アイビー事務所で暮らし始めて、数か月が経った。
最初の頃は掃除や洗濯、買い出しばかりだったけど、最近は所長から都市のルールや戦い方も教わっている。
もっとも、戦闘訓練については、まだ一度も所長に勝てていない。
「遅い」
「うわっ!」
伸ばした腕を軽く払われ、次の瞬間には地面に転がされていた。
「いったた……」
「相手の腕ばかり見てどうする。足元も見な」
「はい……」
所長は眠たそうな目で俺を見下ろしながら、手を差し出した。
その手を借りて立ち上がる。
「でも、前よりは動けるようになりましたよね?」
「まあ、最初よりはね」
「本当ですか!」
「最初がひどすぎただけだが」
「……そうですか」
所長は小さく笑うと、事務所の方へ歩き出した。
「ほら、今日はここまで。仕事だよ」
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「猫探し、ですか?」
「ああ。君の初仕事だ」
机の上には、一枚の写真が置かれていた。
そこには、小さな猫が写っている。
「昨日から帰ってこないらしい。最後に見かけた場所も聞いてある」
「分かりました! 必ず見つけてきます!」
「威勢だけはいいね」
所長は椅子にもたれ、いつもの古い硬貨を指先で弾いた。
「いいかい。危ない場所には入らないこと。何かあったら戻ってくること。それから――」
「報酬はちゃんと受け取る、ですよね!」
「……覚えてるじゃないか」
少しだけ満足そうな顔をした所長に、俺も笑い返した。
「行ってきます!」
「まったく。元気なことだ」
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猫を探し始めて、しばらく経った。
教えられた場所を中心に歩き回り、通行人にも話を聞いたけれど、なかなか見つからない。
「どこにいるんだろう……」
そう呟いたときだった。
路地の向こうを、小さな影が横切った。
「あっ!」
写真で見た猫だった。
「待って!」
もちろん、猫が待ってくれるはずもない。
猫は細い路地へと駆け込んでいく。
俺も慌てて後を追った。
曲がり角を一つ、二つ。
そして、ようやく猫の姿を見つけたところで――
「おい、肩ぶつけといて謝りもしねえのか!」
怒鳴り声が聞こえた。
思わず足を止める。
路地の奥で、三人の男たちが一人の男を囲んでいた。
地面に倒れた男は、両腕で頭を庇っている。
「す、すみません……! わざとじゃ……!」
「聞こえねえなあ!」
男の一人が、倒れた男を蹴りつけた。
「やめてください!」
気づけば、声を上げていた。
男たちが一斉にこちらを向く。
「……あ?」
「その人、もう抵抗してないじゃないですか。これ以上は……」
「こいつが先に肩ぶつけてきたんだよ。関係ねえ奴は引っ込んでろ」
「でも、だからって殴るのは……」
「うるせえな!」
男の一人がこちらへ歩いてきた。
胸ぐらを掴もうと伸ばされた腕。
俺は反射的に身体を引いた。
空を切った手が、目の前を通り過ぎる。
「……あ?」
男が眉をひそめる。
俺も少し驚いていた。
避けられた。
所長との訓練では、何度も掴まれて、そのたびに地面へ転がされていたのに。
「……もうやめませんか?」
「調子に乗んなよ!」
男が拳を振るう。
その動きが、見えた。
身体を横へずらし、拳をかわす。
続けて踏み込んできた男の腕を払い、教わった通りに足をかけた。
「うおっ!?」
男の身体が傾く。
そのまま背中を押すと、男は地面に転がった。
「ぐっ……!」
男は起き上がろうとしたが、すぐには立てないようだった。
俺は自分の手を見つめた。
……できた。
所長に何度も教わった動きだ。
今まで一度も、実戦で使ったことはなかった。
でも、ちゃんと通じた。
「てめえ……!」
残った二人のうち、一人が前へ出てくる。
大柄な男だった。
「ガキが、いい気になってんじゃねえぞ」
俺は拳を握り直した。
さっきの男には勝てた。
所長との訓練も、無駄じゃなかった。
だったら、今度も――
男が拳を振り上げる。
俺は身体をずらして避け、その懐へ踏み込んだ。
相手の腹へ、拳を打ち込む。
ガンッ!
