アリアハンの王都は、いまなお英雄オルデガの不在の重みと、世界に忍び寄る不穏な影に包まれていた。
国民たちは、亡きオルデガの妻であるイルと、その忘れ形見であるアルタを「王国の宝」として守ろうとした。しかし、当の母であるイルは、そうした周囲の気遣いには一切流されなかった。
「お城にこもって特別扱いされたところで、何が変わるわけでもありませんからね」
夫が遺した誇りにすがるのではなく、イルは自らの足で立ち、人々のために生きる道を選んだ。彼女は元々持っていた優れた治癒の魔法を使い、毎日朝から晩まで教会の治療院で懸命に働いていたのである。
「勇者の奥方様が、庶民と同じように働くなんて……」と街の人々はハラハラしたが、イルの曲がったことが大嫌いな気質と、困っている人を決して見捨てない生き方は、誰にも止めることができなかった。
そのため、日中、母親の治療院についていけない5歳のアルタは、王都の一角にある武器屋「ポポス堂」の店先に預けられるのが日課になっていた。
「おっ、アルタ、来たか」
店主のポポスが、ぶっきらぼうだが温かい笑みを浮かべて迎える。
そして、その足元からひょっこり顔を出すのが、ポポスの息子・デネルだった。
デネルはアルタより3つ年上の8歳。小柄ながらもすばしっこく、木刀を振り回すのが大好きな腕白坊主だ。
デネルが生まれたときの名付け親は、あの英雄オルデガだった。そのため、デネルにとってアルタは、弟分であると同時に、自分がしっかり守ってやらなければならない特別な存在だった。
「おいアルタ、今日も俺の特製木刀のすべり止めを手伝えよ!」
「うん! お兄ちゃん!」
ふたりは毎日、武器屋の片隅で剣の真似事をしたり、あちこちを駆け回ったりして、本当の兄弟のように仲良く過ごしていたのだった。
だが、平穏な日々にふとしたきっかけで幼い足が踏み出すのは、いつの世も決まり切ったことだった。
その日は、ポポスの妻――デネルの母親がひどい風邪で床に伏せっている日だった。店は客の対応でてんてこ舞いになり、ポポスがひっきりなしに訪れる冒険者たちの相手をしている最中のこと。
デネルは店番の合間に、奥の部屋から聞こえてくる母親の苦しげな咳払いを聞きながら、トボトボと床に座り込んでいた。
「……はぁ。母ちゃん、すごく苦しそうだな……。森に生えている薬草があればすぐに良くなるのになぁ……」
一人でうなだれるデネルの横に、ちょこんと歩み寄ったのは5歳のアルタだった。
アルタはきょとんとした大きな目をパチクリさせ、デネルの顔をのぞき込むと、まっすぐな声で言った。
「にいちゃん! 森に行こうよ!」
「アルタ……?」
「おばさん助けてあげようよ!」
アルタの無邪気な笑顔に背中を押され、デネルの胸のなかに熱いものがこみ上げる。
こうしてふたりは、こっそりと店の裏口から抜け出して町外れの森へと足を踏み入れてしまったのである。
その頃、王都では大騒動が起きていた。
「大変だ! オルデガ様の御子息が、武器屋から姿を消したぞ!」
「なんだって!? 一体どこへ行ったんだ!」
城の衛兵まで巻き込んで、王都中がパニックに陥る中、真っ青になったポポスと妻が、教会の治療院へと血相を変えて駆け込んできた。
「イル様! す、すみません! 私たちの目が届かぬうちに、デネルとアルタが連れ立って町の外へ……!」
ふたりは床に額をこすりつけんばかりに謝罪した。
しかし、治療院の傍らで、イルは微動だにせず、真っ直ぐにふたりを見据えた。
その瞳には一切の焦りも恐怖もなかった。
イルは静かに首を横に振ると、王の使いや衛兵たちをも見据えて、堂々と告げた。
「頭を上げてください。あの子たちは無事です」
その声には一切の迷いがなかった。
「あの子たちは、あの方が見守っています。――オルデガ様が、ついていますから」
夫の魂がこの世界に生き続け、自分たちを護り導いているという確信。その母の強さと気高い言葉に、その場の全員が息を呑み、不思議とざわめきが鎮まっていくのだった。
ところ変わって、町外れの深い森。
木漏れ日が差し込む小道で、デネルとアルタは目的の薬草を懸命に摘んでいた。
だが、その背後に、不気味な気配が忍び寄っていた。
グニャリと歪む、青黒い粘液の塊。それは、本来この世界に存在するはずのないものだった。はるか遠く、ネクロゴンドの大穴が開いたことで世界にあふれ出した、人間を害するために這い出してきた悍ましい魔物――スライムである。
「デネル、危ないっ!」
アルタが叫ぶより早かった。
不気味な水音がした瞬間、頭上からドロリとした青い影が飛びかかり、デネルの顔面をすっぽりと覆い隠した。
「んぐっ……!? なんだこれ、息が、息ができないっ……!」
「お兄ちゃん!!」
デネルが地面にもがき苦しむ。スライムの強力な粘膜が気管を塞ぎ、命の息吹を容赦なく奪っていく。
どうしよう、お兄ちゃんが殺される――!
