「俺が強くなるための――糧になってくれ」
言い放った途端、路地裏を奇妙な静寂が包んだ。紫の衣服をまとった男たちは互いの顔を見合わせ、やがて堪えきれなくなったように笑い始めた。
「はははっ! 聞いたか、兄弟! 俺たちを糧にするんだとよ!」
「とんでもねえ嬢ちゃんだな。命が惜しくねえらしい」
狭い路地に笑い声が反響する。しかし、その目は少しも笑っていなかった。俺の言葉が気に食わなかったのか、何人かは露骨に眉をひそめている。
やがて、腕に太い鎖を巻きつけた男が一歩前へ出た。
「なあ、嬢ちゃん。俺たちに喧嘩を売るってのが、どういうことか分かってんのか?」
男は薄笑いを浮かべ、俺を見下ろした。
「俺たちは中指だぜ? 知らねえわけじゃねえだろ」
その口調は、聞き分けのない子供を諭すようなものだった。俺は鼻で笑い、男を睨み返す。
「……なんだよ。口先ばっかで何もしねえんだな?」
「あ?」
「こっちは喧嘩売ってんだよ」
言い終えるより早く、地面を蹴った。身体を捻り、男の側頭部めがけて脚を振り抜く。これまで幾度となく相手を沈めてきた上段蹴りだった。
男の笑みが消える。
避ける暇など与えなかった。蹴りは確かに男の頭を捉えた――はずだった。
ガキンッ!
「……っ!?」
肉を蹴ったとは思えない硬い感触が、足を通じて伝わってきた。男は腕に巻いた鎖を頭の横へ掲げていた。俺の蹴りは、その鎖に完全に阻まれていたのだ。
「……いい蹴りだ。だが、軽いな」
男はゆっくりと腕を下ろした。その声から、先ほどまでの軽薄さは消えていた。男は懐から小さな手帳を取り出し、慣れた手つきでページを開く。
「……何してんだ?」
「記録だよ、嬢ちゃん」
男は俺を一瞥すると、手帳に何かを書き込んだ。
「中指への侮辱。家族に対する暴行……っと」
さらさらとペンが走る。
「お前のやったことは、ここに残る。俺が忘れても、家族は忘れねえ」
「……だから何だよ」
「まだ分かんねえか。お前が喧嘩を売ったのは、俺一人じゃねえってことだ」
男は手帳を閉じ、懐へしまった。
「こっちが舐められりゃ、家族にまで迷惑がかかる。子供だろうが関係ねえ。中指に喧嘩を売るってのがどういうことか、教えてやるよ」
じゃらり、と鎖が鳴った。男が一歩踏み出した次の瞬間、その姿が視界から消えた。
「――っ!?」
反射的に両腕を上げる。直後、凄まじい衝撃が走った。
「ぐっ……!」
鎖を巻きつけた拳が、俺の腕を叩いた。骨が軋むような痛みとともに身体が後方へ吹き飛ばされる。踏ん張ろうとした足は地面を滑り、俺は背中から転がった。
「……かはっ!」
肺から空気が押し出される。速い。それに、重い。今まで喧嘩してきた連中とは、何もかもが違った。
「どうした? もう終わりか?」
男が悠々と歩いてくる。
「……まだ、だ」
痛む腕を押さえながら立ち上がった。正面からぶつかっても勝てない。なら、隙を作るしかない。
俺は足元の小石を蹴り上げた。男の視線が一瞬だけ動く。その隙を逃さず距離を詰め、低い姿勢から腹めがけて拳を突き出す。
だが、男は身体をわずかに捻っただけで、その拳をかわした。
「甘えよ」
視界の端で、鎖が鈍く光る。咄嗟に頭を下げると、鎖が頭上を通り過ぎ、背後の壁を叩いた。鈍い破砕音が響き、砕けた壁の欠片が降り注ぐ。
背筋が冷たくなった。あれをまともに食らえば、ただでは済まない。それでも足は止めなかった。俺は男の懐へ潜り込み、膝を突き上げる。
今度こそ、確かに当たった。
「……軽いな」
「なっ……!」
男はほとんど動じていなかった。まるで子供に小突かれた程度の反応だった。大きな手が俺の肩を掴む。
「捕まえたぞ」
次の瞬間、足が地面から離れた。
「――がっ!」
背中から地面に叩きつけられ、視界が白く染まる。息ができない。背中が焼けるように痛み、指先まで痺れていた。
「威勢だけじゃ、どうにもならねえことがある。分かったか?」
