「……さて、行くか」
弟分たちを見送った彼女は、僕の方へ振り返った。
「行くって、どこに?」
「飯だよ、飯。さっき言っただろ?」
「あ、そうだったね。でも、その前に所長へ連絡してもいいかな?」
「……所長?」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「うん。僕が所属している事務所の所長なんだ。今回の依頼も、危ないからやめておけって忠告されてたんだけど……」
「……なるほどな」
彼女は腕を組み、少しだけ考え込んだ。
「まあ、報告くらいは必要だろうな。待っててやるよ」
「ありがとう!」
僕は通信機を取り出し、事務所へ連絡を入れた。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、聞き慣れた声が響いた。
『……君か。随分遅かったね』
「あ、所長! すみません、連絡が遅くなって」
『それで? 依頼はどうなったんだい?』
「……実は」
僕は言葉に詰まった。
依頼人が中指に追われていた本当の理由。
そして、その依頼人が目の前で殺されたこと。
どう説明すればいいのだろう。
『……君?』
「……依頼人は、亡くなりました」
通信機の向こうが静かになった。
『……そうか』
「僕は無事です。でも、依頼は失敗しました」
『……君が無事なら、今はそれでいい』
その言葉に、胸の奥が少し軽くなった。
『詳しい話は帰ってから聞こう。寄り道はほどほどにするんだよ』
「はい。ありがとうございます、所長」
通信を終えると、彼女がこちらを見ていた。
「……終わったか?」
「うん。待たせてごめんね」
「気にすんな」
彼女は壁から背中を離し、僕の隣へ歩いてきた。
「……いい所長みてえだな」
「うん! すごくいい人だよ」
「……そうか」
彼女は短く答えた。
「その所長って奴、そんなにお前のことを気にかけてくれてんのか?」
「うん。僕がフィクサーになれたのも、所長のおかげなんだ」
「……へえ」
彼女は目を細めた。
「随分、信頼してるんだな」
「もちろん! 戦い方も教えてもらってるし、何度も助けてもらったから」
「…………」
彼女は少しだけ黙り込んだ。
そして、何でもないことのように尋ねた。
「……なあ。その所長って奴、女か?」
「うん、そうだけど……どうして?」
「……いや、別に」
彼女は笑った。
「ちょっと気になっただけだ」
そう言いながら、僕の肩に腕を回してくる。
「ま、いいさ。今日は俺に付き合ってもらうからな」
「うん。もちろん!」
「……ははっ。そうこなくちゃな」
彼女は嬉しそうに笑った。
そして、僕の肩を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……今日は、俺だけ見てろよ」
「え?」
「何でもねえ。ほら、行くぞ!」
彼女は僕の返事を待たず、歩き出した。
僕は慌てて、その隣に並ぶ。
何年も前、二人で歩いた路地裏。
あの頃と同じように、彼女は僕の少し前を歩いていた。
けれど、その手は。
僕が離れないようにするかのように、ずっと肩を抱いたままだった。
「それにしても、随分変わったね」
「あ? 何がだよ」
「背も伸びたし、何だかすごく強そうになったなって」
「はっ。強そう、じゃねえよ。実際に強くなったんだ」
彼女は得意げに笑った。
「昔みてえに、誰かに助けられるだけの俺じゃねえからな」
「……そっか」
その言葉に、僕は少しだけ胸が痛んだ。
あの日、彼女がどんな思いで僕の前から去っていったのか。
今なら、少しは分かる気がする。
そんなことを考えていたときだった。
「……おい、聞いてんのか?」
路地の奥から、荒々しい声が聞こえてきた。
続いて、何かを殴りつける鈍い音。
「ぐっ……!」
僕は思わず足を止めた。
視線の先では、三人の男が一人の青年を取り囲んでいた。
青年は地面に膝をつき、両腕で頭を庇っている。
「だからよ、金を出せって言ってんだろ!」
「も、もう持ってません……!」
「ああ? だったらどうすんだよ!」
男の一人が青年の腹を蹴りつけた。
「がはっ……!」
青年は地面に倒れ込んだ。
それでも、抵抗しようとはしなかった。
ただ身体を丸め、次の暴力に耐えようとしている。
