義理より深く、鎖より強く   作:なかにし

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譲れない隣

食堂に入り名前を知った後、僕たちは今まで会えなかった時間を埋めるように、色々なことを話した。

 

僕はフィクサーになってからのことを。

 

初めて受けた依頼で散々な目に遭ったことや、所長に何度も助けられたこと。仕事で失敗して怒られたことも、今となっては笑い話だった。

 

ヴェラは中指に入ってからのことを話してくれた。

 

厳しいけれど頼りになる兄貴たちのこと。何かと騒がしい弟分たちのこと。そして、今ではみんなを大切な家族だと思っていること。

 

話題が昔の路地裏に移ると、僕たちは何度も笑い合った。

 

「あの頃、お前が持ってきてくれたパン、いつも俺の方が大きかったよな」

 

「えっ、そうだった?」

 

「そうだったんだよ。自分だって腹減ってたくせによ」

 

「あはは……よく覚えてるね」

 

「当たり前だろ」

 

ヴェラは呆れたように笑った。

 

「俺にとっちゃ、忘れられねえ思い出なんだからな」

 

その言葉が、なんだか嬉しかった。

 

六年という時間は、決して短くない。

 

お互いに知らないことが増えていて、昔とは変わってしまった部分もある。

 

それでも、こうして話していると、あの路地裏で一緒に過ごしていた頃に戻ったような気がした。

 

気づけば、テーブルの上の料理はすっかりなくなっていた。

 

それでも話は尽きず、僕たちは時間を忘れて語り合っていた。

 

やがて、ふと窓の外へ目を向ける。

 

「……あれ?」

 

「どうした、ノア?」

 

「もう、こんな時間なんだ」

 

窓の向こうでは、いつの間にか日が暮れていた。

 

通りには色とりどりの看板が灯り、仕事帰りの人々が行き交っている。

 

「……そろそろ事務所に戻らないと」

 

「あ? もう帰るのか?」

 

「うん。所長に依頼の報告をしないといけないからね」

 

「……所長、ねえ」

 

ヴェラは面白くなさそうに呟いた。

 

「なあ、ノア。俺もついていっていいか?」

 

「事務所に?」

 

「ああ。お前が世話になってるところだろ? 一度くらい顔を出しておきてえ」

 

「もちろん! 所長にも紹介したかったし」

 

「……はっ。そりゃ楽しみだ」

 

ヴェラは楽しそうに笑った。

 

こうして、僕たちは食堂を後にした。

 

外へ出ると、昼間よりも少し冷たい風が頬を撫でた。

 

ヴェラは当然のように僕の隣へ並び、肩に腕を回してくる。

 

「ところで、その所長ってのはどんな奴なんだ?」

 

「うーん……お金に厳しくて、賭け事が好きで、ちょっと意地悪なところもあるけど」

 

「……ろくでもねえ奴じゃねえか」

 

「あはは。でも、すごく頼りになる人だよ」

 

「……ふうん」

 

「僕がまだ何もできなかった頃から、色々教えてくれたんだ。フィクサーの仕事も、戦い方も」

 

「…………」

 

「だから、僕にとっては恩人なんだよ」

 

ヴェラはしばらく黙っていた。

 

やがて、小さく笑う。

 

「……そうか」

 

「うん」

 

「なら、ちゃんと礼を言わねえとな」

 

その言葉を聞いて、僕は嬉しくなった。

 

大切な幼馴染みと、大切な恩人。

 

二人が仲良くしてくれたら、これほど嬉しいことはない。

 

そんなことを考えながら、僕は事務所へと向かった。

 

隣を歩くヴェラが、僕の知らないところで何を考えているのかも知らずに。

 

◇

 

「ただいま戻りました!」

 

アイビー事務所の扉を開けると、いつもの光景が広がっていた。

 

机の上には積み重なった書類。

 

その横には飲みかけの珈琲。

 

そして、椅子に腰掛けた所長が、硬貨を指先で弾いていた。

 

