中指の家族になってから、しばらく経った頃。
俺は、末兄の前に立っていた。
「なあ、末兄」
「ん? どうした、妹よ!」
「……どうすりゃ、もっと強くなれる?」
末兄は一瞬目を丸くした。
それから、いつものように豪快に笑った。
「がはは! 何だ、そんなことか!」
「……俺は真面目に聞いてんだよ」
「分かってる、分かってる!」
末兄は笑いながら、俺の肩を叩いた。
「だったら、家族の仕返しを果たせ!」
「……仕返し?」
「おう! 家族が受けた借りを返す。それを繰り返していけば、自然と強くなっていく!」
末兄は俺の右腕に刻まれた刺青を指さした。
「仕返しを果たし、家族との絆を深めれば、そいつも増えていく。お前の力になるってわけだ!」
「……なるほどな」
「だが、覚えとけよ」
末兄は、少しだけ声を落とした。
「ただ強くなりてえってだけじゃ、いつか限界が来る」
「……どういう意味だ?」
「何のために強くなるのか。それを忘れるなってことだ!」
そう言って、末兄は再び笑った。
「守りてえもんがある奴は、強えぞ!」
守りたいもの。
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭には一人の少年が浮かんだ。
あの路地裏で、傷だらけの俺にパンを分けてくれた馬鹿。
自分が殴られても、俺の居場所を教えなかった馬鹿。
そして。
『待ってるから』
……ああ。
忘れるわけがねえ。
「……分かった」
「おう! 期待してるぞ、妹よ!」
俺は末兄に背を向けた。
強くなる。
あいつを守れるくらい。
誰にも、あいつを傷つけさせねえくらいに。
◇
最初に渡された仕返し手帳は、ポケットに収まるほど小さなものだった。
そこには、家族が受けた仕打ちと、返すべき借りが記されていた。
俺はそいつを持ち歩き、仕返しを果たすたびに、その顛末を書き込んでいった。
最初の相手は、弟分から金を奪い、痛めつけた連中だった。
「……おい」
薄暗い路地裏。
俺が声をかけると、男たちは面倒くさそうに振り返った。
「ああ? 何だ、お前」
「うちの弟に、随分と世話になったらしいな」
「……は?」
男の一人が俺の腕の刺青に気づいた。
途端に、その顔から血の気が引いていく。
「ま、待て……お前、中指の……」
「知ってんなら話が早え」
俺は一歩踏み出した。
「仕返しに来た」
男が逃げようとした瞬間、俺の蹴りがその脇腹に突き刺さった。
「がっ……!」
身体が壁に叩きつけられる。
残った男たちが武器を抜いた。
だが、遅え。
一人の顎を蹴り上げ、もう一人の足を払う。
倒れた男の胸元を踏みつけた。
「おい。うちの弟を殴ったとき、何て言った?」
「し、知らねえ……!」
「思い出せよ」
俺は足に力を込めた。
「……家族のことを馬鹿にしたんだろ?」
男が震えながら謝罪を繰り返す。
だが、謝る相手が違う。
「謝るなら、うちの弟に謝れ」
その日の仕返しを終え、俺は手帳を開いた。
記された借りの一つに、仕返しを果たした証を残す。
小さな頁が、一つ埋まった。
◇
それからも、俺は仕返しを続けた。
家族を騙した奴。
家族から金を奪った奴。
家族を傷つけた奴。
中指に対して負った借りは、必ず返してもらう。
相手がどこの誰だろうと関係ねえ。
逃げたところで、借りが消えるわけじゃねえからな。
仕返しを重ねるたびに、俺の身体には新しい刺青が刻まれていった。
右腕から肩へ。
肩から背中へ。
黒い模様は少しずつ広がり、戦うときには紫色の光を帯びるようになった。
力が増していくのが分かった。
以前なら苦戦した相手も、今では容易く倒せる。
だが、それでも足りなかった。
あいつを守るには、まだ足りねえ。
あの日、俺が弱かったせいで、あいつは傷ついた。
俺がもっと強ければ。
あいつが殴られる前に、全部片づけられたはずだった。
……二度と、あんな思いはさせねえ。
俺はまた手帳を開いた。
次の借りを確かめ、路地裏へ向かった。
◇
やがて、小さな仕返し手帳の最後の頁が埋まった。
それを認められた俺は、次の地位へ進むことになった。
新しく渡された手帳は、普通のノートほどの大きさだった。
「……でかくなったな」
以前のようにポケットへ入れることはできねえ。
だが、それだけ多くの借りを背負う立場になったということだ。
俺はノートを抱え、再び仕返しへ向かった。
地位が上がると、俺を頼ってくる弟妹たちも増えた。
「姉貴! 聞いてくださいよ!」
「今度は何だ?」
「うちの兄弟が、よその連中にやられたんです!」
「……そうか」
俺はノートを開いた。
「相手は?」
話を聞き、借りを確かめる。
そして、仕返しに向かう。
最初の頃は、何もかも自分で片づけようとしていた。
だが、俺一人で動いていると、別の場所で家族が困っていても手が回らねえ。
それに、弟妹たちだって弱いわけじゃねえ。
「……お前ら、この程度なら自分たちでやれるだろ」
「えっ、でも姉貴が行った方が……」
「俺が全部やってどうすんだよ」
俺は弟分の額を指で弾いた。
「仕返しは家族のもんだ。お前らも強くなれ」
「……はい!」
「ただし、無茶はすんな。危ねえと思ったら呼べ」
弟分たちは勢いよく頷き、走っていった。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
……守るってのも、面倒なもんだな。
ただ敵を倒せばいいってわけじゃねえらしい。
末兄が普段、俺たちを見守っている理由も、少しは分かる気がした。
◇
家族と過ごす時間は、嫌いじゃなかった。
仕事が終われば、みんなで飯を食う。
くだらねえことで笑い合う。
怪我をした弟妹がいれば手当てをするし、誰かが困っていれば手を貸す。
俺が何も持たずにここへ来たとき、受け入れてくれたのはこいつらだった。
その恩は、忘れねえ。
俺を妹と呼んでくれる末兄も。
俺を姉貴と慕ってくれる弟妹たちも。
大切な家族だ。
……だが。
夜、一人になると。
どうしても、あいつのことを考えてしまう。
今、何をしているんだろう。
ちゃんと飯を食っているだろうか。
また誰かに騙されていないだろうか。
あいつは馬鹿だからな。
困っている奴がいたら、きっと放っておけねえ。
相手が悪人だろうと、簡単に信じちまう。
……ああ、心配だ。
心配で、仕方がねえ。
もし、また誰かに殴られていたら?
