あいつと初めて会ったのは、ダチを助けようとして、返り討ちに遭った後の路地裏だった。
あのときの俺は、何もかもが気に食わなかった。
ダチに手を出した大人たちも、何もできなかった自分も。
何より、助けようとしたくせに、結局誰も守れなかったことが許せなかった。
そんなときに現れたのが、あいつだった。
見ず知らずの俺に声をかけてきて、怪我を心配して、食い物まで差し出してきた。
最初は、何か裏があると思った。
当然だろ。
ここは都市だ。
誰かに親切にする奴がいたとしても、大抵は見返りを求めている。
善意なんてものを、簡単に信じられる場所じゃない。
だから、あいつにも何か目的があると思っていた。
けれど、違った。
何度会っても、あいつは何も求めてこなかった。
名前を聞くことすらしなかった。
ただ、俺が怪我をしていれば心配して、腹が減っていれば食い物を分けてくる。
そのくせ、自分はよく騙されていた。
「また騙されたのかよ」
そう聞くと、あいつは決まって困ったように笑った。
「いやあ、今度こそ大丈夫だと思ったんだけどね」
馬鹿だと思った。
本当に、どうしようもない馬鹿だ。
一度騙されたなら、次からは疑えばいい。
他人なんて、簡単に信用するもんじゃない。
そう言ってやったこともある。
けれど、あいつは笑って答えた。
「でも、最初から疑ってばかりじゃ、ちょっと寂しいだろ?」
理解できなかった。
そんな考え方で、この都市を生きていけるわけがない。
いつか、取り返しのつかない目に遭う。
そう思っていた。
……いや。
本当は、そんな目に遭ってほしくなかったんだと思う。
いつからだったかは、分からない。
ただ、あいつと顔を合わせる時間が、少しずつ楽しみになっていた。
くだらない話をして、馬鹿みたいに笑って。
何も特別なことなんてしていない。
それなのに、あいつといるときだけは、余計なことを考えずに済んだ。
ダチを守れなかったことも。
自分の弱さも。
この都市で生きていくことの息苦しさも。
少しだけ、忘れられた。
あいつは、誰にでも優しかった。
俺だけじゃない。
道端で困っている奴がいれば声をかけるし、知らない奴の話も最後まで聞こうとする。
それが、気に食わなかった。
俺に向ける笑顔を、他の奴にも向ける。
俺にしたのと同じように、誰かに手を差し伸べる。
そんな姿を見るたび、胸の奥が妙にざわついた。
いっそ、俺だけに優しくしてくれればいいのに。
そう思ったこともある。
けれど、すぐに馬鹿な考えだと気づいた。
あいつは、そういう奴なんだ。
誰かが困っていたら、放っておけない。
損をすると分かっていても、手を差し伸べる。
そんなあいつだから、俺にも声をかけてくれた。
その優しさを俺だけのものにしたら、きっと、あいつはあいつじゃなくなっちまう。
だから、何も言わなかった。
代わりに、決めたことがある。
こいつが誰かを助けようとするなら、俺が守ってやればいい。
こいつが馬鹿みたいに他人を信じるなら、俺がそいつらを疑ってやればいい。
こいつが危ない目に遭いそうになったら、俺が止めてやればいい。
そうすれば、こいつは今まで通り笑っていられる。
……そのはずだった。
* * *
あいつの顔に傷があった日。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
頬が腫れていた。
唇の端も切れていた。
どう見たって、誰かに殴られた傷だった。
なのに、あいつは笑っていた。
「ちょっと転んじゃって」
ふざけんな、と思った。
そんな転び方があるか。
誰にやられたのか聞いても、あいつは答えなかった。
大したことない。
ちょっと失敗しただけ。
そんな言葉ばかり並べやがる。
俺は、腹が立った。
あいつを傷つけた奴にも。
何も話そうとしないあいつにも。
そして、何があったのか分からない自分にも。
けれど、一番腹が立ったのは、その後だった。
『そういえば、前に痛そうにしてたところ。もう大丈夫?』
あいつは、そう聞いてきた。
自分がそんな顔をしているくせに。
どうして俺の怪我なんか心配しているんだ。
自分のことを考えろよ。
もっと怒れよ。
痛いなら、痛いって言えよ。
……俺には、何も言えなかった。
あいつが笑っているのを見ていることしか、できなかった。
* * *
それから数日後。
いつもの路地裏へ向かって歩いていたときだった。
「いやあ、この前の奴は傑作だったな」
聞き覚えのある声がした。
路地の向こうに、男が二人いた。
見覚えがあった。
以前、ダチに手を出していた連中だ。
思わず足が止まった。
だが、関わるつもりはなかった。
今さらこいつらと揉めても、面倒なだけだ。
そう思って、通り過ぎようとした。
「それにしても、あのガキの知り合い、随分と口が堅かったな」
……あ?
