懐かしき路地裏
俺が九級フィクサーになってから、半年が経った。
最初の頃は、依頼を一つこなすだけでも精一杯だった。猫を探すために一日中路地裏を走り回ったり、護衛対象とはぐれて所長に呆れられたりと、思い返せば失敗ばかりだった気がする。
それでも、半年という時間は俺を少しずつ成長させてくれたらしい。
「……いた」
建物と建物の間にできた狭い隙間。その奥に、小さな猫が身を潜めていた。
俺は足音を立てないようにしゃがみ込み、鞄から餌を取り出す。以前の俺なら、見つけたことが嬉しくてすぐに駆け寄っていただろう。そして驚いた猫に逃げられ、また何時間も探し回る羽目になっていたはずだ。
だが、今は違う。
「大丈夫。怖くないよ」
なるべく穏やかな声で話しかけながら、餌を地面に置く。
猫はしばらくこちらを警戒していたが、やがて鼻をひくつかせながら近づいてきた。俺はその様子をじっと見守り、十分に距離が縮まったところで、そっと手を伸ばした。
「……よし」
今度は逃げられなかった。
腕の中で小さく鳴く猫を見て、思わず頬が緩む。
「見つかってよかった。飼い主さんが待ってるから、帰ろうか」
そう声をかけると、猫は返事をするようにもう一度鳴いた。
こんな小さな依頼でも、無事に終えられると嬉しいものだ。
もちろん、この半年間に受けた仕事は猫探しだけではない。
荷物の運搬や商人の護衛、行方不明者の捜索。時には、路地裏で厄介な連中と戦うこともあった。
少し前にも、商人を護衛している最中に三人組の男たちに絡まれたことがある。
「おい、兄ちゃん。そいつを置いていきな」
道を塞ぐように立った男たちは、こちらを見て下卑た笑みを浮かべていた。俺の後ろでは、荷物を抱えた商人が不安そうに身を縮めている。
「すみませんが、通してもらえませんか?」
「はっ! 九級のガキが何言ってやがる!」
男の一人が鉄パイプを振り上げた。
以前なら、その勢いに驚いて正面から受け止めようとしていたかもしれない。
だが、所長には何度も言われていた。
『君は力任せに戦うタイプじゃない。相手の動きをよく見て、無駄な攻撃は避けることだよ』
振り下ろされた鉄パイプを、身体を半歩ずらしてかわす。空振りした男が前のめりになったところで、俺はトンファーを振り、その腕を打った。
「ぐあっ!」
鉄パイプが地面に転がる。
続けて別の男が殴りかかってきたが、もう片方のトンファーで拳を受け流し、空いた腹へ一撃を入れた。
「がはっ!」
二人が倒れたのを見て、残った男が短剣を抜いた。
俺はすぐに追いかけず、依頼人との位置を確かめながら距離を取る。腰に差した投げナイフへ手を伸ばすと、男は一瞬動きを止めた。
「……まだ、やりますか?」
男は倒れた仲間と俺を交互に見比べ、舌打ちをすると逃げていった。
俺はしばらくその背中を見送り、周囲に他の敵がいないことを確かめてから武器を収めた。
「お怪我はありませんか?」
「あ、ああ……助かったよ」
「それならよかったです。もう少しで目的地ですから、行きましょう」
商人を送り届けた後、俺はようやく肩の力を抜いた。
三人を相手にしても、以前ほど慌てずに済んだ。それに、相手を倒すことばかり考えず、依頼人を守ることを優先できたと思う。
『フィクサーの仕事は、敵を倒すことじゃない。依頼を果たすことだよ』
所長の言葉を思い出す。
訓練中は何度も注意されていたけれど、最近になってようやく、その意味が分かってきた気がした。
その日の仕事を終えて事務所に戻ると、所長はいつもの椅子に深く腰掛け、書類に目を通していた。
「ただいま戻りました」
「おかえり。今日も無事だったみたいだね」
所長は顔を上げ、眠たげな琥珀色の瞳を細めた。
「はい。依頼も問題なく終わりました」
「へえ。最近は随分と仕事が早くなったじゃないか」
「所長に教えてもらったことを意識しているので」
「ふふ、素直でよろしい」
そう言って笑った所長は、俺が提出した報告書に目を落とした。
「でも、まだまだだね」
「……やっぱりですか?」
「もちろん。護衛中の戦闘では、もう少し周囲を見るようにしないと」
