懐かしい路地裏に足を踏み入れた、そのときだった。
「……おい、そこのフィクサー」
背後から聞こえた低い声に、俺は足を止めた。
振り返ると、いつの間にか数人の男たちが路地の入口を塞ぐように立っていた。
全員が紫色の外套を羽織り、首元や腕には黒い刺青が刻まれている。
その姿を目にした瞬間、背筋に冷たいものが走った。
……中指。
都市に存在する五つの指。その一つであり、家族の絆と仕返しを何よりも重んじる組織。
所長からは、何度も関わらないようにと言われていた。
『いいかい。指の連中には、できる限り関わらないこと。特に中指は、些細なことでも仕返しの対象にするからね』
その言葉を思い出し、俺は無意識に腰のトンファーへ手を伸ばしかけた。
だが、すぐに思いとどまる。
まだ何もされていない。ここで武器を抜けば、こちらから敵意を示すことになってしまう。
「……何か、ご用でしょうか?」
なるべく落ち着いた声で尋ねると、先頭に立っていた男が俺の背後を指さした。
「そいつを渡してもらおうか」
「……え?」
「お前が護衛している男だ。そいつに用がある」
俺は思わず依頼人を振り返った。
男は顔を真っ青にし、震える手で俺の服を掴んでいた。
「ひっ……! あ、あいつらだ! あいつらが俺を追ってきたんだ!」
その様子を見て、ようやく理解した。
この人を追っていたのは、中指だったのか。
所長が依頼を断ろうとした理由が、今になって分かった気がした。
だが、だからといって何も聞かずに依頼人を引き渡すわけにはいかない。
「……すみません。事情を聞かせてもらえませんか?」
「あ?」
「俺はこの人の護衛を依頼されています。理由も分からないまま引き渡すことはできません」
男たちは顔を見合わせた。
やがて、先頭の男が小さく息を吐く。
「……お前、フィクサーなんだろ?」
「……はい」
「だったら、仕事でそいつを守ってるだけだってのは分かる。俺たちも、別にお前に恨みがあるわけじゃねえ」
意外な言葉だった。
てっきり、問答無用で襲いかかってくるものだと思っていた。
「ただな、そいつは俺たちの仕返しの対象なんだよ」
「……仕返し?」
「ああ。俺たちの家族に対して、決して許されねえことをしやがった」
家族。
中指が仲間を家族と呼ぶことは知っている。
だが、目の前の男が一体何をしたというのだろう。
「……具体的に、何があったんですか?」
「そいつは俺たちの問題だ。部外者に話す義理はねえ」
男はそう言うと、俺の背後に隠れている依頼人へ視線を向けた。
「だが、お前にも仕事があるってんなら、こっちも筋を通さなきゃならねえ」
「……どういうことですか?」
「そいつを俺たちに渡してくれ」
男は俺を真っすぐに見つめた。
「そうしてくれりゃ、俺たちはお前に義理を返す。仕事を途中で終わらせることになるんだ。相応の埋め合わせだってしてやる」
「……義理を?」
「ああ。俺たちは仕返しを忘れねえが、受けた恩も忘れねえ。協力してくれる相手にまで、無闇に喧嘩を売るつもりはねえよ」
男の口調は、思っていたよりも落ち着いていた。
少なくとも、今すぐ俺と争うつもりはないらしい。
だが、その目には一切の迷いがなかった。
「ただし、渡さねえってんなら話は別だ」
男の声が、わずかに低くなる。
「俺たちの仕返しを邪魔するってことだからな。そうなりゃ、お前にも身体で代償を払ってもらう」
背後にいた男たちが、ゆっくりと身じろぎした。
腰に下げられた鎖が、かすかな金属音を立てる。
……脅しじゃない。
この人たちは、本気で言っている。
「……少しだけ、話し合うことはできませんか?」
「話はしてるだろ?」
男は肩をすくめた。
「俺たちはそいつを連れていく。お前はそいつを守る仕事をしてる。だから、争わずに済む道を示してやってるんだ」
「ですが、この人は肩がぶつかっただけだと……」
俺がそう言うと、男の眉がぴくりと動いた。
「……あ?」
その声には、先ほどまでとは違う苛立ちが混じっていた。
男は依頼人を睨みつける。
依頼人はびくりと身体を震わせ、俺の背後へさらに身を隠した。
「……なるほどな」
男は何かを察したように呟いたが、それ以上は何も言わなかった。
「とにかく、選べ。そいつを渡して義理を受け取るか、俺たちの仕返しを邪魔するか」
俺は背後を振り返った。
依頼人は顔を青ざめさせたまま、必死に首を横に振っている。
「た、頼む……! 俺を見捨てないでくれ!」
「……落ち着いてください」
そう声をかけながらも、俺自身、どうすればいいのか分からなかった。
中指と敵対する危険は理解している。
所長にも、危険だと思ったらすぐに撤退するよう言われていた。
ここで依頼人を引き渡せば、少なくとも俺は無事に帰れるだろう。
それどころか、中指は義理まで返すと言っている。
だが。
もし、この人の話が本当だったら?