男の声が頭上から降ってくる。俺は答えなかった。いや、答えられなかった。それでも地面に手をつき、震える脚に力を込める。
「……まだ」
「あ?」
「まだ……終わってねえ……!」
男の眉がわずかに動いた。
「……お前、何がそこまで気に入らねえんだ?」
俺は口元の血を拭った。
「……弱いままなのが、気に入らねえんだよ」
再び地面を蹴る。だが、拳は届かなかった。男は鎖を巻いた腕で攻撃を受け止め、そのまま俺の身体を弾き飛ばした。
「ぐっ……!」
地面を転がりながら、痛む腕を押さえる。
今まで自分がやってきたことは、全部お遊びだったのか。
路地裏で偉そうにしていた連中を叩きのめして、少しは強くなったつもりでいた。けれど、目の前の男は違う。
身体強化の差だけじゃない。攻撃を仕掛ければ、鎖を巻いた腕で的確に防がれる。隙を突いたつもりでも、最小限の動きでかわされる。
逆に、男の拳は一発一発が恐ろしく重かった。防御しても腕が痺れ、まともに受ければ身体ごと吹き飛ばされる。力任せに暴れているわけじゃない。どこを狙えば相手が崩れるのか、どう動けば反撃を封じられるのか。そのすべてを、男は分かっているようだった。
何より腹が立つのは、男がまだ余裕を残していることだった。
(……格が違いすぎる)
今まで俺が叩きのめしてきた連中とは、文字どおり桁が違う。これが中指。これが、本当に強い奴らの戦い方なのか。
「どうした、嬢ちゃん。もう立てねえか?」
男が俺を見下ろしている。地面に手をついた。腕が震える。脚にも力が入らない。身体中が、もうやめろと悲鳴を上げていた。
悔しかった。こんなにも、自分が弱いことが悔しかった。
けれど、ここで諦めたら何も変わらない。あいつが殴られた、あの日から。また、あいつを守れないまま終わってしまう。
そんなのは、絶対に嫌だ。
俺は、あいつの隣にいたい。あいつが笑っているところを、誰よりも近くで見ていたい。そして今度こそ、あいつに危険が迫ったとき、俺が守ってやりたい。
そのために強くなると決めたんだ。こんなところで諦めてたまるか。
「……まだ、だ」
「あ?」
震える脚に力を込める。
「まだ……終わってねえんだよ……!」
どうにか立ち上がり、拳を構えた。男は一瞬だけ目を細める。
「……へえ」
その声には、先ほどまでの嘲りとは違うものが混じっていた。だが、手加減するつもりはないらしい。
「だったら、もう一度来い」
じゃらり、と鎖が鳴る。俺は歯を食いしばり、再び地面を蹴った。
それから何度、地面に叩きつけられただろうか。蹴りを放てば防がれ、拳を振るえばかわされる。懐へ飛び込んでも、次の瞬間には地面に転がされていた。
それでも立ち上がった。男の動きを目に焼きつけるために。少しでも、その強さに近づくために。
だが、ついに脚が言うことを聞かなくなった。
「……終わりだな」
男が俺を見下ろす。
「これで分かったろ。お前と俺たちじゃ、住んでる世界が違うんだよ」
返事をしようとしたが、声にならなかった。何一つ通用しなかった。あれほど強くなったつもりでいたのに、こいつ一人にさえ勝てなかった。
それでも、まだ終わっていない。
指先を動かす。懐には、一本だけ隠していたナイフがあった。今の俺に残された、最後の手段だった。
目の前の男を見る。そして、その奥に立つ大男へ視線を移した。
あいつは、最初から一度も動いていない。俺が何度殴られようと、ただ黙って眺めていた。周囲の男たちも、時折あいつの顔色を窺っている。
おそらく、あの中で一番偉い奴だ。
気に入らなかった。
目の前の男にすら勝てなかった。だったら、せめて、あの一番偉そうな奴に一発くらい吠え面をかかせてやる。
俺は残った力を振り絞り、懐からナイフを引き抜いた。腕を振る。刃が空気を裂き、大男の顔めがけて一直線に飛んでいく。
だが、届くことはなかった。
ガキンッ!
