笑みまで消えた。
「……そっか」
キリカは、グリーフシードを引っ込めた。
「そうだよね。織莉子は、そういう人だもんね」
「キリカ、私は――」
「もういいよ」
彼女は背を向けた。
「帰ろう。ここにいたって、仕方ないし」
織莉子は、その背中を見つめた。
いつもなら何かを話してくれるはずのキリカが、何も言わずに歩き出す。
織莉子はその後を追った。
けれど、いつもなら隣に並んで他愛もない話につきあってくれるキリカは、帰り道の間、一度もこちらを振り返らなかった。
家に帰ってからも、二人はほとんど話をしなかった。
キリカは先に風呂に入り、それから自分の部屋として使っている客間へ戻った。
織莉子は夕食を用意したが、キリカは「あとで食べるよ」とだけ答えた。
普段なら、台所から漂う匂いにつられてやって来ることもある。
今日は、それもなかった。
織莉子は一人で食卓についた。
向かい側の椅子は、空いたままだった。
いつもなら、そこにキリカが座っている。
今日は何を食べたいのかと聞けば、すぐにあれこれと注文をつけてくる。織莉子が呆れた顔をすれば、キリカは楽しそうに笑う。
そんな当たり前のやり取りが、今はひどく遠くに感じられた。
織莉子は箸を置いた。
自分の言ったことが間違っていたとは、思わない。
キリカに無理をしてほしくないという気持ちも、自分が迷惑をかけたことを申し訳なく思う気持ちも、嘘ではなかった。
それでも、キリカを傷つけたのだということは分かっていた。
いつもの美国織莉子であればあそこまで我を通さなかっただろうに。
織莉子は目を閉じた。
脳裏に、昼間の光景が蘇る。
ひび割れた壁。
崩れ落ちる時計。
キリカが床に手をついている姿。
あの予知を見た私ならばキリカの危機を避けることが可能だと、そう思っていた。
その結果が、今日の出来事だった。
けれど、それが間違いだったとは思いたくない。
キリカを危険な目に遭わせたくなかった。だから、力になろうとした。
それなのに、自分の行動によってキリカに余計な負担をかけてしまった。
織莉子は、膝の上で手を握りしめた。
未来を知ることができても、何もかもを思いどおりにできるわけではない。
見えた光景を避けようとしても、その先に何が起こるのかまでは分からないことがある。
だからこそ、判断しなければならない。
しかし、今日の織莉子には、その判断を誤ったという思いが強く残っていた。
そして、そのことをキリカに分かってほしいと思っていた。
……それは、少し身勝手な願いなのかもしれない。
キリカが何を考え、何を感じたのか。
織莉子は、それを聞こうとする前に、自分の気持ちばかりを伝えてしまった。
「……私は、何をしているのかしら」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
翌朝、織莉子が目を覚ますと、キリカはすでに起きていた。
居間へ行くと、キリカが窓のそばに立っているのが見えた。
外は曇っていた。
昨日まで晴れていた空が、今日は厚い雲に覆われている。
「おはよう、織莉子」
キリカは振り返って、そう言った。
声はいつもどおりだった。
けれど、織莉子には、それがいつもどおりではないことが分かった。
「……おはよう、キリカ」
織莉子は、何かを言おうとした。
昨日のことを謝ろうか。
それとも、もう少し時間を置いたほうがいいのだろうか。
考えているうちに、キリカのほうが口を開いた。
「今日は、私一人で魔女を探してこようと思うんだ」
「……どうして?」
「昨日、あんまり魔女を倒せなかったからさ。少しでもグリーフシードを集めておきたいし」
キリカは、笑顔を作っていた。
「織莉子はゆっくりしていてよ。昨日の疲れもあるだろう?」
「キリカ」
「大丈夫だって。私一人でも何とかなるから」
昨日と同じ言葉だった。
けれど、その意味は違っていた。
昨日、キリカが「大丈夫」と言ったとき、そこには織莉子を安心させようとする気持ちがあった。
今日は、織莉子に心配をかけないようにするための言葉だった。
それが分かったとき、織莉子は胸の奥が締めつけられるような気がした。
「……私も行くわ」
「え?」
「一人で行かせるわけにはいかないもの」
