義理より深く、鎖より強く   作:なかにし

22 / 23
名前を知る日

 

何度目の角を曲がっただろうか。

 

久しぶりに再会した幼馴染みと肩を並べて歩くというのは、何とも不思議な気分だった。

 

あの頃は僕の方が少し背が高かったはずなのに、今ではほとんど変わらない。

 

それに、彼女の歩き方には迷いがなかった。

 

昔から気の強い子だったけれど、今はそれ以上に堂々としている。

 

「……おい、聞いてんのか?」

 

「えっ?」

 

「だから、何食いたいって聞いてんだよ」

 

「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」

 

「……ったく。せっかく俺といるってのによ」

 

彼女は呆れたように笑った。

 

「何でもいいよ。君の好きなものにしよう」

 

「はっ。またそれか」

 

「……また?」

 

「昔からそうだっただろ。何か決めるときは、いつも俺に譲ってばっかりだった」

 

「そうだったかな?」

 

「そうだったんだよ」

 

彼女は僕の肩を軽く叩いた。

 

「まあ、そういうところも変わってなくて安心したけどな」

 

そう言って、彼女は通りの先にある店を指さした。

 

「ほら、あそこにするぞ」

 

そこには、古びた看板を掲げた小さな食堂があった。

 

窓からは暖かな光が漏れ、店内からは料理の香りが漂ってくる。

 

「……いい匂いだね」

 

「だろ? 前に弟分と来たことがあってな。味は保証するぜ」

 

彼女は得意げに笑うと、店の扉を開いた。

 

「ほら、入れよ」

 

「うん。ありがとう」

 

店内は思っていたよりも賑やかだった。

 

仕事帰りらしい人々が食事を取り、奥の席では何人かの男たちが酒を飲みながら談笑している。

 

僕たちは空いている席へ向かった。

 

向かい側の椅子を引こうとした、そのときだった。

 

「……おい」

 

「ん?」

 

「何でそっちに座るんだ?」

 

「え? 向かいの方が話しやすいかなって」

 

「隣でいいだろ」

 

「……そう?」

 

「ああ。その方が落ち着く」

 

彼女は当然のように僕の隣へ腰を下ろした。

 

肩が触れそうなほど近い。

 

昔もよく一緒にいたけれど、こんなに距離が近かっただろうか。

 

「……何だよ?」

 

「いや、何でもないよ」

 

「はっ。変な奴」

 

彼女は楽しそうに笑った。

 

料理を注文すると、僕たちはしばらく他愛のない話をした。

 

「そういや、お前。昔、よくパンを持ってきてくれたよな」

 

「ああ、覚えてるよ。二人で半分ずつ分けて食べたよね」

 

「……半分?」

 

彼女は片眉を上げた。

 

「お前、いつも俺に大きい方を渡してただろ」

 

「……そうだったかな?」

 

「そうだったんだよ」

 

彼女は呆れたように笑った。

 

「自分だって腹減ってたくせによ」

 

「でも、君もお腹を空かせてたから」

 

「……ったく」

 

彼女は小さく息を吐いた。

 

「本当に、昔からそういう奴だったな」

 

その声は、とても穏やかだった。

 

「……そういえば、あのときもそうだったよね」

 

「あ?」

 

「僕が怪我をしたとき」

 

その言葉に、彼女の表情がわずかに変わった。

 

「……ああ」

 

「君、すごく怒ってたよね」

 

「……当たり前だろ」

 

彼女は静かに答えた。

 

「お前が俺なんかのために、あんな怪我をしたんだからな」

 

「……でも、僕は後悔してないよ」

 

「…………」

 

「君を守れてよかったと思ってる」

 

彼女は何も言わなかった。

 

ただ、テーブルの下で拳を握りしめていた。

 

――守れてよかった、だと?

 

彼女は心の中で呟いた。

 

あのとき、どれだけ自分が惨めだったか。

 

どれだけ無力な自分を憎んだか。

 

お前は知らねえだろうな。

 

……だが。

 

彼女は隣に座る幼馴染みを見つめた。

 

――それでも。

 

お前が俺を守ってくれたことだけは、何があっても忘れねえ。

 

あの日から、ずっと。

 

俺が強くなりたかった理由は、お前だったんだからな。

 

「……なあ」

 

「ん?」

 

「お前、フィクサーになったんだよな?」

 

「うん。まだ九級だけどね」

 

「……どうしてフィクサーになろうと思ったんだ?」

 

「そうだなあ……」

 

僕は少しだけ考えた。

 

「誰かを助けられるくらい、強くなりたかったからかな」

 

「…………」

 

