食堂に入り名前を知った後、僕たちは今まで会えなかった時間を埋めるように、色々なことを話した。
僕はフィクサーになってからのことを。
初めて受けた依頼で散々な目に遭ったことや、所長に何度も助けられたこと。仕事で失敗して怒られたことも、今となっては笑い話だった。
ヴェラは中指に入ってからのことを話してくれた。
厳しいけれど頼りになる兄貴たちのこと。何かと騒がしい弟分たちのこと。そして、今ではみんなを大切な家族だと思っていること。
話題が昔の路地裏に移ると、僕たちは何度も笑い合った。
「あの頃、お前が持ってきてくれたパン、いつも俺の方が大きかったよな」
「えっ、そうだった?」
「そうだったんだよ。自分だって腹減ってたくせによ」
「あはは……よく覚えてるね」
「当たり前だろ」
ヴェラは呆れたように笑った。
「俺にとっちゃ、忘れられねえ思い出なんだからな」
その言葉が、なんだか嬉しかった。
六年という時間は、決して短くない。
お互いに知らないことが増えていて、昔とは変わってしまった部分もある。
それでも、こうして話していると、あの路地裏で一緒に過ごしていた頃に戻ったような気がした。
気づけば、テーブルの上の料理はすっかりなくなっていた。
それでも話は尽きず、僕たちは時間を忘れて語り合っていた。
やがて、ふと窓の外へ目を向ける。
「……あれ?」
「どうした、ノア?」
「もう、こんな時間なんだ」
窓の向こうでは、いつの間にか日が暮れていた。
通りには色とりどりの看板が灯り、仕事帰りの人々が行き交っている。
「……そろそろ事務所に戻らないと」
「あ? もう帰るのか?」
「うん。所長に依頼の報告をしないといけないからね」
「……所長、ねえ」
ヴェラは面白くなさそうに呟いた。
「なあ、ノア。俺もついていっていいか?」
「事務所に?」
「ああ。お前が世話になってるところだろ? 一度くらい顔を出しておきてえ」
「もちろん! 所長にも紹介したかったし」
「……はっ。そりゃ楽しみだ」
ヴェラは楽しそうに笑った。
こうして、僕たちは食堂を後にした。
外へ出ると、昼間よりも少し冷たい風が頬を撫でた。
ヴェラは当然のように僕の隣へ並び、肩に腕を回してくる。
「ところで、その所長ってのはどんな奴なんだ?」
「うーん……お金に厳しくて、賭け事が好きで、ちょっと意地悪なところもあるけど」
「……ろくでもねえ奴じゃねえか」
「あはは。でも、すごく頼りになる人だよ」
「……ふうん」
「僕がまだ何もできなかった頃から、色々教えてくれたんだ。フィクサーの仕事も、戦い方も」
「…………」
「だから、僕にとっては恩人なんだよ」
ヴェラはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……そうか」
「うん」
「なら、ちゃんと礼を言わねえとな」
その言葉を聞いて、僕は嬉しくなった。
大切な幼馴染みと、大切な恩人。
二人が仲良くしてくれたら、これほど嬉しいことはない。
そんなことを考えながら、僕は事務所へと向かった。
隣を歩くヴェラが、僕の知らないところで何を考えているのかも知らずに。
◇
「ただいま戻りました!」
アイビー事務所の扉を開けると、いつもの光景が広がっていた。
机の上には積み重なった書類。
その横には飲みかけの珈琲。
そして、椅子に腰掛けた所長が、硬貨を指先で弾いていた。
「おかえり、ノア」
フォルトゥナ所長は顔を上げる。
「随分と遅かったじゃないか。依頼人が死んだという話は聞いているけど……」
「はい。その件について、報告があって」
「ふむ。まあ、君が無事ならひとまず――」
そこで、所長の言葉が止まった。
視線が、僕の隣へ移る。
「……おや?」