所長は書類を指で軽く叩いた。
「君が目の前の敵に集中している間に、別の奴が依頼人へ向かったらどうするつもりだったのかな?」
「……確かに、そこまでは考えられていませんでした」
「まあ、今回は無事に終わったからいいけどね。次は気をつけること」
「はい!」
俺が頷くと、所長は満足そうに微笑んだ。
「それにしても、もう半年か。最初は猫一匹捕まえるのにも苦労していたのにね」
「……その話は忘れてください」
「嫌だよ。あのときの君、なかなか面白かったし」
所長は楽しそうに笑う。
俺もつられて苦笑した。
こうして依頼を終え、所長から注意を受けたり、からかわれたりする時間が、今ではすっかり日常になっていた。
そんなある日の夕方だった。
事務所の扉が、突然勢いよく開かれた。
「た、助けてくれ!」
飛び込んできたのは、一人の男だった。
三十代くらいだろうか。服は乱れ、額には大量の汗が浮かんでいる。男は事務所へ入るなり扉を閉め、何度も背後を振り返った。
「……どうされました?」
俺が声をかけると、男は慌てて駆け寄ってきた。
「ここはフィクサーの事務所だろ!? 護衛を頼みたいんだ!」
「護衛ですか?」
「ああ! 金なら払う! だから俺を守ってくれ!」
男の声は震えていた。
ただ慌てているというより、何かにひどく怯えているように見える。
所長もそれに気づいたのか、椅子から立ち上がった。
「まあまあ、落ち着いて。まずは事情を聞かせてもらえるかな?」
男は何度も頷き、勧められた椅子に腰を下ろした。
「……実は、少し前に人と肩がぶつかったんだ」
「肩が?」
「ああ。ただ、それだけなんだ! わざとじゃない! 本当に偶然だったんだよ!」
男は早口でまくし立てた。
「その場では何もなかったんだ。なのに、そいつが俺を追ってきてるんだ!」
「……追ってきている?」
「そうだ! どこへ行っても、あいつらがいる! 俺を探してるんだよ!」
俺は思わず所長を見た。
所長はいつものように微笑んでいたが、その目は男の様子を注意深く観察していた。
「肩がぶつかった相手に、心当たりは?」
「し、知らねえよ! 顔だってよく見てねえ!」
「相手は一人だったのかな?」
「……最初は一人だった。でも、今は何人もいるんだ!」
男は両手で頭を抱えた。
「頼むよ……! このままじゃ、俺は殺されちまう!」
その言葉を聞いた瞬間、所長の表情がわずかに変わった。
「……なるほどね」
所長はしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「申し訳ないけど、今回の依頼は引き受けられないかな」
「なっ……!?」
男が勢いよく顔を上げる。
「ど、どうしてだよ!」
「事情がはっきりしないし、相手の正体も分からないからね。こちらとしても、危険の程度が判断できないんだ」
「そんな……!」
男の顔から血の気が引いていく。
「頼む! 金ならある! 言い値で払うから!」
今にも泣き出しそうな男を見て、胸が痛んだ。
そのとき、所長が俺に視線を向けた。
「君、ちょっとこっちへ」
所長に呼ばれ、俺は事務所の奥へ移動した。
男に声が届かないところまで来ると、所長はいつもの笑みを消した。
「……この依頼には手を出さない方がいい」
「どうしてですか?」
「嫌な予感がするんだよ」
所長は腕を組み、男の座っている方へちらりと視線を向けた。
「あの男、ただ誰かに追われているだけにしては怯えすぎている。それに、肩がぶつかっただけで複数人に追われるなんて、普通じゃない」
「……確かに、そうですね」
「相手が何者なのかも分からない。下手をすれば、君の手に負えない連中かもしれないよ」
所長は俺の顔を見つめた。
「少なくとも、九級の君が引き受けるような仕事じゃない」
俺は黙って頷いた。
所長の言っていることは正しい。
この半年間で、俺は何度もそれを思い知らされてきた。無茶をして怪我を負ったこともあるし、所長に助けてもらったことだってある。
だからこそ、今回の依頼が危険だということも理解できた。
それでも、男の怯えた顔が頭から離れなかった。