「おかえり、ノア」

 

フォルトゥナ所長は顔を上げる。

 

「随分と遅かったじゃないか。依頼人が死んだという話は聞いているけど……」

 

「はい。その件について、報告があって」

 

「ふむ。まあ、君が無事ならひとまず――」

 

そこで、所長の言葉が止まった。

 

視線が、僕の隣へ移る。

 

「……おや?」

 

ヴェラは僕の肩に腕を回したまま、所長を見つめていた。

 

「そちらのお嬢さんは?」

 

「あ、紹介します!」

 

僕は一歩前へ出た。

 

「昔からの友達で、幼馴染みのヴェラです。今日、偶然再会したんです!」

 

「……幼馴染み?」

 

「はい!」

 

所長は少し驚いたように目を瞬かせた。

 

そして、ヴェラへ視線を戻す。

 

紫色の長い外套。

 

その隙間から覗く刺青。

 

所長の目が、ほんのわずかに細くなった。

 

「……なるほどね」

 

「何がなるほどなんだ?」

 

ヴェラが口を開いた。

 

「あんたが、ノアの所長か?」

 

「そうだけど。君はヴェラ、だったかな」

 

「ああ」

 

ヴェラは頷いた。

 

「こいつから話は聞いてるぜ。フィクサーの仕事も、戦い方も、あんたが教えたんだってな」

 

「まあね。手のかかる弟子だったよ」

 

「所長!」

 

「ははっ。冗談だよ」

 

所長が笑うと、ヴェラも小さく笑った。

 

「……そうか」

 

そして、僕の肩から腕を離す。

 

「今まで、こいつの面倒を見てくれてありがとな」

 

ヴェラは真っ直ぐに所長を見つめた。

 

「俺がいない間、こいつを守ってくれてたんだろ?」

 

「……守っていた、というよりは、育てていたつもりだけどね」

 

「どっちでもいいさ」

 

ヴェラは笑った。

 

「お前には借りができた。中指としても、俺個人としても、礼はする」

 

「……中指、か」

 

所長の指先で、硬貨が止まった。

 

「随分と大きな家族に入ったものだね」

 

「はっ。知ってんのか」

 

「フィクサーをやっていれば、嫌でも耳にするさ」

 

ヴェラは満足そうに頷いた。

 

「なら話が早え」

 

そう言うと、再び僕の肩に手を置いた。

 

「これからは、俺がこいつの面倒を見る」

 

「……え?」

 

思わず声が漏れた。

 

「ヴェラ?」

 

「今まで世話になった分は礼をする。だが、もうこいつを危険な仕事に出す必要はねえ」

 

ヴェラは当然のように続けた。

 

「俺が守る。こいつが食うにも寝るにも困らねえようにしてやる」

 

「ちょ、ちょっと待ってよ。僕はまだ――」

 

「心配すんな、ノア」

 

ヴェラは優しく笑った。

 

「お前はもう、無理して強くなる必要なんかねえんだ」

 

そのまま、僕の手を取る。

 

「ほら、行くぞ」

 

「えっ? どこに?」

 

「俺のところだよ。ちゃんと部屋も用意してやる」

 

「いや、でも……」

 

「――待ちなよ」

 

静かな声が、事務所に響いた。

 

所長だった。

 

いつの間にか硬貨を机に置き、こちらを見つめている。

 

「君、随分と勝手なことを言うんだね」

 

「……あ?」

 

ヴェラが振り返った。

 

「何だよ。礼ならちゃんとするって言っただろ」

 

「礼の話じゃないよ」

 

所長は椅子から立ち上がった。

 

「私は、彼を君に預けるために育てたわけじゃない」

 

「……へえ」

 

「それに、ノア本人はどうしたいんだい?」

 

「決まってんだろ。俺と一緒にいれば安全だ」

 

「安全かどうかを聞いているんじゃない」

 

所長の声が、少しだけ低くなった。

 

「彼の意思を聞いているんだよ」

 

「…………」

 

