「……本当に、君なの?」
目の前の女性を見つめながら、僕はもう一度尋ねた。
長い黒髪に、紫色の瞳。
記憶の中にいる少女よりもずっと背が高くなり、身にまとった紫色の外套からは、黒い刺青が覗いている。
あの頃とは、何もかもが違っていた。
それでも。
僕を見つめるその不敵な笑みだけは、昔と少しも変わっていなかった。
「何だよ。まだ信じられねえのか?」
彼女は呆れたように笑った。
「言っただろ。戻ってきたってな」
「……そっか」
何年も前に交わした約束。
いつか必ず戻ってくる。
そう言い残して、僕の前から姿を消した少女。
あれから何度、あの路地裏を訪れただろう。
もう二度と会えないかもしれない。
そう思ったことだって、一度や二度ではなかった。
それでも、忘れた日はなかった。
「……おかえり」
気づけば、その言葉が口からこぼれていた。
彼女は一瞬だけ目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑った。
「ああ。ただいま」
たったそれだけのやり取りだった。
けれど、僕にとっては何よりも嬉しい言葉だった。
「……随分、大きくなったね」
「お前もな。昔は俺よりちっこかったくせによ」
「そうだったっけ?」
「そうだったんだよ。ったく、相変わらずだな」
彼女は楽しそうに笑いながら、僕の肩を軽く叩いた。
その仕草が懐かしくて、僕もつられて笑ってしまう。
「でも、本当に驚いたよ。まさか、こんなところで会えるなんて」
「はっ。俺だって驚いたさ。散々探し回ったってのに、こんな形で見つかるとはな」
「……探してくれてたの?」
「あ?」
彼女は眉をひそめた。
「当たり前だろ。俺が何のために戻ってきたと思ってんだ」
「……そっか」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「ありがとう。僕も、ずっと会いたかったよ」
「…………」
彼女は一瞬、言葉を失ったようだった。
それから、ふいっと顔を背ける。
「……ったく。そういうところも変わってねえな」
「え?」
「何でもねえよ」
そう言いながらも、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。
――本当に、帰ってきたんだ。
その実感が、ようやく湧いてきた。
けれど、僕たちが再会を喜んでいられたのは、そこまでだった。
「……あの、姉貴?」
遠慮がちな声が、僕たちの間に割って入った。
振り返ると、紫色の外套をまとった男たちが、困惑した様子でこちらを見つめていた。
「そのフィクサーとは、お知り合いで?」
「ああ。昔からの知り合いだ」
「そ、そうでしたか……」
男たちは顔を見合わせた。
どうやら、彼女が僕と親しく話していることが意外らしい。
そういえば、彼らはさっきから彼女のことを「姉貴」と呼んでいる。
中指の人間なのは間違いないだろう。
でも、どうして彼女が中指に?
聞きたいことはいくらでもあった。
しかし、その疑問を口にするより早く、彼女が男たちへ尋ねた。
「それより、仕返しの対象はどうした?」
「はっ! あちらに!」
男の一人が、僕の背後を指さした。
そこには、建物の陰に身を隠す依頼人の姿があった。
男は僕たちを見て、ひどく怯えている。
「……そうか」
彼女は短く答えると、弟分たちへ顎をしゃくった。
「俺はこいつと話がある。仕返しの対象は向こうに連れていって始末しろ」
「了解です、姉貴!」
男たちが動き出した。
「……え?」
僕は思わず声を漏らした。
そして、依頼人へ近づこうとする彼らの前に立ちはだかる。
「ま、待ってください!」
男たちが足を止めた。
「何だよ、フィクサー。まだ邪魔するつもりか?」
「その人は僕の護衛対象なんです! 勝手に連れていかれたら困ります!」
