第九話 賭けの代償
アイビー事務所の夜は静かだ。
昼間は依頼人が出入りし、あの子が何かと騒がしくしているこの場所も、夜になれば落ち着きを取り戻す。
私は机に置かれた酒を一口飲んだ。
今日くらいは、少し高いものを開けてもいいだろう。
「……九級フィクサー、か」
昼間、あの子が嬉しそうに見せてきた証明書を思い出す。
まるで都市で一番のフィクサーにでもなったような顔だった。
実際は九級。
ようやくスタートラインに立っただけだ。
これから先、嫌というほど都市の理不尽さを知ることになるだろう。
それでも。
「……よくやったよ」
誰もいない事務所で、私は小さく呟いた。
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昔、この事務所には私以外にも仲間がいた。
腕の立つ者もいれば、まだ経験の浅い者もいた。
金のために働く者もいれば、誰かを助けたいという理想を持った者もいた。
騒がしい連中だった。
依頼が終われば酒を飲み、報酬の分け前で言い争い、くだらないことで笑っていた。
だが、そんな日々は長く続かなかった。
ある者は、依頼先で命を落とした。
ある者は、助けた相手に裏切られた。
そして、ある者はフィクサーを辞めた。
「……もう、こんな仕事は続けられない」
そう言って事務所を去った仲間の顔を、今でも覚えている。
そいつは、悪い人間じゃなかった。
むしろ、少し優しすぎたのかもしれない。
困っている人間を見れば放っておけず、報酬にならない仕事まで引き受けようとする。
だが、この都市はそんな善意に報いてくれる場所じゃない。
どれだけ頑張っても、救えない人間はいる。
正しいことをしたつもりでも、恨まれることだってある。
そういう現実に疲れ果てて、そいつは去っていった。
私は引き止めなかった。
フィクサーを辞めるのも、一つの生き残り方だ。
今でも、たまに連絡を取ることはある。
だから、別に縁が切れたわけじゃない。
ただ、一緒に仕事をすることはなくなった。
そうして、一人、また一人といなくなった。
最後に残ったのは、私だけだった。
事務所を閉めるつもりはなかった。
まだ仕事はある。
家賃だって払わなければならない。
それに、今さら別の場所へ行くのも面倒だ。
ただ、少しだけ静かになった。
誰も座らない椅子。
使われなくなった机。
以前なら誰かの笑い声が聞こえていた時間も、今では時計の音しか聞こえない。
……まあ、静かな方が仕事は捗る。
そう思っていた。
そんなある日、事務所の扉を叩く音がした。
訪ねてきたのは、まだ幼さの残る少年だった。
金もない。
技術もない。
都市で生き抜くための知識だって、ろくに持ち合わせていない。
そんな子供が、私に向かって言ったのだ。
強くなりたい、と。
理由を聞けば、誰かを守りたいからだという。
……まったく。
どうして、こういう連中は似たようなことを言うんだろうね。
私は、かつてこの事務所を去った仲間の顔を思い出した。
きっと、この子もいつか都市の現実を知る。
自分の優しさだけでは、どうにもならないことがあると知る。
そのとき、この子はどうするんだろう。
諦めるのか。
それとも、壊れるまで誰かを助け続けるのか。
少しだけ、試してみたくなった。
私は机の上から硬貨を一枚取り出した。
表か、裏か。
勝てば置いてやる。
負ければ帰ってもらう。
ただの気まぐれだった。
……少なくとも、あのときはそう思っていた。
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あの子は、とにかく手のかかる見習いだった。
掃除を頼めば、頼んでもいない場所まで磨く。
買い物を頼めば、困っている人を助けて帰りが遅くなる。
依頼の途中で他人の揉め事に首を突っ込み、怪我をして戻ってきたこともあった。
そのたびに私は叱った。
依頼を優先しろ。
相手の力量を見極めろ。
逃げ道を考えろ。
助ける相手を選べ。
何度言ったことか。
それでも、あの子は誰かが困っていると放っておけなかった。
あの子が初めて大きな怪我をしたとき、私は腹が立った。
依頼を忘れて他人を助けようとしたことにも、相手の力量を見誤ったことにも。
だが、それだけじゃなかった。
また、同じことになるんじゃないか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
……馬鹿馬鹿しい。
私が教えた子だ。
同じ結末になんて、させるものか。
最初は、あの子の性格を直してやろうと思っていた。
だが、途中で考えを変えた。
優しさを捨てさせる必要はない。
ただ、その優しさのせいで死なないようにしてやればいい。
だから私は、戦い方を教えた。
武器の扱い方も、都市の決まりも、依頼の受け方も。
無謀な行動をしたときは容赦なく叱り、できるようになったことには、それなりの評価を与えた。
