何度目の角を曲がっただろうか。
久しぶりに再会した幼馴染みと肩を並べて歩くというのは、何とも不思議な気分だった。
あの頃は僕の方が少し背が高かったはずなのに、今ではほとんど変わらない。
それに、彼女の歩き方には迷いがなかった。
昔から気の強い子だったけれど、今はそれ以上に堂々としている。
「……おい、聞いてんのか?」
「えっ?」
「だから、何食いたいって聞いてんだよ」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「……ったく。せっかく俺といるってのによ」
彼女は呆れたように笑った。
「何でもいいよ。君の好きなものにしよう」
「はっ。またそれか」
「……また?」
「昔からそうだっただろ。何か決めるときは、いつも俺に譲ってばっかりだった」
「そうだったかな?」
「そうだったんだよ」
彼女は僕の肩を軽く叩いた。
「まあ、そういうところも変わってなくて安心したけどな」
そう言って、彼女は通りの先にある店を指さした。
「ほら、あそこにするぞ」
そこには、古びた看板を掲げた小さな食堂があった。
窓からは暖かな光が漏れ、店内からは料理の香りが漂ってくる。
「……いい匂いだね」
「だろ? 前に弟分と来たことがあってな。味は保証するぜ」
彼女は得意げに笑うと、店の扉を開いた。
「ほら、入れよ」
「うん。ありがとう」
店内は思っていたよりも賑やかだった。
仕事帰りらしい人々が食事を取り、奥の席では何人かの男たちが酒を飲みながら談笑している。
僕たちは空いている席へ向かった。
向かい側の椅子を引こうとした、そのときだった。
「……おい」
「ん?」
「何でそっちに座るんだ?」
「え? 向かいの方が話しやすいかなって」
「隣でいいだろ」
「……そう?」
「ああ。その方が落ち着く」
彼女は当然のように僕の隣へ腰を下ろした。
肩が触れそうなほど近い。
昔もよく一緒にいたけれど、こんなに距離が近かっただろうか。
「……何だよ?」
「いや、何でもないよ」
「はっ。変な奴」
彼女は楽しそうに笑った。
料理を注文すると、僕たちはしばらく他愛のない話をした。
「そういや、お前。昔、よくパンを持ってきてくれたよな」
「ああ、覚えてるよ。二人で半分ずつ分けて食べたよね」
「……半分?」
彼女は片眉を上げた。
「お前、いつも俺に大きい方を渡してただろ」
「……そうだったかな?」
「そうだったんだよ」
彼女は呆れたように笑った。
「自分だって腹減ってたくせによ」
「でも、君もお腹を空かせてたから」
「……ったく」
彼女は小さく息を吐いた。
「本当に、昔からそういう奴だったな」
その声は、とても穏やかだった。
「……そういえば、あのときもそうだったよね」
「あ?」
「僕が怪我をしたとき」
その言葉に、彼女の表情がわずかに変わった。
「……ああ」
「君、すごく怒ってたよね」
「……当たり前だろ」
彼女は静かに答えた。
「お前が俺なんかのために、あんな怪我をしたんだからな」
「……でも、僕は後悔してないよ」
「…………」
「君を守れてよかったと思ってる」
彼女は何も言わなかった。
ただ、テーブルの下で拳を握りしめていた。
――守れてよかった、だと?