依頼を受けた以上、最後まで責任を持たなければならない。
そう思っての行動だった。
けれど。
「……おい」
背後から、低い声が聞こえた。
振り返ると、先ほどまで笑っていた彼女が、こちらをじっと見つめていた。
「……お前、今何つった?」
「え?」
「そいつを守るって言ったのか?」
「……うん。僕、この人の護衛を引き受けてるから」
彼女の眉が、ぴくりと動いた。
「……は?」
その声には、明らかな苛立ちが混じっていた。
「お前……俺がどれだけ待ったと思ってんだ?」
「……え?」
「何年もだぞ。何年も、お前に会うために頑張ってきたんだ」
彼女は一歩、僕に近づいた。
「やっと見つけたと思ったら、何だ? お前は俺より、今日会ったばかりのクズを優先するのか?」
「ち、違うよ! 君に会えて嬉しいのは本当だよ!」
「だったら、そいつなんか放っとけよ!」
怒鳴り声が路地裏に響いた。
僕は思わず口を閉じた。
昔から気の強い子だった。
喧嘩になることもあったし、怒らせてしまったことだって何度もある。
けれど、今の彼女の怒り方は、あの頃とはどこか違っていた。
「……でも」
僕は小さく口を開いた。
「この人、肩がぶつかっただけで追われてるって言ってたんだ」
「…………は?」
彼女の動きが止まった。
「……今、何つった?」
「だから……肩がぶつかっただけなのに、中指の人たちに追われてるって……」
しばらく、沈黙が流れた。
彼女は僕を見つめたまま、何度か瞬きをした。
そして、ゆっくりと依頼人へ視線を向けた。
「……おい」
「ひっ……!」
「てめえ、こいつに何て説明した?」
依頼人は何も答えなかった。
ただ、顔を青ざめさせて震えている。
「……なるほどな」
彼女は低く呟いた。
そして、再び僕へ顔を向ける。
「お前……まさか、それを信じたのか?」
「……うん」
「…………」
彼女は額に手を当てた。
深いため息が漏れる。
「……ったく」
そのまま俯いたかと思うと、肩が小刻みに震え始めた。
「……ふっ」
「……?」
「はっ……ははははっ!」
突然、彼女が声を上げて笑い始めた。
僕は何が起きたのか分からず、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
「お、おい……姉貴?」
弟分たちも困惑している。
だが、彼女は構わず笑い続けた。
「ははっ! 何だよ、それ!」
「……えっと?」
「お前……お前さあ!」
彼女は目尻を拭いながら、僕の顔を覗き込んだ。
「何年経っても、何にも変わってねえじゃねえか!」
「……そうかな?」
「ああ! 昔っからそうだった! 誰かが困ってりゃ放っとけねえし、ちょっと泣きつかれりゃすぐ信じちまう!」
彼女は呆れたように言いながらも、その表情は嬉しそうだった。
「……まったく。あの頃から、ちっとも変わってねえ」
そう呟いた声は、不思議と優しかった。
だが、次の瞬間。
彼女は僕の肩に手を置いた。
「……いいか。よく聞け」
「……うん」
「あの男が何をしたのか、教えてやる」
彼女は依頼人を指さした。
「そいつはな、俺たちの家族を殺したんだよ」
「…………え?」
思わず、聞き返してしまった。
「家族……?」
「ああ。俺たちの弟分だ。まだ若かったが、立派な家族だった」
彼女の声が低くなる。
「そいつは、その弟分を殺したうえに、持ってた金まで奪って逃げやがった」
「……そんな」
「俺たちは、その仕返しをしに来たんだ」
僕は依頼人を振り返った。
男は青ざめたまま、何も言わなかった。
「……本当なんですか?」
僕が尋ねると、男はびくりと肩を震わせた。
「ち、違う! 俺は……!」
「……おい」
彼女が低い声で遮った。
「まだ嘘を重ねるつもりか?」
依頼人は口を閉じた。
その様子を見て、胸の奥が冷たくなっていく。
……まさか。
僕は、この人に騙されていたのか?
