末兄の背中を追いながら、俺は周囲の連中を見渡した。
誰も口を開かない。普段ならくだらない冗談を飛ばし合っている連中が、今は黙々と歩いていた。腕に巻かれた鎖が、足を進めるたびに小さな音を立てる。
これから何が起こるのか。
聞こうと思えば聞けたはずだ。だが、なぜか口を開く気にはなれなかった。
やがて俺たちは、人気のない区画へと入っていった。
崩れかけた建物が並ぶ通りを抜け、一軒の古びた倉庫の前で足を止める。入口には二人の組員が立っており、末兄の姿を見るなり頭を下げた。
「兄貴。中にいます」
「おう、ご苦労だったな」
末兄は二人の肩を軽く叩くと、何のためらいもなく扉を開けた。
薄暗い倉庫の奥に、一人の男が座らされていた。
両手を後ろで縛られ、顔にはいくつもの痣がある。紫色の上着は汚れ、腕には中指特有の黒い刺青が刻まれていた。
男は扉の音に顔を上げると、末兄の姿を見て目を見開いた。
「……兄貴」
「おう。久しぶりだな」
末兄は、いつものように笑った。
「随分と痩せたじゃねえか。ちゃんと飯食ってたか?」
その声は驚くほど穏やかだった。
男は答えなかった。ただ、末兄の顔を見つめたまま、小刻みに震えている。
「覚えてるか? お前が入ってきたばかりの頃、飯を三人前も平らげてよ。あんときゃ皆で笑ったもんだ」
「……覚えて、ます」
「そうか、そうか。俺もよく覚えてるぜ」
末兄は嬉しそうに頷いた。
「お前はよく働いてくれた。兄弟が怪我をしたときも、真っ先に駆けつけてくれたな。俺は嬉しかったよ。いい弟ができたってな」
男の目から涙がこぼれた。
「兄貴……俺は……」
「ん?」
「すみませんでした……!」
男は床に額を擦りつけた。
「俺が間違ってました! もう二度と逃げません! だから、どうか……!」
末兄はしばらく黙っていた。
やがて男の前にしゃがみ込むと、その肩へ大きな手を置いた。
「顔を上げろよ」
男は恐る恐る顔を上げた。
「俺はな、お前が帰ってきてくれるなら、それでよかったんだ」
「……兄貴?」
「家族なんだからよ。喧嘩することもある。考えが合わねえことだってあるだろうさ」
末兄は男の肩を優しく叩いた。
「けどな。お前は黙って逃げた」
その瞬間、男の表情が凍りついた。
「俺たちに何も言わず、家族を捨てた。お前を心配して探し回った兄弟たちのことも、置いていった」
「ち、違うんです……!」
「何が違う?」
末兄の声は、少しも荒れていなかった。
だからこそ、恐ろしかった。
「俺は……怖くなったんです。仕返しが、いつまでも終わらなくて……昨日まで笑ってた奴が、次の日には死んでて……」
男は必死に言葉を続けた。
「俺もいつか死ぬんじゃないかって……それで、逃げちまったんです……!」
末兄は静かに聞いていた。怒鳴りもしなければ、殴りもしない。
「……お前が怖かったのは分かった」
やがて、末兄が口を開いた。
「仲間が死んで、次は自分かもしれねえと思ったんだろう。そりゃあ怖えよな。俺だって、大事な弟や妹が死ぬのは怖え」
「だったら……!」
「だがな」
男の言葉を遮り、末兄はその場にしゃがみ込んだ。
「家族の不安は、俺の不安でもあるんだ」
末兄は男の肩に手を置いた。
「お前が怖いなら、俺も一緒に考えてやった。辛いなら話を聞いてやった。どうしても戦えねえってんなら、別の役目を与えることだってできた」
その声は穏やかだった。
「お前が逃げる前に、一度でも俺を信用してくれていたら……きっと、何かが変わっていたはずなんだ」
「兄貴……」
「だが、お前はそうしなかった」
末兄の手に、わずかに力がこもる。
「家族を信じられなくて、黙って逃げたんだろう?」
男は何も答えられなかった。
「……俺はな、それが許せねえんだよ」
末兄は俯いた。その表情は、俺の位置からは見えなかった。
「俺たちは家族だ。家族ってのは、困ったときに頼り合うもんだろう? それなのに、お前は俺たちを頼ることすらしてくれなかった」
しばらくの沈黙が流れた。
「兄貴……俺は、本当に後悔してます……」
「ああ。そうだろうな」
末兄は静かに頷いた。
「だが、家族の掟を破る奴は、何度でも同じことをする。一度裏切りを許せば、次に苦しくなったときも、逃げればいいと思っちまう」
「そんなことは……!」
「お前がそう思ってなくても、俺はもう信じてやれねえ」
その言葉に、男の顔から血の気が引いた。
「……兄貴?」
「それが一番、悲しいんだ」
末兄は立ち上がった。
「今まで俺は、お前がしでかした失態の仕返しも、兄貴として引き受けてきた。お前が誰かに恨まれりゃ、俺も一緒に背負ってきた。弟の失態は、兄貴の失態でもあるからな」
末兄は自分の腕に巻かれた鎖を、ゆっくりと解いた。
「だから、今回も俺がけじめをつける」
「ま、待ってください……! 兄貴!」
男が必死に身をよじる。だが、末兄は怒鳴ることも、顔を歪めることもしなかった。