彼女は心の中で呟いた。
あのとき、どれだけ自分が惨めだったか。
どれだけ無力な自分を憎んだか。
お前は知らねえだろうな。
……だが。
彼女は隣に座る幼馴染みを見つめた。
――それでも。
お前が俺を守ってくれたことだけは、何があっても忘れねえ。
あの日から、ずっと。
俺が強くなりたかった理由は、お前だったんだからな。
「……なあ」
「ん?」
「お前、フィクサーになったんだよな?」
「うん。まだ九級だけどね」
「……どうしてフィクサーになろうと思ったんだ?」
「そうだなあ……」
僕は少しだけ考えた。
「誰かを助けられるくらい、強くなりたかったからかな」
「…………」
彼女の目が、わずかに細くなった。
「……強く、ねえ」
「うん。まだまだ所長には敵わないけど、少しずつできることも増えてきたんだ」
「……へえ」
彼女は笑った。
けれど、その笑みには何か別の感情が混じっているように見えた。
「……その所長って奴には、随分世話になってるみてえだな」
「うん。僕にとっては恩人みたいな人だから」
「……恩人、か」
彼女はその言葉を小さく繰り返した。
「そういえば、君はどうして中指に入ったの?」
「……俺か?」
「うん。昔はフィクサーになりたいって言ってなかった?」
「……はっ。よく覚えてんな」
彼女は少しだけ笑った。
「まあ、色々あったんだよ」
「色々?」
「ああ。強くなるために、色んな奴と戦った。負けたこともあったし、死にかけたことだってある」
「……そんなに?」
「心配すんな。今はこうして生きてんだろ?」
彼女は僕の肩を軽く叩いた。
「それに、俺には家族ができたからな」
「……さっきの人たち?」
「ああ。あいつらは俺の大切な家族だ」
彼女は誇らしげに笑った。
「俺が困ってりゃ助けてくれるし、あいつらが困ってりゃ俺が助ける。そういう連中だよ」
「……そっか」
僕は微笑んだ。
「いい人たちなんだね」
「……はっ。まあ、そうだな」
彼女は楽しそうに笑った。
「でもな」
「ん?」
彼女は僕の肩に腕を回した。
「お前は、あいつらとは別だ」
「……別?」
「ああ」
その紫色の瞳が、まっすぐに僕を見つめる。
「お前は俺にとって、もっと特別な家族だからな」
「……そっか」
僕は少し照れくさくなって笑った。
「ありがとう。僕も君のこと、大切な友達だと思ってるよ」
「…………」
彼女の笑顔が、一瞬だけ止まった。
「……友達、ねえ」
「……どうかした?」
「いや」
彼女はすぐに笑みを戻した。
「何でもねえよ」
――友達。
その言葉が、妙に耳に残った。
間違っちゃいねえ。
確かに俺たちは、昔からの友達だ。
……だが。
それだけで済ませるつもりは、ねえんだけどな。
彼女は僕の肩を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
そのとき、注文した料理が運ばれてきた。
「お待たせしました」
「わあ、美味しそう!」
「だろ? 遠慮せず食えよ」
「うん。いただきます!」
僕たちは料理を食べながら、再び昔の話を始めた。
路地裏で出会った日のこと。
二人でパンを分け合ったこと。
何でもない話をして笑い合ったこと。
彼女は驚くほど細かいことまで覚えていた。
「……よく覚えてるね」
「あ?」
「僕なんて、忘れてたことも結構あるのに」
「……当たり前だろ」
彼女は少しだけ目を細めた。
「俺にとっては、全部大切な思い出だからな」
「……そっか」
僕は嬉しくなって笑った。
彼女も笑った。
けれど、その笑顔の奥に、僕には分からない何かがあるような気がした。
食事が終わりかけた頃。
僕はふと、あることに気がついた。
「……あれ?」
「どうした?」
「そういえばさ」
「あ?」
「僕たち、まだお互いの名前を知らないよね」
「…………」
彼女の手が止まった。
しばらくして、小さく笑う。
「……ああ。そういや、そうだったな」
「何年も一緒にいたのに、不思議だね」
「……はっ。名前なんか知らなくたって、お前はお前だったからな」
彼女は僕を見つめた。
「でも、今は違う」
「……違う?」
「ああ」
彼女は静かに微笑んだ。
「今度は、ちゃんと知っておきてえ」
その紫色の瞳が、まっすぐに僕を捉える。