ヴェラは僕の肩に腕を回したまま、所長を見つめていた。
「そちらのお嬢さんは?」
「あ、紹介します!」
僕は一歩前へ出た。
「昔からの友達で、幼馴染みのヴェラです。今日、偶然再会したんです!」
「……幼馴染み?」
「はい!」
所長は少し驚いたように目を瞬かせた。
そして、ヴェラへ視線を戻す。
紫色の長い外套。
その隙間から覗く刺青。
所長の目が、ほんのわずかに細くなった。
「……なるほどね」
「何がなるほどなんだ?」
ヴェラが口を開いた。
「あんたが、ノアの所長か?」
「そうだけど。君はヴェラ、だったかな」
「ああ」
ヴェラは頷いた。
「こいつから話は聞いてるぜ。フィクサーの仕事も、戦い方も、あんたが教えたんだってな」
「まあね。手のかかる弟子だったよ」
「所長!」
「ははっ。冗談だよ」
所長が笑うと、ヴェラも小さく笑った。
「……そうか」
そして、僕の肩から腕を離す。
「今まで、こいつの面倒を見てくれてありがとな」
ヴェラは真っ直ぐに所長を見つめた。
「俺がいない間、こいつを守ってくれてたんだろ?」
「……守っていた、というよりは、育てていたつもりだけどね」
「どっちでもいいさ」
ヴェラは笑った。
「お前には借りができた。中指としても、俺個人としても、礼はする」
「……中指、か」
所長の指先で、硬貨が止まった。
「随分と大きな家族に入ったものだね」
「はっ。知ってんのか」
「フィクサーをやっていれば、嫌でも耳にするさ」
ヴェラは満足そうに頷いた。
「なら話が早え」
そう言うと、再び僕の肩に手を置いた。
「これからは、俺がこいつの面倒を見る」
「……え?」
思わず声が漏れた。
「ヴェラ?」
「今まで世話になった分は礼をする。だが、もうこいつを危険な仕事に出す必要はねえ」
ヴェラは当然のように続けた。
「俺が守る。こいつが食うにも寝るにも困らねえようにしてやる」
「ちょ、ちょっと待ってよ。僕はまだ――」
「心配すんな、ノア」
ヴェラは優しく笑った。
「お前はもう、無理して強くなる必要なんかねえんだ」
そのまま、僕の手を取る。
「ほら、行くぞ」
「えっ? どこに?」
「俺のところだよ。ちゃんと部屋も用意してやる」
「いや、でも……」
「――待ちなよ」
静かな声が、事務所に響いた。
所長だった。
いつの間にか硬貨を机に置き、こちらを見つめている。
「君、随分と勝手なことを言うんだね」
「……あ?」
ヴェラが振り返った。
「何だよ。礼ならちゃんとするって言っただろ」
「礼の話じゃないよ」
所長は椅子から立ち上がった。
「私は、彼を君に預けるために育てたわけじゃない」
「……へえ」
「それに、ノア本人はどうしたいんだい?」
「決まってんだろ。俺と一緒にいれば安全だ」
「安全かどうかを聞いているんじゃない」
所長の声が、少しだけ低くなった。
「彼の意思を聞いているんだよ」
「…………」
ヴェラの笑みが薄れた。
「……何が言いてえ?」
「簡単な話さ。ノアは君の所有物じゃない」
空気が、変わった。
「……あ?」
ヴェラの声から、温度が消える。
「今、何つった?」
「聞こえなかったかい?」
所長は怯むことなく答えた。
「彼には彼の人生がある。君がどれだけ大切に思っていようと、勝手に決めていい理由にはならないよ」
「……てめえ」
「それに」
所長は、ヴェラを真っ直ぐに見据えた。
「何年も離れていた君に、今の彼の何が分かるのかな」
「…………」
ヴェラの表情が消えた。
「君が昔のノアを知っていることは否定しない。でも、今の彼は自分の意思でフィクサーになった」
所長は続ける。
「何も知らない君が、昔のままの彼だと思い込んで連れていこうとするのは、少し傲慢じゃないかな」
沈黙が落ちた。
ヴェラは何も答えなかった。
ただ、フォルトゥナを見つめている。