もし、今度は俺の知らねえ場所で傷ついていたら?
もし、俺が迎えに行く前に。
あいつが、いなくなっていたら?
「…………っ」
考えただけで、胸の奥が冷たくなった。
嫌だ。
そんなこと、絶対に許さねえ。
あいつを傷つける奴がいるなら、俺が仕返ししてやる。
あいつが騙されるなら、俺がそいつを見つけ出す。
あいつが泣くなら、泣かせた奴に後悔させてやる。
……だから。
待ってろよ。
俺が、必ず迎えに行く。
◇
さらに時が流れた。
ノートほどの仕返し手帳も、少しずつ埋まっていった。
その頃には、俺の下で動く弟妹たちも増えていた。
仕返しの相手を調べる奴。
逃げ道を塞ぐ奴。
実際に仕返しを果たす奴。
それぞれに役割を与え、必要なら俺自身も前に出る。
家族を率いることにも、少しずつ慣れてきた。
そして、最後の頁が埋まったとき。
俺は、さらに上の地位へ進むことになった。
末姉。
そう呼ばれるようになった俺へ渡されたのは、辞典ほどの大きさの仕返し手帳だった。
「……おいおい」
思わず声が漏れた。
「今度は随分とでけえな」
厚みも重さも、これまでのものとは比べものにならねえ。
隣にいた弟分が、苦笑いを浮かべた。
「末姉、それ、俺が持ちますよ」
「……いいのか?」
「もちろんです! 姉貴の手帳を持つなんて、光栄ですから!」
「大げさだな、お前」
そう言いながら、俺は手帳を預けた。
弟分は両腕で辞典ほどの手帳を抱え、嬉しそうに笑った。
俺が持つ仕返し手帳は、今も一冊だけだ。
一冊を埋めれば、次の地位へ進む。
そして、その地位に応じた新しい一冊を受け取る。
ただ、それを繰り返してきた。
だが、手帳が大きくなるにつれて、俺が背負う借りも、守る家族も増えていた。
今の俺は、もう一人で仕返しをしているわけじゃねえ。
弟妹たちと共に、家族の義理を果たしている。
◇
「がはははは!」
末兄の笑い声が響いた。
「おいおい! 何だ、その馬鹿でけえ手帳は!」
「……見りゃ分かるだろ。仕返し手帳だよ」
「そりゃ分かるが、随分と立派になったもんだな!」
末兄は弟分が抱えた手帳を眺め、感心したように頷いた。
「最初はポケットに入るような手帳だったのによ!」
「……よく覚えてんな」
「当たり前だろ!」
末兄は俺の頭を大きな手で撫でた。
「家族のことだからな!」
「……子供扱いすんな」
「がはは! 俺からすりゃ、まだまだ可愛い妹だ!」
俺はその手を払いのけようとした。
だが、末兄は構わず笑っている。
「それにしても、よくここまで頑張ったな」
「…………」
「強くなったじゃねえか」
その言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。
強くなった。
確かに、昔とは比べものにならねえ。
だが。
「……まだだ」
「ん?」
「まだ、足りねえよ」
末兄は俺を見つめた。
それから、何かを察したように笑った。
「……そうか」
それ以上は聞いてこなかった。
俺も、何も言わなかった。
言えるわけがねえ。
俺がここまで強さを求めてきた理由を。
あの少年への想いを。
家族への恩は本物だ。
こいつらを大切に思う気持ちに、嘘はねえ。
だが、俺が本当に家族として隣にいたいのは。
……あいつなんだ。
いつか、必ず迎えに行く。
そのとき、俺が中指を離れることになるかもしれねえ。
簡単に許されることじゃねえのも、分かってる。
それでも。
あいつを一人にしておくことだけは、できねえ。
俺は、自分の腕に刻まれた刺青へ目を落とした。
家族のために果たしてきた仕返し。
その一つ一つが、俺を強くしてくれた。
この力があれば、今度こそ。
あいつを守れる。
誰にも奪わせねえ。
誰にも傷つけさせねえ。
あいつが誰かを信じて傷つくくらいなら、俺が代わりに疑ってやる。
あいつが誰かに利用されるくらいなら、俺がそいつを遠ざけてやる。
あいつは、あのままでいい。
馬鹿みたいに優しくて。
誰かのために自分を傷つけちまう。
そんなあいつのままで。
……だから。
「……待ってろよ」
誰にも聞こえねえように、俺は呟いた。
あの日、俺に向けられた言葉を思い出す。
『待ってるから』
……ああ。
今度は、俺の番だ。
「今度は、俺が迎えに行く」
もう二度と、あいつを一人にはしねえ。
「……家族として、守ってやるからな」