震える手。青ざめた顔。何度も助けを求める声。
あの人は、本当に怖がっていた。
誰かに追われ、いつ殺されるかも分からない。そんな状況で、ようやく見つけた事務所に助けを求めてきたんだ。
それを、何もせずに追い返していいんだろうか。
「……所長」
「何かな?」
「俺、あの人の依頼を受けたいです」
所長は目を細めた。
「……理由を聞いても?」
「困っている人を、見捨てたくないからです」
所長は何も言わなかった。
「危険なのは分かっています。でも、あの人は本当に怖がっていました。俺にできることがあるなら、助けたいです」
所長はしばらく俺を見つめていた。
やがて、大きくため息をつく。
「……まったく、君は」
そう呟くと、額に手を当てた。
「半年経っても、そういうところは変わらないね」
「……すみません」
「謝るくらいなら、最初から言わなければいいのに」
所長は苦笑した。
それから、少しだけ声を低くした。
「いいかい。依頼を受けるなら、絶対に無茶はしないこと」
「……はい」
「危険だと思ったら、すぐに撤退する。依頼人を守るために、君まで死ぬ必要はないんだから」
「分かりました」
「それと、何かあったら必ず私に連絡すること。いいね?」
「はい!」
俺が返事をすると、所長はもう一度ため息をついた。
「……本当に、世話の焼ける弟子だよ」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。
所長には、いつも迷惑をかけてばかりだ。
それでも、俺の考えを頭ごなしに否定せず、最後には背中を押してくれる。
いつか、所長に安心して仕事を任せてもらえるようになりたい。
そんなことを考えながら、俺は男のもとへ戻った。
「……本当に、引き受けてくれるのか?」
男は信じられないといった様子で俺を見つめた。
「はい。ただし、危険な状況になった場合は撤退することもあります。それでもよければ」
「構わねえ! 頼む!」
男は何度も頭を下げた。
俺は契約内容を確認し、護衛場所を尋ねた。
「それで、どちらまでお送りすればいいんですか?」
「ああ……ここだ」
男は震える手で、一枚の紙を差し出した。
そこには、目的地の住所が書かれていた。
俺はその住所を見て、思わず手を止めた。
……ここは。
「どうかしたのか?」
「……いえ、何でもありません」
慌てて首を横に振る。
だが、胸の奥が少しだけざわついていた。
見覚えのある地名だった。
いや、見覚えがあるなんてもんじゃない。
昔、何度も歩いた場所だ。
あの娘と出会った、あの路地裏の近くだった。
護衛当日、俺は男とともに指定された地域へ向かっていた。
道中、男は何度も背後を振り返っていた。そのたびに俺も周囲を確認したが、今のところ怪しい人物は見当たらない。
「……大丈夫です。今のところ、誰もついてきていません」
「そ、そうか……」
男は安心したように息を吐いた。
だが、しばらくするとまた背後を気にし始める。
俺はそんな男を気にかけながら、見覚えのある通りを歩いていた。
古びた建物。ひび割れた壁。狭く入り組んだ路地。
昔とほとんど変わっていない。
……懐かしいな。
自然と、足が少しだけ遅くなった。
あの頃の俺は、まだフィクサーでも何でもなかった。人を疑うことも知らず、何度も騙されていた。
そんな俺の前に現れた、一人の少女。
黒い髪に、紫色の瞳。
口が悪くて、強気で、いつも俺を馬鹿にしていた。それでも、困っているときには助けてくれた。
俺にとって、大切な友達だった。
「……元気にしてるかな」
思わず、小さく呟いた。
「……何か言ったか?」
男が振り返る。
「あ、いえ。何でもありません」
俺は慌てて笑った。
もう何年も会っていない。
今、どこで何をしているのかも分からない。
それでも、あの日の約束は覚えている。
『待ってるから』
あの娘が去っていった日。
俺は、そう約束した。
今でも、その気持ちは変わっていない。
いつかまた会えたら、今度は胸を張って話せるだろうか。
俺も少しは強くなったんだって。
そんなことを考えながら、俺は懐かしい路地裏へ足を踏み入れた