「安心しろ。苦しませたりはしねえ」
鎖を床へ落とし、末兄は男の前に立った。
「これは、兄貴からお前への最後の義理だ」
末兄は静かに拳を握った。
「一撃で送ってやる」
「兄貴……!」
男の目から涙がこぼれた。
「……今まで、ありがとうございました……」
末兄はわずかに目を細めた。
「おう。向こうでも元気でな、弟よ」
次の瞬間。
鈍い衝撃音が、倉庫の中に響いた。
男の身体が崩れ落ちる。それきり、動かなかった。
あまりにも一瞬だった。悲鳴を上げる暇すら与えられず、男の命は終わっていた。
末兄はしばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、男の身体へ自分の上着を掛ける。
「……丁重に弔ってやれ」
「はい、兄貴」
「こいつは最後まで、俺の弟だったんだ」
その声には、確かな悲しみがあった。
俺は何も言えなかった。
末兄は、男を憎んで殺したわけじゃない。大切な家族だったからこそ、裏切りを許せなかった。そして、最後まで兄貴であろうとした。
俺には、それが何よりも恐ろしく思えた。
「どうだ、妹。少しは分かったか?」
末兄がこちらを振り返る。
「……ああ」
そう答えたものの、理解できたとは思えなかった。
家族を大切にする。それ自体は、俺にも分かる。だが、こいつらにとって家族とは、守るべき存在であると同時に、決して離れることを許されない存在でもあるらしい。
「怖くなったか?」
末兄が尋ねた。
俺は少し考えてから答えた。
「……正直、少しな」
「がはは! そりゃそうだろうな!」
末兄は豪快に笑った。さっきまで弟を殺していた男が、もういつもの顔に戻っている。
「だが、安心しろ。お前が家族でいる限り、俺たちはお前を守る。どんな敵が相手でもな」
その言葉は、確かに心強かった。同時に、逃げ道を塞ぐ鎖のようにも聞こえた。
「さあ、帰るぞ。妹の刺青もまだなんだからな!」
末兄はそう言って歩き出した。
俺はその背中を見つめながら、考えた。
もし、いつか俺がここを離れたいと思ったら。もし、あいつと再会して、こいつらの家族でいることが邪魔になったら。
そのとき、俺も同じように追われるのだろうか。
答えは、もう分かっていた。
それでも、俺は拳を握りしめた。
あいつを守れるだけの強さが欲しい。もう二度と、俺のせいであいつを傷つけたくない。あいつが誰かに殴られているのを、黙って見ているだけの自分には戻りたくない。
そのためなら、どんな場所にだって身を置いてやる。
たとえ、そこが簡単には抜け出せない場所だったとしても。
ふと、考えた。
もし、あいつが俺を裏切ったら。
……いや。
そんなこと、あるはずがない。
あいつは俺に、待っていると言ってくれた。
俺はあいつを信じている。だからこそ、こうして強くなろうとしているんだ。
俺は末兄の後を追った。
建物へ戻ると、案内されたのは奥まった一室だった。机の上には器具が並べられ、壁には中指の刺青を描いた図案がいくつも掛けられている。
「さて、妹。覚悟はできてるか?」
末兄が尋ねた。
俺は右腕を差し出した。
「……やってくれ」
「いい返事だ!」
末兄は満足そうに笑った。
椅子に腰掛け、腕を台の上へ置く。針が肌に触れた瞬間、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
「動くなよ。最初は誰だって痛えもんだ」
俺は奥歯を噛みしめた。
痛みには慣れている。殴られる痛みも、蹴られる痛みも、嫌というほど知っていた。
だが、今感じているものは、それとは少し違った。
これは、自分で選んだ痛みだ。
針が動くたび、右腕に黒い線が増えていく。
その様子を眺めていると、ふと、昔の記憶が蘇った。
薄暗い路地裏。差し出されたパン。傷だらけの俺に向けられた、あいつの笑顔。
『待ってるから』
あいつは、そう言った。
俺はあの言葉を、今でも覚えている。
……待ってろよ。
次に会うときは、もう守られるだけの俺じゃない。
誰にも、お前を傷つけさせない。
やがて針の音が止んだ。
「よし、できたぞ」
右腕には、小さな紫色の刺青が刻まれていた。
中指の家族である証。そして、決して裏切ることを許されない証。
俺はその模様をじっと見つめた。
「どうだ、妹?」
末兄が笑いながら尋ねる。
「……悪くねえな」
「がはは! そうだろう!」
末兄は嬉しそうに俺の背中を叩いた。
「これで名実ともに俺たちの家族だ!」
周囲の組員たちが声を上げ、次々と俺の肩を叩いていく。
誰もが笑っていた。その笑顔に、嘘はない。
俺も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ここで強くなる。
誰よりも強くなって、いつかあいつのもとへ戻る。
そのとき、この刺青が何を意味することになるのか。
今の俺には、まだ分からなかった。