ヴェラの笑みが薄れた。

 

「……何が言いてえ?」

 

「簡単な話さ。ノアは君の所有物じゃない」

 

空気が、変わった。

 

「……あ?」

 

ヴェラの声から、温度が消える。

 

「今、何つった?」

 

「聞こえなかったかい?」

 

所長は怯むことなく答えた。

 

「彼には彼の人生がある。君がどれだけ大切に思っていようと、勝手に決めていい理由にはならないよ」

 

「……てめえ」

 

「それに」

 

所長は、ヴェラを真っ直ぐに見据えた。

 

「何年も離れていた君に、今の彼の何が分かるのかな」

 

「…………」

 

ヴェラの表情が消えた。

 

「君が昔のノアを知っていることは否定しない。でも、今の彼は自分の意思でフィクサーになった」

 

所長は続ける。

 

「何も知らない君が、昔のままの彼だと思い込んで連れていこうとするのは、少し傲慢じゃないかな」

 

沈黙が落ちた。

 

ヴェラは何も答えなかった。

 

ただ、フォルトゥナを見つめている。

 

「……所長、ヴェラも悪気があるわけじゃ――」

 

「ノア」

 

ヴェラが静かに言った。

 

「少し黙ってろ」

 

「……ヴェラ?」

 

彼女は笑っていた。

 

けれど、その笑顔は先ほどまでのものとは違っていた。

 

「……なあ、所長さんよ」

 

「何だい?」

 

「てめえ、俺が何のために強くなったか知ってんのか?」

 

所長は少しだけ目を細めた。

 

「……いいや。知らないね」

 

「だろうな」

 

ヴェラは小さく笑った。

 

「俺がどんな思いで、あいつを探してたかも知らねえだろ」

 

「……そうだね」

 

「だったらよ」

 

一歩。

 

ヴェラが前へ出る。

 

「知ったような口を利いてんじゃねえぞ」

 

低い声が響いた。

 

その瞬間、事務所の空気が変わった気がした。

 

僕は思わず息を呑む。

 

ヴェラのことは、昔から気が強い子だと思っていた。

 

けれど、今目の前にいる彼女は、僕の知っている幼馴染みとはどこか違っていた。

 

「……確かに、私は君の苦労を知らないよ」

 

所長は落ち着いた声で答えた。

 

「君がどんな場所で、どんな思いをしてきたのか。それを知ったふうに語るつもりもない」

 

「…………」

 

「でもね」

 

所長は僕へ一瞬だけ視線を向けた。

 

「それと、ノアの意思は別の話だろう?」

 

ヴェラの眉が、わずかに動いた。

 

「君が彼を大切に思っていることは分かる。けれど、だからといって彼の人生を勝手に決めていいわけじゃない」

 

「……てめえ」

 

「ノアは、君に守られるためだけに生きているわけじゃないんだよ」

 

その言葉を聞いた瞬間。

 

ヴェラの拳が、ぎゅっと握りしめられた。

 

「……はっ」

 

乾いた笑いが漏れる。

 

「なるほどな」

 

ヴェラはゆっくりと顔を上げた。

 

「随分と好き勝手言ってくれるじゃねえか」

 

「君ほどじゃないと思うけどね」

 

「……そうかよ」

 

一歩。

 

ヴェラが前へ出た。

 

「なあ。中指の仕返し帳簿って知ってるか?」

 

「もちろん。受けた仕打ちを記録して、必ず返すというあれだろう?」

 

「ああ」

 

ヴェラは頷いた。

 

「俺たちは、受けた侮辱も、作られた借りも忘れねえ」

 

そして、所長を睨みつける。

 

「今のてめえの言葉も、俺にとっちゃ十分な侮辱だ」

 

「……それで、私を帳簿に載せるのかい?」

 

「……いや」

 

ヴェラは首を横に振った。

 

「今回のことは帳簿に書かねえでやる」

 

所長の目が、わずかに細くなる。

 

「……どうして?」

 

「決まってんだろ」

 

