初めてアイビー事務所の扉を叩いてから、数年が経った。
あの日、所長が投げた一枚の硬貨。
その気まぐれな賭けのおかげで、俺はこの事務所の見習いになった。
最初は掃除や買い出しばかりだったけれど、今では所長と一緒に依頼をこなすことも増えた。
もちろん、失敗もたくさんした。
依頼とは関係のない揉め事に首を突っ込んで、所長に助けられたこともある。
そのたびに叱られて、訓練では何度も地面に転がされた。
それでも、少しずつできることは増えていった。
そして今年、俺は十八歳になった。
ようやく、協会が定めるフィクサー登録の年齢に達したのだ。
「……いよいよですね」
俺は机の上に置かれた受験案内を見つめた。
そこには、フィクサー資格試験の日程と会場が記されている。
「何だい。今さら緊張してるのか?」
向かいの椅子に座る所長が、硬貨を指先で弾きながら言った。
「そりゃ、緊張しますよ。ずっと目指してきたんですから」
「ふうん」
所長は硬貨を受け止めると、俺を見た。
「まあ、落ちたらまた受ければいいさ」
「……所長にしては優しいですね」
「受験料は君の給料から引くけどね」
「前言撤回します!」
所長は小さく笑った。
いつもと変わらない朝だった。
けれど、今日だけは少し違う。
俺はこれから、フィクサーになるための試験を受ける。
あいつと別れたあの日から、ずっと目指してきたものに、ようやく手が届くかもしれない。
「……行ってきます」
「ああ。気をつけて行っておいで」
俺は受験案内を鞄にしまい、事務所の扉を開けた。
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バスに揺られること数十分。
ついに、巣が定めるフィクサー試験の会場へと到着した。
バスを降りて周囲を見渡すと、俺と同じくらいの年齢の人や、少し年上に見える人たちが集まっていた。
緊張した面持ちで受験案内を読み返している人もいれば、隣の人と楽しそうに話している人もいる。
中には、すでに武器を携えている人の姿もあった。
「……結構いるんだな」
思わず呟く。
ここにいる人たちは、みんなフィクサーを目指しているんだろう。
そう思うと、自然と背筋が伸びた。
俺は鞄から受験案内を取り出し、もう一度会場の場所を確認する。
間違いない。
ここだ。
「……よし」
小さく息を吐き、会場の入口へと歩き出した。
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会場の入口で受験票を提示すると、受付の職員から番号の書かれた札を渡された。
「筆記試験は三階の第二試験室です。案内に従って移動してください」
「ありがとうございます」
職員に頭を下げ、階段へ向かう。
試験室に入ると、すでに多くの受験者が席についていた。
俺も指定された席を探し、鞄を足元に置く。
しばらくすると、試験官らしき男性が入ってきた。
「これより、フィクサー資格試験の筆記試験を開始する。試験中の私語および不正行為は禁止とする」
配られた問題用紙を裏返したまま、開始の合図を待つ。
……緊張するな。
所長との訓練では、何度も地面に転がされた。
けれど、机に向かって勉強する時間だって、それに負けないくらい長かった。
「それでは、始め」
合図と同時に問題用紙をめくる。
最初に並んでいたのは、都市で定められた禁忌に関する問題だった。
その次は、翼と特異点についての基礎知識。
さらにページを進めると、フィクサー協会や各協会の役割についての問題が続いていた。
「……あ」
思わず、小さく声が漏れそうになった。
見覚えがある。
どれも、所長に何度も教えられた内容だった。
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『いいかい。都市じゃ、知らなかったじゃ済まされないことが山ほどある』
机に広げられた資料を指差しながら、所長はそう言った。
『特に禁忌には気をつけな。相手が誰であろうと、破れば命に関わる』
『……そんなに厳しいんですか?』
『厳しいも何も、それが都市の決まりさ』
所長は椅子にもたれ、硬貨を指先で転がした。
『それから、翼の特異点についても最低限は知っておきな。全部を理解する必要はないが、何が危険なのかも分からず依頼を受けるのは馬鹿のすることだよ』
『はい!』
『返事だけはいいね。じゃあ、昨日教えた協会の役割を説明してごらん』
『えっと……』
『……忘れたのかい?』
『すみません!』
『はあ……。もう一度、最初からだね』
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懐かしい記憶に、少しだけ口元が緩んだ。
あの頃は、どうしてこんなに覚えることが多いんだろうと思っていた。
けれど、今なら分かる。
所長は、俺が都市で生き残れるように教えてくれていたんだ。
俺は答案用紙に視線を戻した。
禁忌についての問題。