「……所長、ヴェラも悪気があるわけじゃ――」
「ノア」
ヴェラが静かに言った。
「少し黙ってろ」
「……ヴェラ?」
彼女は笑っていた。
けれど、その笑顔は先ほどまでのものとは違っていた。
「……なあ、所長さんよ」
「何だい?」
「てめえ、俺が何のために強くなったか知ってんのか?」
所長は少しだけ目を細めた。
「……いいや。知らないね」
「だろうな」
ヴェラは小さく笑った。
「俺がどんな思いで、あいつを探してたかも知らねえだろ」
「……そうだね」
「だったらよ」
一歩。
ヴェラが前へ出る。
「知ったような口を利いてんじゃねえぞ」
低い声が響いた。
その瞬間、事務所の空気が変わった気がした。
僕は思わず息を呑む。
ヴェラのことは、昔から気が強い子だと思っていた。
けれど、今目の前にいる彼女は、僕の知っている幼馴染みとはどこか違っていた。
「……確かに、私は君の苦労を知らないよ」
所長は落ち着いた声で答えた。
「君がどんな場所で、どんな思いをしてきたのか。それを知ったふうに語るつもりもない」
「…………」
「でもね」
所長は僕へ一瞬だけ視線を向けた。
「それと、ノアの意思は別の話だろう?」
ヴェラの眉が、わずかに動いた。
「君が彼を大切に思っていることは分かる。けれど、だからといって彼の人生を勝手に決めていいわけじゃない」
「……てめえ」
「ノアは、君に守られるためだけに生きているわけじゃないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
ヴェラの拳が、ぎゅっと握りしめられた。
「……はっ」
乾いた笑いが漏れる。
「なるほどな」
ヴェラはゆっくりと顔を上げた。
「随分と好き勝手言ってくれるじゃねえか」
「君ほどじゃないと思うけどね」
「……そうかよ」
一歩。
ヴェラが前へ出た。
「なあ。中指の仕返し帳簿って知ってるか?」
「もちろん。受けた仕打ちを記録して、必ず返すというあれだろう?」
「ああ」
ヴェラは頷いた。
「俺たちは、受けた侮辱も、作られた借りも忘れねえ」
そして、所長を睨みつける。
「今のてめえの言葉も、俺にとっちゃ十分な侮辱だ」
「……それで、私を帳簿に載せるのかい?」
「……いや」
ヴェラは首を横に振った。
「今回のことは帳簿に書かねえでやる」
所長の目が、わずかに細くなる。
「……どうして?」
「決まってんだろ」
ヴェラは一瞬だけ、僕を見た。
「こいつの恩人だからな」
「……ヴェラ」
「ノアを拾って、育てて、守ってくれた。それについては感謝してる」
その声に、嘘はなかった。
「だから、俺の家族を巻き込んで仕返しするつもりはねえ」
ヴェラは再び所長へ向き直った。
「……だがな」
紫色の瞳が、鋭く細められる。
「それと、てめえを許せるかどうかは別の話だ」
ゆっくりと、ヴェラが身を沈める。
「俺がどれだけの時間をかけて、あいつの隣に戻ってきたと思ってやがる」
拳が握りしめられた。
「それを、何も知らねえ奴に否定されて、黙ってられるほど俺はお人好しじゃねえんだよ」
「……なるほど」
所長は小さく息を吐いた。
「つまり、これは中指としての仕返しではない、と?」
「……ああ」
ヴェラは笑った。
獲物を前にした獣のような、凶暴な笑みだった。
「これは俺個人の喧嘩だ」
所長は短剣の柄へ手を添えた。
「……やれやれ。どうしても力ずくで決着をつけたいらしいね」
「……はっ」
ヴェラは片足を引いた。
長い紫色の外套が、わずかに揺れる。
「――くたばれ」
次の瞬間。
轟音が響いた。
◇
所長の姿が消えた。
いや、違う。
ヴェラの蹴りが届く直前、所長は椅子を蹴って横へ跳んでいた。
直後、さっきまで所長が立っていた場所に、ヴェラの踵が叩き込まれる。