「お前の名前も、今どこで暮らしてるのかも、普段何をしてるのかも」
「……うん」
「……全部な」
最後の一言だけ、妙にはっきりと聞こえた。
けれど、僕は特に気にしなかった。
「じゃあ、まずは名前からだね」
「ああ」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「僕の名前は、ノア」
「……ノア」
彼女は小さく繰り返した。
「うん。よろしくね」
「……ノア、か」
もう一度、確かめるように口にする。
そして。
「……はっ。いい名前じゃねえか」
彼女は心底嬉しそうに笑った。
「もう二度と忘れねえよ」
「ありがとう。それで、君の名前は?」
「……俺か?」
「うん」
彼女は少しだけ姿勢を正した。
「俺はヴェラだ」
「……ヴェラ」
「ああ」
「いい名前だね」
「……はっ。お前にそう言われると、悪い気はしねえな」
彼女は照れ隠しのように笑った。
「じゃあ、改めてよろしくね。ヴェラ」
「…………」
その瞬間。
ヴェラの胸の奥で、何かが大きく跳ねた。
――ヴェラ。
自分の名前など、これまで何度も呼ばれてきた。
弟分たちからも。
兄貴たちからも。
敵対する連中からも。
けれど。
たった今、ノアの口から発せられたその名前は、まるで別のもののように聞こえた。
――……ああ。
ようやく。
ようやく、ここまで来た。
何年も探し続けた。
何度も会いたいと願った。
もう一度、あの笑顔が見たかった。
そして今。
こうして隣に座り、名前を呼んでもらえている。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「……ヴェラ?」
「……あ?」
「どうしたの? 急に黙っちゃって」
「……いや」
ヴェラは笑った。
「何でもねえよ、ノア」
その名前を口にするだけで、嬉しくなる。
何度でも呼びたくなる。
――ノア。
俺の恩人。
俺の大切な家族。
そして。
――俺が、誰よりも大切にしたい奴。
ヴェラは、ノアの肩を抱き寄せた。
「……なあ、ノア」
「ん?」
「これからも、こうして一緒に飯食おうぜ」
「うん。もちろん!」
「……はっ。そうか」
ヴェラは嬉しそうに笑った。
けれど、ノアの次の言葉に、その笑顔がわずかに固まった。
「また時間があるときに会おうね」
「…………」
――また?
時間があるとき?
ヴェラは、ノアを見つめた。
何年も待った。
何年も探した。
ようやく見つけた。
それなのに。
また、離れるってのか?
……いや。
違う。
もう、そんな必要はねえだろ。
俺は強くなった。
お前を守れるだけの力を手に入れた。
今度こそ、ずっと隣にいられる。
――そうだろ、ノア?
「……ヴェラ?」
「……ああ」
ヴェラは笑った。
「もちろんだ。いつでも会いに来いよ」
「うん!」
ノアは嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見て、ヴェラも微笑んだ。
けれど。
その胸の奥では、別の想いが静かに膨らんでいた。
――いつでも、じゃねえ。
毎日だ。
朝も、昼も、夜も。
お前が笑っているときも。
泣いているときも。
誰かを助けようとしているときも。
全部、俺の隣で見せてくれ。
お前がどこへ行こうと。
誰と一緒にいようと。
俺は、もう二度と見失わねえ。
ヴェラは、ノアの肩を抱く腕に、少しだけ力を込めた。
「……なあ、ノア」
「何?」
「お前の事務所って、どこにあるんだ?」
「え? どうして?」
「……はっ。決まってんだろ」
ヴェラは楽しそうに笑った。
「今度、遊びに行こうと思ってな」
「そうなんだ! 所長にも紹介したいし、ぜひ来てよ」
「…………」
――紹介、か。
ヴェラは目を細めた。
あの所長。
ノアが何度も名前を出していた女。
自分の知らない年月を、ノアの隣で過ごしてきた人間。
……少し、気になるな。
「……ああ」
ヴェラはにやりと笑った。
「楽しみにしてるぜ」
その笑顔の奥に、何が隠されているのか。
ノアは、まだ知らなかった。
そして。
ヴェラ自身も、まだ気づいていなかった。
ようやく手に入れた幸せを、二度と失わないためなら。
自分がどこまでできてしまうのかを