恐怖に呑まれかけたその瞬間、アルタの中で、父親譲りの血が猛烈に沸騰した。
この人を、絶対に奪わせない。
ぐっと握りしめたアルタの小さな拳から、内なる衝動に従うようにして熱い塊が込み上げ、次の瞬間、凄まじい熱量が手のひらから爆発的に放たれた。
轟音とともに奔った鮮烈な紅蓮の炎は、その魔物を直撃し、一瞬にして跡形もなく焼き尽くした。
「はぁっ、はぁっ……! い、息が……!」
地面に倒れ込み、デネルは必死に空気を肺に吸い込む。その傍らで、アルタは自分の小さな手から立ち上る煙を、訳が分からないといった様子もなく、ただじっと見つめていた。
「おい、今の魔力の爆発はなんだ!?」
「あっちだ! 森のほうから聞こえたぞ!」
少し遅れて、捜索に出ていた衛兵たちや村の大人たちが木々を掻き分けて駆けつけてきた。
消滅した魔物の痕跡と、煤まみれになって震えているデネル、そして佇むアルタを発見した大人たちは、開いた口が塞がらなかった。
「デネル! アルタ! お前たち、なんて危険な真似を……!」
ポポスは安堵のあまり涙を浮かべながらも、強く叱責を飛ばした。
森での騒動から戻り、夜が更けた武器屋の片隅。
こっぴどく絞られたデネルとアルタが静かにうなだれているところへ、心配して駆けつけていたイルが静かに入ってきた。
「ごめん、とうちゃん! アルタが助けてくれたんだ」
デネルがポポスの後ろで肩を縮こまらせながら、必死にそうかばった。
しかし、イルの表情は厳しかった。彼女はアルタの前にまっすぐ歩み寄ると、その小さな肩をしっかりと掴み、静かに、だが凍てつくような強い声で叱り飛ばした。
「アルタ、あなたが理性を失えば、デネルも一緒に焼け死んでいたかもしれないのですよ」
アルタはぐっと唇を噛み締め、俯いた。
イルはわが子の頬にそっと触れながら、どこか哀しげに、そして恐れるように続けた。
「あんな恐ろしい呪文は、心の奥底に封じなければなりません。……あなたは、勇者の子なのですよ」
亡き夫が背負った過酷な運命の重みを誰よりも知っているからこそ、我が子が同じ修羅の道を歩むことを恐れる母親の切実な声だった。
その時、静まり返った店内に、乾いた足音が響いた。
「これこれ、ご婦人。そう怯えるもんじゃない」
振り返ると、そこに立っていたのは、すり切れたローブをまとった50代ほどの旅の魔法使いだった。彼の名はシガテラ。
シガテラはふっと不敵な笑みを浮かべ、アルタを見据えてこう言ったのだ。
「この子の魔法の才……。今はまだ自分の力を制御できぬが、鍛錬次第では世界を救う大いなる力となるだろう」
ただ者ではない空気を纏った男の言葉に、店内の空気がピリッと張り詰めたのだった。