ヴェラは一瞬だけ、僕を見た。

 

「こいつの恩人だからな」

 

「……ヴェラ」

 

「ノアを拾って、育てて、守ってくれた。それについては感謝してる」

 

その声に、嘘はなかった。

 

「だから、俺の家族を巻き込んで仕返しするつもりはねえ」

 

ヴェラは再び所長へ向き直った。

 

「……だがな」

 

紫色の瞳が、鋭く細められる。

 

「それと、てめえを許せるかどうかは別の話だ」

 

ゆっくりと、ヴェラが身を沈める。

 

「俺がどれだけの時間をかけて、あいつの隣に戻ってきたと思ってやがる」

 

拳が握りしめられた。

 

「それを、何も知らねえ奴に否定されて、黙ってられるほど俺はお人好しじゃねえんだよ」

 

「……なるほど」

 

所長は小さく息を吐いた。

 

「つまり、これは中指としての仕返しではない、と?」

 

「……ああ」

 

ヴェラは笑った。

 

獲物を前にした獣のような、凶暴な笑みだった。

 

「これは俺個人の喧嘩だ」

 

所長は短剣の柄へ手を添えた。

 

「……やれやれ。どうしても力ずくで決着をつけたいらしいね」

 

「……はっ」

 

ヴェラは片足を引いた。

 

長い紫色の外套が、わずかに揺れる。

 

「――くたばれ」

 

次の瞬間。

 

轟音が響いた。

 

◇

 

所長の姿が消えた。

 

いや、違う。

 

ヴェラの蹴りが届く直前、所長は椅子を蹴って横へ跳んでいた。

 

直後、さっきまで所長が立っていた場所に、ヴェラの踵が叩き込まれる。

 

机の端が砕け、書類が宙を舞った。

 

「うわっ!?」

 

僕は咄嗟に後ずさった。

 

「ちょっと、二人とも!?」

 

「……おやおや」

 

所長は倒れた椅子を一瞥した。

 

「随分と高くつく喧嘩になりそうだね」

 

「うるせえ!」

 

ヴェラが踏み込む。

 

横から放たれた蹴り。

 

所長は身を沈めてかわした。

 

しかし、ヴェラの攻撃は止まらない。

 

地面についた足を軸に身体を回転させ、反対の脚を振り抜く。

 

「……っ!」

 

所長が後方へ跳ぶ。

 

蹴りが鼻先を通過した。

 

風圧で、所長の前髪が揺れる。

 

「……なるほど」

 

所長は懐から短剣を抜いた。

 

「随分と物騒な脚だね」

 

「余裕ぶってんじゃねえぞ!」

 

ヴェラが床を蹴った。

 

一瞬で距離が縮まる。

 

「――っ!」

 

所長は短剣を構える。

 

だが、ヴェラは正面から突っ込まなかった。

 

踏み込む直前、身体を沈める。

 

低い位置から放たれた足払い。

 

所長は跳んでかわした。

 

その瞬間。

 

「遅え!」

 

ヴェラの脚が跳ね上がる。

 

「……!」

 

所長は咄嗟に短剣を引き、身体を捻った。

 

蹴りが脇腹をかすめる。

 

鈍い音が響いた。

 

「……ぐっ!」

 

所長の身体が横へ流れる。

 

そのまま数歩後退し、机の残骸を踏み越えた。

 

「所長!?」

 

僕は思わず叫んだ。

 

しかし、所長は片手を上げた。

 

「……大丈夫だよ」

 

口元には、いつもの笑み。

 

けれど、その目は笑っていなかった。

 

「いやはや……これは、まともに受けたら骨が何本あっても足りないね」

 

「だったらさっさと倒れろ!」

 

ヴェラが再び踏み込む。

 

しかし、今度は所長が先に動いた。

 

「……それは困るね」

 

短剣を逆手に持ち替える。

 

ヴェラの蹴りが放たれる直前、所長はその内側へ滑り込んだ。

 

「……っ!?」

 