「……ひどい」
僕は思わず駆け出そうとした。
だが。
ぐいっ。
腕を掴まれた。
「……行くな」
「え?」
振り返ると、彼女が冷たい目で青年を見つめていた。
「放っとけ」
「でも、あの人……!」
「見りゃ分かる。殴られてんだろ」
「だったら助けないと!」
「……何でだ?」
彼女は心底理解できないというように尋ねた。
「何で、お前があんな奴を助ける必要がある?」
「……どうしてって、困ってるからだよ」
「……はっ」
彼女は鼻で笑った。
「相変わらず甘えな、お前は」
その視線が、再び青年へ向けられる。
「……見ろよ、あいつを」
青年は地面に倒れたまま、男たちに蹴られていた。
「殴られて、蹴られて、それでも反撃しようともしねえ」
「……でも、三人もいるんだよ?」
「だから何だ?」
彼女は吐き捨てるように言った。
「殴り返すなり、逃げるなり、何かできるだろうが」
「…………」
「なのに、あいつは何もしねえ。ただ頭を抱えて、暴力が終わるのを待ってやがる」
彼女の声には、明らかな嫌悪が滲んでいた。
「……俺はな、そういう奴が大嫌いなんだよ」
「……弱い人が?」
「ああ。反吐が出るほどにな」
彼女は拳を握りしめた。
「俺は強くなるために、血反吐を吐くほど努力してきた。何度殴られても、何度骨を折られても、立ち上がった」
その声が、少しだけ低くなる。
「二度と、何もできねえ自分に戻りたくなかったからな」
「…………」
「俺にできたんだ。あいつにだってできるはずだろ?」
彼女は青年を顎で示した。
「弱い自分が嫌なら、強くなりゃいい。今すぐ勝てなくたって、抵抗くらいはできるはずだ」
その目には、冷たい怒りが宿っていた。
「それすらしねえってことは、弱いままでいることを自分で選んでるってことだ」
「……でも」
「俺は弱いのが嫌だったから強くなった。あいつは弱い自分を受け入れてる」
彼女は冷たく言い放った。
「弱い自分に甘んじてるクズなんざ、お前が助ける価値もねえよ」
僕は彼女を見つめた。
あの頃、彼女は確かに強くなりたいと言っていた。
でも、その言葉にここまで強い感情が込められていたなんて、知らなかった。
「……僕は、そうは思わないよ」
「あ?」
「反撃したくても、怖くて動けないことだってあると思う」
「…………」
「それに、あの人が今まで何もしてこなかったかどうかなんて、僕たちには分からないでしょ?」
彼女は黙って僕を見つめた。
「……だから、助けるってのか?」
「うん」
僕は頷いた。
「強くなろうとしてる人も、そうじゃない人も、殴られていい理由にはならないから」
「…………」
「それに、僕が助けられるなら、助けたい」
彼女はしばらく黙り込んだ。
やがて、深いため息を吐く。
「……ったく」
その声には、呆れと、どこか懐かしむような響きが混じっていた。
「本当に、何にも変わってねえな」
彼女は僕の腕を離した。
「……好きにしろ」
「いいの?」
「ああ。ただし、俺もついていく」
「……ありがとう!」
僕は彼女に笑いかけると、男たちの方へ駆け出した。
「やめてください!」
僕の声に、三人の男が振り返る。
「ああ? 何だ、てめえ」
「その人から離れてください。もう十分でしょう!」
「……はっ。正義の味方気取りかよ」
男の一人が、僕へ近づいてきた。
「痛い目見たくなきゃ、失せな」
「……それはできません」
僕は腰のトンファーに手を添えた。
「これ以上続けるなら、僕も止めに入ります」
「……何だと?」
男が拳を振り上げた。
僕はその腕をかわし、相手の体勢を崩す。
「うおっ!?」
男がよろめいた。
残る二人も身構えたが、その背後から低い声が響いた。
「……おい」
彼女だった。
「そいつに手ぇ出してみろ」
彼女は口元に笑みを浮かべていた。
だが、その紫色の瞳は少しも笑っていなかった。
「……どうなるか、分かってんだろうな?」
三人の男は、彼女の外套と刺青を見て顔色を変えた。
「なっ……中指……!?」
「ひっ……!」
次の瞬間、男たちは一目散に逃げ出した。
僕はその背中を見送り、小さく息を吐いた。
「……よかった」
「……はっ。あんな奴ら、俺が出るまでもねえのにな」
彼女は呆れたように笑った。