肩がぶつかっただけで命を狙われているのだとしたら?
俺がここで見捨てたせいで、この人が殺されてしまったら?
……そんなこと、できるわけがない。
俺はゆっくりと男たちに向き直った。
「……すみません」
男が目を細める。
「この人を引き渡すことは、できません」
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
やがて、先頭の男が深いため息をついた。
「……そうか」
男は残念そうに首を振る。
「できれば穏便に済ませたかったんだがな」
その手が、腰に下げられた鎖へ伸びた。
俺も反射的にトンファーへ手をかける。
だが、まだ抜かなかった。
ここで戦えば、仕返しの対象にされるかもしれない。
俺だけならまだしも、所長や事務所まで巻き込まれる可能性がある。
……どうする。
どうすれば、この場を切り抜けられる?
「最後に確認するぞ」
男は鎖を手に取りながら言った。
「本当に、そいつを渡すつもりはねえんだな?」
「……はい」
「なら、これ以上は仕返しの邪魔と見なす。覚悟してもらうぜ」
男が一歩踏み出す。
俺は依頼人を庇うように立ち、腰のトンファーを握りしめた。
そのときだった。
「……おい」
路地裏の奥から、女性の声が響いた。
「対象は見つかったのか?」
その声を聞いた瞬間、男たちの動きがぴたりと止まった。
「……姉貴!」
先頭の男が慌てて振り返る。
「はい! 対象は見つけました!」
「なら、何をぐずぐずしてやがる」
「それが……護衛のフィクサーが、対象の引き渡しを拒否していまして」
「……護衛?」
女性は面倒くさそうに呟いた。
「そいつは、俺たちに手を出したのか?」
「いえ。まだです。こちらも交渉しただけで、戦闘にはなっていません」
「なら、仕返し帳簿には載せてねえな?」
「はい。今のところは」
「……そうか」
短く答えると、女性はこちらへ歩き始めた。
男たちはすぐさま道を空け、頭を下げる。
薄暗い路地裏の奥から、一人の女性が姿を現した。
長い黒髪が、歩くたびに揺れている。
紫色の外套を羽織り、首元や腕には無数の黒い刺青が刻まれていた。
背丈は俺と同じくらいだろうか。
その堂々とした立ち振る舞いから、先ほどまでの男たちとは明らかに格が違うことが分かった。
……まずい。
直感的にそう思った。
この人には、絶対に敵わない。
所長の言葉が頭をよぎる。
『危険だと思ったら、すぐに撤退すること』
……その通りだった。
今すぐ逃げるべきだ。
そう分かっているのに、なぜか足が動かなかった。
それどころか、俺はその女性から目を離せずにいた。
……あれ?
どこかで会ったことがあるような気がする。
もちろん、こんな中指の女性と知り合った覚えなんてない。
だが、何かが引っかかる。
長い黒髪。
どこか気の強そうな表情。
そして、こちらを見つめる紫色の瞳。
……何だろう。
胸の奥が、妙にざわついた。
女性は男たちの前を通り過ぎると、俺の前で足を止めた。
「……お前が、そいつの護衛か?」
「……はい」
俺は緊張しながら答えた。
「ですが、俺はあなたたちと争うつもりはありません。できれば、話し合いで……」
そこまで言ったところで、女性の動きが止まった。
その紫色の瞳が、じっと俺の顔を見つめている。
「…………」
「……あの?」
何も言わずに見つめられ、俺は思わず声をかけた。
すると、女性の口元がゆっくりと持ち上がった。
「……はっ」
小さな笑い声。
そして、ニヤリとした不敵な笑み。
その表情を見た瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
……この笑い方。
どこかで、見たことがある。
「数年ぶりだな」
「……え?」
突然の言葉に、俺は思わず聞き返した。
女性はそんな俺を見て、ますます楽しそうに笑った。
「あれから随分とかかっちまったが……」
一歩。
女性が、こちらへ近づいてくる。
「戻ってきたぞ」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
……戻ってきた?
何だろう。
その言葉を、俺はずっと待っていたような気がする。
女性は俺の目の前まで来ると、昔と変わらない不敵な笑みを浮かべた。
「待たせたな」
その瞬間。
忘れられない光景が、脳裏を駆け巡った。
薄暗い路地裏。
二人で分け合った、少し硬いパン。
何度も言い合いをして、それでも翌日には顔を合わせていた日々。
そして。
あの日、別れ際に交わした約束。
『待ってるから』
……まさか。
俺は目の前の女性を見つめた。
長い黒髪。
紫色の瞳。
そして、あの笑い方。
あの頃よりずっと背が伸びて、声も少し変わっている。
身体には見覚えのない刺青が刻まれ、紫色の外套を羽織っている。
それでも。
その笑顔だけは、あの日と何も変わっていなかった。
「……君、なの?」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
女性は嬉しそうに目を細めた。
「はっ。やっと気づいたかよ」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
間違いない。
あの日、俺の前から姿を消した少女。
ずっと、もう一度会いたいと思っていた友達が。
今、俺の目の前に立っていた。