「居場所を聞いても、知らねえの一点張りだったもんな」
「しかも、あんなに殴られても吐きやがらねえ。馬鹿な奴だよ」
足が止まった。
嫌な予感がした。
「ほら、あの妙に人のよさそうな奴だよ。殴られてんのに、こっちの心配までしやがって」
頭の中に、あいつの顔が浮かんだ。
腫れた頬。
切れた唇。
転んだと言い張った、下手くそな嘘。
そして、俺の怪我を心配していた、あの笑顔。
全部が、つながった。
「……っ」
息が詰まった。
あいつが殴られたのは。
俺のせいだった。
俺と一緒にいたから。
俺の居場所を知っていると思われたから。
あいつは、俺を庇って殴られた。
それなのに。
何も言わなかった。
俺が自分を責めないように。
俺が心配しないように。
あいつは、笑っていた。
「……ふざけんなよ」
気づけば、拳を握りしめていた。
今すぐ飛び出して、あいつらを殴り倒したかった。
あいつが受けた痛みを、全部返してやりたかった。
一歩、足を踏み出す。
その瞬間。
あいつの顔が浮かんだ。
もし、ここで俺が手を出したら。
こいつらは、またあいつを狙うんじゃないか。
俺に仕返しできなければ、代わりにあいつを傷つけるんじゃないか。
そう考えた途端、足が動かなくなった。
怖かった。
あいつらが怖いんじゃない。
殴られることも、痛い思いをすることも、どうでもよかった。
ただ。
俺のせいで、あいつがまた傷つくことが。
それだけが、どうしようもなく怖かった。
「……くそっ」
拳を握りしめる。
爪が食い込んで、手のひらが痛んだ。
それでも、動けなかった。
あいつらは笑いながら、どこかへ歩いていった。
俺は、その背中を見送ることしかできなかった。
情けなかった。
ダチを助けようとしたときも、そうだった。
あのときは、力が足りなくて守れなかった。
今度こそ、誰かを守れるようになりたいと思った。
なのに。
今度は、助けてもらった相手が傷ついた。
俺のせいで。
しかも、あいつを傷つけた連中が目の前にいるのに、何もできなかった。
頭では分かっている。
ここで手を出せば、またあいつが巻き込まれるかもしれない。
だから、何もしない方がいい。
分かっている。
分かっているのに。
「……俺は、何やってんだよ」
あいつは、俺を助けてくれた。
見返りなんて求めずに。
何度も、何度も。
それなのに俺は。
肝心なときに、何の役にも立てなかった。
あいつが傷ついていたことすら、知らなかった。
何も知らずに、怒鳴っていた。
守ると決めたくせに。
守れなかった。
……いや。
守れないどころか、俺がそばにいたせいで、あいつは傷ついたんだ。
その事実が、何よりも苦しかった。
あいつらの顔を、忘れるつもりはなかった。
声も。
笑い方も。
あいつを殴ったことを、面白そうに話していたことも。
全部、覚えておく。
今は、何もできない。
けれど、だからといって、なかったことになんかできるわけがなかった。
* * *
いつもの路地裏に着くと、あいつがいた。
壁際に座って、ぼんやりと空を見上げていた。
俺に気づくと、いつものように笑った。
「今日は遅かったね」
……ああ。
そうだったな。
こいつは、こういう奴だった。
何も知らない顔で笑って。
自分が傷ついたことなんて、もう気にしていないみたいに。
俺のことを、いつも通り迎えてくれる。
その笑顔を見た瞬間、胸が苦しくなった。
本当は、言いたかった。
お前を殴った奴らが分かった。
俺のせいだったんだな。
すまなかった。
そう言って、謝りたかった。
けれど。
きっと、こいつは笑うんだろう。
『君のせいじゃないよ』
『俺が勝手にしたことだから』
そんなことを、平気な顔で言うんだろう。
……それが、嫌だった。
責めてくれればよかった。
怒ってくれればよかった。
お前のせいだと言ってくれれば、少しは楽になれたかもしれない。