僕は倒れている青年のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「……あ、ああ……」
「立てますか?」
青年は小さく頷いた。
僕はその身体を支え、ゆっくりと立ち上がらせた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう……」
「いえ。無事でよかったです」
青年は何度も頭を下げながら、その場を去っていった。
僕はその姿を見送った。
そして、彼女へ振り返る。
「……待たせちゃったね」
「……別にいいさ」
彼女は腕を組み、僕をじっと見つめた。
「……なあ」
「何?」
「お前、何でそこまで他人に優しくできるんだ?」
「……え?」
「さっきの奴だって、今日会ったばかりだろ。何の得にもならねえのに、何で助けた?」
僕は少しだけ考えた。
「……困ってたから、かな」
「……それだけか?」
「うん」
僕は頷いた。
「僕だって、困ったときに誰かが助けてくれたら嬉しいから」
「…………」
彼女はしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……はっ。本当に、お前って奴は……」
その手が、僕の頭に伸びる。
「……変わらねえな」
「……そうかな?」
「ああ。何にも変わってねえ」
その声は、どこか嬉しそうだった。
彼女は僕の頭を軽く撫でると、再び肩を抱き寄せた。
「ほら、今度こそ飯に行くぞ」
「うん!」
僕は笑って頷いた。
彼女と並んで歩き出す。
そのとき、彼女はふと背後を振り返った。
先ほど助けた青年の姿は、もう見えない。
彼女の表情から、笑みが消えた。
――弱い奴は嫌いだ。
何もできず、ただ助けを待っているだけの奴を見ると、昔の自分を思い出す。
殴られて、蹴られて、傷ついて。
それでも、自分一人では何も変えられなかった。
あいつに助けられてばかりだった。
あの頃の自分が、何よりも嫌いだった。
だから、強くなった。
血反吐を吐いてでも。
何度地面に這いつくばろうとも。
二度と、あんな惨めな思いをしなくて済むように。
……だが。
彼女は隣を歩く幼馴染みへ視線を向けた。
――お前は、別だ。
お前が弱くたって、構わねえ。
強くなる必要なんか、どこにもねえ。
俺が強くなったんだから。
お前の代わりに戦ってやれる。
お前を傷つける奴がいれば、俺が仕返ししてやる。
お前が誰かを助けたいなら、その優しさを守ってやる。
だから。
――お前は、昔のままでいてくれ。
彼女は静かに微笑んだ。
隣の彼は、何か楽しそうに話している。
その姿は、何年も前の路地裏で見たものと、少しも変わっていなかった。
――そうだ。それでいい。
お前は、誰かを疑うことなんか知らなくていい。
誰かを傷つけることに、慣れなくていい。
汚れた仕事も、面倒な仕返しも、全部俺が引き受けてやる。
お前はただ、昔みたいに笑っていてくれればいいんだ。
彼女は幼馴染みの肩を抱く腕に、少しだけ力を込めた。
――それに。
もし、お前が一人で何でもできるようになっちまったら。
俺が守ってやる必要がなくなるだろ?
俺を頼る必要も。
俺の隣にいる理由も。
……なくなっちまうかもしれねえ。
その想像だけで、胸の奥がひどくざわついた。
ようやく見つけたのだ。
何年も探して、何年も会いたいと願い続けて。
ようやく、こうして隣を歩けるようになった。
もう二度と、失いたくなかった。
――お前は、俺が守る。
誰にも傷つけさせねえ。
誰にも奪わせねえ。
たとえ、お前自身がそれを望まなくなったとしても。
彼女は懐かしい横顔を見つめた。
「……なあ」
「ん? どうしたの?」
「……いや」
彼女はにやりと笑った。
「やっぱり、お前は俺の隣にいるのが一番似合ってるな」
「……そうかな?」
「ああ。間違いねえよ」
僕は少し照れくさくなって、笑った。
「じゃあ、これからも仲良くしてくれると嬉しいな」
「…………」
彼女は一瞬、目を見開いた。
そして。
「……はっ」
心底嬉しそうに笑った。
「当たり前だろ」
肩を抱く腕が、さらに強くなる。
「……これからも、ずっと一緒だ」
その声は、とても優しかった。
けれど。
その言葉に込められた想いの重さを。
僕は、まだ知らなかった。