机の端が砕け、書類が宙を舞った。
「うわっ!?」
僕は咄嗟に後ずさった。
「ちょっと、二人とも!?」
「……おやおや」
所長は倒れた椅子を一瞥した。
「随分と高くつく喧嘩になりそうだね」
「うるせえ!」
ヴェラが踏み込む。
横から放たれた蹴り。
所長は身を沈めてかわした。
しかし、ヴェラの攻撃は止まらない。
地面についた足を軸に身体を回転させ、反対の脚を振り抜く。
「……っ!」
所長が後方へ跳ぶ。
蹴りが鼻先を通過した。
風圧で、所長の前髪が揺れる。
「……なるほど」
所長は懐から短剣を抜いた。
「随分と物騒な脚だね」
「余裕ぶってんじゃねえぞ!」
ヴェラが床を蹴った。
一瞬で距離が縮まる。
「――っ!」
所長は短剣を構える。
だが、ヴェラは正面から突っ込まなかった。
踏み込む直前、身体を沈める。
低い位置から放たれた足払い。
所長は跳んでかわした。
その瞬間。
「遅え!」
ヴェラの脚が跳ね上がる。
「……!」
所長は咄嗟に短剣を引き、身体を捻った。
蹴りが脇腹をかすめる。
鈍い音が響いた。
「……ぐっ!」
所長の身体が横へ流れる。
そのまま数歩後退し、机の残骸を踏み越えた。
「所長!?」
僕は思わず叫んだ。
しかし、所長は片手を上げた。
「……大丈夫だよ」
口元には、いつもの笑み。
けれど、その目は笑っていなかった。
「いやはや……これは、まともに受けたら骨が何本あっても足りないね」
「だったらさっさと倒れろ!」
ヴェラが再び踏み込む。
しかし、今度は所長が先に動いた。
「……それは困るね」
短剣を逆手に持ち替える。
ヴェラの蹴りが放たれる直前、所長はその内側へ滑り込んだ。
「……っ!?」
振り抜かれる脚。
その軌道を、所長はすでに読んでいた。
身体をわずかに傾け、蹴りをかわす。
同時に、短剣の柄をヴェラの脇腹へ叩き込んだ。
「……ぐっ!」
ヴェラの身体がわずかに折れる。
その隙を逃さず、所長は足を払った。
「――っ!」
ヴェラの体勢が崩れる。
しかし。
「……舐めんな!」
床についた片手を支点に、ヴェラが身体を回転させた。
逆立ちに近い姿勢から、脚が跳ね上がる。
「……おっと!」
所長は慌てて後退した。
蹴りが顎のすぐ下を通過する。
ヴェラはその勢いのまま着地した。
「……はっ」
口元に凶暴な笑みを浮かべる。
「なかなかやるじゃねえか」
「それはどうも」
所長は短剣を構え直した。
「君もね。正直、少し驚いているよ」
二人が再び向かい合う。
その間に、僕は立ち尽くしていた。
……何なんだよ、これ。
どうして。
どうして、こんなことになってるんだ。
「……次は外さねえ」
ヴェラが呟く。
「奇遇だね」
所長も笑った。
「私も、そろそろ本気で止めるつもりだったよ」
二人が同時に身を沈める。
まずい。
そう思った瞬間、僕の身体は動いていた。
「――待って!!」
腰のトンファーを引き抜く。
二本を構え、二人の間へ飛び出した。
「ノア!?」
「君、危ない!」
二人の声が重なる。
「もうやめてよ!」
僕は叫んだ。
「どけ、ノア!」
ヴェラが怒鳴る。
「これは俺とあいつの喧嘩だ!」
「関係あるよ!」
思わず、声が大きくなった。
「僕のことで喧嘩してるんでしょ!?」
「…………」
ヴェラの動きが止まった。
「……僕は」
僕は二人を見た。
「ヴェラに会えて、本当に嬉しかった」
「……ノア」
「ずっと、また会いたいと思ってたんだ」
ヴェラの瞳が揺れた。
「でも、所長も僕にとって大切な人なんだ」
「…………」
「何もできなかった僕を拾ってくれて、仕事を教えてくれて、何度も助けてくれた」
僕はトンファーを握りしめた。
「だから……二人に傷つけ合ってほしくない」
「……だったら」