彼女の目が、わずかに細くなった。

 

「……強く、ねえ」

 

「うん。まだまだ所長には敵わないけど、少しずつできることも増えてきたんだ」

 

「……へえ」

 

彼女は笑った。

 

けれど、その笑みには何か別の感情が混じっているように見えた。

 

「……その所長って奴には、随分世話になってるみてえだな」

 

「うん。僕にとっては恩人みたいな人だから」

 

「……恩人、か」

 

彼女はその言葉を小さく繰り返した。

 

「そういえば、君はどうして中指に入ったの?」

 

「……俺か?」

 

「うん。昔はフィクサーになりたいって言ってなかった?」

 

「……はっ。よく覚えてんな」

 

彼女は少しだけ笑った。

 

「まあ、色々あったんだよ」

 

「色々?」

 

「ああ。強くなるために、色んな奴と戦った。負けたこともあったし、死にかけたことだってある」

 

「……そんなに?」

 

「心配すんな。今はこうして生きてんだろ?」

 

彼女は僕の肩を軽く叩いた。

 

「それに、俺には家族ができたからな」

 

「……さっきの人たち?」

 

「ああ。あいつらは俺の大切な家族だ」

 

彼女は誇らしげに笑った。

 

「俺が困ってりゃ助けてくれるし、あいつらが困ってりゃ俺が助ける。そういう連中だよ」

 

「……そっか」

 

僕は微笑んだ。

 

「いい人たちなんだね」

 

「……はっ。まあ、そうだな」

 

彼女は楽しそうに笑った。

 

「でもな」

 

「ん?」

 

彼女は僕の肩に腕を回した。

 

「お前は、あいつらとは別だ」

 

「……別?」

 

「ああ」

 

その紫色の瞳が、まっすぐに僕を見つめる。

 

「お前は俺にとって、もっと特別な家族だからな」

 

「……そっか」

 

僕は少し照れくさくなって笑った。

 

「ありがとう。僕も君のこと、大切な友達だと思ってるよ」

 

「…………」

 

彼女の笑顔が、一瞬だけ止まった。

 

「……友達、ねえ」

 

「……どうかした?」

 

「いや」

 

彼女はすぐに笑みを戻した。

 

「何でもねえよ」

 

――友達。

 

その言葉が、妙に耳に残った。

 

間違っちゃいねえ。

 

確かに俺たちは、昔からの友達だ。

 

……だが。

 

それだけで済ませるつもりは、ねえんだけどな。

 

彼女は僕の肩を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。

 

そのとき、注文した料理が運ばれてきた。

 

「お待たせしました」

 

「わあ、美味しそう!」

 

「だろ? 遠慮せず食えよ」

 

「うん。いただきます!」

 

僕たちは料理を食べながら、再び昔の話を始めた。

 

路地裏で出会った日のこと。

 

二人でパンを分け合ったこと。

 

何でもない話をして笑い合ったこと。

 

彼女は驚くほど細かいことまで覚えていた。

 

「……よく覚えてるね」

 

「あ?」

 

「僕なんて、忘れてたことも結構あるのに」

 

「……当たり前だろ」

 

彼女は少しだけ目を細めた。

 

「俺にとっては、全部大切な思い出だからな」

 

「……そっか」

 

僕は嬉しくなって笑った。

 

彼女も笑った。

 

けれど、その笑顔の奥に、僕には分からない何かがあるような気がした。

 

食事が終わりかけた頃。

 

僕はふと、あることに気がついた。

 

「……あれ?」

 

「どうした?」

 

「そういえばさ」

 

「あ?」

 

「僕たち、まだお互いの名前を知らないよね」

 

「…………」

 

彼女の手が止まった。

 

しばらくして、小さく笑う。

 

「……ああ。そういや、そうだったな」

 

「何年も一緒にいたのに、不思議だね」

 

「……はっ。名前なんか知らなくたって、お前はお前だったからな」

 

彼女は僕を見つめた。

 

「でも、今は違う」

 

「……違う?」

 

「ああ」

 

彼女は静かに微笑んだ。

 

「今度は、ちゃんと知っておきてえ」

 

その紫色の瞳が、まっすぐに僕を捉える。

 

「お前の名前も、今どこで暮らしてるのかも、普段何をしてるのかも」

 

「……うん」

 

「……全部な」

 

最後の一言だけ、妙にはっきりと聞こえた。

 

けれど、僕は特に気にしなかった。

 

「じゃあ、まずは名前からだね」

 

「ああ」

 

彼女は嬉しそうに頷いた。

 

「僕の名前は、ノア」

 

「……ノア」

 