キリカの顔が、ほんの少しだけ曇った。
「……そう」
それだけ答えると、彼女は窓の外へ目を向けた。
織莉子は、すぐには言葉を続けられなかった。
自分は、キリカと一緒にいたい。
昨日のことをなかったことにしたいわけではない。キリカに傷つけられたと言いたいわけでもない。
ただ、今までどおりに話したかった。
今までどおりに笑ってほしかった。
それなのに、どう話しかければいいのか分からなくなっていた。
織莉子は、窓の外に視線を移した。
空は、相変わらず曇っていた。
その日は結局、二人で魔女を探しに出かけた。
魔女は見つからなかった。
ソウルジェムの反応が弱く、近くに結界があるのかどうかもはっきりしなかったため、無理に探索を続けるのはやめることにしたのだ。
いつもなら帰り道には何かしらの話をしている。
見つけた店のこと。
町で見かけた人のこと。
今度の休みに何をしたいかということ。
しかし、その日は違った。
キリカは、必要なこと以外はほとんど話さなかった。
織莉子が話しかければ答えてくれる。笑いかければ、笑い返してくれる。
けれど、キリカのほうから話題を出すことはなかった。
それが、織莉子にはつらかった。
喧嘩をする前の二人なら、こんな沈黙は長く続かなかったはずだ。
キリカは、退屈することが苦手だった。
何もすることがなければ本を読んでいる織莉子の隣に座り、何かを思いつけばすぐに話しかけてくる。時には、織莉子が答えに困るような突拍子もない話題を持ち出すことさえあった。
それが、今はない。
織莉子は、何度もキリカの横顔を見た。
そして、そのたびに何も言えなくなった。
キリカは、怒っているのだろうか。
それとも、もう怒ることすらやめてしまったのだろうか。
用事があるといってどこかにいってしまったのも織莉子の思考を暗くする一因となっていた。
キリカが私にどのような感情を抱いているのか、織莉子には分からなかった。
予知では、何も見えなかった。
そもそも、織莉子はキリカがどう感じているのかを、未来の光景から知ろうとしていたわけではない。
ただ、分からなかった。
自分がどんな言葉をかければ、キリカがまたいつものように笑ってくれるのか。
分からないからこそ、織莉子は立ち止まってしまっていた。
夕方、二人が家に戻ると、織莉子は夕食の準備を始めた。
キリカは居間で本を読んでいた。
普段なら、織莉子が台所に立てば、何か手伝うことはないかと聞いてくる。
けれど、今日は何も言わなかった。
織莉子は、包丁を持つ手を止めた。
「キリカ」
「ん?」
「……少し、手伝ってもらってもいいかしら」
キリカは顔を上げた。
意外そうな顔だった。
「いいけど、何をすればいい?」
「野菜を切ってくれると助かるわ」
「分かった」
キリカは本を閉じて、台所へやって来た。
織莉子はまな板と包丁を用意した。
それから、二人で並んで夕食の準備を始めた。
最初は何も話さなかった。
包丁がまな板に当たる音と、鍋の中で湯が沸く音だけが、台所に響いていた。
しばらくして、キリカが口を開いた。
「……ねえ、織莉子」
「何かしら」
「昨日のこと、まだ気にしてる?」
織莉子は手を止めた。
「……ええ」
隠しても仕方がないと思った。
「気にしているわ」
「そっか」
キリカは、野菜を切り続けた。
「私も、まだ気にしてるよ」
その言葉に、織莉子は顔を上げた。
「……そうなのね」
「うん」
キリカは、少しだけ笑った。
「でも、昨日みたいに怒鳴るつもりはないから。安心してよ」
「キリカ……」
「だって、私も言いすぎたと思うし」
織莉子は、すぐには答えられなかった。
キリカが自分の言い方を反省していることは、意外だった。
けれど、だからといって、昨日のことが解決したわけではない。
「……私も、あなたの気持ちを考えずに話してしまったわ」
「え?」
「あなたが私を助けようとしてくれたこと。それがあなた自身の意思だったことを、私は分かっていたはずなのに」
織莉子は、まな板の上に視線を落とした。
「それなのに、私は自分が申し訳ないと思っていることばかりを伝えてしまった。あなたの気持ちを、きちんと受け取ろうとしなかった」
キリカは、黙って聞いていた。