ヴェラが口を開いた。
「だったら、俺と来いよ」
「……え?」
「俺と一緒にいれば、こんな危ねえ仕事なんかしなくて済む」
ヴェラは一歩近づいた。
「金も、住む場所も、全部用意してやる。お前が欲しいもんなら、何だって――」
「ヴェラ」
僕は首を横に振った。
「……ごめん」
「…………」
「僕は、まだフィクサーを続けたいんだ」
ヴェラの表情が固まった。
「……何でだよ」
「僕は、昔から弱かった」
僕はゆっくりと言葉を続ける。
「誰かに助けてもらってばかりで、自分じゃ何もできなくて……」
「……ノア」
「だから、強くなりたかったんだ」
トンファーを握る手に、力がこもる。
「もう、誰かに守られてばかりの自分でいたくなかった」
「…………」
「ヴェラが僕を守ってくれるのは嬉しい。本当に嬉しいよ」
僕は彼女を見つめた。
「でも、僕だって誰かを守れるようになりたいんだ」
「……っ」
ヴェラが息を呑んだ。
「それに、所長にはまだ教わりたいことがたくさんある」
「…………」
「だから、今はここにいたい」
沈黙。
ヴェラは何も言わなかった。
ただ、僕を見つめていた。
その紫色の瞳が、わずかに揺れている。
「……そうかよ」
やがて、小さな声が漏れた。
「……そういうことかよ」
ヴェラは俯いた。
拳が、ぎゅっと握りしめられる。
「……俺じゃ、駄目なのかよ」
「……ヴェラ?」
「俺じゃ……お前を守れねえって言うのか?」
「違うよ!」
僕は慌てて首を振った。
「そうじゃない! ヴェラはすごく強いし、頼りになるよ!」
「だったら――!」
ヴェラが顔を上げた。
けれど。
僕の顔を見た瞬間、その言葉は止まった。
「…………」
彼女は何かを言おうとして、口を開く。
しかし、何も出てこなかった。
やがて、ゆっくりと目を伏せる。
「……ちっ」
小さな舌打ち。
「……分かったよ」
「……ヴェラ」
「分かったっつってんだろ」
その声には、まだ苛立ちが残っていた。
ヴェラは所長へ視線を向ける。
「……今回は、ここまでにしてやる」
「それはありがたいね」
所長は短剣を下ろした。
「私も、これ以上事務所を壊されたくないからね」
「……てめえには言ってねえよ」
ヴェラは吐き捨てるように言った。
そして、僕へ向き直る。
「……悪かったな、ノア」
「……え?」
「お前を困らせるつもりは、なかったんだ」
僕はゆっくりとトンファーを下ろした。
「……うん」
ヴェラは小さく笑った。
けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
◇
しばらくして。
壊れた机を前に、所長が深いため息をついた。
「……さて」
その手には、一枚の紙が握られていた。
「修理代の話をしようか」
「……あ?」
「机、椅子、それから床。全部合わせると、なかなかの額になるね」
「……てめえ、今それを言うか?」
「当然だろう? 私の大切な事務所なんだから」
ヴェラは舌打ちした。
「……ちっ。分かったよ。払えばいいんだろ」
「話が早くて助かるよ」
所長はにっこりと笑った。
……何というか。
さっきまで殺し合いになりかけていたとは思えない。
僕は二人を交互に見つめた。
「……じゃあ、僕も片付けを手伝います」
「君はいいよ、ノア」
所長が言った。
「君は何も壊していないからね」
「でも……」
「それに、今日は色々あっただろう。もう休みなさい」
「……はい」
僕は頷いた。
そのとき、ヴェラが僕の肩に手を置いた。
「……なあ、ノア」
「ん?」
「今日は、もう遅いよな」
「……うん」
「……また、会えるよな?」
僕は少し驚いた。
「もちろんだよ」
そう答えると、ヴェラは安心したように笑った。
「……そうか」
そして、僕の頭を軽く撫でる。