「……っ!?」
腕に鋭い痛みが走った。
硬い。
さっきとは、まるで違う。
男は、びくともしなかった。
「……何だ、今の?」
男が笑う。
上着の隙間から、金属の身体が覗いていた。
「義体……?」
「今さら気づいたのかよ」
男が踏み込む。
速い。
さっきの男とは比べものにならない。
避けようとした瞬間、腕を掴まれた。
「捕まえた」
「しまっ――」
身体が持ち上がる。
次の瞬間、背中から壁に叩きつけられた。
「がはっ……!」
息が詰まる。
足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「少し喧嘩ができるからって、調子に乗りやがって」
男が近づいてくる。
逃げないと。
そう思っても、身体が動かない。
男が足を持ち上げた。
「――そこまでにしておきな」
聞き慣れた声がした。
「……あ?」
路地の入口に、所長が立っていた。
「……所長?」
「まったく。猫を探しに行ったはずの子が、どうして喧嘩をしているんだい?」
「何だ、こいつの知り合いか?」
「一応、うちの見習いでね」
所長は俺を一瞥した。
「君、そこで大人しくしていな」
「でも……!」
「二度は言わないよ」
普段と変わらない声だった。
なのに、逆らえなかった。
「……はい」
男は鼻で笑った。
「女一人増えたところで何が変わるんだよ」
「そうだね。できれば穏便に済ませたいんだが」
「だったら金でも置いていけ!」
男が拳を振り上げた。
所長は動かなかった。
いや、違う。
拳が届く直前、ほんの少しだけ身体を傾けた。
男の拳が空を切る。
そのまま背後の廃材に激突した。
ガシャアンッ!
積まれていた木箱や金属片が崩れ、足元に散らばる。
「ちっ!」
男は拳を引き抜き、再び踏み込もうとした。
その足が、散らばった金属片を踏む。
「うおっ!?」
体勢が崩れた。
「……おっと。ラッキー」
所長が呟いた。
次の瞬間には、男の懐に入り込んでいた。
伸ばされた腕を受け流し、身体を半回転させる。
男の重心がさらに傾く。
そして――
キンッ。
小さな金属音が響いた。
所長の手には、いつの間にか短剣が握られていた。
刃先が義体の肘の隙間へ差し込まれる。
「ぐああっ!?」
男の腕が止まった。
「な、何しやがった!」
「別に。動くところを少し壊しただけさ」
所長は淡々と答えた。
男は残った腕を振り回す。
けれど、所長には当たらない。
大きく避けることも、力で受け止めることもしない。
ほんの少し身体を動かすだけで、拳が空を切っていく。
「くそっ! ちょこまかと!」
「そんな大振りじゃ、当てる方が難しいよ」
男が怒りに任せて突っ込む。
所長は横へ回り込み、足を引っかけた。
男の身体が傾く。
その勢いを利用するように、所長が背中を押した。
ドガンッ!