「……でも」
僕は小さく呟いた。
「この人、すごく怖がってたから……」
「……ああ。そうだろうな」
彼女は呆れたように笑った。
「仕返しされるのが怖くて、何も知らねえお前を利用したんだろ」
「…………」
「お前が優しいのを見抜いて、泣きついたんだ。そうすりゃ守ってもらえると思ったんだろうよ」
僕は何も言い返せなかった。
所長は、依頼人の話を疑っていた。
危険な依頼だと、何度も忠告してくれた。
それなのに僕は、自分の判断で引き受けてしまった。
そして、危うく中指と争うところだった。
「……ごめん」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「何でお前が謝るんだよ」
「だって……君たちの邪魔をしちゃったから」
「……はっ」
彼女は小さく笑った。
「本当に、お前って奴は……」
そう言うと、突然、僕の頭に手を伸ばしてきた。
「……え?」
ぽん、と。
昔と同じように、頭を軽く撫でられた。
「……ったく。昔っからそうだ」
その声が、少しだけ柔らかくなる。
「自分が痛い目に遭っても、誰かを助けようとする。相手がどんな奴かも知らねえくせに、平気で手を差し伸べやがる」
彼女は僕を見つめた。
「……変わってねえな」
その瞳には、懐かしさと、どこか嬉しそうな色が浮かんでいた。
「……でも、俺はそんなお前が……」
そこまで言いかけて、彼女は口を閉じた。
「……いや、何でもねえ」
「……?」
「とにかく、もうそいつのことは気にすんな」
そう言って、彼女は僕の頭をもう一度撫でた。
そのときだった。
「……ふざけるな!」
突然、背後から怒声が響いた。
振り返ると、依頼人が顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけていた。
「てめえら、知り合いだったのかよ! 最初から裏で通じてたんだな!」
「……え?」
「この裏切り者のクズが! 俺を騙しやがって!」
「ち、違います! 僕は――」
「黙れ」
短い一言だった。
声を発したのは、隣にいた彼女だった。
先ほどまで僕の頭を撫でていた彼女は、いつの間にか依頼人へ顔を向けていた。
その表情から、笑みが消えている。
「……今、こいつを何て呼んだ?」
依頼人が答えるより早く、彼女が動いた。
気づいたときには、彼女の手が男の喉元を掴んでいた。
「がっ……!」
男の身体が壁に叩きつけられる。
あまりにも突然の出来事に、僕は反応できなかった。
「……おい」
彼女は男の顔を覗き込んだ。
「誰が裏切り者だって?」
男は喉を掴まれたまま、必死にもがいている。
だが、彼女の手はびくともしなかった。
「こいつはな、てめえみてえなクズのために、俺たち中指と敵対する覚悟までしてたんだぞ」
彼女の声は静かだった。
それがかえって恐ろしかった。
「……それを、裏切り者?」
喉を掴む手に、わずかに力がこもる。
「ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ」
「ま、待って!」
僕は慌てて彼女へ駆け寄った。
「もういいよ! 僕は気にしてないから!」
「……お前が気にしてなくても、俺が気にする」
彼女は男から目を離さずに答えた。
「こいつは俺たちの家族を殺した。金まで奪って逃げた。そのうえ、お前を騙して利用しやがった」
「……でも!」
「もう十分だろ」
彼女が男の喉を掴む手に、さらに力を込めようとする。
僕は咄嗟に、その腕へ手を伸ばした。
「お願い、やめて!」
その瞬間、彼女の動きが止まった。
ゆっくりと、こちらへ顔を向ける。
「……頼む」
その声は、驚くほど静かだった。
「こんなクズのために、お前の名前を仕返し帳簿に刻みたくねえんだ」
「……え?」
「今ならまだ間に合う。お前は俺たちに手を出してねえし、仕返しの執行を実際に妨害したわけでもねえ」
彼女は僕の目をまっすぐに見つめた。
「だが、これ以上止めようとすれば、正式な妨害になる。そうなりゃ、俺の立場でも庇いきれねえ」
「…………」
「俺は、やっとお前に会えたんだ」
彼女の声が、わずかに柔らかくなった。
「何年も探して、ようやく見つけた。なのに、こんな奴のためにお前を仕返しの対象にしたくねえ」
僕は何も言えなかった。
彼女は男を掴んだまま、静かに続けた。
「……だから、頼む。ここは俺に任せてくれ」
「……分かった」
僕はゆっくりと、彼女の腕から手を離した。
「でも……できれば、殺さないでほしい」
「…………」
彼女は何も答えなかった。
ただ、僕の頭にそっと手を置いた。
「……お前は、本当に優しいな」
そう呟くと、彼女は僕から離れた。
そして、依頼人へ向き直る。
「……さて」
男は彼女に喉を掴まれたまま、必死にもがいていた。
だが、次の瞬間、彼女はその手を離した。