けれど、こいつはきっと、俺を許してしまう。
そして、また同じように誰かを助けて。
また傷ついて。
また笑うんだ。
そんなのは、もう嫌だった。
「……お前」
声が震えそうになった。
「もう、ここには来るな」
あいつは、きょとんとした顔をした。
「え? なんで?」
「いいから来るな」
「何かあった?」
何かあった。
お前の知らないところで、全部分かった。
お前が俺のために傷ついたことも。
俺が何もできなかったことも。
……全部。
けれど、言えなかった。
「お前には関係ねえ」
そう吐き捨てると、あいつは少しだけ寂しそうな顔をした。
胸が痛んだ。
それでも、言わなきゃいけなかった。
「……俺と一緒にいると、また面倒なことに巻き込まれるぞ」
「そんなの、今に始まったことじゃないよ」
あいつは笑った。
「君だって、俺が困ってたら助けてくれるでしょ?」
……やめろ。
「だったら、俺だって同じだよ」
やめてくれ。
そんなことを言うな。
俺は、お前を守れなかったんだ。
お前が殴られているとき、何もできなかった。
それどころか、何があったのかすら知らなかった。
そんな奴に、守る資格なんてあるのかよ。
「……俺は、お前を守れねえ」
ようやく絞り出した言葉だった。
けれど、あいつはすぐに首を振った。
「そんなことないよ」
「あるんだよ!」
思わず怒鳴っていた。
あいつが驚いた顔をする。
その顔を見て、すぐに後悔した。
違う。
怒鳴りたいわけじゃない。
こんな顔をさせたいわけじゃない。
俺は、ただ。
お前に、笑っていてほしかっただけなのに。
「……お前は、誰にでもそうやって手を貸すだろ。相手がどんな奴かも考えずに。自分がどうなるかも考えずに」
「……うん」
「いつか、本当に取り返しがつかなくなるぞ」
「それでも、困ってる人を見捨てるのは嫌なんだ」
分かってる。
そんなこと、とっくに分かってるんだよ。
だから、俺はお前を放っておけなかった。
だから、俺はお前のそばにいたかった。
だからこそ。
これ以上、俺のせいで傷ついてほしくなかった。
「……もういい」
背を向けた。
「待ってよ」
足が止まりそうになった。
「また会おうよ」
……会いたい。
本当は、明日も明後日も、その先も。
ずっと、ここでお前とくだらない話をしていたかった。
「俺、ここにいるからさ」
振り返りたかった。
今すぐ振り返って、いつものように悪態をつきたかった。
それで、また笑ってくれたら。
どれだけ楽だっただろう。
けれど、振り返らなかった。
「……勝手にしろ」
それだけ言って、歩き出した。
一歩。
もう一歩。
背後から、追いかけてくる足音はしなかった。
あいつは、俺の意思を尊重してくれたんだろう。
最後まで、そういう奴だった。
……本当に、馬鹿な奴だ。
俺なんか、放っておけばよかったのに。
そうすれば、傷つくこともなかったのに。
あんな顔をすることも、なかったのに。
路地裏を抜けたところで、足が止まった。
振り返れば、まだ間に合うかもしれない。
戻って、謝って。
全部話して。
もう一度、隣に座ればいい。
そんな考えが、何度も頭をよぎった。
けれど、戻れなかった。
俺がそばにいる限り、またあいつが傷つくかもしれない。
そう思うと、どうしても足が動かなかった。
「……強く、ならねえとな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
今度こそ、守れるように。
誰かに助けてもらうだけじゃなく、自分の手で守れるように。
あいつが、誰にでも優しくできるままでいられるように。
そのためなら、何だってしてやる。
……たとえ、もう二度と会えなかったとしても。
俺は、あいつを傷つけた連中の顔を忘れなかった。
あの日、何もできなかったことも。
そして、最後に見たあいつの笑顔も。
全部、忘れない。
いつか、この借りを返せる日が来るまで。