彼女は小さく繰り返した。

 

「うん。よろしくね」

 

「……ノア、か」

 

もう一度、確かめるように口にする。

 

そして。

 

「……はっ。いい名前じゃねえか」

 

彼女は心底嬉しそうに笑った。

 

「もう二度と忘れねえよ」

 

「ありがとう。それで、君の名前は?」

 

「……俺か?」

 

「うん」

 

彼女は少しだけ姿勢を正した。

 

「俺はヴェラだ」

 

「……ヴェラ」

 

「ああ」

 

「いい名前だね」

 

「……はっ。お前にそう言われると、悪い気はしねえな」

 

彼女は照れ隠しのように笑った。

 

「じゃあ、改めてよろしくね。ヴェラ」

 

「…………」

 

その瞬間。

 

ヴェラの胸の奥で、何かが大きく跳ねた。

 

――ヴェラ。

 

自分の名前など、これまで何度も呼ばれてきた。

 

弟分たちからも。

 

兄貴たちからも。

 

敵対する連中からも。

 

けれど。

 

たった今、ノアの口から発せられたその名前は、まるで別のもののように聞こえた。

 

――……ああ。

 

ようやく。

 

ようやく、ここまで来た。

 

何年も探し続けた。

 

何度も会いたいと願った。

 

もう一度、あの笑顔が見たかった。

 

そして今。

 

こうして隣に座り、名前を呼んでもらえている。

 

それだけで、胸がいっぱいになった。

 

「……ヴェラ?」

 

「……あ?」

 

「どうしたの? 急に黙っちゃって」

 

「……いや」

 

ヴェラは笑った。

 

「何でもねえよ、ノア」

 

その名前を口にするだけで、嬉しくなる。

 

何度でも呼びたくなる。

 

――ノア。

 

俺の恩人。

 

俺の大切な家族。

 

そして。

 

――俺が、誰よりも大切にしたい奴。

 

ヴェラは、ノアの肩を抱き寄せた。

 

「……なあ、ノア」

 

「ん?」

 

「これからも、こうして一緒に飯食おうぜ」

 

「うん。もちろん!」

 

「……はっ。そうか」

 

ヴェラは嬉しそうに笑った。

 

けれど、ノアの次の言葉に、その笑顔がわずかに固まった。

 

「また時間があるときに会おうね」

 

「…………」

 

――また?

 

時間があるとき?

 

ヴェラは、ノアを見つめた。

 

何年も待った。

 

何年も探した。

 

ようやく見つけた。

 

それなのに。

 

また、離れるってのか?

 

……いや。

 

違う。

 

もう、そんな必要はねえだろ。

 

俺は強くなった。

 

お前を守れるだけの力を手に入れた。

 

今度こそ、ずっと隣にいられる。

 

――そうだろ、ノア?

 

「……ヴェラ?」

 

「……ああ」

 

ヴェラは笑った。

 

「もちろんだ。いつでも会いに来いよ」

 

「うん!」

 

ノアは嬉しそうに頷いた。

 

その笑顔を見て、ヴェラも微笑んだ。

 

けれど。

 

その胸の奥では、別の想いが静かに膨らんでいた。

 

――いつでも、じゃねえ。

 

毎日だ。

 

朝も、昼も、夜も。

 

お前が笑っているときも。

 

泣いているときも。

 

誰かを助けようとしているときも。

 

全部、俺の隣で見せてくれ。

 

お前がどこへ行こうと。

 

誰と一緒にいようと。

 

俺は、もう二度と見失わねえ。

 

ヴェラは、ノアの肩を抱く腕に、少しだけ力を込めた。

 

「……なあ、ノア」

 

「何?」

 

「お前の事務所って、どこにあるんだ?」

 

「え? どうして?」

 

「……はっ。決まってんだろ」

 

ヴェラは楽しそうに笑った。

 

「今度、遊びに行こうと思ってな」

 

「そうなんだ! 所長にも紹介したいし、ぜひ来てよ」

 

「…………」

 

――紹介、か。

 

ヴェラは目を細めた。

 

あの所長。

 

ノアが何度も名前を出していた女。

 

自分の知らない年月を、ノアの隣で過ごしてきた人間。

 

……少し、気になるな。

 

「……ああ」

 

ヴェラはにやりと笑った。

 

「楽しみにしてるぜ」

 

その笑顔の奥に、何が隠されているのか。

 

ノアは、まだ知らなかった。

 

そして。

 

ヴェラ自身も、まだ気づいていなかった。

 

ようやく手に入れた幸せを、二度と失わないためなら。

 

自分がどこまでできてしまうのかを

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。