協会の役割についての問題。
特異点に関する注意事項。
一問ずつ、慎重に解答を書き込んでいく。
難しい問題もあったけれど、まったく分からないものは少なかった。
やがて、試験終了を告げる声が響いた。
「そこまで。筆記用具を置いてください」
俺はペンを置き、大きく息を吐いた。
「……終わった」
出来は、悪くないと思う。
もちろん、結果が出るまでは分からない。
それでも、数年間勉強してきたことを、ちゃんと発揮できた気がした。
『勉強も仕事のうちだよ』
ふと、所長の言葉を思い出す。
……帰ったら、ちゃんとお礼を言おう。
そう思いながら、俺は答案用紙が回収されるのを待った。
その後、試験官から次の試験について説明があった。
「続いて実技試験を行います。受験者は指定された待機室へ移動してください」
実技試験。
現役のフィクサーを相手にした、一対一の模擬戦だ。
俺はゆっくりと立ち上がった。
筆記試験とは違う緊張が、胸の奥に広がっていく。
……大丈夫。
何度も所長に鍛えてもらったんだ。
俺は拳を握り、待機室へと向かった。
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待機室に入ると、すでに何人かの受験者が集まっていた。
壁にもたれて目を閉じている人もいれば、落ち着かない様子で歩き回っている人もいる。
俺は空いている椅子に腰を下ろした。
しばらくすると、係員が入ってきた。
「受験番号、次の方。準備をお願いします」
呼ばれた受験者が立ち上がり、扉の向こうへ消えていく。
それから、何人かが呼ばれていった。
俺の番が近づくにつれて、自然と手に力が入る。
「次、受験番号――」
「はい!」
俺は立ち上がった。
係員の案内に従って廊下を進むと、大きな扉の前で足を止めた。
「こちらが実技試験会場です。中へどうぞ」
「ありがとうございます」
扉を開ける。
中は、思っていたよりも広かった。
床には何本もの白い線が引かれ、壁際には試験を監督する職員たちが並んでいる。
そして、その中央に一人の男が立っていた。
年齢は三十歳前後だろうか。
腰には一本の剣。
男は俺を見ると、軽く手を上げた。
「よう。次の受験者か」
「はい! よろしくお願いします!」
「元気がいいな」
男は笑いながら、腰の剣に手をかけた。
「俺は7級フィクサーだ。今日はお前さんの相手をする」
「7級……」
思わず呟く。
俺が目指しているのは9級フィクサー。
その二つ上の等級にいる相手だ。
当然、簡単に勝てるとは思えない。
「そんなに構えるなよ。別に殺し合いをするわけじゃねえ」
男は肩をすくめた。
「こっちは試験官だ。お前の実力を見るのが仕事だからな」
「……分かりました」
「ただし、手を抜いてもらえると思うなよ」
その言葉と同時に、男の雰囲気が変わった。
さっきまで気さくに笑っていたのに、今は隙が見当たらない。
俺は思わず息を呑んだ。
……強い。
戦う前から、それだけは分かった。
『相手をよく見な。武器だけじゃない。立ち方、視線、足の運び。全部に意味がある』
所長の声が頭に浮かぶ。
俺はゆっくり息を吐いた。
大丈夫。
所長との訓練だって、最初は何もできなかった。
それでも、何年も続けてきたんだ。
「準備はいいか?」
男が尋ねる。
「……はい!」
俺は腰から二本のトンファーを引き抜き、構えを取った。
「へえ、トンファーか。珍しいな」
男は興味深そうに俺の武器を眺めた。
「剣を持った相手に、それでどう戦うつもりだ?」
「……やってみます」
「いい返事だ」
試験官の一人が手を上げる。
「それでは、実技試験を開始する」
その声が響いた瞬間、男が剣を抜いた。
次の瞬間、その姿が目の前に迫っていた。
「っ!」
振り下ろされた剣を、咄嗟にトンファーで受け流す。
金属同士がぶつかり、甲高い音が響いた。
重い。
受け止めた腕が痺れる。
「ほう。今のを防ぐか」
男は感心したように言うと、続けて剣を振るった。
右から、左から。
次々と繰り出される斬撃。
俺はトンファーを使って受け流しながら、少しずつ後退した。
……速い。
所長との訓練で、武器を持った相手との戦い方も教わった。
けれど、目の前の男は今まで戦った誰よりも剣の扱いが上手かった。
「どうした? 防いでばかりじゃ勝てないぞ!」
「分かってます!」
剣を受け流した瞬間、俺は一歩踏み込んだ。
トンファーを振り、男の脇腹を狙う。
だが――
「甘い!」
男は素早く身体を引き、俺の攻撃をかわした。
そのまま剣の柄で、俺の肩を打つ。
「ぐっ!」
衝撃で身体が傾く。
慌てて距離を取った。
「悪くない動きだ。だが、まだ素直すぎるな」
「……ありがとうございます」
「褒めてるわけじゃねえぞ?」
「分かってます……!」
男は楽しそうに笑った。
俺は肩を押さえながら、呼吸を整える。
……強い。
同じ武器を持っていたとしても、きっと簡単には勝てない。
ましてや、相手は剣。
こちらより間合いが長い。
どうすればいい?