……まあ、褒めることは少なかったかもしれないが。
「所長、見てください!」
訓練で初めて私の攻撃を受け流せた日。
あの子は、子供のようにはしゃいでいた。
「今の、できましたよね!」
「一回できたくらいで喜ぶんじゃないよ。次もできなきゃ意味がない」
「はい! もう一回お願いします!」
……本当に、面倒な子だった。
それでも、何度倒されても立ち上がる姿を見ているうちに、私は少しずつ思うようになった。
この子なら、案外やっていけるかもしれない、と。
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私は机の上に置いた硬貨を指先で転がした。
今日、あの子に渡したトンファー。
あれは、試験の少し前から注文していたものだ。
最初に武器職人が持ってきた設計では、握りが太すぎた。
次の案は重心が悪かった。
三度目でようやく、あの子の戦い方に合う形になった。
ずいぶん手間がかかった。
費用も、予定より高くついた。
「……まったく、商売上手な職人だよ」
もっとも、値段に見合う出来ではあった。
あの子は二本のトンファーを使う。
相手の攻撃を受け流し、武器を押さえ、動きを封じる。
殺すよりも、止めることを選ぶ。
そんな戦い方をする子だ。
だからこそ、丈夫さだけでは足りない。
取り回しがよく、長く使えるものが必要だった。
それと、もう一つ。
私は武器職人に、ある注文を加えた。
アイビー事務所の紋章を刻むこと。
硬貨を中心に、蔦が絡みついた小さな印。
事務所の看板や書類にも使っている、見慣れた紋章だ。
別に、特別な意味があるわけじゃない。
……そう言ってしまえば、それまでだ。
ただ。
あの子がこれからも、この事務所で働くのなら。
自分がどこに所属しているのか、分かるものがあってもいい。
そう思っただけだ。
「……無駄にならなくて、よかったよ」
昼間と同じ言葉を、もう一度口にする。
けれど、もし落ちていたとしても。
あの子が諦めず、もう一度試験を受けると言ったなら。
私はきっと、あの箱をしまっておいただろう。
次の合格発表まで。
……いや。
そんなことを考えるのはやめよう。
結果は出た。
あの子は合格した。
それで十分だ。
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廊下の向こうから、かすかな物音が聞こえた。
あの子の部屋だろう。
きっと、もらったばかりのトンファーを何度も眺めているに違いない。
明日からは、見習いではなく正式なフィクサーとして仕事を任せることになる。
今までより危険な依頼も増えるだろう。
いつか、私の手が届かない場所へ行くこともあるかもしれない。
この都市では、どれだけ腕を磨いても絶対の安全なんてない。
それは、私が一番よく知っている。
だからこそ、教えられることは教えたつもりだ。
……それでも、まだ足りない気がする。
「困ったものだね」
私は苦笑した。
最初は、安い労働力が手に入ればいいと思っていた。
掃除や雑用を任せられる人間がいれば、少しは楽になる。
その程度だったはずだ。
なのに今では、あの子が怪我をして帰れば気になるし、帰りが遅ければ時計を見る。
試験の日だって、仕事があるというのに、何度も時間を確認してしまった。
これでは、どちらが面倒を見られているのか分からない。
ふと、部屋の隅にある椅子が目に入った。
あの子が事務所に来て、最初に座った椅子。
それは、かつて仲間が使っていたものだった。
何年も誰も座らなかった椅子に、今ではあの子が腰掛けている。
最初は少し、妙な気分だった。
けれど、いつの間にかそれが当たり前になっていた。
私は硬貨を親指で弾いた。
金属音が静かな事務所に響く。
くるくると回る硬貨を受け止め、手の甲に伏せる。
表か、裏か。
初めて会った日と同じ、何の変哲もない硬貨。
あの日の私は、ただの気まぐれで賭けをした。
勝ったのは、あの子だった。
けれど、今になって思う。
あの賭けで一番大きなものを手に入れたのは、案外、私の方だったのかもしれない。
「……ずいぶん高くついた賭けだったね」
私は硬貨を握りしめた。
それでも。
もう一度、あの日に戻ったとして。
同じ少年が扉を叩き、同じ願いを口にしたなら。
私はきっと、また硬貨を取り出すだろう。
そして、あの子が勝つ方に賭ける。
私は酒を飲み干し、椅子から立ち上がった。
廊下の向こうには、あの子の部屋がある。
明日になれば、また騒がしくなるだろう。
朝から元気よく挨拶して、頼んでもいない仕事まで引き受けようとするに違いない。
……まったく、面倒な子だ。
けれど。
あの子が来る前の静けさには、もう戻りたいと思わなかった。
「……おやすみ」
私は小さく呟いて、事務所の明かりを消した。
フィクサー編終了(*’ω’ノノ゙☆パチパチ
そろそろ幼馴染み出します