男は地面に倒れ込んだ。
所長は短剣を逆手に持ち、男の首元へ刃を向けた。
「さて。まだやるかい?」
「……っ!」
男は動かなかった。
残りの二人も、顔を見合わせるばかりだった。
「これ以上やっても、私には一銭の得にもならないんでね」
所長は短剣をわずかに引いた。
「金にならない殺しはしない主義なんだ。大人しく帰ってくれると助かるよ」
「く、くそっ……!」
男たちは倒れた仲間を引き起こし、逃げるように路地を去っていった。
所長はそれを見送ると、短剣をしまった。
「……ふう。余計な仕事が増えたね」
そして、俺の方を振り向く。
「さて」
「……はい」
「まずは怪我を見せな」
「え?」
「説教はその後だよ」
所長は俺の前にしゃがみ込んだ。
その表情は、いつもと変わらなかった。
けれど、怪我を確かめる手つきは思っていたよりずっと慎重だった。
「……すみません」
「謝るのは後でいい。今はじっとしてな」
俺は言われた通り、大人しくしていた。
---
「……骨は折れてなさそうだね」
所長は俺の腕を離すと、小さく息を吐いた。
「ところで、君に任せた仕事は何だった?」
「……猫探しです」
「そうだ。喧嘩を売ることじゃない」
「でも、あの人が殴られていて……」
「それで、勝てると思った?」
俺は答えられなかった。
少し前までなら、戦うなんて考えもしなかった。
でも、所長に教わって、以前より動けるようになったから。
「……勝てるかもしれないって、思いました」
「根拠は?」
「最初の人には、勝てたので……」
「それで、次も勝てると思ったわけだ」
「……はい」
所長はため息をついた。
「君が誰を助けようとするかは、君の自由だよ」
「……はい」
「だがね。自分の実力も、相手の力量も分からないまま飛び込んでどうする」
所長は俺の額を軽く小突いた。
「相手が義体だと分かっていたら、どうした?」
「……助けを呼んだと思います」
「そう。それも一つの方法だ。逃げ道を探すことだってできた」
「……はい」
「戦うことだけが、人を助ける方法じゃないんだよ」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「それに、君が倒れたら、誰が依頼を終わらせるんだい?」
「あっ……猫!」
そうだ。
まだ見つけていない。
「すみません! 俺、猫を探してきます!」
「……その身体で?」
「でも、依頼は最後までやらないと……」
所長はしばらく俺を見つめていた。
それから、呆れたように息を吐く。
「まったく……」
「……?」
「今日は私も手伝うよ。君一人に任せて、また面倒を起こされても困る」
「ありがとうございます!」
「礼はいい。私の時間だってタダじゃないんだからね」
俺は立ち上がろうとして、ふと疑問に思った。
「……そういえば、所長」
「何だい?」
「どうして、あそこにいたんですか?」
所長の動きが、一瞬だけ止まった。
「……初仕事だからね」
「え?」
「君が何かやらかさないか、監督していたんだよ」
「じゃあ、ずっとついてきてくれてたんですか?」
「勘違いしないでくれ。君を信用していないだけさ」
「……ありがとうございます!」
「だから、礼を言われるようなことじゃないって」
所長は面倒くさそうに頭をかいた。
でも、俺は少し嬉しかった。
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結局、猫は最初に見つけた路地の近くに隠れていた。
俺たちが探し回っている間も、ずっとそこにいたらしい。
「よかった……!」
腕の中で、猫が小さく鳴いた。
所長はそれを見て、肩をすくめる。
「ずいぶん手間のかかる初仕事だったね」
「……すみません」
「まあ、依頼を達成できたなら、それでいいさ」
事務所に戻る前に、依頼人へ猫を届けた。
依頼人は何度も頭を下げてくれた。
嬉しかった。
初めて、自分の仕事で誰かを喜ばせることができた。
事務所へ帰ると、所長が机の向こうから声をかけてきた。
「で、報酬は?」
「ちゃんともらってきました!」
俺は預かった報酬を机の上に置く。
「ほう。少しは学んだみたいだね」
「はい!」
所長は硬貨を数えながら、ふと顔を上げた。
「ところで、あの男は?」
「え?」
「路地で助けた男だよ」
「ああ……。怪我はしてましたけど、歩けるみたいでした」
「そうじゃなくて。助けた礼は?」
「……あっ」
所長の手が止まった。
「……まさか」
「もらってません……」
「君という奴は……」
所長は深々とため息をついた。
俺は苦笑いするしかなかった。
でも、今日のことは忘れないと思う。
前より強くなったつもりだった。
実際、最初の男には勝てた。
それでも、相手が変わっただけで、何もできなくなった。
誰かを助けたいと思うだけじゃ、助けられないこともある。
もっと強くならないと。
そして、もっと考えられるようにならないと。
いつか、あいつと再会したとき。
もう心配をかけないで済むように。
俺は机の向こうで硬貨を数える所長を見つめながら、もう一度そう思った。