「ごめんなさい、キリカ」
織莉子は、まっすぐに彼女を見た。
「あなたが私を助けたいと思ってくれたことを、否定したかったわけではないの。あなたの気持ちが嬉しくなかったわけでもない」
「……うん」
「ただ、私は、自分のせいであなたに負担をかけたことが、どうしても嫌だったのよ」
織莉子は、言葉を選びながら続けた。
「あなたが何でもないことのように振る舞ってくれるほど、私は自分の失敗を無視できなくなってしまったのだと思うわ」
キリカの手が止まった。
「……織莉子はさ」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「私が織莉子を助けたいと思うことって、そんなに悪いことなの?」
「いいえ」
織莉子は、すぐに答えた。
「そんなこと、あるはずがないわ」
「じゃあ、どうしてあんなふうに言ったの?」
「……自分でも、うまく説明できないわ」
織莉子は、正直にそう言った。
「あなたを大切に思っているからこそ、あなたに負担をかけることが怖かったのだと思う。でも、そのせいで、あなたが私のためにしてくれたことまで、拒んでしまった」
キリカは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……私も、織莉子に無理をしてほしくないよ」
「え?」
「昨日だって、織莉子が魔力を使いすぎていたのは分かってた。だから助けたんだ。織莉子が困っているのを見て、何もしないでいられるわけないだろ?」
キリカは、少し困ったように笑った。
「でも、私がそうしたいって思ったことまで、織莉子が申し訳ないって思うなら……私は、どうすればいいんだろうって思ったんだ」
織莉子は、その言葉を聞いて、胸の奥が痛んだ。
キリカは、助けることを迷惑だと思っていなかった。
むしろ、自分が織莉子の力になれたことを嬉しく思っていたのだろう。
それなのに、織莉子はその気持ちを、自分の失敗を責める理由にしてしまった。
「……そうね」
織莉子は、そっと手を伸ばした。
キリカの手のそばに、自分の手を置く。
「あなたが私のためにしてくれたことを、私が勝手に迷惑だったと決めるべきではなかったわ」
キリカは、織莉子の手を見た。
「……うん」
「それに、あなたが私を助けてくれたことを、もっと素直に嬉しいと思ってよかったのよね」
「……うん」
キリカは、もう一度頷いた。
それから、少しだけ顔を赤くして、織莉子を見た。
「……じゃあ、今は?」
「え?」
「今は、どう思ってる?」
織莉子は、目を瞬かせた。
それから、ふっと笑った。
「嬉しいわ」
「……本当?」
「ええ。本当に」
織莉子は、キリカの手をそっと握った。
「ありがとう、キリカ」
キリカは、しばらく何も言わなかった。
やがて、彼女は織莉子の手を握り返した。
「……うん」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
けれど、そこには、昨日からずっと失われていた温かさが戻り始めていた。
夕食を終えたあと、二人は居間でお茶を飲んでいた。
キリカがいつものように、甘いものをいくつか並べている。
今日は、クッキーと小さな焼き菓子、それに、織莉子が用意した紅茶だった。
「ねえ、織莉子」
「なあに?」
「これ、食べる?」
キリカが差し出したのは、砂糖をたっぷり使った焼き菓子だった。
織莉子はそれを受け取り、ひと口だけ食べた。
「……おいしいわ」
「本当?」
「ええ。ただ、私には少し甘いかしら」
「あはは。やっぱり?」
キリカは楽しそうに笑った。
「じゃあ、こっちは? こっちはそんなに甘くないよ」
「そうね。そちらもいただこうかしら」
二人は、そんなやり取りをしながら、お茶を飲んだ。
いつものような会話だった。
昨日までとは違うことがあるとすれば、二人が時折、互いの顔を確かめるように見つめていることくらいだった。
キリカは、織莉子が笑うたびに、少しずつ安心していった。
織莉子も、キリカが楽しそうに話す姿を見て、胸の奥の緊張が解けていくのを感じていた。
「……あ、そうだ」
キリカは、思い出したように立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