振り抜かれる脚。

 

その軌道を、所長はすでに読んでいた。

 

身体をわずかに傾け、蹴りをかわす。

 

同時に、短剣の柄をヴェラの脇腹へ叩き込んだ。

 

「……ぐっ!」

 

ヴェラの身体がわずかに折れる。

 

その隙を逃さず、所長は足を払った。

 

「――っ!」

 

ヴェラの体勢が崩れる。

 

しかし。

 

「……舐めんな!」

 

床についた片手を支点に、ヴェラが身体を回転させた。

 

逆立ちに近い姿勢から、脚が跳ね上がる。

 

「……おっと!」

 

所長は慌てて後退した。

 

蹴りが顎のすぐ下を通過する。

 

ヴェラはその勢いのまま着地した。

 

「……はっ」

 

口元に凶暴な笑みを浮かべる。

 

「なかなかやるじゃねえか」

 

「それはどうも」

 

所長は短剣を構え直した。

 

「君もね。正直、少し驚いているよ」

 

二人が再び向かい合う。

 

その間に、僕は立ち尽くしていた。

 

……何なんだよ、これ。

 

どうして。

 

どうして、こんなことになってるんだ。

 

「……次は外さねえ」

 

ヴェラが呟く。

 

「奇遇だね」

 

所長も笑った。

 

「私も、そろそろ本気で止めるつもりだったよ」

 

二人が同時に身を沈める。

 

まずい。

 

そう思った瞬間、僕の身体は動いていた。

 

「――待って!!」

 

腰のトンファーを引き抜く。

 

二本を構え、二人の間へ飛び出した。

 

「ノア!?」

 

「君、危ない!」

 

二人の声が重なる。

 

「もうやめてよ!」

 

僕は叫んだ。

 

「どけ、ノア!」

 

ヴェラが怒鳴る。

 

「これは俺とあいつの喧嘩だ!」

 

「関係あるよ!」

 

思わず、声が大きくなった。

 

「僕のことで喧嘩してるんでしょ!?」

 

「…………」

 

ヴェラの動きが止まった。

 

「……僕は」

 

僕は二人を見た。

 

「ヴェラに会えて、本当に嬉しかった」

 

「……ノア」

 

「ずっと、また会いたいと思ってたんだ」

 

ヴェラの瞳が揺れた。

 

「でも、所長も僕にとって大切な人なんだ」

 

「…………」

 

「何もできなかった僕を拾ってくれて、仕事を教えてくれて、何度も助けてくれた」

 

僕はトンファーを握りしめた。

 

「だから……二人に傷つけ合ってほしくない」

 

「……だったら」

 

ヴェラが口を開いた。

 

「だったら、俺と来いよ」

 

「……え?」

 

「俺と一緒にいれば、こんな危ねえ仕事なんかしなくて済む」

 

ヴェラは一歩近づいた。

 

「金も、住む場所も、全部用意してやる。お前が欲しいもんなら、何だって――」

 

「ヴェラ」

 

僕は首を横に振った。

 

「……ごめん」

 

「…………」

 

「僕は、まだフィクサーを続けたいんだ」

 

ヴェラの表情が固まった。

 

「……何でだよ」

 

「僕は、昔から弱かった」

 

僕はゆっくりと言葉を続ける。

 

「誰かに助けてもらってばかりで、自分じゃ何もできなくて……」

 

「……ノア」

 

「だから、強くなりたかったんだ」

 

トンファーを握る手に、力がこもる。

 

「もう、誰かに守られてばかりの自分でいたくなかった」

 

「…………」

 

「ヴェラが僕を守ってくれるのは嬉しい。本当に嬉しいよ」

 

僕は彼女を見つめた。

 

「でも、僕だって誰かを守れるようになりたいんだ」

 

「……っ」

 

ヴェラが息を呑んだ。

 

「それに、所長にはまだ教わりたいことがたくさんある」

 

「…………」

 

「だから、今はここにいたい」

 

沈黙。

 

