中指すら糧にして
お人好しのあいつと別れてから、随分と時間が経った。
最初は、ただ悲しかった。会いたかった。今すぐにでも、いつもの路地裏へ走っていきたかった。あそこに行けば、あいつがいつもの間抜けな顔で笑っているんじゃないか。そんなことを、何度も考えた。
でも、行かなかった。
あいつから離れると決めたのは、俺自身だったからだ。
あいつは何も悪くなかった。ただ、俺に優しくしてくれただけだった。それなのに、俺が弱かったせいで、あいつは傷ついた。俺の居場所を教えなかった。ただそれだけで、あいつは殴られたんだ。
なのに、あの馬鹿は笑っていた。転んだだけだなんて、下手くそな嘘までついて。
「……馬鹿野郎」
思い出すたびに、胸の奥が苦しくなる。
もう二度と、あんな思いはしたくなかった。あいつを傷つけさせない。今度こそ、俺が守ってやる。そう決めたんだ。だから、ここで折れるわけにはいかなかった。
それからの俺は、目につく奴らに片っ端から喧嘩を売った。
路地裏で偉そうにしている連中。自分より弱い奴から金を巻き上げる連中。俺をただのガキだと見下してくる連中。そんな奴らを叩きのめすと、少しだけ気分が晴れた。
「……なんだよ。大したことねえじゃん」
倒れた男を見下ろして、そう吐き捨てる。
だけど、分かっていた。こんなのは、ただの八つ当たりだ。ガキの俺に負けるような奴を何人倒したところで、本当に強くなれるわけじゃない。
もっと強い奴がいる。俺なんかじゃ歯が立たないような奴が、この都市にはいくらでもいる。それくらい、知っていた。
そして、そいつらがあいつを傷つけようとしたとき。今の俺に、何ができる?
「……くそっ」
答えなんて、分かりきっていた。
あの日、俺はあいつを巻き込まないために、自分から離れることしかできなかった。
でも、強ければ違ったはずだ。あいつのそばにいたまま、守ることだってできたはずなんだ。
そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。
そのときだった。
路地の向こうから、数人の男たちが歩いてきた。揃いの紫色の服。露出した肌に刻まれた、黒い刺青。周囲の連中は、男たちの姿を見るなり道を空けていく。誰も目を合わせようとしない。
――中指。
都市に生きていれば、嫌でも耳にする名前だった。家族への義理を何よりも重んじる組織。その家族に手を出せば、決して許されない。一人に喧嘩を売ることは、その背後にいる連中すべてを敵に回すことと同じだ。
奴らには、独特の決まりがある。
仕返し手帳。
家族が受けた侮辱や危害を記録し、必ずその借りを返すためのものだ。
男たちの腰や懐には、大小様々な手帳が収められていた。片手に収まる小さなものから、分厚い帳簿のようなものまで。その中には、図鑑ほどの大きさの手帳を抱えている奴さえいた。
一体、どれほどの仕返しが書き込まれているのだろうか。考えただけで、背筋が冷たくなった。
そして、男たちの間には鎖が見えた。腰から垂らしたもの。腕に巻きつけたもの。金属が擦れ合うたびに、重たい音が路地に響く。ただの飾りなのか、それとも武器なのか。俺には分からなかった。
だが、そんな連中の中でも、ひときわ目を引く男がいた。
大男だった。
周囲の構成員より頭一つ以上大きく、紫のコートの下には分厚い筋肉が盛り上がっている。露出した肌には、隙間を探す方が難しいほどの刺青。その模様が、脈打つように淡い光を放っていた。
中指特有の、刺青による身体強化。その存在は知っていた。けれど、実際に目にするのは初めてだった。
男が何かを告げると、周囲の構成員たちはすぐさま動いた。誰も逆らわない。それどころか、男の言葉を待つ姿には、恐怖とは別の敬意さえ感じられた。
(……なんだよ、あいつ)
見ただけで分かる。あの男は、他の連中とは違う。まともに戦えば、俺なんか一瞬で叩き潰される。いや、戦いにすらならないだろう。
「…………っ」
足が止まった。
まずい。逃げなきゃ。
頭の中で、そう声がした。相手が悪すぎる。今の俺がどうにかできる連中じゃない。そんなこと、見ただけで分かった。
足が、わずかに後ろへ下がる。
その瞬間。
「……は?」
自分自身に、腹が立った。
何をやってるんだ、俺は。
あいつを守るために強くなると決めたんじゃなかったのか?
あいつに二度と傷ついてほしくないから、こうして強さを求めてきたんじゃなかったのか?
それなのに、いざ本当に強い奴らを目の前にしたら、自分の身が可愛くなって逃げ出すのか?
「……ふざけんなよ」
拳を握りしめる。手は震えていた。足だって、今すぐ逃げ出したがっている。怖くないわけがなかった。
けれど、ここで背を向けたら、あいつを守ると誓った自分を裏切ることになる。
そんなのは、絶対に嫌だった。
あいつに胸を張って会えるくらい、強くなりたい。今度こそ、俺があいつを守ってやりたい。
「……ははっ」
思わず、笑いが漏れた。
怖い。死ぬかもしれない。それでも、目の前には俺が求めていた強さがある。
だったら、逃げる理由なんて、もうなかった。
俺は震える足を無理やり前へ踏み出した。一歩、また一歩。男たちがこちらに気づく。そのうちの一人が、怪訝そうに眉をひそめた。
「……あ? なんだ、嬢ちゃん」
俺はそいつらを見上げた。そして、笑った。
「おい、中指」
男たちの足が止まる。周囲の空気が、冷たくなった気がした。それでも、俺は目を逸らさなかった。
「俺が強くなるための――」
拳を構える。
「糧になってくれ」