気まぐれな賭け
「待ってるから」
あの日、俺が最後に伝えた言葉だった。
あいつは何も答えず、背を向けて歩いていった。
追いかけたかった。
どうして急に会わないなんて言い出したのか、聞きたかった。
でも、あいつが俺の怪我を見たときの顔を思い出すと、足が動かなかった。
きっと、心配させてしまったんだと思う。
俺がもっと強ければ、あいつは安心して俺のそばにいられたのかな。
そんなことを、何度も考えた。
だから決めた。
今度会うときは、もう心配させないくらい強くなろう。
あいつが安心して笑えるくらいに。
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とはいえ、強くなると決めたところで、何をすればいいのか分からなかった。
腕立て伏せをしてみたり、走り込みをしてみたり。
それなりに頑張ってはみたけれど、これで本当に強くなれるのかは分からない。
何より、この都市には俺なんかよりずっと強い人がいくらでもいる。
そんなある日、いつものように街を歩いていると、一枚のポスターが目に入った。
『猫探しから護衛、ねじれ退治まで何でもご相談を』
端が破れ、色もすっかり褪せた古いポスターだった。
その下には、小さな文字でこう書かれていた。
『アイビー事務所』
フィクサー事務所。
そういえば、フィクサーは人から依頼を受けて、いろいろな問題を解決する仕事だと聞いたことがある。
強いフィクサーなら、危険な場所でも生き残れる。
俺もフィクサーになれたら、あいつを心配させずに済むかもしれない。
そう思ったら、いても立ってもいられなくなった。
俺はポスターに書かれた住所を覚え、すぐにその場所へ向かった。
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「……ここ、だよな?」
たどり着いた建物を見上げて、思わず首を傾げた。
壁はところどころ色褪せ、看板もずいぶん古い。
本当に営業しているのか少し不安になったけれど、扉には確かに『アイビー事務所』と書かれていた。
意を決して扉を開ける。
「し、失礼します!」
すると、思っていたのとはまるで違う光景が広がっていた。
床は綺麗に掃除され、机や椅子もきちんと並んでいる。
棚には書類が整然と収められ、応接用らしい椅子まで用意されていた。
外から見たときとは大違いだ。
「……客か?」
奥から声がした。
振り向くと、一人の女性がこちらを見ていた。
黒に近い焦げ茶色の髪を、後ろで緩く結んでいる。
白いシャツに黒いベスト。緩めたネクタイと、まくられた袖。
眠たげなくすんだ金色の目が、俺をじっと見つめていた。
綺麗な人だと思った。
けれど、それ以上に、何を考えているのか分からない人だとも思った。
「えっと、ここってフィクサー事務所ですよね?」
「ああ。依頼なら、そこの椅子に座りな」
「いえ、依頼じゃなくて……」
「なら何だ?」
俺は一度息を吸い、頭を下げた。
「俺を、ここで働かせてください!」
しばらく沈黙が流れた。
女性は俺の顔を見つめ、それから深いため息をついた。
「……帰りな」
「えっ」
「聞こえなかったか? 帰れと言ったんだ」
「ま、待ってください!」
「私は子供を雇う趣味はない。それに、見たところ君はフィクサーでもないだろう?」
「はい。でも、何でもします! 掃除でも、荷物運びでも!」
「そういう問題じゃない」
女性は机に腰掛け、指先で古びた硬貨を弄び始めた。
「君みたいな子供を雇って、何の得がある?」
「そ、それは……」
言葉に詰まった。
確かに、俺には特別な技術もなければ、誰かと戦えるほどの力もない。
それでも。
「お願いします!」
もう一度、深く頭を下げる。
「給料は少なくてもいいです! 雑用だけでもいいので、ここに置いてください!」
「……しつこいな、君は」
「すみません。でも、どうしても強くなりたいんです」
硬貨を弄ぶ指が止まった。
「……強く?」
「はい」
「金か? それとも誰かに仕返しでもしたいのか?」
「違います」
「なら、どうしてそこまで必死になる?」
俺は少し迷った。
あいつのことを、知らない人に話してもいいのだろうか。
でも、ここで何も話さなかったら、きっと帰されてしまう。
「……大切な友達が、いるんです」
女性は黙って俺を見ていた。
「その友達は、俺のことを心配して、離れていっちゃって……」
あの日の背中を思い出す。
「俺、最後に『待ってる』って言ったんです」
「……それで?」