ヴェラは何も言わなかった。

 

ただ、僕を見つめていた。

 

その紫色の瞳が、わずかに揺れている。

 

「……そうかよ」

 

やがて、小さな声が漏れた。

 

「……そういうことかよ」

 

ヴェラは俯いた。

 

拳が、ぎゅっと握りしめられる。

 

「……俺じゃ、駄目なのかよ」

 

「……ヴェラ?」

 

「俺じゃ……お前を守れねえって言うのか?」

 

「違うよ!」

 

僕は慌てて首を振った。

 

「そうじゃない! ヴェラはすごく強いし、頼りになるよ!」

 

「だったら――!」

 

ヴェラが顔を上げた。

 

けれど。

 

僕の顔を見た瞬間、その言葉は止まった。

 

「…………」

 

彼女は何かを言おうとして、口を開く。

 

しかし、何も出てこなかった。

 

やがて、ゆっくりと目を伏せる。

 

「……ちっ」

 

小さな舌打ち。

 

「……分かったよ」

 

「……ヴェラ」

 

「分かったっつってんだろ」

 

その声には、まだ苛立ちが残っていた。

 

ヴェラは所長へ視線を向ける。

 

「……今回は、ここまでにしてやる」

 

「それはありがたいね」

 

所長は短剣を下ろした。

 

「私も、これ以上事務所を壊されたくないからね」

 

「……てめえには言ってねえよ」

 

ヴェラは吐き捨てるように言った。

 

そして、僕へ向き直る。

 

「……悪かったな、ノア」

 

「……え?」

 

「お前を困らせるつもりは、なかったんだ」

 

僕はゆっくりとトンファーを下ろした。

 

「……うん」

 

ヴェラは小さく笑った。

 

けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。

 

◇

 

しばらくして。

 

壊れた机を前に、所長が深いため息をついた。

 

「……さて」

 

その手には、一枚の紙が握られていた。

 

「修理代の話をしようか」

 

「……あ?」

 

「机、椅子、それから床。全部合わせると、なかなかの額になるね」

 

「……てめえ、今それを言うか?」

 

「当然だろう? 私の大切な事務所なんだから」

 

ヴェラは舌打ちした。

 

「……ちっ。分かったよ。払えばいいんだろ」

 

「話が早くて助かるよ」

 

所長はにっこりと笑った。

 

……何というか。

 

さっきまで殺し合いになりかけていたとは思えない。

 

僕は二人を交互に見つめた。

 

「……じゃあ、僕も片付けを手伝います」

 

「君はいいよ、ノア」

 

所長が言った。

 

「君は何も壊していないからね」

 

「でも……」

 

「それに、今日は色々あっただろう。もう休みなさい」

 

「……はい」

 

僕は頷いた。

 

そのとき、ヴェラが僕の肩に手を置いた。

 

「……なあ、ノア」

 

「ん?」

 

「今日は、もう遅いよな」

 

「……うん」

 

「……また、会えるよな?」

 

僕は少し驚いた。

 

「もちろんだよ」

 

そう答えると、ヴェラは安心したように笑った。

 

「……そうか」

 

そして、僕の頭を軽く撫でる。

 

「じゃあ、またな」

 

「うん。またね、ヴェラ」

 

彼女はしばらく僕を見つめていた。

 

やがて、ゆっくりと背を向ける。

 

扉が閉まる直前。

 

「……ノア」

 

「何?」

 

ヴェラは振り返った。

 

紫色の瞳が、僕を捉える。

 

「……忘れんなよ」

 

「……何を?」

 

彼女は笑った。

 

「俺は、いつだってお前の味方だからな」

 

そう言い残して、彼女は事務所を後にした。

 

◇

 

夜の路地裏。

 

ヴェラは一人、歩いていた。

 

先ほどまでの笑顔は、もうない。

 

「……ちっ」

 

小さく舌打ちする。

 

――何年も離れていた君に、今の彼の何が分かるのかな。

 