「どうしたの?」
「いいから、いいから」
彼女は客間へ向かい、しばらくして戻ってきた。
手には、小さな包みがあった。
「はい」
「……これは?」
「グリーフシード」
織莉子は、目を見開いた。
「キリカ、それは――」
「昨日のとは違うよ。今日、家に帰る途中で見つけた魔女のもの」
キリカは、包みを開いて中身を見せた。
「ちゃんと二人で倒したわけじゃないから、あげるかどうか迷ったのだけど……」
そこで、彼女は一度言葉を切った。
「でも、織莉子に渡したいなって思ったんだ」
織莉子は、グリーフシードを見つめた。
昨日と同じように、受け取ることをためらう気持ちが、ほんの少しだけ胸をよぎった。
けれど、その気持ちに任せてしまえば、また同じことを繰り返すのだろう。
織莉子は、ゆっくりと手を伸ばした。
「……ありがとう、キリカ」
そして、今度はきちんと受け取った。
キリカの顔が、ぱっと明るくなる。
「うん!」
その笑顔を見て、織莉子も笑った。
「……でも、ひとつだけお願いしてもいいかしら」
「何?」
「次からは、あなたが辛いとき、私にも助けさせてほしいの」
キリカは、少しだけ考え込んだ。
「……それ、織莉子にも同じことを言いたいんだけど」
「そうね。私も気をつけるわ」
「本当に?」
「ええ。できる限り、ね」
「できる限りかあ」
キリカは、くすくすと笑った。
「まあ、織莉子だからなあ」
「どういう意味かしら?」
「そのままの意味だよ」
「……もう」
織莉子は、少しだけ頬を膨らませた。
それを見て、キリカは声を上げて笑った。
織莉子も、つられて笑った。
昨日の喧嘩が完全になかったことになったわけではない。
明日になれば、また意見が食い違うこともあるかもしれない。
それでも、今は二人で笑っていられる。
それが、織莉子には嬉しかった。
夜が更けて、二人はそれぞれの部屋へ戻る時間になった。
キリカは、自室の扉の前で立ち止まった。
「……織莉子」
「なあに?」
「今日は、もう少し一緒にいてもいい?」
織莉子は、少し驚いた。
「ええ。もちろんよ」
「……よかった」
キリカは、ほっとしたように笑った。
二人は居間へ戻り、ソファに並んで座った。
窓の外では、雨が降り始めていた。
小さな雨粒が窓ガラスを叩き、遠くで風が木々を揺らしている。
キリカは、ソファの背もたれに身体を預けた。
「……雨、しばらく続くのかな」
「そうかもしれないわね」
「家の修理、遅れなきゃいいけど」
「そうね。早く直るといいわね」
織莉子が答えると、キリカは少しだけ黙った。
そして、ぽつりと言った。
「……直ったら、私、帰るんだよね」
織莉子は、すぐには答えられなかった。
「ええ。そうね」
「そっか」
キリカは、笑った。
「……なんだか、変な感じだな。家に帰れるのは嬉しいはずなのにちょっと寂しい気分だよ」
キリカは、織莉子を見た。
「織莉子と一緒にいると、退屈しないし」
「それは、あなたがいつも話しかけてくるからではないかしら」
「ええっ? 私のせい?」
「ふふ。冗談よ」
「もう、織莉子は意地悪だなあ」
そう言いながらも、キリカは笑っていた。
織莉子は、その横顔を見つめた。
家の修理が終われば、キリカは帰る。
それは、変えようのないことだ。
けれど、それまでの時間をどう過ごすかは、二人で決められる。
織莉子は、そっと口を開いた。
「……キリカ」
「ん?」
「家に戻ってからも、遊びに来てくれる?」
キリカは、目を丸くした。
「え?」
「もちろん、あなたの家に私が行ってもいいのだけれど。……その、これからも、こうして一緒に過ごせたら嬉しいわ」
言ってから、織莉子は少しだけ恥ずかしくなった。
普段なら、こんなことをわざわざ口にしなくても、キリカは当然のように訪ねてきてくれるだろう。
けれど、今は伝えたかった。
自分がどう思っているのかを、キリカに知っていてほしかった。
キリカは、しばらく織莉子を見つめていた。
それから、ぱっと笑った。
「……もちろんだよ!」
彼女は、勢いよく織莉子の手を取った。
「むしろ、織莉子が来てくれるなら、私のほうが嬉しいくらいだよ。家が直ったら、もっと気軽に遊びに来てよ!」