「がはっ……! げほっ、げほっ!」
男は地面に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
その姿を見て、僕はほんの少しだけ安堵した。
……よかった。
そう思った、次の瞬間だった。
「――仕返しだ」
彼女の脚が、閃いた。
鈍い衝撃音が路地裏に響く。
男の上半身が、一撃で吹き飛んだ。
赤い飛沫が壁を染め、彼女の紫色の外套にも降りかかる。
僕は、何が起きたのか理解できなかった。
さっきまで目の前にいた男が、もう動かない。
血の匂いが、路地裏に広がっていく。
「…………え?」
震える声が、口から漏れた。
彼女はゆっくりと脚を下ろした。
頬に付いた血を指先で拭い、倒れた男を一瞥する。
「……仕返し、完了」
その声には、怒りも興奮もなかった。
まるで、いつもの仕事を一つ終えただけのようだった。
だが、周囲の弟分たちは違った。
「…………」
誰一人、口を開かなかった。
中指の末姉。
家族のためなら、どんな相手にも容赦なく仕返しをする女性。
その強さも、恐ろしさも、彼らはよく知っていた。
だが、これほど感情的に、これほど容赦なく相手を始末する姿は初めてだった。
「……姉貴が、あんなに……」
弟分の一人が、小さく呟く。
「……あのフィクサー、一体何者なんだ?」
その問いに答えられる者は、誰もいなかった。
そして、彼女は何事もなかったかのように僕へ振り返った。
血に濡れた紫色の外套を揺らしながら。
「……悪かったな。怖がらせちまったか?」
その声は、先ほどまでと同じ、懐かしい声だった。
けれど。
僕は、すぐに返事をすることができなかった。
彼女の頬には、まだ赤い血が付いていた。
僕が知っている彼女は、気が強くて、負けず嫌いで。
それでも、誰かに受けた恩を決して忘れない、そんな少女だった。
今の彼女も、きっとそうなのだろう。
ただ、僕の知らない何年もの間に、彼女はあまりにも遠いところへ行ってしまったのかもしれない。
「……どうした?」
彼女が一歩近づく。
僕は反射的に、半歩だけ後ずさってしまった。
「…………あ」
彼女の足が止まった。
その紫色の瞳が、わずかに揺れる。
「……お前」
彼女は自分の手を見下ろした。
そこには、依頼人の血が付いていた。
「…………」
しばらくの沈黙。
そして彼女は、何かをごまかすように笑った。
「……悪い。ちょっと汚れちまったな」
外套の袖で手を拭おうとして、すぐにやめる。
袖もまた、血で濡れていたからだ。
僕はそんな彼女を見つめていた。
「……ごめん」
気づけば、また謝っていた。
彼女が顔を上げる。
「何でお前が謝るんだよ」
「……怖がったりして、ごめん」
「…………」
「でも……」
僕は小さく息を吸った。
「君に会えて嬉しいのは、本当だから」
彼女の目が見開かれた。
「……僕、まだ君に聞きたいことがいっぱいあるんだ」
どうして中指に入ったのか。
これまで、どこで何をしていたのか。
つらいことはなかったのか。
それに。
僕たちは、まだお互いの名前さえ知らない。
「……だから、また話そうよ」
僕は、できるだけいつもどおりに笑った。
「せっかく、また会えたんだから」
「…………」
彼女はしばらく僕を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口元を緩める。
「……ああ」
その声は、ひどく優しかった。
「そうだな」
そして、僕にだけ聞こえるような小さな声で呟いた。
「……今度こそ、離さねえからな」
「……え?」
「何でもねえよ」
彼女は、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、僕は少しだけ安心した。
けれど。
彼女がその言葉に、どれほど強い意味を込めていたのか。
そのときの僕には、まだ分からなかった。
――やっと見つけた。
少女は目の前の少年を見つめながら、心の中で呟いた。
何年も探し続けた。
強くなった。
家族もできた。
中指の末姉にまで上り詰めた。
それもこれも、すべてはあの日の約束を果たすためだった。
そして、ようやく再会できた少年は。
あの頃と、何も変わっていなかった。
相変わらずのお人好し。
相変わらずの甘さ。
誰かに騙されても、傷つけられても、平気で笑って許してしまう。
……まったく。
こんな奴を一人にしておいたら、いつか本当に取り返しのつかないことになる。
少女は小さく笑った。
なら、俺が守ってやればいい。
誰かがお前を騙すなら、俺が先に見つけてやる。
誰かがお前を傷つけるなら、俺が仕返ししてやる。
お前が嫌がるなら、目の前ではやらねえ。
見えないところで、全部片づけてやる。
だから。
――もう二度と、俺の前からいなくなるなよ。
少女は少年を見つめたまま、満足そうに微笑んだ