『正面から勝てない相手なら、正面から戦わなければいい』
ふと、所長の声が頭に浮かんだ。
『君は真面目すぎるんだよ。相手が剣を持っていたら、わざわざその間合いに付き合う必要はないだろう?』
……そうだ。
俺はトンファーを握り直した。
「……もう一度、お願いします」
「おう。来い!」
男が剣を構える。
俺は踏み込むと見せかけて、すぐに横へ移動した。
男の視線が俺を追う。
その瞬間、片手のトンファーを持ち替え、腰の投げナイフを一本引き抜いた。
「ほう?」
ナイフを投げる。
狙いは男の肩。
しかし、男は剣を振るい、簡単に弾き落とした。
「飛び道具まで持ってるのか!」
男が踏み込んでくる。
俺は後ろへ跳び、二本目のナイフを投げた。
今度は足元を狙う。
男は一歩横へずれて避けた。
「残念だったな!」
そのまま距離を詰めてくる。
……やっぱり、簡単には当たらない。
でも、それでいい。
俺は再びトンファーを構えた。
男の剣が振り下ろされる。
今度は後ろへ下がらず、身体を横へずらしてかわした。
そして、剣を振り切った男の腕へ、トンファーを押し当てる。
「……ん?」
男の表情がわずかに変わった。
俺はそのまま踏み込み、もう片方のトンファーを男の肘の近くへ差し込んだ。
二本のトンファーで、剣を持つ腕を挟み込む。
「っ!」
男の動きが止まった。
今だ!
俺は体重をかけ、男の腕を押さえ込んだ。
剣を振るうための間合いを潰す。
そして、男の足元へ自分の足を差し込んだ。
所長に何度も教わった、相手の体勢を崩す動き。
「……おっと!」
男の身体がわずかに傾いた。
いける!
そう思った瞬間――
「だが、まだ甘い!」
男が身体をひねった。
押さえ込んでいた腕が動く。
「えっ――」
次の瞬間、俺の身体が宙に浮いた。
ドンッ!
背中から地面に倒れる。
「ぐっ……!」
起き上がろうとした俺の首元に、剣の切っ先が向けられた。
「……そこまでだ」
男が言った。
試験官の声が響く。
「試合終了!」
俺は天井を見上げた。
……負けた。
あと少しだったのに。
「大丈夫か?」
男が剣を引き、手を差し出してくれた。
「……はい。ありがとうございます」
その手を借りて立ち上がる。
「いやあ、驚いたぜ」
「……え?」
「まさか、あそこで腕を封じられるとはな」
男は自分の右腕を軽く回した。
「一瞬だったが、確かに動きを止められた。あのまま崩されてたら、俺も危なかったかもしれねえ」
「……本当ですか?」
「ああ。ただし、次は通用しねえぞ?」
「はい!」
男は笑うと、剣を鞘に収めた。
「お前、相手を倒すことより、動きを止めることを考えてたな?」
「……はい」
「どうしてだ?」
少し考えてから、俺は答えた。
「できれば、相手を殺さずに済ませたいんです」
男は黙って俺を見た。
「もちろん、いつもそうできるとは思ってません。でも、戦わなくて済むならそれが一番ですし、戦うことになっても、必要以上に傷つけたくはないので……」
「……なるほどな」
男は腕を組んだ。
「甘いと言われることもあるだろうな」
「……はい」
「だが、悪い考えじゃねえ」
男は少しだけ笑った。
「ただし、それを貫きたいなら、相応の腕が必要だ。今日みたいに押さえ込んだつもりでひっくり返されてたら、話にならねえからな」
「……そうですね」
「ま、精進しろよ」
男は俺の肩を軽く叩いた。
「ありがとうございました!」
俺は深く頭を下げた。
試験官に促され、会場の出口へ向かう。
最後に一度だけ振り返ると、男は次の受験者を迎える準備をしていた。
……やっぱり、フィクサーってすごいな。
所長もそうだけど、まだまだ俺より強い人はたくさんいる。
それでも。
数年前の俺だったら、あの人の剣を受けることさえできなかったと思う。
少しは、強くなれたのかな。
俺はトンファーを腰に戻し、会場を後にした。
---
試験会場の廊下に出ると、張り詰めていた緊張が一気に抜けた。
「……はあ」
思わず壁にもたれる。
筆記試験は、悪くなかったと思う。
実技試験も、自分なりに精一杯やった。
でも、最後は負けてしまった。
……これで、合格できるんだろうか。
そんなことを考えていると、所長の声が頭に浮かんだ。
『勝つことと、仕事を果たすことは別物だよ』
……そうだった。
今回の試験は、相手を倒すことだけが目的じゃない。
俺がどこまで戦えて、何を考えて行動できるか。
きっと、そういうところも見られていたんだと思う。
「……あとは、結果を待つだけか」
俺は小さく息を吐いた。
やれることは、全部やった。
そう思うことにして、俺は合格発表を待つことにした。