「じゃあ、またな」
「うん。またね、ヴェラ」
彼女はしばらく僕を見つめていた。
やがて、ゆっくりと背を向ける。
扉が閉まる直前。
「……ノア」
「何?」
ヴェラは振り返った。
紫色の瞳が、僕を捉える。
「……忘れんなよ」
「……何を?」
彼女は笑った。
「俺は、いつだってお前の味方だからな」
そう言い残して、彼女は事務所を後にした。
◇
夜の路地裏。
ヴェラは一人、歩いていた。
先ほどまでの笑顔は、もうない。
「……ちっ」
小さく舌打ちする。
――何年も離れていた君に、今の彼の何が分かるのかな。
あの女の言葉が、頭から離れなかった。
……分かってる。
俺が知らねえ時間があることくらい。
ノアが俺の知らねえ場所で生きてきたことくらい。
そんなこと、言われなくたって分かってんだよ。
それでも。
「……何でだよ」
ヴェラは壁に拳を押し当てた。
「……何で、俺じゃ駄目なんだよ」
あの日。
ノアと離れ離れになった、あの日。
自分は何もできなかった。
目の前で傷ついていくあいつを、ただ見ていることしかできなかった。
だから、強くなった。
誰にも負けねえくらい、強くなった。
中指に入り、血を流し、何度も死にかけた。
それでも立ち上がった。
全部、あいつを守るためだった。
なのに。
――僕だって誰かを守れるようになりたいんだ。
ノアの言葉が、頭の中で繰り返される。
「……はっ」
乾いた笑いが漏れた。
「……そうかよ」
あいつは、もう昔のままじゃねえ。
俺の後ろに隠れていた、あの頃のノアじゃねえんだ。
……分かってる。
分かってるさ。
けど。
「……だからって」
ヴェラはゆっくりと顔を上げた。
「俺が、あいつを守っちゃいけねえ理由にはならねえだろ」
拳を握りしめる。
あの女の言うことも、間違っちゃいねえ。
ノアにはノアの人生がある。
あいつが自分で選んだ道を、俺が勝手に変えちゃいけねえ。
……そんなことくらい、分かってる。
だけど。
「……譲れねえんだよ」
小さな声が、夜の路地裏に落ちた。
「これだけは、絶対に」
ヴェラは目を閉じた。
思い浮かぶのは、ノアの笑顔。
再会したときの、あの嬉しそうな顔。
自分の名前を呼んでくれた声。
そして。
あの女を庇うように立ちはだかった、ノアの姿。
「…………」
胸の奥が、じくじくと痛んだ。
……気に入らねえ。
あいつが俺の知らねえところで、誰かを大切にしていることが。
俺以外の誰かに、あんな顔を向けることが。
何より。
俺がいなくても、あいつが幸せそうに笑っていたことが。
「……っ」
ヴェラは唇を噛んだ。
そんなことを考えてしまう自分が、少しだけ嫌になった。
ノアが幸せなら、それでいい。
そう思っていたはずなのに。
「……嘘つきだな、俺も」
小さく笑う。
結局。
俺は、あいつの隣にいたいだけなんだ。
誰よりも近くで。
誰よりも長く。
あいつが笑うところも、泣くところも、全部見ていたい。
そのためなら。
「……まあ、いい」
ヴェラはゆっくりと歩き出した。
「時間なら、いくらでもある」
もう、居場所は分かった。
名前も知った。
今度こそ、見失わない。
――ノア。
お前があの女を大切に思ってることは、分かった。
フィクサーを続けたいって気持ちも、分かった。
だから、今は引いてやる。
だが。
「……諦めるわけねえだろ」
ヴェラは静かに笑った。
その紫色の瞳には、強い執着が宿っていた。
「お前が自分の足で歩きてえってんなら、好きにすりゃいい」
夜風が、長い黒髪を揺らす。
「……けどな」
彼女の笑みが、ゆっくりと深くなる。
「その隣に立つのは、俺だ」
誰にも譲らねえ。
あの女にも。
ほかの誰にも。
「俺は、もう二度とお前を手放さねえよ」
夜の街に、彼女の足音だけが響いていた