「また会えたとき、もう心配しなくてもいいって思ってもらいたいんです」
上手く説明できているか分からなかった。
それでも、今の気持ちを伝えたかった。
「だから、強くなりたいんです。今度は、俺が自分の身を守れるように」
女性は何も言わなかった。
やっぱり、変な理由だと思われただろうか。
そう考えた、そのときだった。
「……ふっ」
女性の口元が、わずかに緩んだ。
「ははっ。なるほどね」
初めて見る笑顔だった。
けれど、何だか少し怖い。
「金でも復讐でもなく、友達を安心させるために強くなりたい、か」
「……変、ですよね」
「変だね。とびきり」
うっ。
そこまで言わなくても。
「だが……面白い」
女性は硬貨を親指の上に乗せた。
「いいだろう。一つ、賭けをしようか」
「賭け、ですか?」
「ああ。表なら君を雇う。裏なら諦めて帰る。それだけだ」
「……それで決めるんですか?」
「嫌なら帰ってもらって構わないよ」
慌てて首を横に振る。
「やります!」
「即答か」
女性は楽しそうに目を細めた。
「さて、君はどっちに賭ける?」
俺は硬貨を見つめた。
表か、裏か。
たったそれだけで、俺のこれからが決まる。
少し怖かった。
でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「……表です」
「表、ね。いいだろう」
女性が親指を弾いた。
硬貨が宙を舞う。
くるくると回転しながら落ちてきたそれを、彼女は片手で受け止め、もう片方の手の甲に伏せた。
「……覚悟はいいかい?」
「はい」
ゆっくりと手が離される。
そこにあったのは――
「……表だな」
一瞬、言葉が出なかった。
「じゃ、じゃあ……!」
「ああ。君の勝ちだ」
女性は硬貨を拾い上げ、口元に笑みを浮かべた。
「約束どおり雇ってやる」
「ほ、本当ですか!?」
「私は賭けの結果を覆すほど落ちぶれちゃいない」
思わず頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「礼なら運に言いな。それと、まだ喜ぶのは早いぞ」
「え?」
「雇うとは言ったが、すぐに仕事を任せるつもりはない」
女性は椅子に座り直し、俺を見上げた。
「何も知らない君を現場に出して、私にまで迷惑がかかったらたまらないからね」
「……はい」
「まずは雑用をしながら、この都市のルールを覚えてもらう」
「都市のルール、ですか?」
「ああ。知らずに踏み込めば命を落とすような決まりもある。腕っぷしだけ強くなったところで、そんなものも知らなきゃ長生きできない」
確かに、そのとおりだと思った。
「分かりました! 頑張ります!」
「……いい返事だね。じゃあ、まず一つ教えてやろう」
女性は真面目な顔で俺を見つめた。
俺も背筋を伸ばす。
「はい!」
「人を助けたら金を取れ」
「……え?」
「聞こえなかったか? 助けた相手からはきっちり報酬をもらえ。命を張ったならなおさらだ」
「で、でも、困っている人からお金を取るのは……」
「……はぁ」
今日一番大きなため息だった。
「君、本当にこの都市で生きていけるのか?」
「す、すみません……」
「まあいい。その辺りも追々教えてやるさ」
女性は立ち上がり、奥の扉を指さした。
「住む場所はあるのか?」
「えっと……一応、あります」
「そうか。だが、見習いのうちはここに住んでもらう。雑用も勉強も山ほどあるからね」
「ここに、ですか?」
「ああ。空き部屋が一つある。寝具も用意してやる。ただし、食費も部屋代もタダじゃない。働いて返してもらうよ」
「はい! ありがとうございます!」
「……まったく。君は何でも礼を言うんだな」
女性は呆れたように肩をすくめた。
「あ、そういえば……」
「今度は何だ?」
「まだ、お名前を聞いてませんでした」
女性は一瞬だけ目を丸くした。
それから、また小さく笑った。
「フォルトゥナだ。アイビー事務所の所長をしている」
「フォルトゥナさん……」
「所長でいい。君は今日からここの見習いなんだからね」
「はい、所長!」
「……やれやれ。とんでもない拾い物をしたかもしれないな」
そう言いながら、所長は手の中の硬貨をもう一度弾いた。
俺はその意味を、まだ知らなかった。
でも、一つだけ確かなことがある。
あの日、あいつに伝えた言葉。
『待ってるから』
その約束を守るための、最初の一歩を踏み出せたんだ。
いつかまた会えたとき。
もう心配しなくていいと、笑って言えるように。
俺はここで、強くなる。