「ええ。そうさせてもらうわ」
「約束だよ?」
「約束するわ」
キリカは、織莉子の手を握ったまま、嬉しそうに笑っていた。
織莉子は、その手を握り返した。
指先から伝わる温かさが、胸の奥にゆっくりと広がっていく。
今日、キリカと喧嘩をした。
自分の言葉でキリカを傷つけてしまった。
それでも、こうしてまた笑い合えることが、織莉子には何よりも嬉しかった。
「……ねえ、織莉子」
「なあに?」
「明日も、一緒にいようね」
キリカは、少し照れたように言った。
織莉子は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「ええ。明日も、一緒にいましょう」
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
二人の手は、しばらくの間、離れなかった。
翌朝、織莉子が目を覚ますと、キリカはすでに台所にいた。
「おはよう、織莉子!」
「……おはよう。早いのね」
「うん。今日は私が朝ごはんを作ろうと思って!」
キリカは、得意げに胸を張った。
テーブルには、焼いたパンと卵料理、それから果物が並んでいる。少し不揃いなところもあるが、どれもきちんと用意されていた。
「……あなたが作ったの?」
「そうだよ。織莉子に楽を覚えてもらいたいからね」
織莉子は、料理を見つめた。
それから、キリカの顔を見た。
「ありがとう。とても嬉しいわ。キリカにこんなに働いてもらって、いなくなった後私が自立できるか心配だわ」
キリカは、照れくさそうに笑った。
「ふふ。そうなったら毎朝、織莉子の家に行って朝ごはんを作ってあげるよ」
二人は席につき、朝食を食べ始めた。
スクランブルエッグは焦げていたけれど、織莉子は何も言わずに食べた。
「……どう?」
キリカが、少し不安そうに尋ねる。
「おいしいわ」
「本当?」
「ええ。あなたが作ってくれたものだもの」
キリカは、嬉しそうに笑った。
「……そっか。よかった」
織莉子は、そんな彼女を見て微笑んだ。
未来は、今日も見えない。
これから二人がどんな話をするのか。どんなことで笑い、どんなことで言い合いをするのか。
織莉子には分からなかった。
けれど、それでいいのだと思った。
未来が分からなくても、今、目の前にいるキリカの気持ちを知ろうとすることはできる。
相手が何を考えているのか分からないときには、聞けばいい。
自分の気持ちが伝わっていないと思ったら、言葉にすればいい。
それは、予知の力ではできないことだった。
「織莉子?」
「なあに?」
「……何か、いいことでもあった?」
キリカが、首を傾げた。
織莉子は、少しだけ考えてから答えた。
「ええ。いいことがあったわ」
「何?」
「あなたと、こうして朝ごはんを食べられること」
キリカは、一瞬だけ固まった。
それから、みるみるうちに顔を赤くした。
「……っ、織莉子!」
「あら。どうしたの?」
「そういうこと、さらっと言わないでよ!」
「どうして?」
「どうしてって……!」
キリカは、言葉に詰まった。
織莉子は、くすくすと笑った。
「ふふ。ごめんなさい」
「絶対、反省してないだろ!」
「そんなことはないわ」
「嘘だ!」
二人の笑い声が、朝の家に響いた。
昨日の喧嘩は、もう過去のことになっていた。
もちろん、完全に忘れてしまったわけではない。
けれど、あのとき自分たちが何を言い、何を感じたのかを知ったからこそ、今は以前よりも少しだけ、相手の気持ちに近づけたような気がした。
織莉子は、目の前で笑うキリカを見つめた。
未来を知ることはできても、未来にあるものすべてが分かるわけではない。
だから、これからもきっと、迷うことはあるだろう。
キリカの言葉に戸惑うこともあるだろうし、自分の言葉で彼女を傷つけてしまうこともあるかもしれない。
それでも。
またこうして、二人で笑い合えるなら。
織莉子は、それでいいと思った。
キリカが家に帰る日まで、あと少し。
その日まで、二人で過ごす時間を大切にしよう。
そして、その先も。
織莉子は、胸の内でそっと願った。
予知には映らない未来を、キリカと一緒に歩いていけますように、と。