横から伸びた鎖がナイフを弾き飛ばした。乾いた金属音が路地裏に響く。
「……てめえ!」
男たちの表情が一変した。
「兄貴を狙いやがったな!」
先ほどまで俺を殴っていた男が、怒りに顔を歪める。
「このガキ……!」
鎖を巻いた拳が振り上げられた。避けられない。そう思った瞬間だった。
「やめろ」
低い声が響いた。男の拳が、ぴたりと止まる。声の主は、奥に立っていた大男だった。
「……ですが、兄貴! こいつは!」
「聞こえなかったか?」
「……っ。すみません」
男は歯を食いしばりながら、拳を下ろした。
大男がゆっくりと歩いてくる。一歩近づくたびに、その巨体が視界を覆っていった。全身に刻まれた刺青が、衣服の隙間から不気味に覗いている。
大男は俺の前で足を止めた。
「おい、ガキ」
「……なんだよ」
「なぜ、そいつじゃなく俺を狙った?」
俺は血の混じった唾を吐き捨て、笑ってやった。身体はまともに動かない。それでも、こいつにだけは弱気な顔を見せたくなかった。
「そんなの、決まってんだろ」
大男を睨みつける。
「こんな雑魚より……一番強そうな奴を殺せば、俺の方が強えって証明になるだろ?」
口元を吊り上げた。
「……違うかよ?」
周囲の空気が凍りつく。
「てめえ……! 誰が雑魚だ!」
男が怒鳴る。だが、大男は片手を上げて制した。そのまま、しばらく俺を見つめていた。何を考えているのか分からない。怒っているのか、それとも呆れているのか。
やがて、大男の口元が歪んだ。
「……がはははっ!」
突然、豪快な笑い声が路地裏に響き渡った。
「面白え!」
大男は俺の前にしゃがみ込む。
「俺の弟に散々叩きのめされておいて、最後は俺の首を狙うか!」
その目が、愉快そうに細められた。
「いい度胸じゃねえか、ガキ」
大男は笑みを浮かべたまま、俺に問いかける。
「お前、そこまでして強くなりてえのか?」
「……ああ」
俺は大男を睨み返した。
「誰にも負けねえくらい、強くなりてえ」
「何のためだ?」
その問いに、一瞬だけ言葉が詰まった。
脳裏に浮かんだのは、いつもの路地裏で笑っていたあいつの顔だった。自分が傷ついているくせに、俺のことばかり心配していた馬鹿。
あのとき、俺には何もできなかった。ただ離れることしか、できなかった。
けれど、次は違う。
「……守りてえ奴がいる。それだけだ」
大男は黙って俺を見つめていた。やがて、その口元に笑みが浮かぶ。
「……なるほどな」
大男はゆっくりと立ち上がった。
「気に入ったぜ、ガキ」
「……は?」
「強さに飢えてる。そのうえ、自分より強い奴に噛みつく度胸もある」
男は大きな手を差し出した。
「どうだ。俺たちの家族にならねえか?」
俺は差し出された手を見つめた。中指。さっきまで俺を叩きのめしていた連中。その家族になれと、この男は言っている。
「……家族?」
「ああ。家族だ」
大男は笑った。
「俺たちのところに来りゃ、強くなる方法はいくらでも教えてやる」
その言葉に、心臓が跳ねた。
強くなれる。こいつらみたいに。いや、いつかはこいつらよりも。
そうなれば、あいつを守れる。
「……本当に、強くなれるんだな?」
「そいつはお前次第だ。だが、俺たちは家族を見捨てねえ」
俺はしばらく男の手を見つめていた。そして、震える腕を持ち上げる。
「……だったら、入ってやる」
その手を掴んだ瞬間、大男が豪快に笑った。
「がははっ! 決まりだな!」
「兄貴、ですが……こいつは俺たちに喧嘩を売ったんですよ?」
先ほどまで俺を殴っていた男が、困惑したように口を開く。
「仕返し手帳にも、もう記録してあります」
大男はそれを聞くと、再び笑った。
「そうだったな!」
そして、俺の肩に大きな手を置く。
「だが、こいつは今から俺たちの妹だ」
「……妹?」
「ああ。だったら話は別だろう?」
大男はにやりと笑った。
「さっきのは喧嘩じゃねえ。新しい家族が、俺たちのところへ来るための通過儀礼だった。そういうことにしておけ」
「……兄貴がそう言うなら」
男は少し呆れた様子で手帳を開いた。
「まったく、とんでもねえ妹が増えたもんだ」
そう言いながら、先ほど書き込んだ記録に線を引く。
「これで貸し借りなしだ。よろしくな、妹」
差し出された手を、俺はしばらく見つめていた。
家族。その言葉が、妙に耳に残った。
けれど、俺が本当に欲しかったのは、家族という居場所じゃない。あいつを守れるだけの強さだ。
そのためなら、何だって利用してやる。
俺は男の手を握り返した。
「……ああ。よろしくな」
いつか、あいつの隣に戻るために。
俺は、中指の家族になった。