あの女の言葉が、頭から離れなかった。

 

……分かってる。

 

俺が知らねえ時間があることくらい。

 

ノアが俺の知らねえ場所で生きてきたことくらい。

 

そんなこと、言われなくたって分かってんだよ。

 

それでも。

 

「……何でだよ」

 

ヴェラは壁に拳を押し当てた。

 

「……何で、俺じゃ駄目なんだよ」

 

あの日。

 

ノアと離れ離れになった、あの日。

 

自分は何もできなかった。

 

目の前で傷ついていくあいつを、ただ見ていることしかできなかった。

 

だから、強くなった。

 

誰にも負けねえくらい、強くなった。

 

中指に入り、血を流し、何度も死にかけた。

 

それでも立ち上がった。

 

全部、あいつを守るためだった。

 

なのに。

 

――僕だって誰かを守れるようになりたいんだ。

 

ノアの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

「……はっ」

 

乾いた笑いが漏れた。

 

「……そうかよ」

 

あいつは、もう昔のままじゃねえ。

 

俺の後ろに隠れていた、あの頃のノアじゃねえんだ。

 

……分かってる。

 

分かってるさ。

 

けど。

 

「……だからって」

 

ヴェラはゆっくりと顔を上げた。

 

「俺が、あいつを守っちゃいけねえ理由にはならねえだろ」

 

拳を握りしめる。

 

あの女の言うことも、間違っちゃいねえ。

 

ノアにはノアの人生がある。

 

あいつが自分で選んだ道を、俺が勝手に変えちゃいけねえ。

 

……そんなことくらい、分かってる。

 

だけど。

 

「……譲れねえんだよ」

 

小さな声が、夜の路地裏に落ちた。

 

「これだけは、絶対に」

 

ヴェラは目を閉じた。

 

思い浮かぶのは、ノアの笑顔。

 

再会したときの、あの嬉しそうな顔。

 

自分の名前を呼んでくれた声。

 

そして。

 

あの女を庇うように立ちはだかった、ノアの姿。

 

「…………」

 

胸の奥が、じくじくと痛んだ。

 

……気に入らねえ。

 

あいつが俺の知らねえところで、誰かを大切にしていることが。

 

俺以外の誰かに、あんな顔を向けることが。

 

何より。

 

俺がいなくても、あいつが幸せそうに笑っていたことが。

 

「……っ」

 

ヴェラは唇を噛んだ。

 

そんなことを考えてしまう自分が、少しだけ嫌になった。

 

ノアが幸せなら、それでいい。

 

そう思っていたはずなのに。

 

「……嘘つきだな、俺も」

 

小さく笑う。

 

結局。

 

俺は、あいつの隣にいたいだけなんだ。

 

誰よりも近くで。

 

誰よりも長く。

 

あいつが笑うところも、泣くところも、全部見ていたい。

 

そのためなら。

 

「……まあ、いい」

 

ヴェラはゆっくりと歩き出した。

 

「時間なら、いくらでもある」

 

もう、居場所は分かった。

 

名前も知った。

 

今度こそ、見失わない。

 

――ノア。

 

お前があの女を大切に思ってることは、分かった。

 

フィクサーを続けたいって気持ちも、分かった。

 

だから、今は引いてやる。

 

だが。

 

「……諦めるわけねえだろ」

 

ヴェラは静かに笑った。

 

その紫色の瞳には、強い執着が宿っていた。

 

「お前が自分の足で歩きてえってんなら、好きにすりゃいい」

 

夜風が、長い黒髪を揺らす。

 

「……けどな」

 

彼女の笑みが、ゆっくりと深くなる。

 

「その隣に立つのは、俺だ」

 

誰にも譲らねえ。

 

あの女にも。

 

ほかの誰にも。

 

「俺は、もう二度とお前を手放さねえよ」

 

夜の街に、彼女の足音だけが響いていた

 

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総合評価:1944/評価:9.05/連載:13話/更新日時:2026年11月01日(日) 18:24 小説情報

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